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流された記憶(加納洋一・一等兵曹)

 午後。滝の様な雨が降って来ました。

このニューギニア島では一日に一回、大雨スコールが降るのです。

雨は一瞬にしてジャングルの冥土の道を「三途の川」に変え、兵隊さんのムクロ黄泉ヨミの国へと流して行きます。


 雨がんだ様なので、私は窓を開けて外を覗きました。

インパチェスの花の上に極楽蝶が二羽、雨宿りしています。

よく見ると、病院の入り口の長椅子に、ビッショリと濡れた、まるで「捨犬」の様な痩せこけた兵隊さんが座っています。

兵隊さんは震えていました。

暫くして、中村看護兵が出て来てその兵隊さんに声を掛けていました。


 「何処の部隊だ」


兵隊さんは俯いたままで、何も答えません。


 「名前は」

 「・・・」


それを見て渡辺軍医が出て来て中村さんに聞いています。


 「どうした」


中村さんは、


 「ハイ。・・・聞こえない様です」


渡辺軍医は長椅子に腰掛け、その兵隊さんの顔を優しく覗き込み、


 「おい、どうした。耳をやられたか」


するとその兵隊さんは突然、椅子から立ち上がり、渡辺軍医に向かって挙手の敬礼をしました。

そして、


 「・・・ブンタイシ、ジブンを行かせて下さい!」


と叫びました。

渡辺軍医は兵隊さんをニラみ、気合いの入った軍隊用語で、


 「オマエは何処の部隊か!」


誰何スイカしました。

その兵隊さんは声を振り絞って、


 「ハイ! ラエ高地守備隊堀田部隊です」


と答えました。

渡辺軍医は更に、


 「陸戦隊か? キサマの名前は」


と聞くと、

暫く考えて、


 「ハイッ! ナマエ?・・・分かりません」

 「分からない?」


渡辺軍医は自分の額に手をあて、呆れた表情をしています。

私はまた妙な兵隊さんが来たなと思い、暫く渡辺軍医とその兵隊さんのやり取りを聞いて居ました。

優しく問いただす渡辺軍医。


 「此処まで、どうやって来た」

 「ハイ! 分かりません。 が、落ちて・・・」

 「落ちた? 堀田部隊では何をしていた」

 「ハイ! ジ、ジブンは斥候で」

 「アンタ、斥候兵だったのか」

 「ハイ。・・・だと思います」

 「だと思う? もう良い。座れ」


渡辺軍医はため息を吐き、中村看護兵を見て、


 「ダメだ。アイダが途切れている様だ。記憶喪失だな」


と聞こえてきました。

するとその兵隊さんは、また立ち上がり渡辺軍医に向かって、


 「ブンタイシ! ジブンを行かせて下さい。ジブンが行きます」


と繰り返すのです。

渡辺軍医が、


 「? 何処へ行くのだ」

 「は? ・・・分かりません」

 「それじゃあ、しょうがないじゃないか 」

 「いや、ジブンは・・・」


私は笑いを堪えました。

暫くして、渡辺軍医はその兵隊を連れてムシロの病院に入って来ました。

入って来るや否や、その兵隊さんは中の兵隊さん達に向かって不動の挙手の敬礼をして、


 「ただ今戻りました。遅れてすみません!」


と大声で怒鳴ったのです。

一人の兵隊さんがそれを聞いて、


 「遅れてすいません?」


すると他の兵隊さんが、


 「まあ、確かにそうだな」


筵に寝ている兵隊さんは一斉に大笑いをしました。

でも、私は・・・笑う事は出来ませんでした。

あの兵隊さんが外で大声で叫んでいた、


 『ジブンに行かせて下さい!』


と言った「あの言葉」が、頭の中でクルクルと回っているのです。

記憶が途絶えた兵隊さんは何処に行くつもりだったのでしょう。

兵隊さんは「率先垂範」を教育されています。


 「ジブンに行かせて下さい」


戦場では多分この言葉を残し、多くの兵隊さんが亡くなって行ったのでしょう。

またこの言葉こそ、私達従軍看護婦が習った『仁と愛』の中心を成す言葉であったからです。

身を挺して、「ジブンを」「ジブンに」「ジブンが」なのです。

そして最後は、『行きます!』と言って女の私達も竹槍を持って、突撃して行かねばならないのです。

しかし今、私はこの筵の病院に赴任して来て、その言葉が実にムナしく、バカらしく思われる様に成って来たのです。

この島では、もはやそんな得体の知れない忠義だとか滅私奉公など全く意味を為さないのです。

今、『忠義を尽くす』ソレは、自分の身体以外にないのです。

確かに私がこの病院に来るまでは『自分』などと云う個人は無かったのです。

負傷した兵隊さんや病の兵隊さんに命をかけてご奉仕する事がお役目だと思っていました。

しかし、このニューギニアのジャングルに在る野戦病院では補給も途絶え、薬も食料もベッドすらありません。

兵隊さんのほとんどが黙って死を待って居るだけなのです。

私達ナースキャップを戴き、赤十字に身を捧げる者でさえ、気持ちが萎えてしまう様なこの病院の中で、兵隊さんに寄り添う言葉など見当たりません。


 『 ジブンを行かせ下さい』


この記憶の途切れた兵隊さんは、スコールで出来た「三途の河」に流されて、樹の枝に引っ掛ってもがいているズブ濡れの哀れな兵隊さんなのかも知れません。

いまだにジブンの名前すら思い出す事の出来ずに。


すると、奥の治療室から、軍医と看護兵の声が聞こえて来ました。


 「おい、名前を思い出したぞ! 加納洋一だそうだ」

 「良かったですね。これで記録簿に名前が書けます」


 日が沈んでも病室内には、あの時の伝染病で亡くなった哀れな兵隊さん達への焼香の臭いが絶えません。

骨壷に貼られた紙の名札が風で揺れています。


 加納洋一 海軍陸戦隊一等兵曹

 (昭和十九年東部ニューギニアにて戦死)

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