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乳母は見届ける  作者: かも ねぎ
少年期
31/65

31 正妃殿下【少年期編】

 今朝届いた先ぶれに、いつもは静かな緑の離宮が騒然としていた。

 この館には維持のため最低限の人間しかおらず、特別な客人があるとなれば上へ下への大騒ぎとなる。


 エドワードとアウレリウスも、いつもよりめかしこんでいた。

「ねぇ、母上、こんなに頑張る必要ないんじゃないの?」

 タイをきつく結ばれながら、アウレリウスがぼやく。


「なんてことを言うの! 正妃殿下が昼間にいらっしゃるのよ!」

 セラフィーナが叱りつける。


 一方、エドワードは緊張のあまり、先ほどから一言も発していない。

 彼の母、正妃が昼間に訪れるのは、実に十年近くぶりだった。幼い頃は時折姿を見せたが、それ以降は夜更けにこっそり訪れてセラフィーナに数言だけ告げ、すぐに帰ってしまうようになった。   ここ数年は、その夜の訪問さえなかったのだ。


 アウレリウスが固まったエドワードの顔の前で手を振るが、無反応。

「ねぇ母上、正妃殿下が来る前にエド、倒れちゃうんじゃないの?」

「それをお支えするのが、あなたの役目よ」

「うーん……」


 やがて、先ぶれに記されていた時刻ぴったりに正妃が到着した。

 玄関ロビーに立つだけで、うっそりとした空気が華やぎ、真珠姫と讃えられた美貌は三十半ばとなった今もなお眩いほどであった。


 エドワード、アウレリウス、セラフィーナは最も格式高い礼で迎える。

「ごきげんよう。楽にして」


「正妃殿下、ご機嫌麗しゅうございます」

 セラフィーナが顔を上げると、正妃は柔らかく笑んだ。

「共の者は玄関の外に置いてきたわ」

「え」

 アウレリウスが思わず声を上げ、セラフィーナに小突かれる。


「だって、みんな変な顔していたんだもの。正妃が一人で来るはずないって」

 ころころと可憐に笑うその声に、護衛や使用人たちの空気が和らいだ。

「エド、エスコートしてくださる?」

「は、はい! 母上」


◇◇◇



 緑の離宮には、小ぶりながらも美しいガラス張りのテラスがある。

 普段は手入れが大変で使われなかったが、この日のために人員を総動員して磨き上げた。エドワードも王子でありながら掃除に駆り出された一人だ。


「まぁ、素敵ね」

「頑張って磨きました」

 不意に正妃と目が合い、エドワードは慌てて口を押さえる。


「あなたが磨いたの?」

「……あー……はい。セフィ、ごめんなさい。僕も働いたことがバレてしまいました」

 セラフィーナはわざとらしく大きなため息をつき、

「申し訳ございません」

 と頭を下げる。正妃はまたころころと笑った。


 やがて緑の離宮が扱える中の最高級の茶葉で淹れたお茶が運ばれる。差し出すメイドは震えるほど緊張していたが、

「ふふ。ごめんなさいね、そんなに緊張しないで」

 正妃の言葉に、セラフィーナは思わず目を見開いた。かつてのアイラは使用人にも寛大で、自信と輝きに満ちていた。しかし正妃となってからは、その面影を失っていたのだ。


「母上は、どうしてこちらに?」

 緊張が少し解けたエドワードが真っ直ぐに問う。

「あなたの顔を見にきただけよ」

「え……」

「ずっと来れなかったの。わたくしが無能なせいで。だから、強くなるわ。あなたを守れるくらいに」

 セラフィーナは息をのむ。正妃の行動に変化があると噂では聞いていた。だが、母としての彼女を信じられずにきた。背後のアウレリウスも同じ思いを抱いているのか、困惑した表情を浮かべる。

「母上に、お尋ねしたいことがあります」

 エドワードが唾を飲み込む。

「ギルベルト・トフィーネという人を、ご存知でしょうか」

 セラフィーナも、アウレリウスも、そばにいたカールも目を見張った。


「知っているわ」


 アイラはちらりとセラフィーナを見る。

「ルクレツィア側妃の体調が悪く、彼女の監視の目が緩んだからこそ、私は今ここに来れたの。

ギルベルトに会うなら、彼女が寝込んでいる今しかない。一緒に会いに行きましょう」


 視界がぼやけるのを必死に堪えながら、セラフィーナは真珠姫を見つめる。

 婚約解消されたあの日から、彼女はずっと沈んでいた。支えることもできず、ただ見ていることしかできなかった。


 だが今、あの頃の生き生きとした真珠姫がここにいる。

 ポロリと涙がこぼれる。


 その涙に気づいた正妃は優しく微笑んだ。

 初めて乳母殿の涙を見たエドワードとアウレリウスは、分かりやすく動揺する。

「男児たる者、この程度のことで動揺してはなりません!」

「「っ!!! はい!!!」」


 二人が揃って背筋を伸ばすのを見て、正妃はまた笑った。


◇◇◇


 エドワードは膝の上で拳を握っていた。

 汗がじっとりと滲み、胸の奥がざわつく。


「母上は……その……トフィーネ卿と」

「結婚の約束をしていたわ」

「父上とは……その……」

「わたくしは、あなたの父上に強く望まれたのよ。光栄なことだわ」


「しかし……その……」

 聞くべきではない。王族の婚姻など、ほとんどが政略だ。

 呪われた子だと囁かれようと、今の自分にはアウレリウスもセラフィーナも、オズワルドもカールもウルバヌスもいる。

 皆に守られているのだから、父と母のことなど、気にしなくてもいいはずだった。


――それでも。


「僕は、望まれない子どもだったのですか?」


 心の奥底から零れ出た言葉に、自分自身が驚く。

 慌てて口を押さえた。

「ごめんなさい。今のは忘れて――」


 正妃は即座にテーブルを踏み越えた。

 華奢な体とは思えない力で、エドワードを抱きしめる。

「そんなことあるわけないでしょ!」


 空色の瞳が涙で潤んでいる。

「愛しているに決まってるじゃない! わたくしが! わたくしが愚かだったの! こんなに可愛い子を、一人にして!」


「は……母上」


 エドワードは震える手を伸ばし、正妃の衣の端をぎゅっと掴んだ。

 その温もりに、ようやく胸の奥にあった冷たい塊が少しずつ溶けていく。


 セラフィーナはそっと控えていた人々に合図し、アウレリウスを伴って部屋を出る。

「母上、二人にしてしまっていいの?」

「よくない理由がありますか?」

 アウレリウスは少し考えて、照れくさそうに笑った。

「ないね」


 廊下の外で、扉の向こうから嗚咽がもれる。

 それは少年のものか、母のものか、聞き分けがつかなかった。

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