第6話 「招かざる客」
相変わらず展開遅いです、申し訳ありません。
※12月7日、後半部分少しだけ加筆修正しました。
一階へと続く階段を下りながら、宇賀達也はこれからの避難生活について考えていた。
すると直ぐに、震災時における非常用持ち出し袋が、自宅リビングの片隅に置かれていたのを思い出した。
先の東日本大震災を教訓に、生真面目だった生前の母がもしもの為にと、ある程度の防災グッズ一式をデイパックの中に詰め込んでいたのを達也は思い出したのだ。
(結局、最後まで母さんの世話になっちゃったな……)
今は亡き母の事を偲びつつ、達也は階段を下りきった。
スニーカーの靴底が、乾いた血痕が点々と付着しているフローリングの床を踏む。
達也は自宅内を土足で移動していた。
別に欧米の土足文化を真似た訳ではないが、感染者が溢れ返った現状ではいつ何時危機に見舞われ、自宅を脱出する羽目に陥るかも知れないが故、達也は寝室以外の場所では靴を履いて過ごしていたのだ。
そしてそれは、三日前にこの家に迷い込んで来た少女――黒崎楓も同じであり、現在楓は、達也の母親の遺品となるトレッキングシューズを借り受けていた。
身体の全部位が細く小さい楓にとって、それは若干大きめなサイズであったのだが、幸いな事に達也の母もまた足の小さな女性だった為、少女がそのトレッキングシューズを履くことが可能だったのである。
(家族は皆いなくなっちまったけど、その代わり楓ちゃんが俺の前に現れてくれた。死んだ父さんのワイシャツや母さんの靴、それに姉ちゃんのコスプレ衣装が、丁度あの娘の手助けになるなんて、何か運命的なものを感じるよなぁ……)
そんな微妙にズレた感想と共に、今は達也の自室でパソコンを弄っているメイド服姿の少女……芸術的な程までに容姿端麗でありながらも、その外見は中学生か下手をすると小学校の高学年くらいの楓の幼き顔立ちが、脳裡に浮かんだ。
(残念な俺だけど、惚れたあの娘だけは絶対守らなきゃ)
これまでの人生で、荒事など全くの無縁だった。
また過去に何か格闘技経験が有る訳でもなく、何より運動神経は悪い方であった。
だが、それでも達也は静かなる決意を胸に秘め、この地獄と化した世界で可憐な少女を守ることを誓う。
それは偏に、己が好いた女性と共に生きたいと渇望したが故の衝動に他ならなかった。
リビングへと通じる木製片開き扉の取っ手をゆっくりと回し、達也は出来るだけ物音を立てぬよう気をつけながら慎重にドアを開け、室内へと足を踏み入れた。
その途端、日当たりの良好なリビング内からむわっとする熱気が、ネイビーの七分袖シャツと黒色カーゴパンツに身を包む、達也の中肉中背の体躯に纏わり付き、汗を滲ませる。
九月末であるにも係わらず、未だに続く連日の猛暑による影響が、息苦しさを伴う程の高温を生み出していた。
「あちぃ……」
小さな声で愚痴を零しながら、達也は静謐に支配された約十二畳のリビング内を見渡す。
すると出入口ドアから見て左手側、ソファと大型テレビが配された場所の近くとなるリビングと六畳和室の取合に設けられた戸襖の前床に、布製のバッグ収納ケースが置かれているのを確認した。
そしてその中に、非常時の際に持ち運び可能な防災グッズ入りのデイパックが収納されているのは、既知の事柄だった。
(防災グッズは、これからの生活できっと必需品になるよな。大事にしないと)
考えつつ、達也はバッグ収納ケースの下へと歩み寄り、次いで中に収められている小型のデイパックを取り出す。
初めて手に取ってみたが、それ程の重量は感じられなかった。
中身を確認する為、達也は直ぐ傍にあるソファまで移動し、そこに腰を下ろした。そして、ソファ前に置かれてあるガラステーブルの上にデイパックを載せ、ジッパーを開けて中に入っている物を見る。
デイパック内には、非常用手回し充電ラジオや懐中電灯、予備電池、携帯用トイレ、笛、レジャーシート、レインコート、救急セット、タオル、ポケットティッシュ、石鹸、歯ブラシ、万能ナイフ、ドライシャンプー、ポリ袋etc……の各種防災グッズがびっしりと収められていた。
達也の母が、一般向けの災害時対応マニュアルのテレビや雑誌などを参考にして、思いつく限りの物を詰め込んだ成果であった。
但し食料品と飲料水に関しては、有名な舌出しマスコットキャラが描かれているビスケット缶詰が一個と、500ミリのミネラルウォーターが一本のみしか入っていなかった。
だが、そのビスケット缶とペットボトル水は賞味期限も最近で、しかも各物品の一番上に置かれている状況から、恐らくつい最近母が用意した非常食であるのは間違いなかった。
しかしそれ以上に達也の目を引いたのが、デイパックの中に入っていたメモ紙だった。
驚きながらも、達也は丁寧に折り畳まれたA4サイズのルーズリーフを開き、書かれている内容に視線を走らせる。
次の瞬間、手が震え、視界がどうしようもなく滲んだ。
『こんな手紙を書くのは初めてなので、正直何を書けばいいのか迷っています。
でも、これだけはたっちゃんに伝えなければと思ったので、書置きしますね。
多分この手紙を読んでいる時は、お母さんはたっちゃんと一緒にいないと思います。
避難所に行こうとした私を心配して、危ないから絶対行くなってたっちゃんが言ってくれた時、お母さんとても嬉しかったわ。
今は仕事をやめてすっかり自信を無くしちゃっているけど、昔から心が優しくて芯の強いあなたは、いつか必ず立ち直ってくれると信じています。
だから、これはお母さんからたっちゃんへの、たった一つのお願い。
世の中が大変なことになって、これから先、苦しい思いを沢山するかも知れない。
でもあきらめずに、例え一人になったとしても、たっちゃんは自分の足でしっかりと立って生きていきなさい。
その助けに少しでもなるよう、この荷物はお家に置いていきますね。
でも願わくば、パパやお姉ちゃん、そしてたっちゃんの家族みんなが無事に再会できますように。――――母より』
手紙にはこう書かれていた。
涙が止めどなく頬を伝い、何度も何度も手の甲で顔を拭った。
嗚咽が喉元を揺らし続ける。
咽び泣きながら、達也は宝物を扱うように細心の注意を払って、母が遺した手紙を形見であるデイパックの中に戻した。
「……ごめん、母さん。俺………」
掠れ消えそうな声音で、達也は謝罪の言葉を口にする。
母の無上の優しさが、痛いほど嬉しかった。
そして、母が見せた愛情に満ち溢れた厳しさが胸を打った。
だがそれ故に、母を助けることが出来なかった不甲斐ない己に対し、達也は悔悟の涙を流し続けるしか術を持たなかった。
ソファに座ったまま、達也が涙に濡れた面を上げ、正面の和室の方を見詰める。
母と楓の二人がキッチンで倒れていたあの日、達也は少女を介抱した後、腐臭と損傷の激しい母の遺体を苦労して和室まで運んだ後、散々悩んだ挙句、その遺体を押入れの中へと仕舞ったのだ。
最も大切な肉親に対し、自分でも随分と薄情なやり方だと自覚はしていたが、それ以上に酷暑が続いて腐敗の進行も早く臭いも相当酷くなっていた事から、それは仕方のない措置だったといえよう。
だが、それでもこうして一階に居ると、和室の方から漂ってくる腐敗臭が鼻腔に纏わり付き、思わず達也は眉を顰めてしまうのだった。
(この家を出る前に一度、母さんに会ってお別れを告げなきゃ。多分、これが最後になるだろうから。でも……)
正直に言えば、気が重かった。
仮に、綺麗な顔のまま病院のベッドの上で臨終を迎えたのならば、心置きなく亡き母の遺体に縋り付き、泣くことも出来よう。
しかし、現在和室の押入れの中に横たわっている母の遺体は、感染者による被害に遭い、状態は極めて凄惨なものであった。
現にキッチンから和室へと母を運ぶ際、達也は強烈な腐臭と損壊著しい遺骸の影響により、悲しみを凌駕する嘔吐きに悩まされた記憶が蘇っていた。
それでも達也は、緩やかに頭を振って否定的な考えを打ち消す。
どんなに酸鼻極まる状態であろうとも、彼女は自分の母親に違いなかった。
それ故、実の息子である達也は、母の姿と思い出を魂魄にしっかりと刻み込み、永遠の決別を済ませてからこの家を後にするのが筋だろうと思ったのだ。
ちゃんとした埋葬を行う余裕すらない現状において、それこそがせめて自分に出来る弔いの儀式であろうと考え、達也は決意を固める。
指先で涙を拭い、悲嘆の感情を追い払うよう軽く咳払いを行う。
そして、達也がソファから勢いよく立ち上がり和室へと向かおうとした、その瞬間。
後方から、ガシャンッという、ガラスの破砕音が室内に響き渡った。
驚愕した達也が慌てて振り返ると、カーテンを閉めたままにしてあるリビングの掃き出し窓のクレセント錠が、外からにゅっと伸びてきた手で開錠される瞬間を目撃する。
「なっ…!?」
頓狂な声を上げた達也が、不意の出来事のせいで金縛り状態となっている間に掃き出し窓は開放され、外庭から三人の闖入者が続けて、無遠慮にリビングへと上がり込んで来た。
一瞬、感染者が自宅に雪崩れ込んで来たかと思った達也であったが、直ぐにそれが違うことを理解する。
何故ならば、
「お、人いんじゃねーかよ」
「ゾンビじゃね?」
「いや、違うっしょ。こっち見て襲い掛かってこねーし」
彼ら三人が、それぞれ人の言葉を発していたのだから。
全員二十歳前後の若者であった。
一人目は、長身で均整のとれた身体を黒地にゴールドのロゴ入りのジャージに身を包んだ、髪を茶色に染めたソフトモヒカンの男。
二人目は、筋肉と脂肪がたっぷり詰ったがっしり型の体躯の上に、髑髏の絵柄がプリントされた白地のTシャツを着用した、短い金髪の男。
三人目は、中背痩せ型の体つきを包む、メッシュ革の半袖レザージャケットを着た、アッシュグレーの長髪の男。
眼つきが暗く、野生的というよりもむしろ暴力的な雰囲気を漂わせた三人組だった。
「き、君ら、いきなり何でこんな……」
デイパックを抱え込んだまま、達也が三人の若者ら対し、戸惑いを露にした誰何を行う。
白昼堂々と住居侵入されたという現実を上手く処理出来ず、咄嗟の行動にしては酷く危機意識が欠如したものであった。
「は? 何って、キンキューヒナンって言葉を知らねえのかよ、お前」
「俺らもさ、色々と命懸けなワケ。だから細かいことグダグタ言ってねーで、さっさと食いもんとか寄越しなよ、おにーさん」
「そうそう、例えばその手に持ってるバッグだとか。後、家に女の子とか居ない? 姉でも妹でも構わないからさ。俺らに任せときゃ安心よ?」
一方の三人組は、それぞれ口元に薄笑いをへばり付けて喋ってはいるが、眼は決して笑っておらず、寧ろ剣呑な色すら帯びていた。
何より、ジャージのモヒカン男は全長750ミリの六角バールを手に持ち、金髪デブは金属バット、長髪の痩せはピストルタイプの80ポンドクロスボウといった武器を把持している事から、彼らは十分過ぎる程に脅威となる存在であった。
そんな彼らを見て、達也は遅まきながらも自分の置かれた立場を理解する。但し、当然納得できる話ではなかった為、無意識に言葉が衝いて出た。
「い、今の世の中じゃ、君らも大変だって事くらい俺にも分かるよ。だからこそ、尚更こんな強盗みたいな真似なんかしなくても、生きている者同士で協力した方が――」
「うっせんだよ、てめぇッ」
達也の説得は、茶に染めたモヒカン頭の男による怒号によって遮られた。
他の二人は、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべて事の成り行きを見守っている。
悪意を正面から叩き付けられた達也が言葉を失すると同時に、どうやら三人組のリーダー格らしいジャージのモヒカン男が、凄みを利かせた声音で言葉を継ぐ。
「誰もお前ぇの許可なんざ求めちゃいねえんだよ! いいから黙ってそのバッグをさっさとこっちに渡せや。これ以上ゴネるんなら、ブチ殺すぞコラァッ」
「後、水や食いもんとかも頼むわ。それから居るんなら女もなー」
「言っとくけど、嘘付いてもテッテー的に家捜しするから無駄よ? まあそんときゃ、おにーさんフルボッコの刑だから覚悟してね」
怒声を浴びせられ竦み上がる達也を他所に、三人の若者は助け合いの言葉を口にするどころか、容赦のない理不尽な要求だけを突きつけてきた。
この未曾有の災害下において、そんな彼らの傍若無人な振舞いは、高いモラルで世界的にも有名な日本人の姿を根底から覆すものであった。
そんな信じ難い思いに囚われながらも、達也は目の前の者達が決して虚勢を張って脅している訳ではなく、厭になるほど本気だという事だけは理解出来ていた。
しかしだからこそ、達也は母の形見であるデイパックと、守ると心に誓った楓という少女の存在を、理性や知性からは最も縁遠い三人の獣にむざむざと引き渡すような真似だけはしたくなかった。
例えそれが、己にとって悲惨な結末を齎すことになろうとも、譲れない想いが保身を凌駕してしまったのだから。
「このバッグは、母の形見だから渡せない。後、家には俺の他に誰も居ないし、食料品や飲料水なんかも今日で底を突いた。……だから、君らが望むようなものはもうこの家に残ってないよ。けど、それでも何か他に欲しい物が有るっていうんなら、どうぞ好き勝手に持っていってくれ」
故に、達也は断固とした口調で言った。
頭の片隅で、自分が派手に時間を稼いでいる間、楓がこの騒ぎに気付いて上手くこの家から脱出してくれればいいな、と達也は考えていた。
他方、その言葉を聞いた若者三人組は一様に気色ばみ、酷薄に染めた三白眼を光らせて達也に視線を据えていた。
(ゾンビじゃなく、生きている人間に殺されるなんて随分と皮肉だよな。あーあ、折角これから頑張ろうって決めたのに。やっぱり俺は最後まで駄目な奴だよ。ごめんな、母さん)
知らず体が小刻みに震えていた。
怖かった、恐ろしかった。
土下座で命が助かるのならば、幾らでも頭を床に擦り付けて許しを請うだろう。
だがそれでもこのデイパックと楓の存在だけは、命に代えても譲ることが出来なかった。
そんな達也の矜持が気に入らなかったのか、リーダー格であるジャージのモヒカン男が、粘つくような重い声を発した。
「うぜぇ。クソがなに上から目線で拒否ってんだよ。もういい、お前死ねや」
「あらら、判決は死刑だってさ、おにーさん。馬鹿だねぇ、変な意地張らなきゃくたばる事なかったのに」
「じゃあまず、手足からいっとくわ。俺の勘だと、コイツぜってー女隠してるような気がするし、痛めつけりゃきっとその辺のことも話すでしょ」
酷く残忍な笑みを浮かべながら、長髪の痩せが専用の小型矢を番えたクロスボウを達也に向け、言葉通り四肢の方へと狙いを定める。
一方の達也は、震えたまま身動ぎ一つ出来ずにいた。
かといって、もし彼が破れかぶれで立ち向かったとしても、場慣れしているモヒカンとデブを相手に勝てる可能性など万に一つなかった。
ましてや、相手側は武器を把持しているのに対し、己は素手という状況であり、尚且つ達也は荒事が得意ではないのだ。
(頼む、楓ちゃん逃げてくれ!)
極度の恐怖と緊張により額から脂汗を滴らせつつ、達也が心中で祈りの絶叫を上げる。
そして射られた瞬間、二階に居る楓が階下の異変に気付くよう、大げさな悲鳴を上げる為の準備として、達也が口と鼻を使って可能な限り大きく呼吸を行い、肺に空気を溜め込んだその瞬間、
―――リビングのドアが、静かに開け放たれた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ガラスの破砕音を察知した黒崎楓が、達也の自室から飛び出し、靴を履いた状態で階段を下りると、リビングの方から複数の声が聞こえてきた。
様子を探る為、気配と足音を完璧に殺しつつリビングのドア前まで辿り着くと、楓はその小柄な体躯を縮めて耳をそばだてた。
『い、今の世の中じゃ、君らも大変だって事くらい俺にも分かるよ。だからこそ、尚更こんな強盗みたいな真似なんかしなくても、生きている者同士で協力した方が――』
『うっせんだよ、てめぇッ』
扉を隔てたリビング内から聞こえてくる、達也の弱気な声とその真逆となる怒気に満ちた罵声を耳に拾うと、楓は眉根を寄せながら思考を働かせた。
(成る程。侵入者は感染者ではなく、人間だったか)
得心する楓であったが、それも束の間の事で、意識は直ぐに現在の状況についての考察と、それに対する対処法へと流れる。
他方、その間も室内の方からは達也と侵入者らの会話が続いていた。
(声から判断するに、侵入者は合計三名。目的は物資の略奪といったところか。奴等の目的は非常に単純かつ短絡である事から、宇賀達也が要求に対し素直に従いさえすれば命の危険は然程ないだろう。となると、問題点は別なところになるが……)
そこまで考えたところで、楓は微かな溜め息を口から漏らした。
(いずれにしても時間が無い。俺の目的は『研修所』に行く事で、はっきり言ってしまえばそれ以外は全て瑣末に過ぎん。大体、現状における最善手は俺がこの家をさっさと脱出する事だろう。そうすれば、少なくとも奴等に宇賀達也を始末する口実を与えなくて済むし、取り敢えずの処は事態も丸く収まる筈だ)
息を潜め、低い姿勢を保ったまま楓は身体を後退させ、少しずつドアから離れていく。
(尤も、迂闊な彼奴等があれだけ派手な音を立てたのだ。遅かれ早かれ、この家は感染者の群れに包囲されるだろう。宇賀達也とっては不幸な事ではあるが、それでも助かる可能性も場合によってはゼロではない。何より、リスクを背負ってまで宇賀を助ける必要がどこにある? くだらん、そんなものは只の自己満足に過ぎん。これ以上付き合っていられるか)
至極、冷静に冷酷に冷徹に。
理路整然とした理屈の元、“黒崎諒”の意識はあっさりと達也を見捨てた。そこに良心の呵責などある筈もない。
幼少より、徹底的に“正義”の執行者として英才教育を受けてきた黒崎諒という名の男は、何の見返りを求めない無償の人助けなど、愚昧で愚劣極まりない行為だという事を各指導者から完璧に刷り込まれていた。
だから、彼にとって必要の無いものは全て見放し、切り捨てる。
それが道理。
だが一方で、彼女は全く違った。
そう、“楓”という名の少女は、人が本来有する“優しさ”や“甘さ”といった感情を十分に備えていた。いや、もっと的確な表現をすれば、人並み以上の感受性を宿していた。
それ故に、この事態は必然となる。
『このバッグは、母の形見だから渡せない。後、家には俺の他に誰も居ないし、食料品や飲料水なんかも今日で底を突いた。……だから、君らが望むようなものはもうこの家に残ってないよ。けど、それでも何か他に欲しい物が有るっていうんなら、どうぞ好き勝手に持っていってくれ』
『うぜぇ。クソがなに上から目線で拒否ってんだよ。もういい、お前死ねや」
『あらら、判決は死刑だってさ、おにーさん。馬鹿だねぇ、変な意地張らなきゃくたばる事なかったのに』
『じゃあまず、手足からいっとくわ。俺の勘だと、コイツぜってー女隠してるような気がするし、痛めつけりゃきっとその辺のことも話すでしょ』
理屈を感情が凌駕し、塗り潰した。
黒崎楓の歩みは途中で止まり、意識はこの家から独りで逃げ出すことを否と断じる。
更に、無数の思考や感情が入り乱れると同時に、頭痛と動悸が激しく楓の華奢な総身を乱打する。
「……ぐ…っ…!」
突然の不調により、滑らかな白磁の額から一気に噴き出した冷汗と共に、楓は僅かな苦鳴を口腔から吐き出す。
(な、何だ? どうして躰がこのような拒否反応を示す……!?)
馬鹿な、と苛立ち。何故、と不可解に思った。
だが、千々に乱れる心身とは相反して、躰はごく自然にリビングの方へと歩み、静かにドアを開け放つ。
その刹那、
――助けてあげて
と、魂の深奥部で誰かが嘆願するのを“黒崎諒”の意識は確かに聞いた。
決して納得などした訳ではなかった。
いや、寧ろ非常に不愉快で腹立たしく、癪に障ることばかりであった。
だがそれでも、そんな状態であったとしても。
(……全く、なんたる体たらくだ)
自らを侮蔑しながら黒崎楓は、己が意志で“正義”を下す為、何ら臆することなく、リビングに居並ぶ男達の前へと歩を進める。
不調はいつの間にか、何事も無かったかのように元通りとなっていた―――
リビングに楓が姿を現れた瞬間、達也と侵入者の三人組にあっては、それぞれ別の理由により唖然としたまま暫しの間、固まっていた。
いくら感染者などという非現実的な存在が蔓延る世の中でも、流石に濃紺のフリル付きミニワンピース型のメイド服を着用した中学生くらいの少女が、突如出現すれば誰だって驚きはするであろう。
だが直ぐに我に返った若者三人のリーダー格であるジャージのモヒカン男が、楓の姿と存在を改めて認めると、下卑た笑み浮かべながら口笛を吹く。
それを皮切りに、金髪デブと長髪の痩せも目に淫猥な焔を燃やし、舌舐めずりをせんばかりの欲望に満ちた表情を浮かべていた。
そればかりか、長髪の痩せの方は、気が早くも下腹部の前面を隆起させている。
「ハッ、よりによってメイドかよ。テメェ中々良い趣味してんじゃねえかよ」
「いいね、いいねぇ。ロリメイドってやつか、首輪とか超似合いそうじゃん」
「可愛いこの娘は、俺らで飼うってことで問題ないよね。めっちゃ調教してー!」
下品、下劣な話で盛り上がる三人の視線は、肩口まで伸びた艶やかな黒髪と澄んだ漆黒の瞳を有する、幼いながらも精緻に整った鼻梁と顔立ちの少女に釘付けとなっていた。
また、硝子の芸術品の如き儚さを宿す、色白の肌で構成された楓の薄い肉体を覆うのは、純白エプロンと黒ニーソックス、そして可憐なデザインのリストバンドが装飾として付加された露出過多のキュート系メイド服であった。
ただ其処に佇んでいるだけで、絵画の情景を想起させる程の美しき魅力が楓の外見にはあった。
だが、その少女の内部に、一匹の怪物が棲んでいる事など、当然男達は知らない。
その怪物の名は“黒崎諒”。
彼はこの時、既に全ての計算を終えていた。
故に、後はその瞬間を只待つのみであった。
「か、楓ちゃん……」
その時、達也が悲壮な顔つきで、楓に向けて言葉を紡いだ。
彼にとって楓は庇護するべき対象であり、このまま黙って三人の若者に少女が嬲りものされ辱められてしまうなど、絶対に許せる筈がなかった。
だから、達也が決死の覚悟にて楓を逃がそうと身動ぎしようとする。
だがその時、
「宇賀さん、動かないで」
ごく静かな楓の声音であったが、しかしそれは圧倒的な質量を伴い、達也の動きを完全に封じ込めた。
知らず、達也が生唾を嚥下する。
そして、その時になって彼は初めて気付く。
空気すらも凍結させるような楓の雰囲気に畏怖し、己の鼓動が痛い程に高まるのを。
しかし愚かにも、侵入者の若者らは誰一人としてその変化に気付けない。
「――分水嶺」
微かな楓の囁きは、果たして誰に向けられたものか。
それは、愚者を嘲る言葉であり。
それは、自らを戒める為の言霊でもあり。
それは、これから死に逝く者に手向ける言華でもあった。
―――そして、凝縮された時間が一気に動き出す。
お待たせしました。話が進んでいません。
キャラを掘り下げようとしたら、どうしても物語のスピードが犠牲になりますね。
その辺の調節を上手くやらなければならないのでしょうけど、未熟ですね私。
頑張って早く書き上げて、尚且つスピーディな展開も心掛けたいです。
なので、次話もよろしくお願いします~^^