生命の水
牢番は恐る恐る瀬月に盆を差し出すと、瀬月は湯飲みを左手に持ち、右手で土瓶の水を湯飲みに注ぐ。
それを飲み干すと、少し水を注ぎ軽く濯いで中身を捨て、また水を注ぐ。
「牢番、お主も飲め」
「へ、いやあの」
はじめて牢番の声を聞いたの、とさくら姫は思った。
「どうした、飲めぬのか。この瀬月の、白邸城の家老頭たる、この瀬月の注いだ水が飲めぬか」
わざと牢番が畏縮する言い方をして牢番に近づき、さくら姫を見えなくする。そして後ろ手で土瓶をさくら姫に渡した。それを受け取ったさくら姫は、はしたなくも土瓶の注ぎ口から水を飲む。
──ああ……、水とはこんなに美味しいものであったか…… ──
三日ぶりの水はさくら姫の喉と身体を潤していき、それを心地よく感じていた。
土瓶の水を、すっかり飲み干すと、瀬月の背中をとんとんと叩き、土瓶を後ろ手に渡した。
「そんなに遠慮せずともよかろうに」
牢番にそう言うと、湯飲みの水を瀬月は飲み干す。
盆に土瓶と湯飲みを返すと、瀬月はさくら姫に向き直る。
「少しは反省したようですな、ならば着替えと湯浴みを許しましょう。ですが出ることは相成らんですぞ」
わざとらしく威厳をこめてそう言うと瀬月は座敷牢のある地下から出ていった。それを見送ったあと、さくら姫は牢番に今日は食欲が無くなったから朝餉の膳をさげるように伝え、座敷牢の中の方に座り込んだ。
※ ※ ※ ※ ※
瀬月が戻ってしばらく経った頃、地下牢入り口から騒がしい声がしてくる。
「おどきなさい、これが見えないの。家老頭様からの許しよ。さっさと通しなさい」
「この方をどなただと思っているの。御年寄様よ、さっさと通しなさい」
聞き覚えのある声が近づく。
「姫様~、元気そうで何よりです」
「まったく、こんなところに居られるなんて、情けない」
格子の向こうに、たすきに前掛け姿の御年寄のきさらぎと、同じ格好で大荷物を背負った四十八女総組頭のおたかの姿が見えた。小柄のおたかは大荷物に潰されそうである。
きさらぎは、牢の鍵を開け中に入ると、さくら姫に小言の嵐をぶつける。
「瀬鳴家の姫たるものが、なんて所に居るんです。だいたい姫様は姫たる自覚が足りません、姫というものはですね……」
口ではそう言いながら、袂からそっと小振りに握ったおむすびを手渡す。
おたかはたらいと桶を牢の前に置くと、着替えを風呂敷から取り出し手ぬぐいも用意する。
そこまで済ますと水を持ってくると伝え、その場を離れる。
様子を陰から見ている牢番に水運びを手伝うようにきさらぎが言うと、おたかが引っ張るように牢番を外に連れ出した。
「今のうちです、お食べなさい。水も持ってきました」
「助かる。ありがとう、きさらぎ」
さくら姫は心から感謝のいただきますをすると、おむすびをぱくついた。
「これ、なんですその食べ方は。誰も盗りませんから落ち着いていただきなさい」
ひとつ食べ終わり、きさらぎから竹筒を受け取り水を飲んで人心地つき、ふふっと笑う。
「何が可笑しいのです」
「久し振りにきさらぎの握ったおむすびを食べての、子供の頃を思い出した。ようこうやってお小言をもらいながら食べたの」
「もうずいぶん昔の事ではないですか、まったくいつまでも手の懸かる娘だこと」
乳母も呆れながらも微笑み返す。
さくら姫は、さらにおむすびを食べながら訊ねた。
「外の様子はどうなっておる。平助や林太、みなづき達の事や昌久院の話は耳に入っておるか」
「瀬月からですが、とりあえず牢番に見張りをつけました。それと水と食事はこれからはわたくしが持ってまいります」
それからきさらぎは声をひそめながら、分かっているだけの話を伝えた。
まず牢番の名は善兵衛といい、小石川家の長屋に住んでいるという。今のところ昌久院との繋がりは分かっていない。
平助は行方知れずのままで、林太は尾張城下にいる三冬家老のもとでよく働いているという。クラもまだ行方はわかっていないらしい。
「みなづきはどうじゃ」
「後の曲輪に住込みでまだいます。今のところ便りはありません」
「まさか」
「大丈夫ですよ、あの娘が簡単にやられるわけありません。なんといっても姫様の守り役をしてたんですから」
──きさらぎといいみなづきといい、何故わらわを引き合いにだすのだろう、まるでわらわがよっぽどみたいではないか──
さくら姫はそう思ったが、今は腹ごしらえの方が大事であり最後のおむすびを食べ終えて水を飲む方が先決であった。
「さて、あとは水浴びをして着替えましょう。よう我慢なさいましたな」
「正直、今すぐ出ていきたいところじゃがな」
今出ていってしまっては瀬月の苦労が水の泡となるので、さすがにさくら姫は我慢する。
行水用のたらいを牢の中に入れていると、ちょうどおたかが手桶にいっぱいの水を持ってきた。
「ほら、あんたもさっさと持ってきて」
間違いなく父親くらい歳上の牢番をあごで使っている。さすがは四十八女を束ねるだけあって迫力がある。
手桶の水をたらいに入れ終わると門番をしかりとばす。
「ほら、さっさと出てきなさい。あんた姫様の柔肌を見たら、瀬月様からでなく領主様から処罰されるわよ」
その言葉を聞いて牢番は慌てて外に出ていく。




