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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
7/36

第7話 「分水嶺」

長いです。

後半部分において、非常に残酷な表現が出てきますので、苦手な方は何卒ご注意下さい。

※12月15日、誤字脱字などの修正を行いました。








 





「――分水嶺ぶんすいれい


 リビングのほぼ中央にて、彫像のように凝立ぎょうりつするメイド服の少女――黒崎楓くろさきかえでが、鋼鉄の如き無機質な声音で小さな呟きをし出す。

 そして、形の整った長い睫毛まつげに飾られた漆黒の双眼は、絶対零度の冷感を宿したまま、楓の眼前に立つ三人の若い男達へと向けられていた。


「は? ブンスイ…なに? おいおい、意味不明なこと口走ってんじゃねーよ」

「あれま、俺らが怖くて上手うまく喋れないのかな? ダイジョーブよ。可愛いにゃあ、俺らめっちゃ優しいからさ」

「そうそう、始めっから激しくなんてしないから安心してよぉ。つーか、調子に乗ってヤり過ぎちまって、この間の女みてぇに速攻ブっ壊れちまったらスゲェもったいねーし」


 華奢で小柄な楓を視線でなぶるように見据えつつ、毒々しく醜悪な言葉をそれぞれ垂れ流すのは、酷く危険かつ暴力的なやからであった。

 彼らは、白昼に堂々と住居侵入を敢行した上、更に家主である宇賀達也うがたつやに対し不当な要求を突きつけただけでなく、明確な害意すらも躊躇ためらいなく実行しようとしていた。


 その一人は、長身をゴールドのロゴ入りの黒色ジャージに身を包む、髪を茶色に染めたソフトモヒカンの男。

 もう一人は、肥満型の体躯に髑髏どくろの絵柄がプリントされた白地のTシャツを着用した、金色短髪の男。

 最後の一人は、メッシュ革の半袖レザージャケットを羽織った、中背痩躯(そうく)に長髪をアッシュグレーに染めた男。

 いずれも、およそ知性や理性とは掛け離れている、獣じみた粗暴な人間であった。


 その一方で、街の不良ゴロツキそのものの出で立ちと、嫌らしい笑みを顔面へ張り付かせた外敵である三人組を前にして、達也は全く身動きが取れなかった。

 凄絶な畏怖と圧力が達也の総身をその場に固着させ、金縛りを強いているからだ。

 しかし、からだすくみ上がっている原因は、三人の男達によるものではなく、この切迫した状況下ですら何の気後れや驚きといった感情の色を表さぬ、少女の存在に他ならなかった。


 現実的に考えて、小さく細い体躯の女の子が、自分より遥かに体格が勝っている喧嘩慣れした屈強な男三人に敵う筈などない。

 にもかかわらず、楓はそんな現実など一切意に介することなく、その場で冷ややかにたたずんでいた。

 最初は自己犠牲の精神か、しくは単純に状況が理解出来ていないだけかと案じた達也であったが、しかし直ぐにその考えは、異様な程に悠揚迫ゆうようせまらぬ態度の少女が垣間見せた鬼気によって霧散した。


 狼狽ろうばいが達也の胸中を駆け抜け、鳥肌が全身を埋め尽くした。

 何故ならば、達也に対して「動くな」と告げた楓が、目の前の三人を排除・・しようとしている事を、彼は否が応にも理解してしまったのだから。

 勿論達也は、そんな自殺行為にも等しい考えなど許容できる筈もなく、自らを犠牲にしてもそんな無謀極まる行為を止めさせようと思った。

 だがその刹那に感じた。いや、もっと正確に述べるのならば、理解不能ながらも本能がそれ(・・)を察知し認識した結果、達也の行動は完全に封じ込められた。


 ――楓の内側に潜む、名状し難い極めて異質で勁烈けいれつな“何か”を、肌で知覚したが故に。



「ま、いいや。取り敢えずそこのメイド、こっちに来いよ」


 薄笑いを口元に付着させたまま、右手の中にある六角バールを半ばで把持したジャージのソフトモヒカン男が、無防備な動作で真正面から楓へと近付く。

 子分を差し置いてリーダー格が先陣を切るその姿は、まるで極上の獲物を横取りさせないかのような浅ましいものであった。

 この時、傲岸不遜ごうがんふそん傍若無人ぼうじゃくぶじんな三人組は誰一人として気付いていなかった。己らが、既に死地へと足を踏み入れている事を。


 楓との距離を詰めたモヒカン男が、何の警戒心も抱かずに少女の肩に手を伸ばす。

 すると同時に楓は、その手から逃れるような形で左真横に、つっと身を引いた。

 ごく自然なその仕草は、傍から見れば怯えた少女が暴漢の手から逃れようと、悪足掻わるあがきをしているようにしか見えなかった。


「おいおい、逃げんなっての」

「おにーさんの妹ちゃんかな? 怖がんのも分かるケド、兄貴助けたかったら、ちゃんと空気読まなきゃ駄目だぞー」

「そうよ。あんまりオイタしてっと、メイドの妹ちゃんとダサい兄さんは二人そろって、きっついオシオキの刑だかんね? つか、俺としてはむしろそっちの方がイイけどさ」


 野卑な笑い声と共に、劣情に彩られた顔を楓へと向けながら、三人はそれぞれ好き勝手なことを喋っていた。

 そんな彼らの弛緩しかんしきった姿は、油断という以前の問題であった。それもその筈、男達にとって眼前の少女は、勃起中枢を刺激する最高の玩具おもちゃという程度の認識でしかなかったのだから。

 故に、愚かな三人の男達は、楓がどうしてたいの位置を移動させたかなど、全くかえりみることはなかった。


 生と死を隔てる分水嶺は既に越え、死神は静かに、そして厳かに三人の運命を抱擁ほうようする。


「手間かけさせんな、オイ」


 ややれたソフトモヒカンの男が言い、尚も楓を掴まえようと、その長身で均整の取れた筋肉質の体躯を大きく動かした。

 バールを持っていない左手が、闇色の瞳をたたえた少女の方へと伸びる。

 そして男が歩を進めて移動したことにより、三人の立ち位置がまた微妙に変化した。

 そう。楓とモヒカンの男、金属バットを把持した金髪デブ、ピストルタイプのクロスボウを相手に向ける長髪の痩せとの相対位置が、奇しくもほぼ同一線上・・・・となった瞬間であった。


 また、無造作に歩を進めれば、当然重心は安定感に欠ける。

 それはつまり、ある程度の“力”の作用が加われば、容易にたいが崩されてしまう事実に他ならない。

 不意に、楓の小さな右手がすっと、ジャージのモヒカン男が伸ばしている左手に向かって差し出された。

 刹那、モヒカン男の両足が床から浮き上がり、長身が凄まじい勢いで宙を舞った。


 左脚を軸として小円の体捌きを行うと同時に、引っ掛けるように掴んだ楓の手が、素早く内回りに動き誘導する。

 やわらが描く鮮烈な螺旋らせんに付加されているのは、物理法則をも捻じ曲げる【念動力】という異能の《力》であった。

 その《力》が楓に合気道の『呼吸投げ』を模倣もほうしたが如き技を与えると、異端なる柔術が生んだ電光石火の竜巻は、壮絶な空中回転をモヒカン男にいた後、垂直落下式に床へと終着した。


 苛烈極まる投げを打たれたモヒカン男が、異常な速度で後頭部から床に落ち、酷く鈍い音がリビング内に響き渡った。

 生死は不明だが、現時点で再起が不可能なのは明らかであった。

 楓以外の誰しもが、突如巻き起こった有り得ない光景に思考が停止していた。

 だがその意識の空隙くうげきこそ楓が狙ったものであり、遅滞なく次の行動へと移る。


 姿勢を低く保ったまま、楓は地を流れるように疾駆し、最も近距離にいる金髪デブとの間合いを潰す。

 一方、突発的な状況に対して情報処理が追いつかないデブは、棒立ちの状態で唖然としていた。

 その隙を逃さず、虚を衝いた楓の躰が弧を描くように素早く動き、側面からデブへと肉薄する。


 瞬息、左の軸足を返し半身を切った楓が腰を落としたまま、右足にて蹴りを放つ。

 直線を引いて伸びる楓の横蹴りが、空気を裂いて金髪デブの右膝の関節部分を外側から打ち抜いた。

 膝関節の破壊を目的とした、下段横蹴り。

 体重に加え、圧縮した【衝撃波】をも預けたかかとの蹴り落としは、いとも容易くデブの右膝関節を砕いた。


 膝を蹴り砕かれたことによって、全身を支えきれなくなったデブの身体が、ぐらっと大きく前のめりにかしぐ。

 理解不能のまま、驚愕と激痛による絶叫をほとばしらせんと、デブが大きく口腔を開きかけた刹那、踏み込みと同時に繰り出された楓の左ショートアッパーが、その無防備な顎を正確に打ち抜き、頭蓋骨の内側に存在する脳を激しく揺さぶった。

 先程と同じく、【衝撃波】を拳にまとわせた凄絶な威力を伴った打撃により、顎のひしゃげたデブは苦鳴を発するいとまもなく、意識を刈り取られて気を失った。


 ここまでは、まさしく一挙動。

 瞬く間に、楓は主力であるソフトモヒカンの男と金髪デブの無力化に成功した。

 大人の男と幼い少女。荒事に慣れきった不良と小柄で非力な少女が、もしまともにり合えば間違いなく前者の方に軍配は上がるだろう。

 それ程までに、こと格闘戦において性別や年齢、身長と体重の差が生み出す影響は絶大であり、更に凶器を把持した三人の男に対し、徒手空拳の少女が単独で立ち向かうなど、無謀を通り越して最早完全に狂気の沙汰であった。


 だがその如何いかんともし難い実力差を埋めたのが、【念動力】と“兵法”の存在に他ならなかった。

 弱々しい外見と仕草で本質を偽装、そして敵をあざむき、油断を誘う。

 それは相手の心を封殺し、力をぎ落とし、戦闘の機会すらも与えない代わりに、己側は切り札である【念動力】を存分に用いて、最短最速で敵をほふる。

 つまり、孫子の兵法でいうところの『詭道きどう』を、個人闘争の戦術として実行し成功させた結果であったが、ここまでは楓の読み通りの展開となっていた。


 後は、残存する一名……飛び道具を装備している長髪の痩せの対処法である。

 その為の布石として、クロスボウの射線と視認を阻害する形になるよう、モヒカン男と金髪デブの立ち位置を上手く調節し、狙い撃ちを防ぐように楓が動いたのだ。


「は?」


 調子外れの声を喉元から吐き出す長髪の痩せは、この時点においても尚、目前の光景を受け入れられずに呆けた様子であった。

 しかし、先に倒した二人とは若干間合いが遠い為、楓が即座に躰を滑り込ませて打撃を与えるのは不可能な位置取りであった。

 加えて、小型矢ボルトが装填済みとなっているクロスボウの銃把グリップを握っている長髪男の指は、既に用心金の中の引き金(トリガー)に掛かっており、驚愕が照準を揺曳ようえいしているとはいえ、迂闊うかつに飛び込めば反射的に射られる危険性が高かった。


(――試してみるか)


 一瞬の思考の下、楓が意識を集中し【念動力】を発動する。

 視線は、弓床につがえてある小型矢ボルトに固定。

 不可視の“力場”が目標物である小型矢ボルト侵蝕しんしょくし、慣性に従って飛来する、矢の軌道そのものを改竄かいざんする。

 その工程を経た楓が右手を掲げた時、長髪の痩せが混乱に陥りながらもようやく少女の存在が脅威であると認識し、足を止めた楓に向けてクロスボウの狙いを定めた。


(遅い)


 冷淡に分析を終えた楓の目の前で、長髪の痩せが大した狙いもせずに、酷く慌てた様子で引き金(トリガー)を引いた。

 すると、引き絞った状態で固定されていた弦の張力が解放。

 伝播したエネルギーにより、アルミ製の小型矢ボルトが一気に射出される。

 精密射撃とは無縁の代物であったが、それでも射線はギリギリで楓の顔面を捉えていた。


 ビュッという風切り音と共に、矢が標的ターゲットへと真っ直ぐに突進する。

 小型とはいえ、近距離であれば十分な殺傷力を有するクロスボウの矢は、図らずも致命的となる楓の眼球へと到達し、射貫いぬく筈であった。

 ……本来であれば。


 しかし、その狙撃は楓によって防がれた。

 飛来する矢を、上げた右手で難なく掴み取ったのである。

 信じ難い光景であった。

 目にも止まらぬ速度で射撃された矢を近距離で、しかも素手で掴むなど、常人には到底不可能な芸当だ。

 にも係わらず、楓はいとも簡単にその行為を成し得たのである。


 ――無論それは、超人的な動体視力をもって楓が飛翔矢を掴んだのではなく、矢自体の軌道を調節・・して、右手の中へと誘導・・した結果であった。


 ひっという掠れ声を出して、長髪の痩せが震えた足で後退あとずさる。

 有り得ない光景を目の当たりにした長髪男が、瞳に恐怖の色を浮かべたまま、楓に視線を固着させていた。

 一方、脳が現実の認識を否定し、二度目の矢を放つ思考すら忘却している敵に対して、楓がその隙を見逃す筈もなかった。


 右手に掴んでいる小型矢ボルトを、素早く左手へと移し変える。その時、矢先ポイントを相手側に向けるよう、楓は逆手で把持した。

 その際、左手部分に対する神経の集約と、意識の集中を瞬時に実行。

 その後、目標を捕捉する。


 次いで楓が大きく振りかぶり、把持した矢をまるで投げ槍のように投擲とうてきする。

 狙点は、クロスボウの銃把グリップを握っている長髪男の右手、その上腕部分。

 小型矢ボルトは楓の左手を離れ、大気を切り裂きながら目標に向かって飛翔する。


 とはいっても、いくら先端部分が尖っているとはいえ、非力な者が行う投擲とうてきでは、その威力など当然高が知れているだろう。

 ……もっともそれは、普通・・の人間が、普通・・に飛ばせば、という前提の話ではあるのだが。


 右腕に衝撃が跳ねたことから、長髪の痩せは突如気が付いた。

 半袖から覗く自身の右腕に、プラスチック製の黒羽が奇妙な形で生えている事に。

 鈍い金色の矢柄シャフトが皮膚と筋肉を穿うがち、深々と突き刺さっている事に。

 傷口から滴る血液と共に、銃把グリップを握る力を失った右手からクロスボウが零れ落ちた。


「ぃ…っ、ひぃいっ……!」


 落下したクロスボウが床に衝突するがちゃっという音と、長髪男のおののき引きった悲鳴が重なった。

 目を剝いてパニックに陥る長髪の脳内には、同じ単語だけが暴れ狂っていた。

 即ち、『何故』とか『どうして』といった感情の言葉である。

 彼…、いや彼ら三人(・・・・)には、致命的ともいえる共通の欠落事項があった。

 だからこそ、己が窮地に立たされた時、容易く前後不覚の状態へと陥ってしまう。


 その理由を端的に述べれば、“覚悟”の問題であった。

 純然な目的であり、己を生かす唯一の手段として敵を“殺す”、黒崎楓。

 一方、若い三人の男達には確たる“殺意”が無かった。無論、己の欲望を満たす為に相手が結果的・・・に死ぬような場合でも、彼らは精神に何の痛痒つうようも覚えないのは確かだ。

 しかし、例えそれが“死”という同じ結果を辿たどるのだとしても、その心根と過程においては雲泥の差が生じる。

 そしてれこそが、まさしく致命的であり決定的でもあった。


 つまりは、こうだ。

 ――己を活かす為に相手を殺すのならば、相手から殺される事も同時に覚悟せよ。

 活殺と生死一如しょうじいちにょの覚悟を背負った者こそが、死線を踏破する“力”を宿すことが許されるのである。


 それ故に、何の心構えも有せず、自分の保身のことだけしか考えていない長髪の痩せは、床へと落ちていたクロスボウを無傷の左手で咄嗟に掴み上げると、そのまま脱兎の如く走り出し、楓の眼前からあっという間に姿を消した。

 勿論、リビングに倒れている仲間のソフトモヒカンの男と金髪デブをあっさり見捨てて、侵入経路である掃き出し窓から外庭へと、全速力で走り去った。


 恐怖と理性の臨界点を突破した長髪男は、この後己が身に降り掛かるであろう災禍さいかかえりみることなく、脅威の存在である少女から逃れる為、闇雲に外を駆けた。

 彼が振り返ることは、最後まで決してなかった……。




「か……楓ちゃん…?」


「終わりました」


 目前で展開された信じ難い光景の一部始終を目撃した達也が、動揺に面貌を強張らせたまま、狭窄きょうさくした掠れ声を発する。全身は小刻みに震えていた。

 それに対し、冴え冴えとした眼差しを達也の方へ向けた楓が、その整った顔立ちに一切の感情の色を表すことなく、淡々とした口調で答える。


「終わったって……」


 虚ろな眼で楓を見詰めながら、達也が上擦った声で喋るも、それ以上の言葉が続かなかった。

 すると達也から、意識を失ったまま床に倒れている二人の闖入者ちんにゅうしゃの方に視線を移した楓が、冷ややかに言った。


「はい。ですが、時間が有りません。速やかにこの家を出ましょう」


「え?」


 楓の言葉に対して達也が疑問の声を発するが、しかしそれには構うことなく、楓は動かぬ金髪デブの直ぐ脇に屈み込むと、何の躊躇ちゅうちょもなく衣服やポケットの中に手を入れて持ち物検査を開始する。

 達也がぎょっと驚く中、楓は手際良く相手が隠し持っている所持品を確認し、使えそうな物を次々と抜き取っていく。

 そして同様の事を、ジャージのソフトモヒカン男にも行った。


(どうやら戦利品は、全長30センチ程度の鞘付きシースナイフが一本と、ドライバー等の工具類が収容されたベルト付き腰袋が一個か。……バールや金属バットの長物は、貧弱なこの身では持て余すだろうから、大体こんなものだろう)


 工具用腰袋の付属ベルトに、サバイバルナイフに分類されている固定刃ナイフの鞘を通した後、ポーチが腰からずり落ちないよう限界までベルトを引き絞って躰に装着する。

 その際、床に落ちている全長750ミリの六角バールと金属バットについては、楓が自身の非力な短身痩躯を考慮した結果、持ち歩くには不便との判断を下した為、捨て置くことに決めたのだった。


「これらの道具類は、最早彼らには不要なので私が有効活用します。――お待たせしました宇賀さん、では行きましょう」


 機械のように無駄を省いた所作で、手早く支度を整えた楓が冷静な声音で達也を促す。

 少女の冷然とした双眸は、既に倒れている二人の男には向けられていなかった。


「楓ちゃん…。き、君は一体……?」


 呆然としながら、あえぐような口振りで達也が問う。


「……私は、黒崎楓・・・です。それ以上でもそれ以下でもありません」


「その説明で、納得しろと……?」


「貴方がどう思おうと、私には言えるのはそれだけです。それに今は、のんびり喋っているような時間の余裕はありません」


「…………」


 楓から向けられた酷く素っ気無い言葉に、達也は眉根を寄せてうつむき、そのまま押し黙る。

 その俯いた達也の表情が物語るのは、抑え難い不安と戸惑いの色であった。

 だが楓はそれ以上の言葉は重ねずに、貫くようなまなこで達也を一瞥いちべつした後、早足でリビングの出入口ドアの方へと進み始めた。

 身動ぎしない達也の様子を見ても、楓の歩調に一切の乱れはなかった。


 重苦しい雰囲気がリビング内を支配する中、


「別に強制するつもりはありませんし、どう行動しようと宇賀さんの自由ですが、もしこの場から動かなければ、確実に死ぬという事だけは肝に銘じておいて下さい。――では、さようなら」


 リビングのドア前でほんの一瞬だけ立ち止まった楓は、振り向くことなく無愛想な声音でそう告げると、ドアを開けて廊下へと姿を消した。



 ――達也は悄然しょうぜんとした表情で、リビングから出て行く少女の後姿を見詰めていた。


「……クソッ」


 口汚く罵る言葉が、無意識に達也の喉をいて出た。

 自己嫌悪と焦燥感が心でい交ぜなり、ざわめく苛立ちが達也の脳裡にくすぶり続けていた。

 目線はどうしても、この家に侵入し楓によって返り討ちにあった無頼漢ぶらいかんらの方へと移ってしまう。

 床に倒れたまま一向に起き上がる気配を見せぬ男二名は、只死んでいないというだけで、重傷であろうというのは否が応にも理解出来た。


「ああ、分かってる。分かっているけどさ……」


 吐き捨てるように、達也が声を漏らす。

 いくら己が映画やアニメ、漫画が好きだとはいえ、現実世界の常識と空想世界の理想をごちゃ混ぜにはしていない。いや、そもそもしたくても出来ないのだ。

 何故ならば、非現実もはなはだしい感染者ゾンビという存在が世の中に跋扈ばっこしたとしても、いきなり絶大な未知の“力”に目覚めた達也が、英雄ヒーローの如き活躍にて世界を救うご都合主義的展開など、現実では決して起こり得ないのだから。


 故に、小さな女の子が人殺しも辞さない凶悪な男達に平然と立ち向かい、尚且つ素手で瞬く間に倒してしまうなど、はなはだしく現実から乖離かいりした事実であった。

 しかしそれ以上に、達也が信じ難く恐ろしいと感じたのは、楓の存在そのものに他ならなかった。

 その凄まじい戦闘技能も、その鋼の精神力も、その冷徹な思考回路といった何もかもが、少女の有する華奢で可憐な外見からはとても想像だに出来ず、また異質に過ぎた。

 だからこそ、畏怖の念が達也の心身をすくませ、呪縛していたのである。


「でも、俺を助けてくれた……」


 だが直ぐに達也は、機械仕掛けの人形を彷彿ほうふつさせる、一切の感情を廃した楓の寡黙かもくな面影を思い浮かべながら呟いた。

 楓が何故、自分達の前に姿を現したのか。

 少なくとも、あれだけ冷静な状況判断が下せる少女が、むざむざ危険に身をさらしてまで、己を助ける必要性など無かった筈だ。

 達也に見切りを付け、さっさとこの家から脱出した方が、彼女にとっては遥かに合理的であっただろう。


(楓ちゃん、君は――)


 リビングから立ち去る間際に見た、楓の怜悧れいりな横顔を思い出す。

 冷酷に突き放す一方、達也の身を案じ、家を出るよう催促した少女。

 物語の主人公の如き、異常な強さを誇る姿から全く掛け離れた、儚げな印象が際立つ小さく細い肢体の慎ましやかな少女。

 全てが謎めき、その存在全てが矛盾した少女であった。


 だが、一つだけ確かに言える事があった。

 どれだけ楓が不可解かつ異常な存在だったとしても、まだ年端もいかない女の子であるのは揺ぎ無い事実なのである。

 現にリビングから出て行った時、達也から見えた楓の背中は少し……そう、ほんの少しだけ寂しそうに見えたのだから。


「……馬鹿野郎ッ」


 己を叱咤しったするように毒づくと、迷いを吹っ切った達也が床に落ちていたバールを拾い上げて、大股でリビングドアの所まで足を動かす。

 そんな彼の背中には、防災グッズが詰められた母の形見のバックパックが背負われていた。


(惚れたあのを守るって誓ったんだろ、俺! だったらビビッてないで、最後まで楓ちゃんの事を信じてやれよッ)


 奥歯を強く噛み締めた達也が、決意を固めてリビングのドアを開ける。

 そして、楓の後を追って廊下に足を踏み入れた時、達也が思い出したように後方を振り返った。その眼差しは和室の方へと向けられていた。

 ぐっと表情を歪めた達也が、万感の思いを込め、静かな声で言葉をつむいだ。


「母さん、行って来ます」


 ――行ってらっしゃい、たっちゃん。


 子供の頃から聞き慣れている、そんな優しい母の挨拶が、確かに耳朶じだに触れたような気がした。

 亡き母の想いを胸に、にじむ視界を手の甲で拭った達也は、今度こそ決然とした足取りでリビングを後にするのであった。



 達也が楓に追いついた場所は、玄関の三和土たたきであった。

 玄関のサムターン錠を慎重に外した楓が、開いた玄関ドアの隙間から、丁度外の様子をうかがっているところだった。

 その様子を見た達也は、騒ぎの発生源であるリビングの掃き出し窓とは真逆の方向となる玄関から、楓が脱出しようとしているのだと思い至る。


 そんな楓に向かって達也が声を掛けようとするが、直ぐにその言葉を飲み込んだ。

 少女の厳しい眼差しが、達也を射抜いたからである。

 その険しい面持ちに達也は一瞬気圧(けお)されてしまったが、しかし直ぐにそれは「音を立てるな」と注意を促すもので、決して「付いて来るな」といった意味合いでない事を察する。

 何故ならば、楓が立てた左人差し指を薄い唇に当てつつ、更に右手を動かして「こっちに来い」という風に、手招きをしているのを見たからであった。


 沈黙したままうなづきにて応じた達也は、そんな場合ではないと思いつつも、込み上げる喜びの気持ちを抑えることが出来なかった。

 そして間を置かずにして、メイド服姿の楓と形見のデイパックを背負った達也の二人は、有視界内に感染者ゾンビの姿が無いのを確認すると、慎重な足取りで素早く玄関から外へと出る。


 熱を伴った午前の日光は、死に彩られた街並み共に、家屋から脱出する二人の姿を容赦なく照り付けるのだった―――






 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 走り続ける。

 死から逃れる為、長髪を振り乱しながらも男は必死に足を動かし、只闇雲に住宅街を走り抜けていた。

 だが、愚かな彼は気付いていない。

 死者が支配した世界において、生者の芳香を撒き散らすその行為こそが、より無惨な“死”を招き寄せるという事に。


 そこは、T字の頭が月極め駐車場となっている交差点であった。

 駐車場の両脇には、民家とアパートがそれぞれ軒を連ねていた。

 人間が長時間全力疾走を続けるなど不可能だ。ましてや、痩せた長髪の男はスポーツ選手でも何でもない、只の一般人であった。

 だから、T字路交差点の真ん中に男が辿り着いた時は、激しい息切れと共に全身から汗が滝のように噴出していた。


 ぜぇぜぇと、両膝を曲げて荒い呼吸を繰り返す男の喉は、既に渇ききっていた。

 下がった頭部はアスファルト路面を見詰める一方、矢が突き刺さったままとなっている右上腕部からは、汗が混じった血が流れ続けている。

 男の気力と体力は、最早完全に尽きていた。


 九月末にも係わらず、外気温は連日高い温度を保ち続けていた。

 それ故に、うだるような暑さの中を全力で疾走すれば、たちまちフラフラになるのは必定である。

 早急に飲み物を欲した男が、どこかに自販機は無いかと思いおもてを上げたその時、おびただしい数の感染者ゾンビが己を取り囲んでいる事に気が付いた。


 流れ落ちる汗を拭う余裕すら失った男は、顔面蒼白になりながらも尚逃げようと、彼の人生の中において、最初で最後となる決死の努力を実行しようとした。

 だが思いも虚しく、疲労の限界に達した男の足はあっという間にもつれ、よたよたと僅かな距離を移動したところで、無様に転んでしまうという失態を演じる。


「ひ…、ひっ……ヒ…い……ヒッ」


 嗚咽おえつのような声を喉から断続的に吐き出しつつ、男は慌てて起き上がろうとするが、しかしその時には、耳元を獣じみた咆哮ほうこうが埋め尽くしていた。

 その瞬間、左手に持っているクロスボウを使おうと男は咄嗟に考えた。一体でも多くゾンビを倒し、囲みを突破しようと思ったのだ。

 その為には、弦を引き小型矢ボルト装填セットしなければならない。

 だが今は右腕を怪我している為、それら一連の動作が酷く困難となっていた。


 その事実に対し、男が震える唇を開いて罵りの声を上げようとしたその時、凄まじい力が四肢のあちこちに加わり、身動きを完全に封じられてしまう。

 いやそれどころか、伸びてきた無数の腕が四方八方に、男の身体を強引に引っ張り始めたのである。

 砂糖にたかありの如く、感染者が次々と男に群がり、極上の御馳走にありつこうと我先にと手を伸ばしていた。

 捕食者の手により、強引に仰向けにされた男は見た。

 どこに潜んでいたのか、付近の建物、駐車場、交差点といったあらゆる場所から途切れることなくゾンビが湧き出し、自分の方へと疾駆して来るのを。


 感染者の群れが捕らえた獲物を尋常ではない力で、尚且つ、各人好き勝手な方向に引っ張り合っている状態のせいで、男の頭髪や頭皮や額や頬や顎や首や胴体や手や足といった各部位は、瞬く間に傷み裂けていく。

 それと同時に、群がる者達から眼窩がんかの中に指を突っ込まれ、喉奥に腕を突っ込まれ、腹腔に手を突っ込まれ、強引に男の内部器官が引きずり出されていく。

 声帯を潰された男は、断末魔の悲鳴すら上げられぬ状態で、生きたまま文字通り八つ裂きにされた。


 只、男にとって唯一幸運だったのは、事切れる前に、自分の上半身と下半身が分断される光景を見ずに済んだことであった――




 ――ジャージのソフトモヒカンの男が意識を取り戻した時、眼前に広がっている光景は酷く現実感に乏しいものであった。

 もっとも、自分の仲間が食べられていれば、それも当然の事であろう。

 腐乱がいちじるしい者、全身を血塗れにした者、肉体の欠損が派手な者、それらの化け物達が仲間のそばにしゃがみ込んで、一心不乱に食事・・を行っていた。


 一方、食べられている側の仲間は、その筋肉と脂肪が詰った肉体の面積を減らしながらもまだ死んでいないようで、かっとまなじりを決したまま、微かな呻き声を途切れ途切れに発していた。

 体を痙攣けいれんさせている仲間の姿を視界に収めながらも、モヒカン男は自分が犠牲にならなかった事に安堵していた。


 そして、仲間が食われている隙に何とか逃げ出せないか、と男は思ったが、そんな淡い期待も瞬く間に霧散むさんしてしまう。

 何故ならば、まるで男が目覚めるのを待っていたかのように、リビングを埋め尽くす程の感染者ゾンビの集団が、じっと此方こちらを見ている事に男が気付いたからである。

 更には、永遠の飢餓に支配された捕食者達が、外庭の方から続々と津波の如き勢いで室内へと押し寄せて来る姿を目撃し、男は金縛りの状態へと陥ってしまった。


 死臭と腐臭を撒き散らしながら、自分に近付いて来る感染者ゾンビの群れを、男は凍りついた眼差しで見詰め続けることしか出来なかった―――













お待たせしました。

今年も後わずかになりましたね。

年度内に、何とか区切りのいいところまで物語を進めていきたいですね(汗)

寒いので皆様も健康には留意してお過ごし下さいませ~^^

次話も、何卒よろしくお願いします!

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