第92話 パイトニサム
「ナノマシンというのは、医療分野での利用を目的に開発が進められているナノメートル・サイズの機械みたいなものだよ。体内での病気の診断や治療に使う。あ、ナノメートルというのは、確か……」
法条の言葉を受け継ぐように、レインが添える。
「10億分の1メートル。細胞よりも小さい。ナノマシンは、ウイルスくらいのサイズになるな」
「すごーく小さなロボットみたいなものですか?」
シャインが尋ねる。
「まぁ、そのようなものだな。それがたくさん、身体の中にいる感じだ」
レインの言葉を聞いて、シャインは露骨に嫌そうな顔になった。
「……女神ヶ丘市の行政は、三年前に発生した『パイトニサム』という病気、そのパンデミックをなんとか市内で封じ込めることができたわ。でも、それを機に異能者が増え、異能犯罪者による治安の悪化が引き起こされたの」
ジャーナリストである白峰由記子が言った。法条が補うように言葉を続ける。
「『パイトニサム』の症状は、高熱、全身の倦怠感、頭痛が特徴。熱中症に似た症状が出る。時に嘔吐や意識障害などを経て重篤な状態になることもある。空気感染ではなく、肌の接触による経路での感染。ただし、やっかいなことに、指紋のような微量の皮脂接触による経路もあったとされている」
この場にいる全員が、法条の言葉にうなずいた。そして、由記子が説明のバトンを受け取る。
「空気感染による爆発的な罹患ではなく、皮膚から体内へ溶け込むように入るウイルスだったの。ただ、接触感染によって、肌に湿疹が出るなどの症状はなく、非常にわかりづらいのが特徴だった。だから、PCR検査による診断で、患者を隔離処置での初動対応。その後、クレスト・グラント製薬が迅速に用意したmRNAワクチンでの感染対策が開始されたわ。封じ込めは、上手くいったとされている……」
由記子がひと息入れた後、続ける。
「ただ、パンデミックの初期から『パイトニサム』は致死性の高いウイルスではなかった。重篤患者は出たとはいえ、死亡者の報告はゼロ……」
それを聞いたシャインが首を傾げて、疑問を投げかける。
「あれ? うまく言えないのですが、何かがおかしくないですか? うーん」
「かつて、世界中に蔓延して数年にわたり多数の死者を出したCOVID-19に比べると、『パイトニサム』は感染力も毒性も弱い……」
ジョーカーが変声した声で続ける。
「より正確に言うと、『パイトニサム』は感染経路がわかった後、簡単に封じ込めやすかった。皮膚接触による感染、皮脂を媒介にした感染は、空気感染よりも対処しやすいということだ。感染者が触れたところと衣服を消毒すれば良いからだ。当初はアルコール消毒が推奨されたが、石鹸や中性洗剤でも十分効果があると、すぐにわかったんだ」
ジョーカーの話を聴いて、シャインはまた首を傾げた。
「なんだか、女神ヶ丘市は、三年前に大騒ぎしすぎた印象を持ちますね。風邪みたいにそんなに大変じゃない病気を、パンデミックだと大袈裟に受け止めたみたいな。もちろん、重篤になってしまった患者さんもいるから……」
法条が、晴れ女の言葉を受けて、うなずいた。そして、添える。
「なので、しらゆきとぼくたちは、パンデミックの裏に何かがあると調べている。この街には、ひょっとしたら想像もつかない悪意がはびこっているかもしれないんだ」
法条を見ていた凛花が、シャインたちに顔を向けて告げた。
「……私の家族は今も入院している。『パイトニサム』のmRNAワクチンを打った後、ずっと寝たままなの。それに、由記子さんの家族は……」
凛花は由記子に目をやる。彼女は凛花の顔を見て、少しだけ優しい顔になった。
「少し情報を整理しようか」
レインが皆の顔を一巡に見て確認する。
「まず、『パイトニサム』という病気は、法条くんが言ったとおりの症状で感染力も毒性もそんなには強くなかった。だが、COVID-19という世界的パンデミックの反省もあったのか、女神ヶ丘市の行政はいち早く封じ込めを行った。ただ、それは表向きだ」
皆は静かにしていた。レインは続ける。
「藤平紫乃さんの遺した言葉どおりなら、クレスト・グラント製薬はmRNAワクチンを素早く開発した。さらに、IT大手企業セイクリッド・リチュアル社のナノマシンを意図的に混入させた」
「私は、あらかじめクレスト・グラント製薬は『パイトニサム』のウイルスを解析していたと思っている。ワクチンの開発はそれなりに時間がかかるもの。もちろん技術の進歩はあると思うけれど……すでに知っていたら開発は早い」
由記子が口を挟んだ。レインはとがめることなく、同調して続ける。
「『パイトニサム』のパンデミックに乗じて行われたこと、それは市民に対しての実験だろう。パンデミックの封じ込めに成功した後に、この街で起こったこと、それは何だ? シャイン」
「…………。へっ? い、いきなり、私にふらないでくださいよ」
シャインは慌てて、頼りになりそうな法条に視線を送る。
「……異能者の増加。そして、異能犯罪者の増加ですね。ぼくも流灯も、パンデミックの後に異能者になった」
「私もね」
由記子も付け加えた。ジョーカーは黙っている。
「つまりだ、この街で異能者が増えた仕掛けが、『パイトニサム』のパンデミックに起因していると思われる」
そして、一息ついて、レインは皆に問う。
「ところで、『パイトニサム』という言葉の意味を知ってますか?」




