2-2 「修理」
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「ありゃ、これは困ったね」
レインがそう呟いたのは、カップケーキの残骸を、私たちがどうにか処理しきった後の台所でのことでした。
テーブルを拭いたり食堂を掃除したりというのはクラウドに任せて、私たちは洗い物をすることにしたのですが、お皿を水で流していた彼女が、不意に眉を寄せたのです。
「どうしたんですか、レイン?」私はお皿を食器棚に仕舞う手を止めて、彼女のもとに駆け寄りました。
濡れた手をタオルで拭きながら、レインは蛇口のすぐそばにある操作パネルを睨みつけていました。
「いや、さ。温水の加熱装置が故障しちゃったみたいなんだ。これじゃあ、お湯が使えないよ」
「えっ、じゃあ、今晩のシャワーはどうすればいいんですか!?」
冷たいシャワーは、嫌です。
前に一度、寝ぼけて冷水のシャワーを浴びてしまったときは、心臓が止まってしまうのではないかという程に驚きましたし、震えが止まらないほどに寒かったことを覚えています。
あんな目覚ましはもう、こりごりです。
室温がしっかりと管理されているシェルターの中で、寒いと感じたのは後にも先にもあの時だけなのです。お湯が使えなければ、また同じ目に合うことになるでしょう。
「うーん……。まあ、ここが故障してると、お料理作るときにも影響するし……。直すしかないかな」
「直す、ですか。レインはそういう修理とかって、得意なんですか?」
私の言葉に、彼女はゆるゆると首を振りました。
「いや、私は全然。システム面の問題ならいいんだけど、多分これは機械そのものが壊れちゃってるだろうしね。サニィは?」
「私はからっきしですよ。それこそ機械なんて、毎日使うマイクとコンピューターくらいしかわからないです」
実はそれすらも、よくわからなくなることがあるのですが。
ともかく、私たちは機械いじりに関しては素人も素人。実際に機械を見てみて、どうするのかを判断するしかないでしょう。
そんな風に私たちが困り果てていると、唐突に、背後から声をかけられました。
「よう、食堂の掃除終わったぞ……。って、何だよ二人とも、浮かない顔して」
キッチンに入ってきたクラウドは、濯いできた布巾をひらひらと揺らしながら、私たちの表情に、それぞれ見比べるようにして視線を這わせました。
「ああ、クラウド。それが困ったことになったんですよ」
私はそこで、彼に事情を話すことにしました。お湯が使えないのは皆が不便をすることですし、後で彼がシャワーを浴びようとしたときに、冷水を被ってしまうのはかわいそうです。
しばらく、うんうんと頷きながら話を聞いていた彼は、けれど、驚く様子も見せずに口を開きます。
「なんだ、加熱設備の不調だったか。最近調子が悪いのは知っていたが、騙し騙しでもう少しは保つと思っていたんだけどな」
そう言って、頭をポリポリと掻きました。
「知ってた……? クラウドって、機械とかに強かったんでしたっけ……?」
「おいおい……。この施設の設備を手入れしているのは、俺なんだぞ。まあ、このあと手が空いているし、直しに行ってくるよ」
そうだったのですか。
完全に初耳でした。
言われてみれば、誰かがそういうことをしていなければならないのでしょうが、今までに一度も考えたことはありませんでした。
機械の修理とは、一体、どんなことをするのでしょうか?
……ほんの少しだけ、興味が湧いてきました。
「クラウドクラウド! 私も、ついていっていいですか?」
「……なんだ、急に。構わないが、特に面白くもなんともないぞ?」
「いいんですよ! 面白いかどうかは、私が決めます!」
それに、やり方を教えてもらえば、クラウドが外の調査に行っているときに設備が故障しても、私がなんとかできるかもしれません。
しかし、彼はどこか不満そうな表情をしていました。
「でもなぁ、ほら、余計なところ触ったりすると危ないし、怪我とかしたら、大変だぞ?」
「大丈夫ですよ、邪魔はしません! しませんから!」
クラウドは頑なでした。彼の言うこともわかるのです。確かに、私が一緒に行くと、邪魔になるのかもしれません。
あまりわがままを言って、彼を困らせてもいけません。諦めるしかないのかなと、私がそう思いかけた、その時でした。
「いいじゃない、クラウド。連れて行ってあげなよ」
と、どこか呆れたように笑いながら、レインはそう口にしました。
「レイン、そうは言ってもなぁ……」
「本人だって、余計なことはしないって言っているじゃない。なら、助手見習いだとでも思ってさ」
その言葉に、しばらくの間うんうんと唸っていた彼は、やがて諦めるように溜息を吐きました。
「……わかったよ、でも、俺の言うことはしっかりと聞けよ。触るなって言ったものには触るな。できるか?」
私は大きく頷きました。
そのくらい、できるに決まっています。
「……まあ、いいか。それじゃあ準備してくるから、後で居住区の入り口まで来てくれ」
「うんうん! わかりました、レインはどうしますか?」
「私は止めとくよ。何かと口挟んだりしちゃいそうだし、邪魔になったら悪いしね」
「そうですか……」口にしながら、私は少しだけガッカリしました。「みんなでやったら楽しそうだなと思ったんですけど……」
「お前は、設備の修理を遊びが何かと勘違いしてないか?」
そんなことはありません。
頬を膨らませて、抗議の視線を送ってみましたが、クラウドはお構いなしのようでした。
ほんの少しだけ、私はわくわくしています。修理というのは、何をどうするのでしょうか?
楽しみに浮いた足を動かして、私は、クラウドの後をついて行きました。
加熱設備の点検口は、居住区の手前の廊下にあります。
壁に入った切れ目に手をかけてみれば、一メートル四方ほどの穴が口を開けました。そこから下に向かって梯子が降りており、階下は闇に飲まれてしまっていて、様子を窺うのは難しそうです。
「よし、ここだ」クラウドはそうとだけ言うと、手に持っていた入り口の蓋を横合いに置きました。
一度部屋に戻った彼は、腰に見たこともないポーチのようなものを巻いていました。
そこにはいくつも、頑丈そうな道具が刺さっているようでした。
臆すことなく、梯子に足を掛けると、彼はスルスルと降りてゆきます。
私も、それに続こうとしますが、梯子の昇り降りなんて初めてです。思わず竦んでしまう足に力を入れながら、その後に続くことにしました。
梯子を降りたところにあったのは、三メートル四方ほどの小さな空間でした。
意図的に設計された場所というよりは、配管の中に偶然生まれた隙間とも思えるそこは、ひどく薄暗く、そして、私が感じたことがないくらいにジメジメしていました。
「いいか、危ないから周りのパイプに触るんじゃないぞ。火傷しても知らないからな」
鋭く飛んだクラウドの声が、辺りにぶつかってはたわんで、おぼろげに響いていきます。
彼は配管の間に設置された、箱のようなものの前に屈み込み、錆びついた音と共にそれを開けました。
露わになったのは無数の配線。それをしばらく見聞した後に、深くため息を吐きます。
「……参った、かなり奥のほうがイカれちまってる」
「えっ……? 直らないんですか?」
「直らないことはないが、時間がかかる。畜生、今日の午後はここにかかりきりになっちまうな」
そう言って、彼は腰道具から見たこともないような工具を取り出し、何やらコードをいじり始めました。
私はそれを、見ていることしかできません。時折、クラウドに質問をしてみたりもしましたが、邪魔になってしまいそうだったので、眺めているだけにしました。
規則的に、金属の擦れる音。そして、部屋全体の蒸し暑さが、なんだか眠気を誘いました。
彼が話しかけてきたのは、そんな時でした。
「……サニィ、聞いているか?」振り返らずに、声だけで彼は問いかけてきました。
「はい、大丈夫ですよ。どうかしたんですか?」
「いや、別に、どうってことじゃないんだ。ただ、ちょっと気晴らしに話したくてさ」
私たちの声以外には、どこか遠くから、機械の唸りが聞こえてくるばかり。
邪魔するものは、何もありませんでした。
「確かに、クラウドとゆっくり話せるのは久しぶりかもしれません。いっつも、外の調査に出かけちゃってますから」
「……悪いな、もう少し頻度を抑えられれば、みんなと過ごす時間も増やせるんだが」
少しだけバツの悪そうな彼は、誤魔化すようにして、配線に顔を近づけました。
そんな風に逃げなくてもいいのに、と私はどこか、微笑ましい気持ちになります。
「いいんですよ。だって、それがクラウドのお役目じゃないですか。レインもクラウドも、しっかり自分の仕事をこなしてて、すごく偉いですよ」
そう言いながら、私は思わず、考えてしまいました。
そう、二人とも、しっかりと務めを果たしています。毎日毎日、休みもなく。自分の課題をこなしていっているのです。
――私は、どうなのでしょう。
私の仕事は、朝晩の『歌日記』だけ。それ以外はほとんど、遊んでいるようなものです。
どうして三人の中で、私だけがそんな風に過ごしているのでしょうか。
どうして私は――こんなにも幼いのでしょうか?
「……サニィ?」かけられた声に、私は思わず体を跳ねさせました「急にボーッとして、どうしたんだ?」
「なんでもないですよ、ちょっと、暖かかったのでうとうとしちゃっただけです」
「そうか、それならいいんだが……。おっと、眠くてもパイプには凭れるなよ」
彼は手を止めずに、そう、私に語りかけてきました。
しばらくの間、私たちの間から言葉が絶えました。
設備の修理というのは思ったよりも退屈で、微睡んでしまいそうなのは本当だったのです。
口を動かしてなければ、きっとこのまま眠ってしまう。そう思った私は、クラウドにこう切り出しました。
「……ねえ、クラウド。クラウドは外の世界を知ってるんですよね?」
シェルターの外。
それは私にとって、全くの未知です。
レインのカメラを使って、外を見てみたことはありますが、実際に出たことはありません。
カメラ越しに見える世界は、何もかもが灰色でした。
灰色の地面、褐色の湖、そして、鈍色の空――絵物語の中の世界とは全く違う、セピアの景色ばかりが、広がっているのです。
「……ああ、知っているよ。頻繁に調査に出ているからな」
「……外の世界って、本当にあんな、何もない場所なんですか?」
資料室にあった小説には、広い広い『海』があると書いてありました。
空は青くて、地面には花が咲いていて。とてもとても、レンズの先にある風景とは似ても似つかないように思えてしまうのです。
私の問いかけに、クラウドは何かを考えるように手を止めました。
けれど、それも一瞬のこと。すぐに、何事もなかったかのように再開されます。
「何もない、ことはないぞ。サニィ。外の世界には、まだ君が見たことのないようなものが、沢山ある」
「本当ですか!? 『海』も、青い空も本当にあるんですか?」
「ああ、ある。緑に溢れた『森』もあるし、空の向こうには星だって見えるんだ」
「動物、動物はどうですか! 私、図鑑で見た『うさぎ』って生き物が触ってみたいんです!」
「……あー、生き物、な」
クラウドは何故かそこで、ほんの少しだけ歯切れの悪い返事をしました。
外に、生き物はいないのでしょうか?
「いや、いないわけじゃないんだ。それこそ、変わった生き物もいるぞ。陸を泳ぐ鮫、空を飛ぶエイ。人の言葉を理解するメガネザル、なんてのもいる」
「人の言葉を……?」私は、思わず繰り返してしまいました。
そんなのもいるんですね。まだまだ、私の知っている世界は狭いようでした。
「……いつかみんなで外に出たいよな。知っているか? 俺たちの名前はみんな、天気からつけられているんだぞ」
「……天気、ですか?」
「ああ、俺は曇り空、レインは雨模様。そしてサニィはお日様の登った、晴れの空のことだ」
「そうなんですか! 私は、お日様だったんですね!」
それこそ、初めて聞きました。
楽しみな気持ちが膨らんでいくのがわかりました。いつか、このシェルターから出て、外の世界を見に行くことができるのでしょうか?
クラウドとレインと三人で。もしかすると、どこかのシェルターにいる、レーゲンも一緒に連れていけるかもしれません。
みんなで外の世界を旅したら、きっと楽しいに決まっているのです。
「……ん? なんだこれ」
――そんな風に夢想していた私の思考を、どこか戸惑うようなクラウドの声が遮りました。
彼が、その太い腕を配線の隙間にねじ込み、取り出したときには指先に、何か紙くずのようなものを握っていました。
湿気のせいでしょうか、ところどころが変色したその紙はくしゃくしゃに丸められており、一部は破れてしまっているようでした。
「……? クラウド、それは?」
「いや、わからん。だが、こんなものが配線の中にねじ込まれているのなら、故障するのも当然だな……」
「でも、結構古そうに見えますよね。どのくらい前から、ここにあったんでしょうか……?」
さあな、と、どこかクラウドも神妙な顔をしていました。
そして、丸められた紙を、破れないようにゆっくりと開いてゆきます。
――けれど。
「……ん、なんですか、これ?」私は疑問符を浮かべました。
そこに記されていたのは、見たこともない記号の羅列でした。
「見たところ、旧文明の文字だな。どれどれ……」
彼は顔を寄せ、その文に目を通して――。
「――ッ!」一瞬、確かに表情を引きつらせました。
「どうしたんですか、クラウド。そこに何か書いてあったんですか?」
クラウドはしばらく、その紙を見つめて固まったままでした。けれど、やがてそれを再び乱暴に丸めると、どこか強がるように、笑みを浮かべました。
「何でもないよ、ただの落書きだ。大方、このシェルターを建てるときに、どっかで紛れ込んだんだろう」
そう言って、彼は自分のポケットに紙を押し込みました。
むむ、何だか少し、馬鹿にされているような気がします。彼もレインもそうですが、私のことを子供扱いするのは止めてほしいです。
「まあ、そんなことはいいだろ、サニィ。ひとまずこれで修理は完了したし、さっさとこんなジメジメしたところからはお暇しよう」
「そうですね!」そう言われてみれば、私も結構汗をかいてきてしまいました。「シャワールームを借りましょう、お湯も出るようになってるでしょうし!」
そのまま、私たちは梯子に手をかけて、その場を後にすることにしました。
――クラウドは、どうして私に、あの紙切れを見せてくれなかったのでしょうか?
――どうして、わざわざ旧文明の文字で記したのでしょうか?
――誰がそれを、ここに押し込んだのでしょうか。
何一つとしてわかりませんでしたが、私はそれ以上、深く考えようとはしませんでした。
あるいは、この時点で気がつけていたら――何か、変わっていたのでしょうか。