ユメノハナシ ~追憶の夢~
――靴下だ。
忘れ物に気づいた私は――
とにかく家に向かって⾛り続けていた。
寺での研修中ではあるが、あれを忘れたとなるとかなり拙い。
研修係のお坊さん達は――恐くて厳しいのだ。
空が⽩み始めた早朝の町並みを、私は⼀⼈駆け抜ける。
皆が起きてくる前に――朝⾷の前までには、間に合わないと――
そう思いながら家に続く⼩道に⼊ると――
前⽅に⾃転⾞に乗った⼥の⼈がいた。
あれは――同級⽣の⼦だ。
昔、私が思いを寄せていた――
そこで私はぼんやりとではあるが、なんとなく察する。
どうやら私は今――夢を⾒ている。
後ろ姿から察するに――あの⼦も当時のままの姿というわけではなさそうだ。
それなりに年を重ねた姿をして――
否、私の記憶を基にして――年を重ねた姿を象っているはずだ。
夢と現実の境は――相変わらず明瞭としないままである。
私は⼀瞬だけ逡巡したが――
その⼥を追い越して駆け抜けることにした。
夢であろうと、なかろうと――もう、いいだろ。
結局想いを伝える勇気はなかったし――
今は忘れ物の⽅が⼤事だろ。
そう思いながら⾛り続ける私の背後から――
ねえ、どうしたの――
夢の中の登場⼈物が、夢を⾒ている本⼈にも予測できない事をすることがある。
半分、夢であると気づいているのにだ――
お⾦、貸してあげようか――
それか、送ってあげるよ――
その⼥は、バイクに跨がったままそう⾔った。
⾃転⾞だったのに――バイクかよ。
これはもうアレだ、完全に夢だ。
お⾦を貸してあげようか、の辺りが――妙に⽣々しい。
――何と返事をしたのかは、覚えていない。
いつの間にか家に辿り着いた私は、忘れ物を⼿に取った。
――靴下だ。
靴下て。
忘れ物の設定が靴下ってことあるか。
もっとマシなものにすれば良いのに。
そう思いながらバイクの⽅へ近づく。
あの⼦は私を待っていてくれたようだ。
後部シートには雑多な⽇⽤品が積まれていたが――
彼⼥がそれを払いのけてくれたので、私は後部シートに跨がった。
結婚したと――聞いたような気がする。
払いのけてくれた⽇⽤品は――まだ使えるんじゃないのかな。
如何でもいいことを考えていた私は、ふと動きを⽌めた。
え、これ――
腰に⼿を回していいのかな。
⼀応、⼥の⼈だし。
ご結婚されてるし。
何も⾔わずに体に触れられたら――嫌がるんじゃないかな。
夢なのだ。
何度も⾔うが、これは夢なのだ。
もう、夢だと気づいている――明晰夢だ。
空を⾶ぶことだってできる。
腰に⼿を回すことくらいで躊躇ってどうする。
この⼥に――
もっと邪なことをすることだって――
夢の中の私は、おずおずと彼⼥の腰に掴まった。
バイクのエンジンが唸りを上げ、軽快に⾛り出す。
随分⾶ばすなあ――
それにここ――今、何処を⾛ってるんだ――
過去の⾵景が、ない交ぜになったまま後⽅へ過ぎ去っていく。
そりゃ、そうか。
私の記憶から創られた――今はもう無い⾵景ばかりだ。
判らなくて――当然だ。
バイクを駆る彼⼥は、さっきから⼀⾔も喋らない。
何を話させればいいのか――私の脳は、そこを考えるのを放り出したのだろう。
バイクに乗せてやったんだ――
腰に⼿を回させてまでやったんだぞ――
あとはもう知らん――
私は、私の脳に下駄を預けられたのだ。
もう少し頑張れよ、途中で放り出すなよ――
そう毒づきながらも、流れ去る景⾊を⾒ながら、私は――
悪い気分じゃないなあ、と思った。
どれもこれも――輝くような⾵景だった。
やがて――
バイクの向かう先に、都会の町並みに似合わない寺の⼭⾨が⾒えてきた。
おそろしく巨⼤な⿅威しのある池のすぐ側に、寺の⼊り⼝がある。
バイクはそこに、ようやく停まった。
バイクを降りた私に、彼⼥は――何と⾔ったのか、覚えていない。
私は、彼⼥に――何と⾔ったのだろうか。
またね、等と⾔ったのだろうか。
夢の中なのに――
颯爽と⾛り去るバイクを⾒送ると、私は⼭⾨をくぐる。
夢の中と気づいたからか――寺の中の様⼦は、わりかし雑に創られていた。
壁も床も、書き割りのようにのっぺりとしている。
恐くて厳しいという設定だった坊主達も、今ではただのザコキャラだ。
朝⾷の時間のようだが――そんなもん知るか。
私は靴下を放り投げると、朝⾷の膳の前に座った。
――残飯みたいだな。
なんか、⾷欲無いな――これ、⽚付けといてくれる?
恐い貌のまま近づいてきた坊主だったが――素直に膳を持って下がっていった。
あとさあ、⻨茶ある?
⾛ったからさ、喉渇いちゃって――
のっぺりさを増してゆく登場⼈物達にそう声をかけたところで――
私はようやく⽬を覚ました。
ぼんやりと天井を⾒つめていると――
妻の静かな寝息が聞こえてきた。
なるほどな、そりゃ――
変な事はできんわな、と――
私はひとり、苦笑した。