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【短編 完結】梨花さんと僕

作者: 38ねこ猫

note掲載作品


梨花さんと僕は他人ではない。


「家にまっすぐ帰りたくないの。

休みの日に夫と出かけるのも嫌。

深夜帰って夫が起きてると、なんで?って思うの。

ゾッとしたのは、パスタ。

わざわざ作って置いてあったの。

もう、うんざりよ。

深夜に帰ってパスタ一人前食べると思う?」


ファミレスに僕を呼び出して、梨花さんが言った。

僕は夜9時前にはお風呂に入って、10時からはドラマを見ながらウトウトして、半分くらいでもう寝よって、眠りに就くのが至福。


なのに、8時にシャワーを浴びた僕に8時半に電話がかかって来て、嫌だよ行かないよって言っても嫌だ話聞いてって言うから、断れなくてここにきた。


もう、僕のリズムが崩されて。

僕はただただ不機嫌。


「じゃあ、別れたら?」

僕は、18歳。

梨花さんは38歳。

僕の元お母さん。

僕は今、お父さんは死んだから一人で家にいる。


「何よ。その言い方。」

「だって、…そうじゃん。」

「2回目も失敗だったのかな。」

梨花さんは明らかにイライラしていて。

僕も眠くて眠くて、イライラしている。

「梨花さんはさあ、なんでも結局、他人のせいじゃん。」

「何それ。私が悪いの?」

「僕は眠いんだよ。もう寝る。帰る!」


もう嫌だと思って席を立った。

「待ってカナタ!」

僕の手を梨花さんが掴んだ。

「…泊めてよ。今日は帰りたくないの。」


別れた元家族の家に泊まるってどんな発想だよ。


「やだよ」

僕は、若干乱暴にその手を振り払った。

梨花さんが、初めての小学校の夏休みに僕にしたことだ。行かないでって、手を掴んだ僕の手を「嫌よ」って言って振り払った。

痛いと思って泣き叫んだ。


800円。

ソフトクリームとドリンクバーを合わせた金額。

それだけはテーブルに置いた。


「カナタ!」

梨花さんは、ヒステリックに僕を呼ぶ。

その声は、ただの他人の声だ。




僕は、ずっと母親を忘れていた。

僕の親はお父さんだけだって、そう思っていた。


運動会も授業参観も、みんなには、お母さんがいた。僕には誰もいなかった。



梨花さんと再び会ったのは父の葬儀の時だった。

親戚の巌おじさんが僕を葬儀に参列した梨花さんに会わせたから。


梨花さんが誰なのか僕には全くわからなくて、ただただ、巌おじさんの言うことを大人しく聞いていた。


再会には特に感動もなく、お母さんってこんなもんかって思った。


父が亡くなったのは高校2年の時。


工場の事故で機械に挟まって。

だから、葬儀は会社でやってくれた。

社長さんは初めて会う僕に何度も何度も頭を下げてお詫びの言葉を並べてくれたけど、一生懸命、会社のために働いた父の遺体は、顔が綺麗だっただけまだマシかって思うほど現実味がなかった。


「困ったことがあったら言ってください。」と言う社長にこれ以上、困ることがまだあるのかと思ったけど僕は言葉を返さなかった。


父が保険に入っていたから、学費は死亡保険で賄えた。僕は土日だけはアルバイトをして、高校生活を終えた。


梨花さんは何かあるごとに僕を呼び出すようになり、始めは他人行儀だったが、それは3回くらいで、会えば愚痴を聞かされたり、僕が実の子どもで未成年でありながら、時間を気にせず話せるからとラブホテルに連れて行かれたりした。


壁に描かれたラッセンみたいなイルカの絵。

安っぽい部屋のこんなものは違う誰かと眺めるものだろう。そう思った。


僕がベッドに横になれば、ずっとこうしたかったと言って後ろから抱きしめてくる。母と子というより、女と男。梨花さんの体温が生ぬるくて気持ちが悪かった。





夜10時。

家に帰ってきて、ファミレスで着いた匂いをシャワーで流す。もう眠いから髪の毛は適当に乾かした。乾き切らない髪のままベッドに寝そべる。


眠れない。


眠いのに。


ソファーで本を読む。本はあまり読まないけど、眠れない日は活字に溺れて眠気を誘う。

LINEが来て、スマホが震える。

画面を伏せる。


梨花さんからのLINEなんか僕には関係ないんだって思いたくて。


母親なんか僕にはいらない。






日曜日、梨花さんは唐突に僕に言う。


「お父さんの死亡保険、お金まだあるでしょ?私にもちょうだいよ。」

ずっと何も言ってこなかった、ずっと何もしてこなかった梨花さんが急に言い始めた。


ファミレスでも、ラブホでもないここは、梨花さんの実家で、僕の元祖母の家。元祖母の家というのは、…元祖父は僕が生まれた時にはもういなかったから。元祖母も今はもう他人だ。

「おばあちゃん、特別養護老人ホームに入ったの。ボケて。70ちょっとだけど、レビー小隊型認知症?お金を取られたって、私を警察に突き出そうとするから驚いた。手に追えなくてさ。」

まるで他人事に聞こえた。

「だから、お金欲しいの。半分よこしてよ。」

「…半分は多いよ。僕だって…。」

「働いてないの?」

「働いてるけど。」

「どこ?」

「お父さんのいた工場。」

「そういう悪魔みたいなことするんだ。怖いね、あんた。」

梨花さんはタバコを吸いながら、クククって笑う。

「社長さんが、…好意で入れてくれたんだ。僕は経理の事務員だし、お父さんがしていた仕事はしていない。」

「良い人なの?社長さん。」


僕は日頃の職場環境を頭に思い描いた。

日商簿記の1級を持っている僕は比較的、人としての扱いを受けているが、

「弱い従業員に暴力を振るうよ。社員さんの話では、お父さんがずっとをその人たちを庇っていたって聞いた。」

「じゃあ、あの人、社長さんに殺されたんじゃないの。正義感強くて、ウザいのよね。」

タバコの煙を僕に向かって吐き出す。これもまた暴力。父の悪口を言う梨花さんは眉間に皺を寄せいかにも嫌な顔をしている。

「…お父さんは、僕には大切な人なんです。あなたと違って。」

「私は、あんたのお母さんなんだけどね。お母さんは大事じゃないわけ?」

「あなたこそ、僕なんかいらないじゃないですか。」

「私のお財布になるかならないか、大事な場面だから、大切にするに決まってるじゃない。」

そんなことを言いながら、巻き髪を揺らす。


「カナタ。…私、あなたがこの名前になるのいやだったの。旦那がハルカ。子どもはカナタ。二人とも私から遠いところにいるみたいじゃない。

あなたの父親の母親、つまり、私の義理の母親が勝手に決めたの。

私、秒で、あなたに興味がなくなっちゃった。あなたは、私のものじゃないって。」


僕は、こんな話を聞かされて何を思えば良いのだろう。それより、梨花さんのお財布になんてなれないことをはっきりと言ってしまいたい。


「父のお金は渡しません。」

「…そっか。おばあちゃんを見殺しにするのか…。」

被害者のような顔を向けられる。

僕は、目の前にあるお茶が温度を失うだけの時間ここにいる。

「ボケ老人ひとり、殺すことになる。あんたのせいで。」

「旦那さんになんとかしてもらってよ。僕は知らないよ。」

「どんなに他人のふりしたってね、あんたはあたしから生まれたんだから。一生変えらんないんだよ。あんたは私の子ども。私はあんたの母親。誰がどう言ったって変えられないの。」


叩きつけられた現実に”最悪”以外の言葉を添えることができない。

「……お父さんが許さないと思います。」

「死んだ人なんかどうでも良いでしょ。」

「いえ、僕の大事な人です。」

「生きている母親が困ってんだよ。」


父方の祖父母は、僕が中学生の頃に亡くなった。だから、僕は今、ひとりだ。


「梨花さんは、僕のそばにいなかったじゃないですか。僕は、ずっと…ずっと困ってた。」

父が亡くなって、僕は泣かなかった。


巌おじさんが、僕の代わりに泣いてしまったから。お父さんは巌おじさんにとって兄であり大親友だったから。


「お父さんは字が下手で不器用で、料理もできないから、僕が全部一人でやってきた。

お父さんと喧嘩して困っても誰にも相談できなかった。

お父さんが夜勤の時に近所で火事があっても、逃げる場所も分からなかった。

誰もいなかった。

僕にはずっと、誰もいなかったんだ。

ずっと、困っていたから、それが普通なんだって思ってた。

今更、僕は梨花さんを大事に思えない。」


父が亡くなってから、初めて泣いた。

ずっと、この人の前では泣きたくないと思っていたのに。


「母親だって言うなら、もう二度と、僕を呼び出さないでください。」




出て行く僕を引き止めようと何度も呼ぶ声は、やがて罵声に変わった。




誰もいない僕の家。

父の写真に手を合わせる。

お線香に火を灯して、白檀の香りが広がる。



時刻の止まったままの父のCITIZENの腕時計。


「お父さん、ただいま。」

親とはなんだろうか。

近くても遠くても。

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