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乳母は見届ける  作者: かも ねぎ
少年期
35/65

35 誓いの継承

 エドワードたちがセラフィーナに伴われて部屋を出ると、事務所には静寂が落ちた。

 蝋燭の小さな炎が、二人の影を壁に映し出して揺れる。壁に控えた侍女達は一様に目を伏せている。


 アイラはゆっくりと面を上げた。

 十六年前、まだ少女であった自分の前に立っていた青年が、今は一人の老練な武人としてここにいる。

 けれど、その眼差しだけは変わらなかった。


「……あなたは、変わらないのね」

 微笑を浮かべながらも、声は震えていた。


 ギルベルトは首を横に振る。

「いいえ。変わらぬものなどございません。

剣の冴えも、若き日の力も、いずれ去る。

残ったのは、ただ一つ――殿下に捧げた誓いだけ」


 その一言に、アイラの胸は締めつけられた。

「……どうして。どうしてあなたは、そこまで……」


 ギルベルトの顔に一瞬だけ、青年の頃の影が差す。

 だが彼はすぐに瞳を伏せ、静かに答えた。

「愚問でございます。

 かつてわたくしは、殿下を妻に迎える栄誉を賜りかけた身。

 その誓いを奪われようとも、心まで捨てる理由にはなりませぬ」


 アイラは堪えきれず、机の端に指先をぎゅっと押しつけた。

 声が震え、言葉にならない。


「……私は……」

 十六年の沈黙の重みが、喉を塞いでしまう。

「私は、あなたに何も返せなかった」


 ギルベルトは首を振り、視線をまっすぐに上げた。

「返していただくものなど、最初からございません。

わたくしは武人。殿下が笑っておられるなら、それで十分」


 短い言葉だった。

 けれど、アイラにはそれが刃のように胸に突き刺さる。

 若き日に奪われた婚約、夢を絶たれた彼の未来――それでも彼は折れず、笑ってそう言うのだ。


「ギルベルト……」

 アイラは無意識に名を呼んだ。

 十六年ぶりに、愛しさと痛みを同時に孕んだ響きで。


 男の瞳が揺れた。

 わずかに、ほんの一瞬だけ。

 しかし彼はすぐにそれを飲み込み、深く頭を垂れた。


「殿下。どうかお心乱されませぬよう。

わたくしはただの一騎士。殿下の歩みを支える影にすぎません」


 その姿は、どこまでも誇り高い武人だった。

 アイラの目から、知らず涙がこぼれる。


 彼女は声を詰まらせながら、ただ一言だけを絞り出した。

「……ありがとう」


 ギルベルトはその涙に触れもせず、ただ静かに礼を返した。

 二人の間には、決して越えられぬ隔たりがある。

 だが――その心は、確かに再び結ばれていた。


◇◇◇


 部屋の外、静まり返った第三騎士団の廊下で、エドワードは息を整えていた。母とギルベルトの声は、壁越しにわずかに聞こえる。笑い声ではない、静かで硬い、しかし互いを確かに慕う響き。


 エドワードの胸に、熱いものが込み上げる。王族の理不尽に辟易した日々、冷遇、屈辱――

そのすべてを、あの男は背負い、母は受け止め、守り抜いてきたのだ。


 拳を握りしめ、膝の上で爪を食い込ませる。

「……僕も、守れる力を持たなくちゃ」


 アウレリウスが横で小さく頷いた。

「エド……」

「うん」

 言葉は少なくとも、心は揺るがない。


 エドワードの瞳に映るのは、守るべき家族の顔。

 母の強さ、ギルベルトの矜持、そして自分がこれから背負う責任。

 胸の奥で何かが決まり、静かに燃え始めた。


「誰かに翻弄されてばかりじゃ、終わらせられない」

 呟きながら、彼は背筋を伸ばす。

 その視線は、第三騎士団の先の訓練場を見据えていた。

「僕が、力をつけるんだ。母上と、アウルにセフィ、そして――みんなを守るために」


 アウレリウスもまた、エドワードの決意に背中を押されるように胸を張った。

「……殿下をお支えします。いついかなる時も」


 廊下に、二人の固い決意が静かに響いた。

 そしてその先には、遠くにいるギルベルトの影が、少年たちを見守るかのように、揺らいで見えた。

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