角田大佐の不条理
最近、メードの間で日本は負けたと云う噂が立ち始めました。
私は金田さんと二人で、散歩がてらに教会に行きました。
神父は中庭で洗濯モノを干して居ります。
金田さんが、
「ごめんください・・・」
と声をかけると神父は私達を見て胸に十字を切り、ため息を吐いて、
「どうしました?」
と尋ねてきました。
「実は、日本の戦況を聞きたくて参りました」
神父はニッコリと笑い、
「ああ、その事ですか。・・・ウエアク・アイタペ・ホーランジアの日本軍陣地はオーストラリア軍を中心とした連合軍により大敗し、兵隊サンは山に逃げてしまいましたよ。もう、島には日本軍陣地など在りません。だからこの島では日本軍は負けたと云う事に成ります。他に何か聞きたい事は?」
「山に逃げた日本兵の『噂』を聞きませんか」
「フリ族の話しによりますと、日本兵は小さなグループを作って洞穴に隠れている様です」
「で、連合軍の掃討は?」
「連合軍も掃討部隊は出していません。日本軍にはもう、戦う意欲が無いとフリ族が言ってました。痩せた日本兵は、土民を見ただけで逃げてしまうそうです」
神父の話しを聞いて、私はあの「彷徨っていた頃」の事を思い出しました。
しかしマダンの陣地に残る見捨てられた少数の兵隊さんは、戦闘どころかジャングルの死闘すら知らないのです。
ニューギニアでは戦闘を知らない兵隊さんが、まだ居たのです。
白旗を洗濯をし、将棋を指し、キャッチボールをしながら安泰な生活をして居るのです。
私は運が良いと言うよりも、『不思議』でなりませんでした。
野嶋婦長の言葉を借りると「尻を蹴飛ばしてやりたい」兵隊さんなのです。
六月(昭和二十年)の朝の事です。
山の方で「一発の爆発音」が聞こえました。
私はラエの病院から聞こえて来た『あの遺音(自殺の音)』を思い出しました。
音は一発のみです。
河村看護兵は、
「久々に日本兵の自爆音を聞いたな」
と言いました。
その日の昼。
マダンの陣地に、土民の肩を借りた三人の幽霊の様な負傷兵がやって来ました。
一人は顔と足をやられて、一人は腹から血を流し、一人は、肘から先を飛ばされていました。
緒方軍医長以下、私達赤十字班は急いで三人を救護室に運び手当てをしました。
医療用具はオーストラリア軍の将校から差し入れられたモノが全て揃っています。
治療をしながら緒方軍医長は、部隊、負傷兵の名前、此処までに至った経緯を尋ねていました。
すると「梶田智行軍曹」と云う肘から先を飛ばされた方が、『三人はウエアク飛行場の守備隊』だっと言いました。
彼等は昨年、オーストラリア軍を主力とした連合軍の総攻撃を受けてウエアク部隊は壊滅、這々(ホウホウ)の体で陣地から逃げ出し、あちこちの洞窟を点々として居たそうです。
しかしある日、連合軍の掃討兵に見つかり、洞窟の中に手榴弾を投げ込まれ、九名居た兵隊さんの一人が片足を飛ばされたそうです。
治療の施し用がなく、部隊長が、
「足でまといだ」
と言って拳銃でその兵隊さんを撃ち殺してしまったそうです。
私は随分酷い事をする上官もいたものだと思いました。
梶田さんが言うには、当初、殺された兵隊の遺体(幽霊)とジブン達八名でジャングルの洞窟でジッとして居たのですが、年が明けてその洞窟は引き払い、マダンの陣地近くの洞窟に潜んで居たそうです。
私は食料も持たずによくあの地獄のジャングルの中で一年以上生きていられたなと不思議に思いました。
梶田さんの話しは続きます。
ある日、部隊長以下全員で食料確保にジャングルを徘徊していたら、部隊長が何処からか飛んで来た「弓矢」で足を負傷、弓矢には毒が塗られてあったそうです。部隊長の傷が悪化して頭が変になり、今朝、洞窟の中で手榴弾のピンを抜いて自殺を図ったそうです。梶田サンは止めようとしたのですがすでに遅く、そこで肘から先を飛ばされてしまったそうです。
その自爆したの部隊長と云うのは『元マダン陣地の部隊長角田裕信大佐』だったと言う事です。
その角田大佐が何故、ウエアクの飛行場に向かったのか分かりませんが、当初、角田大佐は三十人ほどの兵隊さんを引き連れてウエアクに入って来たそうです。
非常に真面目な方で朝起きると皇居に向かって深々と一礼、祝詞を捧げていたそうです。
三十人の兵隊さんも、大佐に倣って中庭に整列して同じ事をやっていたそうです。
しかし梶田さんが言うには、ウエアクの陣地が攻撃された時の「逃げ足」は、この大佐が一番早かったそうです。
角田大佐は最初、洞窟内で弾ではなく、毒矢で片足を負傷した事にイタク悲観して、絶えず、
「不名誉だ、オマエ等はこの事は絶対に人に言うな。死ぬ時はいつも一緒だ! キサマ達を置いて逝く事は忍び難い」
などと、訳の分からない事を言い始めたそうです。
ジブン達は話し合いで大佐を説得、密かに敵が来たら直ぐに白旗を掲げて降伏しようと準備していたそうです。それなのにあのカドタ(大佐)のせいでこのザマ(姿)に成り、自分達は生きる事を選んだにもかかわらず可哀想に、あのバカ大佐の巻き添えを食って死んだ兵隊達六名は死んでも死に切れないだろうに。と梶田サンは嘆いていました。
それを、徳丸部隊長代理に話すと、准尉は唇を噛みしめ、眼から大粒の涙をこぼしていました。
私は徳丸部隊長代理が何故、虐められたあの角田大佐を思って泣くのか分かりませんでした。
そして、大佐と行動を共にして散った兵隊さん達の事も「戦死」と呼んで良いモノかどうかも分かりませんでした。
私はこの『ニューギニアの戦い』は何から何まで、分からない事だらけです。
負傷した三人は緒方軍医長達と私達、赤十字の医療関係者、また土民の栄養豊富な差し入れでみるみる回復して行きました。
今日もマダンの見捨てられた陣地を夕陽が包み込みます。
私はふと看護学校で卒業の時、先生が話してくれた『矛盾と不条理』と云う言葉が頭の中を過りました。