第8話 「迫る危機」
若干短めです。
眩い太陽が、世界を鮮やかな色に染めていた。
降り注ぐ陽射しに頭上を振り仰げば、広大無辺な青空の中に、くっきりとした白雲がたなびいている。
文句なしの好天ではある。だが、外で過ごすには熱気が強過ぎた。
ほんの僅かな運動でも、黒崎楓の額からは珠の汗が浮かび、シャープな輪郭に整った頬肉の上を次々と伝い落ちていく。
また、玲瓏な白肌で構成された、小柄で繊細な体躯からも止めどない汗が滲み出ており、着込んだミニワンピース型メイド服の背中を濡らしていた。
皮膚を焦がすような照り付ける日光により、楓はどうしてもうんざりした気持ちとなってしまうが、しかしだからといって一瞬でも気を抜けば、凄惨極まる“死”を招き寄せるのは嫌という程理解していた。
(逃げた男が上手く奴等の気を引いてくれたとは思うが、迂闊な三人組が招き寄せた騒ぎのせいで、この家は直に感染者の群れに飲み込まれる筈だ。一刻も早くこの場を離れねば……)
背中の方に見える箱型の一戸建て住宅へと、一瞬だけ視線を走らせた楓が思考を巡らす。
その家は、見知らぬ施設から脱出した楓が疲労困憊の末に偶然見つけた家であり、先刻まで過ごしていた場所であった。
しかし何よりもその家は、少女の後ろを黙々と付いて来る、平凡な顔立ちの若い男――宇賀達也の自宅に他ならなかった。
(逃走した一人と宇賀の家に残してきた二人の男達に感染者が群がっている間こそ、移動する最大の好機だ。尤も、逃げる途中で奴等に発見されれば、こちらが恰好の餌食となるのは確かだがな)
皮肉げな考えが脳裡を過ぎるも、直ぐにそれを打ち消した楓は目線を周囲へと戻しつつ、脅威となる者の気配を探る為に神経を尖らせる。
先程、物資を略奪しようと達也の自宅に不法侵入を行い、楓によって迎撃された三人組の男達の存在は、感染者達にとって誘蛾灯の役割を果たすのは確実であり、楓と達也にとっては逃走する絶好の機会となっていた。
だが同時に、もし途中で引き寄せられて来た感染者の群れに発見された場合、その時は瞬く間に包囲されて二人は逃げ場を失い、貪り喰われるのは必至であった。
宇賀宅の玄関から出た後、敷地内正面に建設されている門まわりの出入口まで、楓を先頭に二人は素早く移動を行った。
そして現在、開放された状態で放置されている門扉の傍まで辿り着いた楓は、身を屈めた姿勢で扉と連なっている塀の内側に張り付き、頭を出して周囲の様子を窺う。
幸いな事に、通りを感染者の群れが埋め尽くすといった、絶望的な状況には陥っていなかった。但し、それも時間の問題ではあったのだが。
「どうやらゾンビはいないようだね、楓ちゃん」
ぴったりと楓の後ろに付き従う達也も、少女に倣い塀から首を持ち上げて目を配り、道路や周辺住宅の状態を窺った後、声を潜めて言った。
「……ええ」
ひそひそ声とはいえ、いきなり喋り出した達也に対し、楓は頭に血が上るのを感じながらも、ごく小さな声量にて短く応答する。
音に対して脅威的な察知能力を有する感染者が何処にいるのかも不明な外先で、不意に声を発するなど自殺行為も甚だしい。
思わず達也の顔面を引っ叩きたくなる衝動を何とか堪えた楓は、代わりに険しい眼差しを達也に据えると、「喋るな」という風に人差し指を唇に当てて警告する。
一方、強張った硬い面持ちの楓を目の当たりにした達也は、直ぐに自分達が置かれている状況を思い出し、はっとした表情を浮かべた後、以降は余計な声を発しなくなった。
むわっとする熱気に包まれた外の世界は、異様な静けさを保っていた。
だが徐々に不穏な気配が周囲を満たし、圧迫感を伴った悪寒が楓と達也の身に降り掛かる。額から滑り落ちてくる多量の汗は、決して暑さのせいばかりではなかった。
――迷うな、行け。
凝集する緊張の中、意を決した楓が先陣を切って門扉の内側から道路へと駆け出す。
そしてその直ぐ後を、及び腰になりつつも必死に達也が追従する。
慎重に、だが可能な限りの最大速度を以って通りを突き進む。とはいっても、全速力で駆ける様な愚策は取らず、過度な疲労と注意力が散漫にならぬよう適切な速さで足を動かしていた。
移動を開始した直後、二人の進行方向とは異なるやや離れた場所から、怖気の走る咆哮が谺した。
咄嗟に直近の電柱の陰へと身を隠す楓と、あたふたとそれに続く達也であったが、獲物を捕捉した獰猛極まる感染者達が、物陰から襲い掛かってくるという事態には陥らなかった。
どうやら、遠方から響き渡ってくる吼え声は、別の人間を捕食者らが標的に定めたものであると、楓は判断を下した。
内心でほっと胸を撫で下ろした楓であったが、ふと達也の事が気になった為、後方を振り返って見ると、達也が口元に手を当てながら震えているのを視野に捉えた。
一瞬、張り詰め過ぎた緊張により恐慌状態に陥ったのではないか、と訝る楓であったが、躰は小刻みに震えながらも、楓の眼差しを受け止める達也の瞳の中には、しっかりとした理性の光が宿っているのを認めた。
そんな達也の眼を見て、楓は思う。
(素人を連れ歩くのは不安だったが、中々どうして、多少は肝が据わっているようだな)
緊張や恐怖によって躰が震えるのは、ごく自然な事である。
実際、如何に過酷な訓練課程を経た優秀な兵士であっても、死が隣り合わせとなる本物の戦場では、強靭な肉体や精神に関係なく、死という運命に対し神経をすり減らし恐れ慄くものだ。
現に、かつて『研修所』なる組織において、数々の過酷極まる任務を遂行してきた“正義の執行者”たる“黒崎諒”の自我を有する楓もまた、様々な緊張状態による負荷によって、その小さな体躯を小刻みに震わせていた。
要は心構えの問題である。
心が死の闇によって完全に蝕まれてしまえば、やがては正気を失い、身を滅ばすのは自明の理であった。
だからこそ肝要なのは、仮に恐怖や絶望で身を竦ませようとも、例え弱さや不安を抱えて震え怯えようとも、心だけは最後の瞬間まで屈服させてはならない事だ。
逆に其れこそが、纏いつく死神を払い除ける唯一無二の手段に相違なかった。
それを黒崎楓は嫌という程理解していたが故に、訓練を施された兵士でもない只の一般人である達也が、危機に直面した際の精神状態を危惧したのだった。
しかしそれが、只の杞憂に過ぎなかった事に対し、楓は多少なりとも驚きを禁じ得なかったのである。
(不可解な言動が目立つが、もしかすると芯の強い男なのかも知れん。尤も、感染者や略奪者等といったこちら側の“敵”と遭遇した際に、この男が俺の足を引っ張る可能性が高いところが懸念材料ではあるがな……)
目線を達也から外した楓が、一抹の不安を抱えながらも、再び移動を開始する。
勿論、電柱の陰から通りへと素早い動作で歩を進める楓の背中を、カルガモの雛のように達也が懸命に後を追うのだった。
そして二人が、音を極力立てぬよう、感染者に発見されぬよう、細心の注意を払いながら住宅密集地の狭い路地を進んでいた時、少しずつ遠ざかっていた達也の自宅の方から、ガラスの破砕音と共に、凄まじい男の絶叫が大気に轟いた。
その絶叫に反応したのか、間髪入れずに、あちこちから寒気を催す獣じみた怒号が湧き起り始める。
怒号は、二人が居る位置から程近かった。
一気に緊張が高まり、大きく息を吸い込みながら楓は、腰に装着している工具入れポーチに括り付けたナイフの鞘から、静かに刃渡り16センチの刀身を抜き放つ。
腰を落とし、瞬時に臨戦態勢へと移行した楓の姿を目の当たりした達也も、右手に持つ全長750ミリの六角バールを強く握り締める。顔面は蒼白となっていた。
(どうやら、宇賀の家に捨て置いてきた男共の下へ、化け物連中が集り始めたようだが、現時点でこの周辺の奴等も一斉に引き寄せられる状況は、あまり芳しくない……というか、寧ろかなり不味いな)
民家の塀を背にし、忙しなく視線を走らせた楓は焦燥の思いに駆られつつも、感染者から身を隠す場所を探していた。
丁度運悪く、楓と達也が今いる場所は遮蔽物の無い、幅員四メートルにも満たぬ直線の狭路であった。
当然この場所で感染者らと遭遇してしまえば、逃げ隠れもままならず忽ち発見され、前後から挟撃される事は間違いない。
それはまるで、“死”という名の大蛇が鎌首をもたげ、獲物である楓と達也を捕食せんと口を開く光景を想起させた。
(愚図愚図している時間はない。一刻も早く動かねば…!)
圧迫感を伴う無数の気配と唸り声は、事態の切迫を否が応にも知らせていた。
珠の汗が額や顎から滴り落ち、灰色のアスファルト路面を一瞬だけ濡らすが、しかしそれも降り注ぐ射日光と高気温の影響により、あっという間に蒸発してしまう。
暑さと極度の緊張により汗だくとなった楓は、ぐっと息を詰らせながらも必死に窮地を脱する方法を模索し、そして活路となる選択肢を見出す。
その一つとして、林立する住宅地帯の中、二人の現在地から僅か五、六メートル先の左側前方には、老朽化した平屋の庭付き日本家屋があり、取り敢えず其処に潜り込めれば、地勢を活用して危険を免れる事も不可能ではなかった。
だが逆に、逃げ込んだ矢先に感染者が待ち受けているという確率も高く、安全の保障など皆無であった。
他方、反対側となる右手の直ぐ傍には、安っぽい造りの軽量鉄骨二階建てアパートが存在しており、今直ぐその敷地内へと逃れることは容易かった。
だが其処は、がら空きとなっている舗装された駐車場が通りから丸見えとなっており、更には路面と敷地を隔てるフェンスブロックは高さも低く、身を隠して感染者をやり過ごすのは非常に難しいと思えた。
自分達が置かれている現状に対し、僅かな逡巡が楓の脳裡を掠める。
だが戦場での迷いは、己が命脈を自ら絶つ事と同義だ。
故に楓は、己の勘を頼りに選び、躊躇なく走った。
薄汚れたブロック塀に沿って全速力で進んだ楓は、正面入口まで辿り着くと、遅滞なく道路に面した小型の木製門扉に触れる。
幸運にも、古ぼけたその門扉に鍵が掛かっていなかった為、楓は労せずして木造平屋の中庭へとその小さな身を滑り込ませる事に成功した。
そして少女に続き、達也も迷いのない足取りにて敷地内へと転がり込んだ。
移動を続けながらも、先頭に立った楓が即座に眼前の状況確認を行う。
古ぼけた屋根瓦が目立つ民家の敷地内は狭く、門から少し距離を置いた玄関へと続く石畳以外の地面は、びっしりと緑に覆われていた。
しかも、どうやら此処の家主は造園作業には無関心だったらしく、八坪程度の広さがある中庭に点在している景石や植木の根本には、雑草が生い茂っていた。
荒れ放題ともいえる庭であったが、逆に身を隠すには好都合な環境であった。
――有視界内に敵影は無し。
目視と気配から楓はそう判断し、素早く身近の植木の中へと逃げ隠れ、地面へと身を伏せる。すると、草木が放つもわっとする緑の濃い匂いが、鼻腔を刺激した。
その直ぐ後に達也も楓に倣って、シラカシやソヨゴ、アセビなどの常緑樹やフッキソウといった常緑小低木が植え込みされている場所へと飛び込んで来る。
剪定されずに放置されている庭木と繁茂する下草は、地面に総身を横たえている楓と達也をほぼ完全に覆い隠していた。
人工的に造られた自然であったが、この逼迫する事態を回避する場所としては、間違いなく最適といえたし僥倖でもあった。
但し、一つだけ問題が浮上していた。
それはどういう理由か、身を伏せた楓の小柄な体躯の上に、達也が覆い被さるような形で隠れているという状態なのである。つまりは、うつ伏せとなった少女を守るように、若い男が後ろから抱き締めた形で潜伏している状況だった。
(こいつは、一体何を考えている!? こんな手榴弾の爆発から身を守るような体勢を取る必要など無いだろうが! ええい、邪魔だっ!)
この状態では楓の身動きは著しく阻害されてしまい、万が一、感染者に発見された際に緊急回避が出来なくなってしまう。
焦慮に白い美貌を引き攣らせた楓が、自分の上にいる達也を跳ね除けようと、無言のまま渾身の力を全身に込めたその瞬間、
「……守る、から。俺だって…、楓ちゃんのこと、守ってみせるから……」
耳元の方から途切れがちに聞こえてくる、達也の微かな呟きを聞き取り、楓がはっと気付く。
頭を横に向けた楓の視界に映じるのは、両瞼を固く閉じ、血の気のない顔で必死に言葉を紡ぐ達也の横顔であった。
(この馬鹿が……。無用な使命感から生じる不合理な行動など、返って害悪以外の何ものでもないというのに。しょうがない、ここは―――むっ!?)
無論、いきなり突拍子のない行動を取った達也に対する苛立ちは未だにあったが、それでもその行動は無知なものだったとはいえ、積極的な部類の失敗であろうという判断を楓は下した。
それ故、上に乗っている邪魔者を実力行使にて排除するのではなく、口頭で厳しく注意しようと、硬く冷ややかな表情で楓が口を開いたその時、濃厚な腐臭と死臭が二人を取り巻いた。
息を呑む楓と達也の眼前で、次々と感染者が姿を出現させていた。
老朽化した日本家屋の、磨りガラスが嵌め込まれた木枠の玄関引き戸を、内側から押し壊して派手に出て来たのは、家主と思しき老齢の男性だった。
引き戸と一緒に勢い余って倒れたものの、直ぐに起き上がった全身を黒い血に染めた老人は、血走った角膜と白く濁る水晶体の双眼は忙しなく動かした後、生者が奏でる断末魔のコンサート会場を目指し、低い唸り声を上げつつ、不恰好な小走りで無施錠となっている古い木製門扉から飛び出して行った。
感染者となった老人は、中庭に潜伏中の楓と達也の存在には、終始気付かなかった。
その事にほっとしたのも束の間、今度は年齢二十代後半と思料される上半身裸の男が、高さ二メートル程度のブロック塀を乗り越えて隣家から、二人が居る敷地内へと侵入してきた。
首筋から上部僧帽筋にかけて肉体は大きく抉られ、更にその傷口から多量の出血を伴いながらも、その若い感染者の動きが鈍ることはなく、凄まじく俊敏であった。
その姿と動きは、正に獰猛な野獣を彷彿させるものであった。
(やはり、感染者の身体能力には個体差が生じている、か。基本的には、肉体の損傷が比較的軽度ないし、若い世代の感染者が最も脅威となる運動機能を有していると考えた方がいいだろうな)
胸苦しさを覚える程の緊迫した状況下においても、楓は自身の“敵”となる存在の観察を怠らなかった。
達也の自宅に滞在していた時、楓はインターネットで感染者に関する様々な情報を入手していた。だがやはり、己が目で実際に確認しなければ判明しない事柄もあるのだった。
ネットに氾濫する情報を取捨選択、検証もせずに全てを鵜呑みにして、主観や客観的な判断を捨て去るなど、愚の骨頂も甚だしかった。
絶え間ない飢餓を満たそうと、生者の新鮮な血肉を求めて彷徨う感染者の男が、短距離走の選手並みの速度で敷地を横断し、楓と達也が身を隠している中庭を一気に駆け抜けていく。勿論、目指す先は御馳走が転がっている宇賀宅であった。
人肉食という苛烈な衝動を満たす為、全速力にて反対側のブロック塀の下まで辿り着くと、そのまま塀を乗り越えようと跳躍の準備に身を沈めた。
だが奇怪なことに、感染者の若者は飛び上がる寸前に急停止してしまう。
しかもそれだけなく、何かを探るように匂いを嗅ぎながら周囲を見渡し始めたのだ。
(不味い…!)
楓が焦る。
感染者の様子は、明らかに自分達の居場所を探すものであった。
生い茂る草木の枝葉とそれらが発する濃緑の香りの効果により、二人の存在は何とか感染者の視覚と嗅覚を誤魔化すことに成功していた。
現に、先程の老人の感染者は、全く楓と達也に気付く素振りすら見せなかった。
それにも係わらず、今回に限って目前の感染者の男は生者の存在を疑っているのだ。
故に、導き出される原因は、たった一つしかなかった。
――楓の顔の間近で鳴っている、かちかちというとても小さな音であった。
それは、極度の恐怖と緊張によって達也の胴震いが引き起こした、歯の根が合わず引っ切り無しに口腔が踊り狂う音響に他ならなかった。
一方で、そんな微々たる音を拾い上げる感染者の異常に優れた聴覚こそが、生存者にとっては最大の脅威となっているのだった。
そして、小心者の自分が発生させている微々たる音が、感染者の鋭敏な聴覚による探査網に引っ掛かり、事態が最悪の方向に傾きつつあるのを、達也は嫌という程認識していた。
だからこそ、全身から恐慌の冷汗を噴出しながらも、懸命に歯を食い縛って堪えようと、彼は必死の努力を行う。
しかし無理だった。いくら意志の力で恐怖を抑制しようとしても、体の震えは益々酷くなり、仕舞いには溢れ出す負の感情によって、目尻に涙まで浮かんでいた。
恐怖や焦燥、悔恨や自己嫌悪が綯い交ぜとなり、達也の心は激発する感情の波に翻弄されたまま、今まさに絶望の淵へと転がり落ちようとしていた。
……その時だった。
強く握り締めた達也の左手の上に、肌理細やかな小さい手が添えられたのは。
仄かな温もりが左手を通して伝わり、驚きに目を見開いた達也の視野に映ったのは、下から細い首を持ち上げて背後の達也を見詰める楓の相貌であった。
冬闇の如き冴えた楓の黒眼が、瞬ぎもせずに達也の瞳を覗き込んでいた。
大丈夫、心配するな――
と、楓の透徹なその眼差しは、力強く物語っていた。
決して、声に出して伝えられた訳ではなかった。
だが、怜悧な瞳に宿るその真摯な思いは確かに達也へと届き、ギリギリのところで精神の均衡を繋ぎ止める事に成功する。
添えられた楓の小さく細い色白の手を握り返しながら、達也は何時の間にか全身の震えが収まっていることに気付く。
尤も、相変わらず鼓動の方は痛いほど高まっていたが、それは恐怖や緊張とは全く違う、陽溜まりのような温かな恋心によるものであった。
(……全く、世話の焼ける奴だ)
この素人め、と胸中で毒づきながらも、楓は目線を達也から外して感染者の方へと向ける。
すると、付近に獲物が居る気配を察知した為、低い唸り声を発しながら付近を嗅ぎ回っていた感染者の男の動きが、再び停止した。
どうやら物音がしなくなった為、感染者の探知機能は完全に楓と達也の存在を失尾したようであった。
そして、上半身に欠損を抱えた感染者の男はあっさりと追跡を打ち切り、再度ブロック塀の真下まで駆け出した。
楓と達也の二人が固唾を飲んで経緯を見守る中、感染者は疾走の勢いを殺すことなくそのまま跳躍を行い、塀の最上段部分へと手を掛けて易々と乗り越えて姿を消したのだった。
それを見送った楓は、ふぅっと安堵の吐息を静かに吐き出した。
(どうやら、間一髪で危機は乗り越えたようだな……)
そう思いつつ、抜き身のままナイフを把持している右手を確認すると、柄をずっと強く握り込んでいた為、酷く強張っているのを楓は今更ながら知覚する。
いざとなれば戦う以外に道は残されていないのは十分理解してはいるのだが、それでもやはり感染者から発見されずに、危機を脱することが最善の方法であるの間違いなかった。
何せ、一体の感染者を相手にしているつもりが、あっという間に五体、十体に増えた多数の敵と戦う羽目になり、仕舞いには大群に包囲されるという窮地に陥るというのは、既に体験学習済みの事実であった。
またそれを裏付けするように、楓と達也の潜伏場所の周辺一帯からは、今も途切れなく疾走する感染者らの足音と咆哮が響き渡っていた。
今暫くは下手に動かず、この場で息を潜めてつつ留まるのが最も安全であるといえた。
咄嗟の判断で逃げ込んだ場所であったが、自然環境を活用した危険回避がある程度有効な手段であると分かっただけでも、楓には十分な収穫となった。
(……とはいっても、都会で自然の地勢を得るなど難しい注文だがな。それよりも――)
脳裡の片隅に、コンクリートジャングルなどという皮肉げな単語がほんの一瞬だけ掠めるが、その思考も先程からある事が気掛かりとなっていた為、直ぐに移り変わる。
楓の艶やかな黒い瞳は、左手の方へと据えられていた。
視線の先には、ずっと楓の手を掴んだままの状態で、しかも離そうという気配すらない感じられない達也の左手があった。
(何故こいつは、先程から俺の手を掴んでいるのだ。いや、その前にどうしてこの男は、この身に密着したまま動こうとしない?)
楓が、困惑と苛立ちを混ぜ合わせたような複雑な表情を浮かべる。
それもその筈、只でさえ外気温が高いのに、更に達也が覆い被さっていては、暑苦しいことこの上ないのだ。もっといえば、楓は男に密着されて喜ぶような性癖を有してはいないのである。
(まあ、結果だけを見れば、この状態だったからこそ、あの場を何とか無事に切り抜ける事が出来た訳だが……。いい加減離れろ、この戯けがっ!)
先刻のような極めて切迫した状況下において、仮に二人が別々の場所に隠れていたならば、達也は精神的負荷に耐え切れずに取り乱し、間違いなく感染者に発見された末、瞬く間に大群が押し寄せて来て喰い殺されていただろう。
無論そうなってしまえば、狭い空間の中庭で隠れ続けるのは不可能であり、楓もまた絶望的な情勢で決死の戦いに挑む必要に差し迫られた筈であった。
結果的には、素人である達也が無意識に取った行動によって、事なきを得たのである。
しかし楓の方は、どうにも複雑な気持ちを拭い去れずにいるのだった。
その時、盛大に眉根を寄せる楓がふと気付いた。
達也が楓の首筋に鼻腔を押し付けながら、呼吸を荒くしている事に。
更に、達也が握っている手を奇妙な動かし方で、楓の手をさわさわと撫でている事に。
そして何より、楓の小振りで柔らかなお尻に向かって、ナニか妙に硬いモノをぐりぐりと達也が押し付けている事に。
「……楓ちゃんの甘いにほひ最高。ちっちゃい手とお尻、感触最っ高……」
――きゃあぁっ?!!
心の深奥部で、火がついたような羞恥の悲鳴が轟く。
肉体の本来の持ち主である無垢な“少女”の精神的動揺が、黒崎楓の強固な表層意識を瓦解せしめた事により、成す術も無く動悸が暴発してしまう。
だが楓は、白い面を朱に染めながらも何とか自制し、咄嗟の反撃を行った。
「フンッ!」
「ぶほっ!」
楓の鋭い呼気と、達也の呻きが交差する。
眉尻を急角度で吊り上げ憤激した楓の肘鉄が、ハァハァしている達也の脇腹へとめり込んだのは、正しく必然の成り行きであった。
気が付けば、感染者の気配と足音は既に近くには無く、時間の経過と共に再び静寂が周囲を満たしていた―――
遅くなりました。
年内に、どうにか2話くらいは投稿したいです。
展開遅めですが、何とか早いペースで投稿してお話を進めていきたいです。
次話も何卒よろしくお願いします^^