2 名前負けの美学
「セラフィーナ・ドロテア・フォン・リリエンタール──」
王城の回廊を歩きながら、乳母セラフィーナの実子アウレリウスが母の名をわざとらしく唱える。
「……やっぱり長いよね。立派すぎて、母上には似合ってないと思うんだ」
「まぁ、失礼ね。わたくしにはこの名がよく似合っているはずでしょう?」
セラフィーナは涼しい顔で返す。
「でもさ、ぼくは思うんだ。母上って……ちょっと“名前負け”してる」
少年は悪びれもなく笑った。
セラフィーナは一瞬言葉に詰まり──そして、にっこり。
「ふふん。ではこうしましょう。あなたが立派に名を背負える大人になったとき、改めて母のことを笑いなさい」
「えっ、それじゃ一生笑えないかもしれない!」
アウレリウス・レオナルド・フォン・リリエンタールという名前を持つ息子は慌て、隣を歩いていた第三王子エドワード・ヴァレンシュタインが吹き出した。
「アウルは“名前負け”してないよ」
エドワードは真面目に言ったが、次の瞬間ふたりは互いの頬を押し合い、「ぷにー!」と笑い転げた。彼らの中での流行の遊びらしい。
セラフィーナは溜め息をつきながらも、目元には微笑を浮かべていた。
◇◇◇
王城の長い回廊を、エドワードとアウレリウスを伴って歩くセラフィーナの姿があった。その一行に、側妃派の夫人たちが行き合う。
「まぁ! 優美なお名前の乳母様。今日も“お二人”をご一緒に?」
わざとらしく“お二人”を強調する声音に、取り巻きたちが小さく笑った。
「王子殿下と……ご子息を抱き合わせで育てるなんて、賑やかでしょう?」
セラフィーナはにっこりと微笑み返す。
「ええ、まるで双子のように仲睦まじゅうございますの。頬のぷにぷに具合など、区別がつかなくなるほどに」
「……そ、それは……」
夫人の笑みが引き攣る。
セラフィーナはさらに重ねた。
「おかげさまで、息子は殿下より気品を学び、殿下は息子より健康的に遊ばれております。互いに補い合い、これほど有意義な“抱き合わせ”もございませんわね」
嫌味を返そうとした夫人たちは、逆に褒め言葉にすり替えられてしまい、口を閉ざして退散した。
「殿下、覚えておきなさい。嫌味は正面から受けるものではありません。包み返して贈り返すのが一番です」
セラフィーナの言葉に、エドワードは首を傾げ、アウレリウスと顔を見合わせる。次の瞬間、二人はまた「ぷにー!」と頬を押し合い始めた。七歳にもなって、まだ子犬のように無邪気であった。
◇◇◇
本来なら王族には複数の乳母や教育係がつくものだ。
王太子には王太后の離宮で専任の者が仕え、第二王子にも側妃の意向で多くの教育係がつけられていた。
だが第三王子エドワードには、ただ一人セラフィーナしか与えられていない。正妃アイラが冷遇されているゆえに、息子もまた同じ扱いを受けていたのだ。
野心に燃える側妃にとって、遠方の離宮に籠る王太子は手の届かぬ存在。代わりに、第三王子は八つ当たりの標的とされた。
理不尽な状況の中で、それでも少年は笑い、乳母は静かに誓っていた。
――必ず守り抜く、と。




