24 時の川を渡る者たち
知識の塔は、かつて王家の子弟が学び舎とした場所だった。
幾度かの政変や不祥事を経て、長らく閉ざされていた塔は、石壁に苔がむしり、螺旋階段には埃が積もり、忘れ去られたように静まり返っていた。
しかし国王の気まぐれな一言――
「十日に一度くらい、ウルバヌスに講義でもさせろ」
その軽口が、塔を再び蘇らせるきっかけとなった。
宰相補佐オズワルドは、ただの広間や緑の離宮での講義を即座に却下した。
緑の離宮は「呪われた地」として誰もが不安を覚える場所。
宮殿の大広間は陰謀の影を呼び込みやすい。
子弟を集めるには、もっとふさわしい場が必要だった。
――ならば、この塔だ。
塔は高台に立ち、周囲を一望できる。死角はなく、外部の人間が忍び込む余地も少ない。
内部は円形に造られており、中央に座する者は自然と人々の注目を浴びる。
警備の配置もしやすく、従者やナニーのための控えの間を新設することで、セラフィーナのような護り手たちも子弟を見守ることができた。
数ヶ月の修繕の末、塔は再び息を吹き返した。
国王はすでにこの計画を忘れ、関心を寄せることはなかったが――
王都の人々は久方ぶりに白大理石の塔を仰ぎ見て、かつての栄華を思い出し、ざわめき合った。
◇◇◇
初めての講義の日。
朝の光に満ちた塔の講義室には、まだぎこちない空気が漂っていた。
真ん中に座していたのは、第二王子マクシミリアン。
広い背中と強い眼差しで、ただそこにいるだけで場の中心を占める存在だった。
その周囲を取り巻くように、従者や親しい子息たちが並び、さらにその外側に、野心も派閥も持たない子どもたちが控えめに腰を下ろしていた。
遅れて入ってきたのは、第三王子エドワードと、その従者アウレリウス。
ふたりは第二王子派の輪から大きく離れた隅を選び、肩を並べて静かに腰を下ろす。
「……見ろよ、あれ」
「まだ生きてたんだな」
「無駄に学んでも意味ないのに」
ひそひそと漏れる悪口に、エドワードもアウレリウスも眉ひとつ動かさない。
ただ無言でノートを開き、目の前の机に向かった。
その時だった。
「――やめろ」
低く響いた声が室内を震わせた。
ざわついていた声がぴたりと止む。
声の主は、他ならぬ第二王子マクシミリアンだった。
彼は取り巻きたちを一瞥し、ちらとエドワードの方を見た。
一瞬だけ視線が交わる。だが、すぐに逸らされる。
塔に沈黙が満ちたその瞬間、杖の音が床に響いた。
ウルバヌス猊下がゆっくりと壇に歩み出る。
白銀に光る髭、深い皺の刻まれた顔。だが瞳だけは鋭く、若者を射抜くように光を帯びていた。
「――では、始めよう」
静かな声が講義室を包み、ざわついていた空気がすっと引き締まる。
「王族であれ、文官であれ、あるいは商人であれ……すべての者は『時間』の川を渡る旅人に過ぎぬ。
されど、川の流れを知らぬ者は、やがて溺れ、押し流されるだろう」
そう言って猊下は古びた巻物を掲げた。
そこには、かつての王国の興亡が記されていた。
「今日の課題は、我らが祖先がなぜ国を興し、いかにして血を流したか。
その流れを知らぬ者に、明日の一歩を語る資格はない」
第二王子マクシミリアンは腕を組んだまま、じっと耳を傾ける。
強靭な体に似合わず、彼は意外なほど真剣な顔をしていた。
一方、エドワードは小さな文字でノートを取りながら、時折アウレリウスと目を合わせては静かに頷く。
ふたりは徹底して騒がず、淡々とノートを取り続けた。
「かつてこの国は、五つの部族の盟約から始まった。
互いに争い、裏切り、殺し合い……だがそれでも、『共に川を渡らねばならぬ』という一点だけは忘れなかった」
猊下の声は、まるで塔の石壁そのものに刻まれるように響いた。
子どもたちは誰も身じろぎせず、その言葉を飲み込んでいた。
講義の終わり、猊下は目を閉じ、杖を軽く床に打ちつけた。
「覚えておけ。
お前たちはこの王国の未来を背負う。
だが未来とは、空から降ってくるものではない。
己が手で掴み取り、己が足で築かねばならぬ」
鐘が鳴り、初めての講義は幕を閉じた。
エドワードはノートを閉じ、深く息をついた。
アウレリウスは肩を軽く叩き、無言で笑う。
マクシミリアンはしばらく座ったまま、じっと猊下の去った扉を見つめていた。
――ぎこちなくも、確かに始まった。
知識の塔は、再び子らの声を抱き、時の川を渡ろうとしていた。




