第9話 「感染」
新年初投稿です。
本年もよろしくお願いします。
強くなりたかった。
誰よりも、強くなりたかった。
どんな奴にも、負けたくはなかった。
だから努力した、強くなる為の努力を。
最初は、薄ぼんやりとした気持ちだった。
切っ掛けは、子供の頃に好きだった、バトルものの漫画・アニメの登場人物や、テレビの中で活躍する特撮ヒーローに憧れただけに過ぎなかった。
とはいっても俺が憧れていたのは、悪の組織や怪物と戦って世界を守る、所謂“正義の味方”という存在ではなく、とにかく圧倒的な強さで敵を無双する“最強”の人間だった。
“最強”の男となって、世界中の人間から注目され、称賛されたい。
そんな、何よりも無垢で、どこまでも単純で、ひたすら純粋だったかつての俺は、強くなりたいという願望を叶える為に、早速親に頼み込んで近所の空手教室へと通い始めた。
小学校三年生ころから始めた空手だったが、自分なりに一生懸命稽古に励み、努力を重ねてきたと思う。
その甲斐あってか、中学・高校・大学へと進みながらも空手の研鑽を怠らなかった俺は、試合にも数多く出場して優秀な成績を残し、小さい大会ならば何度か優勝した事もあった。
世間一般的なレベルで考えれば、俺はある程度には“強い”人間だったのかも知れない。
だが、それがどうした?
俺が望んでいたのは、“最強”の男だった筈だ。
可能な限りの努力はしてきたし、空手の才能だって多少は秀でていると自覚していたが、結局そんなものは只の慰めにしか過ぎなかった。
俺がどんなに努力を重ねても、武の“才能”に優れた人間には決して敵わない。
それは空手の世界だけでなく、全ての武道や格闘技に通じる只一つの真理だ。
“最強”という名の栄光を勝ち取れるのは、天才のみに許された権利であって、凡人には決して届かない夢物語に違いなかった。
結局、俺が子供の頃に抱いた願望は只の妄想や戯れ言に過ぎず、それよりも目先に迫った自分の就職先の方が、遥かに大切で切実な問題となっていた。
俺だけに限らず、誰しもが大人になるにつれて幼かった時に描いた将来の理想は次第に色褪せ、自分に折り合いをつけた堅実な人生を歩むことを強制されるのだ。
無論それは、一部の天才を除き、俺のような大半の凡人に限定された話ではあったが。
ともあれ、それが普通に大学を卒業し、普通に会社に就職した俺の、普通な結論に他ならなかった。
そんな俺に転機が訪れたのは、入社してから丁度一年が経過した頃だった――
うんざりするような猛暑が続く八月の真夏日、世間は中国から始まった新型ウイルスのせいで半狂乱の騒ぎとなっていた。
そしてその騒ぎは一向に収束することなく更に広まり続け、とうとう日本国内に到達した未知の強力な伝染病は、深刻な社会問題となって多くの混乱を引き起こしていた。
連日連夜、テレビやネットにも『アウトブレイク』だの『パンデミック』だのという物騒な単語が並び立てられ、俺も少なからず不安を募らせていた。
だが俺を含む大勢の日本人には……もっといえば、話題となっている病気の当事者ではない人間にとって、猛威を振るう新型ウイルスなどは未だ遠い存在であり、各メディアで頻繁に取り沙汰される恐ろしい話題も、所詮は他人事という実感しかなかった。
だから無事な人間は皆、外出する際はどんなに暑くても必ずマスクを着用するように気を付けていたが、個人レベルの予防など所詮その程度のものであり、また危機意識も薄かった為にヒステリックな騒ぎまで発展することなく、気だるい日常生活は続いていた。
――少なくとも俺の身の回りは。
そんなある日の事。
いつも通り会社に出勤し、新規開拓のテレアポや名刺回収といったノルマをこなしつつ、更には飛び込みの営業並びに、出先で顧客との商談を終えてから自社へ戻ると、それから日報報告の作成及び提出を行う。
そして報告会が終われば、今度は現在抱えている案件の資料作成に取り掛かり始め、午後六時の定時など何の意味も無く、当たり前に残業をこなしていると時刻はあっという間に午後九時半を過ぎてしまっていた。
何とか残務処理を終わらせてから午後十時には退社し、最寄り駅まで電車を乗り継いだ後、疲れきった体を引きずるように一人住まいのアパートへと徒歩で帰宅する。
ここまではいつも通りの日常だった。
まあ、俺の勤め先の会社や顧客先の会社でも、病気で欠勤している社員がちらほらと散見されるという話題が上る以外は、全くいつも通りの日々に違いなかった。
でもその事件が起こったのは、自宅まであと少しという場所だった。
そいつは、薄暗い夜道でひっそりと佇んでいるように見えた。
夜も更けた住宅街に人通りは全く無く、頼りない街灯の明かりだけが、そいつを朧げに照らし出していた。
――酔っ払いか?
最初の印象はその程度のものに過ぎなかった。
平日の夜にいい気なもんだと思いつつもそいつの横を素通りした俺は、ライトグレーのスーツを着た中年と思しき男が、振り子のように小さくゆらゆらさせながら、体をこちらの方に向けて突っ立っているのを目撃した。
不審に思いながらも仕事で疲れ切っていた俺は、面倒ごとに巻き込まれたくない一心で、その場からさっさと立ち去ろうと歩調を速めた。
しかしそれが失敗だった。
形容し難い凄まじい悪臭が鼻を衝くと同時に、そいつは怖ろしい唸り声を発しながら、いきなり俺に襲い掛かって来たのだ。
突然の出来事に、俺は咄嗟の反応が出来ず、そいつに左手を噛まれてしまう。
無意識に差し出した左手の甲に深々と歯が喰い込むと光景と、それに伴う激痛が驚愕に呆けていた俺を一気に覚醒させた。
「シッ!」
瞬時に鋭い呼気を発しつつ、俺は脊髄反射でボクシングのボディフックの要領で右の鉤突きを放ち、相手の左脇腹へとめり込ませる。
手加減など、全く考えていなかった。
通常、筋肉の薄い脇腹を狙われれば、相手側の動きは大抵止まる。
ましてや、社会人になってから空手とは疎遠になってしまっているものの、それでも幼い頃からずっと鍛え続けてきた技術と肉体は、そう易々と消え去るものではない。
それだけに、目の前のいる薄い髪のくたびれた中年男性が、渾身の力を込めた俺の突きをまともに食らえば、間違いなく無事では済まない筈だった。
当たった拳の感触からも、相手の肋骨は骨折を免れてはいないと思えた。
ずぶの素人であればこれで終わるだろうし、例えそうでなくとも、俺の左手甲に噛み付いている中年男の顎が緩むのは確実であった。
しかしそれは、俺の思い違いでしかなかった。
サラリーマンの男は、一切苦しむ様子など見せず尚も俺の手をキツく噛み続け、そればかりかその状態のまま、薄気味悪い呻き声を発しながら両手を滅茶苦茶に振り回して、俺の顔面を引っ掻いてきたのである。
かっと頭に血が上るのを俺は感じた。
そこから先は、一呼吸の流れだった。
左足を大きく一歩踏み込んで、噛み付いている相手との間合いをほぼゼロにする。
同時に、腰を回転させながら鋭角に曲げた右肘を水平に振るう。
狙いは相手の側頭部を狙った、右の肘打ち。
振り猿臂という危険な空手技だ。
ごっという鈍い音と共に、中年男の頭部が揺れる。
右肘が左側頭部にめり込んだ瞬間、相手の顎が緩み、噛まれていた左手が抜けた。
深く沈んだ歯のせいで、俺の左手の皮膚と肉片の一部が千切れて、血が溢れ出る。
頭と怪我を負った部分が、燃えるように熱かった。
反撃の機会を確保した俺は、素早く膝を抱え上げると、躊躇することなく左の前蹴りを男の腹部に打ち放った。
これも中年サラリーマンはまともに食らい、相手の痩せた躰は後方へと流れ、よろめく。
絶好の間合いだった。
「シュッ!」
短い息遣いと共に、瞬く間に蹴足を引き戻した俺は、地面に下ろした左足を軸に回転し、渾身の右上段廻し蹴りを矢継ぎ早に仕掛ける。
足首近くの脛の部分が、中年男の首を刈り取るように直撃し、そのまま蹴り抜いた。
クリーンヒットの衝撃に耐え切れずに、中年サラリーマンが投げ出されるように頭から地面へと倒れ込む姿を、俺は半ば呆然と見ていた。
改心の当たり。いや、余りにも鮮やかに蹴りが極まってしまった。
だから、急に不安になった。
冷静に考えれば、中年サラリーマンの行為は明らかにまともではなく、精神的な病気や薬・酒のせいで、こんな事をしてしまった可能性が高い。
そうなれば、何もここまで徹底的にやる必要はなかったのではないかと、俺はこの時になって漸く気付いたのである。
体格も俺の方が中年男より断然勝っているのだから、噛み付きを何とか振り解いて取り押さえるなり、この場から逃げ出すなりして、さっさと警察を呼べば良かったのだ。
最早後の祭りとなってしまったが、仮にこれで相手が死んでしまえば正当防衛どころか、最悪の場合、過剰防衛で尚かつ過失致死の罪に問われてしまうのでは、と俺は恐れた。
そう思い、俺は冷汗を流しつつ地面に倒れている中年サラリーマンの様子を窺う為に、慌てて男の傍へとしゃがみ込んだ。
その時に信じ難い光景を目撃してしまい、頭が真っ白になってしまった。
中年男の首が、奇妙な角度で折れ曲がっていた。
男性の白く濁った目玉は、未だに俺を睨んでいた。
ノーネクタイにスーツという出で立ちのサラリーマンは、開閉を繰り返す口から真っ黒な血と気持ち悪い粘液を、呻き声と一緒に垂れ流れ続けていた。
そして何よりも、男の後頭部の頭髪と頭皮はごっそり剥ぎ取られており、赤い肉片の合間からは白い頭蓋骨が露となっていた。
そんな状態にも係わらず、中年サラリーマンの男はギクシャクと不器用に手足を動かして、尚も起き上がろうとしていた。寒気を催す唸り声を上げながら。
堪え切れずに悲鳴を発した俺は、全速力で駆けてその場から離れた。
その時、警察や救急車を呼ぶという考えは、全く思い浮かばなかった。
只、目の前にいる怖ろしい化け物から逃げたくて、無我夢中で自宅へと両足を急かした。
いつまでも背後から追いかけてくる、恨みがましい呻きと唸りの声を決して聞くまいと、両手で耳を塞ぎながら。
噛まれた左手からは、焼けるような熱を伴った痒みが渦巻いていた――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
容赦なく降り注ぐ陽射しは、未だ弱まる様子がなかった。
暦上では十月も目前であるのに、日々は真夏日と変わりなく、炎天下のまま推移していた。
それは、生者の血肉を貪り喰う感染者が跋扈する死に満ち溢れた住宅街の中を、こそこそと動き回っている少女――黒崎楓と、若い男――宇賀達也の二人にとっては非常に過酷な状況であった。
既に時刻は、午前から午後へと流れていた。
その為、外の気温は益々上がっており、凡そまともに動ける環境ではなくなっていた。
少し前、達也の自宅に不法に侵入し、更に傍若無人な要求と振る舞いで家主の達也に危害を加えようとしていた三人組の男、その内の二人を打ち倒して残る一人を見逃した楓は、彼らを囮にして現場からの脱出を図ったのであった。
道中、獲物である生きた人間に引き寄せられていく感染者の群れと遭遇し、何度か危機的状況に陥った楓と達也の二人であったが、それでも何とかその場面を無事にやり過ごし、危険地域からの離脱に成功したのであった。
そして現在は、新旧が入り乱れる住宅密集地を抜けて、商店街へと続く緩やかな下り坂の麓まで進み、近くにあった小さな児童公園で小休止を取っていた。
楓と達也の休息場所は、公園脇に聳えている広葉樹……ケヤキの生い茂る葉が直射日光を遮断している日陰の空間であり、その樹の根本において幹に寄り掛かるような形で、二人は地面に腰を下ろしているのだった。
昼と夕の合間となる午後の時間帯、人通りの途絶えた歩道に面した狭小な児童公園の開放的な景観を、楓は何とはなしに見詰めていた。
街区の隙間に設けられた細長い敷地の端は緑地となっており、楓と達也はその場所に身を潜めているのだが、同公園中央付近には滑り台付きの木製ジャングルジムに始まり、その周辺には砂場、揺れる動物、ベンチなどの遊具が点在している。
(平時であれば、例えこんな暑さの中でも、この公園は子供達で賑わっていたのかも知れんな……)
ふとそんな事を思う楓であったが、日本を襲った謎の新型ウイルスによって平和の意義が失われた今、異様な静けさに包まれた児童公園内には、元気に走り回る子供はおろか人影など皆無であった。
抜けるような青空の真下で見るその光景は、使用されずに放置されている遊具と相まって、酷く寒々しいものに感じられた。
そんな風に思いを馳せていた楓であったが、次の瞬間、らしくない自分の思考に気付き、はっとした表情となる。
(ちっ、まただ…。また俺は何時の間にかくだらん事を考えている。これでは、素人とまるで変わらんではないか)
湧き起るぬるい思考と感情を認識した楓は、胸中で舌打ちしながら、苛立つ気持ちを示すように眉間に皺を寄せた。
『研修所』の執行者であり、本来の姿である“黒崎諒”という鋼の如き屈強な男に、寂寥感などという脆弱な感情の発露は有り得なかった。
だが不可解な現象によって、人形のように整った顔立ちと小さく肉付きの薄い華奢な肢体を有する“楓”なる少女へと“黒崎諒”の自我が転移してしまった事により、ここ最近妙に感傷的な思考が多くなっているのを、『黒崎楓』は自覚していた。
(恐らく、この身の本来の所有者が“楓”という少女であるが故に、共存関係にある俺の精神にも夾雑物が混入し、思考に妙な甘さが生じているのかも知れん。だが、くだらん雑念に心囚われていては、この地獄のような環境を生き抜くのは到底無理だ。早く本当の俺――“黒崎諒”の肉体に戻らねば、自ら墓穴を掘りかねんな)
『黒崎楓』の懸念。
それは、執行者としての合理的な思考を度々邪魔する、肉体の深奥部に内在している少女の、魂であり想念ともいうべき思惟と情動に他ならなかった。
しかも、冷静な判断の下、冷徹に物事を推し進めようとする時に限って、突発的に躰が不調に陥り、尚かつ少女の意志が明確な拒絶を示すのだ。
どういう理屈かは全く不明だが、少なくとも“黒崎諒”の自意識ではそれに逆らうことが出来ず、これまでは已む無く従ってきた。
しかし、一寸先は闇どころか冥府のような過酷極まる環境下では、そんな甘い考えや判断で行動を決定しようものなら、忽ち死に呑み込まれるであろう。
それ故、黒崎楓は危惧と苛立ちを募らせながらも、早急に本来の自分の肉体――“黒崎諒”を取り戻そうと、気を逸らせるのであった。
(あくまでも、優しくて情け深い己に陶酔したいというのならば、別に構わんさ。但し、それは俺抜きでの話だ。人食いの化け物だらけとなったこの馬鹿げた世界で、少女趣味に付き合うほど俺はイカれちゃいない。……そうだ。いざという時、この男を何の躊躇も無く見捨てることに関しては、特にな)
ジロッと睨め付けるような楓の眼差しの先には、背負っていた小型のデイパックを地面へと下し、中から500ミリのミネラルウォーターとビスケット缶詰を出している達也の姿があった。
一方、ペットボトルのキャップを開けた達也が、突き刺さるような楓の視線に気付き、その決して美男子とはいえない平凡な面を情けなく歪ませつつ、口を開く。
「え、えと楓ちゃん。一本しかない上に温くなっちゃっているけど、この水飲んでよ。それに、朝少し食べたっきりでお腹も空いているでしょ? このビスケットじゃ大してお腹も膨れないけど、何も食べないよりはずっとマシだと思うからさ……」
「……ありがとうございます。では、遠慮なく頂きます」
達也の差し出したペットボトル水とビスケット缶を受け取った楓が、丁寧に謝辞の言葉を口にするも、その目線と語調は氷のように冷たかった。
そんな凍りの怒りを醸し出す楓の態度を受けた達也は、暑さによる汗とは別な液体を額から滲ませて、恐る恐る声を発する。
「楓ちゃん、もしかして怒ってる?」
「………何がですか?」
「いや、さっきの事なんだけど…。あれは所謂ひとつの、恐怖が引き起こした不幸な偶発的事故で――」
「ああ成る程、先刻の話ですか。懸命に感染者から身を隠している緊迫した状況の中で、それを口実にして密着するだけならいざ知らず、不可解にも私の体臭を嗅ぎ回し、更には握っている私の手を気持ち悪く撫で回すだけに飽き足らず、挙句の果てには股間のイチモツを私の臀部に押し付けるという猥褻行為を敢行した出来事について、ですね。ええはいその件に関して私は何一つ含むところも無ければ怒ってもいませんがそれが何か?」
「すみません、ごめんなさい、もうしません。お願いしますから、ほんとマジで許して下さい」
無表情のまま、平坦な声音で棘のある言葉を羅列する楓に向かって、達也が清々しい程の勢いで平伏し、緑の地面へと頭を擦りつけながら謝罪を行うのだった。
「……そもそも何故、宇賀さんはあんな真似をしたのですか?」
照りつける太陽と蒸し暑い大気の中、下草に囲まれた木陰に入って休んでいる楓は、達也から渡されたペットボトルの飲み口に桜色の唇を付け、少しだけ中身の水を飲んだ後、静かに問い掛けた。
その語感は、先程の責めるような口振りではなく、あくまでも素朴な疑問を尋ねる風であった。
すると、伏し目がちに視線を下げていた達也が、おずおずとした態度ながらも、はっきりと言葉を述べる。
「俺、学生時代も社会人になってからも女の子と付き合った経験が全然なかったから、日本がこんな滅茶苦茶で最悪な状況の中でも、楓ちゃんと一緒に入られることが嬉しくて、つい気持ちが暴走しちゃったんだ。本当にごめんよ」
「よく意味が分かりませんが……」
達也の話す内容がいまいち理解出来なかった楓が、訝しげに眉根を寄せて言う。
「さっき民家の中庭に二人で隠れていた時、近くまで迫って来た感染者の姿に俺は情けなくもパニくっちゃってさ。楓ちゃんを巻き込んで危うく最悪の状況になるところだったのに、それでも君は俺を見捨てずに助けてくれた。そうさ、三人の暴漢が家に侵入してきた時だって……」
隣でちょこんと体育座りをしている、可愛らしくも艶やかなメイド服に身を包んだ楓の顔を真っ直ぐに見詰めながら、達也が言葉を向ける。
「…………」
美しい相貌に不思議そうな色を浮かべたまま沈黙している楓と、瞳に真摯な思いを乗せて語る達也の、互いの視線が交錯した。
ほんの僅かな間。
静謐に満たされた児童公園を湿った微風がそよぎ、静かに植物を揺らめかした。
真剣な表情で達也が、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「楓ちゃんが俺の命の恩人なのは間違いない。けど、それ以上に強い気持ちがあってさ」
「強い、気持ち?」
「うん。言うべきか悩んだけど、逆にこんな時だからこそ、ちゃんと口に出して伝えるべきだと思うから今言うね。俺、楓ちゃんが好きだ。初めて出会った時から一目惚れで、今だって頭は君の事で一杯なんだ」
「………は? 好き?」
達也が発した突然の愛の告白に対し、楓は意味が飲み込めず、目を丸くしたまま呆然とした口調で『好き』という単語を反復する。
それに対し、達也が大きく顎を引いて頷きつつ、ずいっと躰を楓のすぐ傍まで寄せてから、熱を篭めた声音で囁いた。
「ああ。こんな冴えない俺だけど、楓ちゃんを想う気持ちは真剣だし、滅茶苦茶ってぐらい本気で好きなんだ。君にとっては迷惑な話かも知れないけど、例えこの先どんな事があったとしても、その想いだけは絶対に変えるつもりはないよ」
「…宇賀さんの言っている事が、本気で理解出来ないのですが……」
「まあ、確かに突然過ぎだよな。でも、凄く強い楓ちゃんはともかく、愚図な俺なんかじゃいつ死んでもおかしくないから、悔いを残さない為に今告白させて貰ったんだ。その代わり、心臓がヤバいくらい乱れまくっているけどね」
「……そう、ですか」
茹で上がりそうなぐらいに面貌を真っ赤に染めて喋る達也に対し、困惑に表情を歪ませた楓は、どうにも歯切れの悪い返事をしながら思わず考え込んでしまう。
(好き…、だと? 一体何のつもりだ?)
真剣な眼差しを向ける達也から、さり気なく目線を外した楓の脳裡には、不可解な疑問符が渦巻いていた。
何となくざわついた気持ちを抱えながら、更に楓の思考は深く沈む。
(胸の内に溜め込んだ世迷言をほざくのは奴の勝手だが、正直今回の言動に関しては突飛過ぎて全く意味不明だ。大体『好き』という言葉の概念からして理解不能だ。もしかすると、体型の凹凸を著しく欠いた少女たるこの身と性交渉を試みたいが為の、必要な言い回しなのか? ……無論、そんなものは御免こうむるが、それにしてもさっぱり分からん)
片眉を持ち上げ小首を傾げた楓が、重い溜め息を口腔から吐き出す。
そもそも黒崎楓には、特に愛する男女間で囁き交わされる『好き』などの甘く切ない単語の意味や概念を理解し、許容出来るだけの感受性が、ものの見事に欠落していた。
何故ならば、日本社会の暗部に巣食う悪人に牙を突きたてる“狼”として、幼少より特殊な環境化で徹底した訓練を施された“黒崎諒”という正義の執行者にとって、男女間の恋愛や異性に抱く複雑怪奇かつ不合理な情緒を解する素養などは、贅肉であり余分な存在でしかないのだ。
だからこそ、“黒崎諒”の恩師たる先生を始め、『研修所』の教官らは世間一般に出回っている全ての娯楽を、教え子から遠ざけ堕落を戒めた。
夢や希望、友情や愛情といった甘い言葉に踊らされ我を失えば、気高き狼は迷妄な飼い犬へと堕する。
牙を失った狼ほど、見るに堪えなく救い難いものはない――という教訓が、黒崎楓の魂魄にまで刻み込まれているが故に、達也が告げた『好き』という言葉と気持ちが、真に彼女へ伝わることはなかった。
――尤も、識閾下の“楓”という少女とって、達也の告白は十分過ぎる程の効果を及ぼしていたのだが。
「……一つ、聞きたいのですが」
黒目勝ちに澄んだ双眸を再び達也の顔に戻した楓が、呟くように問う。
「ん? 何だい楓ちゃん」
達也が、口元にぎこちない微笑を浮かべつつ答えた。
「私の事を何も知らないのに、どうして宇賀さんは私を“好き”だと言えるのですか?」
「うーん、自分でも密かに驚いているんだね、実は。ぶっちゃけ理屈じゃなくて、直感的なものかな。ほら、有名なビビビと来たってやつさ。確かに俺は楓ちゃんの事を何も知らないけど、これから少しずつお互いを知っていけば問題ないんじゃないか? 記憶喪失の件もあることだしさ」
「………やはりよく分かりません。ですが、この際だからはっきり言っておきます。私と宇賀さんの間に特別な関係を構築する必要は皆無ですし、私に妙な期待をされても迷惑ですから。記憶喪失の件も心配無用です」
「あー…、うん。まあ、そうかも知れないね」
辛辣ともいえる、歯に衣着せぬ言辞を告げる楓であったが、一方の達也は想いが通じずに落胆した風もなく、まじまじと楓を見返しながら苦笑気味に声を掛ける。
(何だ? 何故この男は、不思議そうな顔で俺を見ているんだ? 不可解な奴め)
今一つ理解には乏しかったが、どうにも心中に波立つような揺らぎを感じた楓は、微妙な不愉快さを滲ませつつ、達也の告白を一刀両断したのだった。
しかし当の達也は、気落ちするどころか「なるほど、ツンデレか……」などと呟いた後、より一層熱っぽい眼差しを楓に向けるのであった。
「そんな無駄話よりも、飲料水や食料品の調達について話し合いましょう。私達が目指す避難所は、平時であれば容易に辿り着くことも可能でしょうが、今はこんな状況です。万が一に備えて、近辺のコンビニかスーパーマーケットに立ち寄り、補給を行うべきです」
疑念を感じながらも、これまでの会話をさっさと打ち切り、表情をキリッと引き締め真面目に行動計画を話し始める楓であったが、実のところ彼女本人は全く気付いていなかった。
楓の顔が、火が噴出したように熱く、真っ赤になっている事に――
そして、いつもより若干早口で喋り続ける楓を見詰めながら、達也は激しい愛しさが改めて込み上げるのを感じたのだった。
商業地区に続く、メインストリート沿いから僅かに外れた小さな児童公園の周囲には感染者の影はなく、一時の間、楓と達也は気を休めることが出来た。
ほんの少しだけ甘酸っぱく、優しい時間が二人の間を緩やかに流れるのであった―――
結局、去年は更新出来ずに終わり、申し訳ございませでした。
年末年始は仕事が立て込み、全く執筆できませんでした。
私のお正月は5日からですね~(汗)
それはともかく、遅筆で更新も不定期ですが頑張って最後まで書き上げたいです。
何卒、今年も当物語をよろしくお願いします^^




