はじめての実戦
剣道家として、初めて命のやり取りをします。
2 初めての実戦
俺は車から降りて、周りを見回した。気温が低いようで、ブルッと震えた。空き地の向こう側はうっそうと木々が茂っている。車のライトは森の端の樹肌を照らすだけで、奥は見えない。でも、ライトで照らされた奥から、それだけでなく、左右や背後からも妙な唸り声が聞こえる。低く、相手を威嚇する声。俺はこんな声に聞き覚えがあった。剣道の稽古の時、たいていの人は気合を出すために大きくよく通る掛け声を出すのだが、あの剣持先生は違う。無言に近いか、低いうなり声で相手の動きを観察していた。俺は恐怖に駆られて後ろのシートから竹刀袋を取り出す。慌ててひもを解き、鍔をはめる間も惜しんで竹刀を取り出し中段に構えた。そんな動作の中で、俺は理不尽な状況を一旦脇に置いて、現実の敵に対応する心構えを作る。
「常在戦場。」
剣持先生の言葉が頭をよぎる。そうだ、これは戦場だ。なら、何としても生き残らねば。
そんな俺を見極めたのか、唸り声の主はゆっくりと森の木々の間から出てきた。ライトに照らされたそれは、灰色の毛皮をまとった狼だった。俺は狼は見たことはないが、ハスキー犬なら見たことがある。その生き物はハスキー犬より一回り大きかった。しかも前・右・後ろの3方からおよそ6頭ずつの群れで距離をつめてきた。森の中にいることといい、集団で狩りをする様子といい、灰色の毛皮の大きな体といい、狼と考えて間違いはないだろう。
車の中に逃げ込もうかとも考えたが、狼の太い脚、大きな爪を見て、
(あの足では、車のガラスが割れる。そしたら狭い車内で戦うことになる。)
と自分の不利を悟り、車外で迎撃をすることにした。それでも、車の前後のドアは開けっ放しにし、俺は前後のドアの間に陣取る。ドアが、少しでも盾の代わりになれば、とも思った。
最初に襲ってきたのは後ろの群れだった。幸い、後部ドアを開けていたおかげで多少は盾の代わりになる。ドアに当たってくる狼は放置して、ドアを飛び越えてくる狼、回り込んでくる狼に集中する。竹刀では、いくら強くたたいたところで相手に致命傷を与えることはできない。そこで、口や目、眉間に突きを入れ、前足の先を小手のように打ち払う。幸いにも、狼たちの狙いが俺の首だったこともあり、狼の動きが面白いように読めた。ドン、パンパンと突いて打ち払うと、それだけでも、狼の戦意は衰えたようで、キャンキャン言いながら下がっていく。次から次へと襲ってくる狼に、竹刀の軽さが逆に効を奏したようで、相手のカウンターをうまく取れていた。
次に襲ってきたのは右側にいた群れだ。これは、ドアの盾は効かない。しかし、前後のドアを開けたことで、一度に襲ってくる狼の数を減らすことができた。相変わらず、突きを入れる。手足をはたく暇はない。正面から向かってくるため、目の近くや鼻の近くに突きを入れることを繰り返す。的が狭いため当たりが甘くなり、一撃で戦意を削ることはできない。そのため、狼は繰り返し攻撃してくるが、こちらも軽い竹刀のため何度でも突きを繰り返す。
右側の狼がひるんだところで、正面の狼が進み出てきた。波状攻撃だ。こういう戦術的な行動をとれるところがすごいな、と内心感心する。しかし、正面はまずい。車のドアは正面からの攻撃には弱い。狼が当たってくれば、俺はドアごと押し込まれてしまう。俺は仕方なくドアの前に出た。正面の狼の中で、奥にいる最も大きく、最も毛並みの白いのがボスだろう。とにかくボスを叩きのめして、戦意を喪失させるのだ。そんな大雑把な作戦で、前に出て正面の狼に対峙する。ボス狼の前衛に4頭、横1列に並んでいる。前衛の奥にいるボスをたたくため、俺から走って間合いを詰め、前衛の狼2頭の間を抜けようとする。前衛狼はさすがの反応で俺に牙を向けてくる。そこを、切り返しの要領で左右に竹刀を振り、前衛2頭の口に竹刀を叩き込む。前衛2頭がひるんだすきを抜けてボス狼に対峙する。ボス狼は、少し下がりながらも、姿勢を低くしていつでもとびかかれるように準備する。俺もボス狼との距離を詰めながら中段に構えなおす。左右、後ろからほかの狼たちが、円を描くように俺に迫ってくる。ここは我慢比べだ。俺がボス狼と対峙している以上、周りの狼は積極的に俺にとびかかってくることはない。俺には、なぜかそんな確信があった。もちろん左右、後ろの狼が飛びかかってくれば、すかさず打ち払うように準備しながらも、気持ちは正面のボス狼に向ける。こういう場面は、居合道の稽古でやったことがある。居合道は型の稽古がほとんどだが、このような一対多数の場面を想定している。剣持先生の道場で居合も学んだ俺には、周りの動きも見えていた。
正面のボスがじりっと前に出てきた。周りの狼も少し距離を詰めてきた。俺は正面のボスに対峙してすり足で距離を詰める。半歩、1歩。そこで正面のボスが飛びかかってきた。周りの狼は動かない。俺が先に間合いを詰めたことで、周りの狼はボスの動きに合わせられなかったようだ。俺は竹刀を小さく振りかぶり、左足で地面をけり、右足を小さく強く踏みこむ。とびかかってくるボスと距離を合わせるためだ。そして、両手の小指・薬指をキュッと締めながらボスの眉間をたたく。
「メーン!」
この戦いで初めて俺は声を出し、ボスの右側を大股で抜けていく。奇しくも狼の包囲を抜けた形になった。ボスは眉間を思いっきりたたかれて脳震盪を起こしたようで、そのままふらふらと2、3歩進んだ後、どうと横倒しになった。群れの狼たちもどうしてよいのかわからず、固まっているようだ。俺はボスの右を抜け、5歩ほど動いた後、狼たちに向きなおり中段に構え残心を示す。
「そりゃー!」
と気合を出すと、群れの狼たちは、尻尾を後ろ脚の間に入れてかがみこんだ。