第34話 選択なき取引
「私たちは、ノーブル・ギャンブルという組織。そして、私はそのエージェントよ。クリスタルと呼んでいただければ」
フードを被った女はそう言った。
桐明はベッドから起き上がり、立っている彼女にさらに問う。
「どうやって、ここに入ってきた?」
「壁を抜けて」
クリスタルは、さらりと一般人には無理なことを言った。
「……つまり、異能者ということか?」
彼女はうなずいたようだ。被っているフードが縦に小さく揺れた。
「私たちノーブル・ギャンブルが、あの白と黒のお嬢さんたちを預かることは可能です。ただ、組織のために働いてもらうことは必要ですけれど。もちろん、いかがわしいことなどは、私がさせませんよ。信用してくださいね」
暗がりの中、フードを被ったままでクリスタルは言った。メガネもかけているようで表情がよく見えない。レンズに常夜灯が映り込む。年齢や容姿もはっきりとしない。そんな女の言葉を信用しろと?
「私がお嬢さんたちではなく、あなたの前に現れたのには理由があります。取引をしたいのです」
そう言うと、クリスタルは桐明が座っているベッドに腰掛けた。横に並ばれて、ますます彼女の表情を見ることが難しくなる。
「取引というのは?」桐明は、緊張しながら尋ねた。
「簡単なことです。彼女たちに、あなたが迎えに行くまでノーブル・ギャンブルに居てくれ、と言っていただくだけです」
その言葉で、桐明は悟った。つまり、クリスタルが所属する組織『ノーブル・ギャンブル』は、白と黒の双子の異能が欲しいのだ。そして、白の令美の異能で逃げられてしまわないように、桐明との約束を枷にしようとしているのだった。どうやら双子の異能について、調べが済んでいるらしい。秘密にしておいたのに……見られていたとしか思えない。
桐明は、考え込む。クリスタルは静かに回答を待っている。断られるはずはないと自信があるのだろう。
あの子達がこの研究所にいても良いことはない。いや、命の危険が迫っているのだ。悠長にはしていられない。二人に少しでも自由を与えてあげたい。長く生きられる様にしてあげたい。……選択肢はない。従う他なかった。
「……わかった。ただ、ひとつだけ条件を付け加えさせてくれないか」
クリスタルは沈黙している。桐明は続けた。
「満月の時でいい。その晩だけ、私のもとに二人が来ることを許してほしい。その方が枷を定期的に強くできるだろう?」
桐明も負けていられなかった。わずかだが交渉だ。相手に魅力的に見せて、自分の目的を遂げるためだった。もちろん、双子の彼女たちの無事を確認したいからだった。
「いいでしょう。あなたは賢い男性ですね。令美さんの異能なら簡単ですものね。取引成立です。さて、時間もないですから、早速準備を進めていきましょう。……お二人の死の偽装はお手伝いしますよ」
クリスタルは、ふふっと笑ったようだった。そして、二日後の晩にまた来ると言って、彼女は壁を抜けて行ってしまった。
*
「チーム編成を少し変更する」
研究チームリーダーが会議の場で言った。
「桐明さんは今まで独りでテーマを研究してもらっていたけれど、スタッフを一人つけよう。知っていると思うけれど、紙束栞さんだ。彼女が所属していた班の研究が一旦終了になったのでね」
「紙束です。よろしくお願いします」
桐明は、紙束栞のことは知っていた。いや、正確には良くは知らない。同じ研究所に勤めていて、同じ研究チームメンバーというくらいの印象だった。チームは二十人ちかくいるので、よく見かける顔だなというのが正直な感想だった。
おっとりした印象の紙束栞は、仕事はそつなくこなしてくれた。実験の手伝いをしっかりとしてくれる。死んだ妻と同じくらいの歳だった。三十代。結婚はしていないと言っていた。いつも白衣を着ている印象だ。ここの研究員はもちろん白衣を着ている者が多いので、不自然ではないのだが。
不思議なのは会えば紙束栞だとわかるのに、顔を思い出そうとすると、印象が弱く、顔をしっかりと思い出せない感じだった。一緒に研究をしていなければ、忘れしまいそうだ。髪型も働く女性なら、セミロングという感じで、普通な印象と言えるかもしれない。
「紙束さんは、どんな研究をしてきたの?」
「あ、あの私は研究には詳しくないです。住み込みで働けるところを探していて採用いただいたので。本当にお手伝いをさせていただいてるだけで。桐明さんはすごいですね。私は皆さんが何をされているか、さっぱりです」
どうやら何か事情があるらしく、研究所の外へは出たくない理由があるようだ。ユニオンセル生物学研究所は、何かしら事情がある者を研究者やスタッフとして雇っているのかもしれない。
*
予告していたとおり、クリスタルが二日後の夜中、桐明の部屋に現れた。壁からスッと出てきたので、心臓が止まりそうになったのは言うまでもない。
「こんばんは。こちらは準備が整いました。いつでも、お二人を連れだすことができますよ」
クリスタルは、相変わらずフードを被りメガネをしていて表情を見せない。
「彼女たちを死んだことにする偽装だけれど、データの入力は私がやるから問題ない。ひとつ大きな問題がある……」
桐明のその言葉を引き継ぎ、クリスタルが続けた。
「遺体をご用意しておかないといけない、ということでしょう?」
「いや、そんなのは無理だろう。だから、なんとか加工した画像などで……」
「ご安心ください。お二人に似た新鮮な遺体もご用意できる手はずになってございます。もちろん二体分ですよ」
クリスタルは丁寧な言葉遣いだった。それが返って、桐明の背筋を凍らせる。絶句する。
「お届けする場所はどちらになりますか? ああ、もちろんお時間も指定していただかないとですね」
彼女は続けた。声のトーンが高くなっているようだ。
新鮮なとはどういう意味だ? 彼女らに似たということは、若者ということだ。つまりそれは……。
「ご安心ください。ご用意させていただく二体の遺体は、そういう取引と契約の上で得たものになりますので。令美さんの髪の色にも合わせてます」
クリスタルは、桐明の思考を読んでいるかの様に先回りして答えた。
桐明は、とんでもない取引をしたのだと、今更ながらに自覚した。おそらく『ノーブル・ギャンブル』はギャングやマフィアのような組織なのだ。
なんとか理性と冷静さを保ち、クリスタルと計画を詰めた。
計画を簡単に整理するとこうだ。
令美と栄美に外に出られることと生活の面倒を見てくれるノーブル・ギャンブルのことを話す。そして、密室にした実験室へ彼女らに入ってもらう。そして令美の異能を使う。二人は研究所の外へ出る。
二人が瞬間移動をした後、クリスタルが壁を抜けて、台車で二体の遺体を運びこむ。彼女が壁を抜けて姿を消す。その後に、実験室に睡眠誘導の致死性ガスを噴出させて、殺したことにするのだ。用意される遺体も同じ睡眠誘導の致死性ガスで死亡させておくと、クリスタルは言っていた。
死亡時刻や状態の記録、遺体の始末の対応は、当然、桐明が率先して対応することになる。計画を立て終わった後、桐明は白と黒の双子を救うために、悪魔に魂を売ったのだと自覚したのだった。
そして、計画は遂行された。
「絶対に迎えに来てね。待ってるから」
令美と栄美は、そろって寂しそうな顔を桐明に向けて言った。
紙束栞という新たなスタッフに気とられない様に、細心の注意を払った。
懸念していた医師による死亡診断はされなかった。安心した。だが……
「なぜ、実験体にわざわざ医師を呼ぶ必要がある? 不死性がなく死んだのなら、片付けて終わりだ」
彼女らを侮辱する発言を聞いた時、桐明は爪が食い込むほど拳を握りしめたのだった。
そして、桐明は不死性の確認としての実験結果を報告書にまとめた。辛かった。科学者として虚偽の報告をするだけでなく、白と黒の双子の死亡診断書を自ら書くようなものだったからだ。
令美と栄美を外へ送り出し、偽装工作が完了した後、桐明は三日ほど寝込んでしまった。




