第5話 「宇賀達也」
少々長い上に展開遅めです、すいません。
※11月27日、加筆修正を行いました。
<――である事から、現在ワクチン開発の目処は立っておらず、また感染者は生前の凡そ人間らしい精神からは完全に乖離しており、極めて危険な存在なのは間違いありません。それ故、彼らが例え大切な家族や愛しい恋人であったとしても一切の躊躇なく自身の安全を確保した上で、可及的速やかな“処分”を断行するべきです。そしてその勇気と犠牲こそが、明日の生存に繋がると言えましょう>
<しょ、処分ですか…。しかし博士、今“生前”とおっしゃられましたが専門家らの見解によりますと、確かに強毒性新型ウイルスに罹患した患者は、出血を伴った全身疾患によって心肺停止に陥るものの、それは一時的な仮死状態であり全脳死による完全な死亡ではないとの事です。現に患者は必ず心肺停止状態から蘇生した後、機敏な動作で行動するとの報告があります。以上の事から、罹病患者が生きているのは明白であり、先程博士のおっしゃった“処分”などという言葉は、全く以って不適切かつ非人道的な発言かと……>
<非人道的? ふん、私から言わせて貰えば、国家存亡にすら係わるこの重要な事件に対しても、甘い見通しで不都合な真実から目を逸らす、君のような詭弁と無責任な発言を弄する輩の方が余程非人道的……いや、救い難い非人間的な愚物であるのは間違いありませんな。いいですか、この未知のウイルスに感染し発症した者は、例外無く理性や人格というものを完全に喪失した上で、生きた人間を無差別に襲撃し恐るべき人肉食に及ぶのです。ええ、ええ、そうですとも。その姿は正しく、ホラー映画に登場する怪物、“ゾンビ”に他なりません>
<は? ゾンビ? 博士、貴方は一体ご自分が何を喋っているのか――>
<いいから黙って聞きなさい! 先程君が指摘したように、確かに感染者は厳密な意味で死亡しているとは言い難いでしょう。だが、良く考えてみて欲しい。意思疎通も図れず、捕食という制御不能な原始的本能に突き動かされたまま、無限の殺戮を繰り広げる厳然たるその脅威を前にして、それでも貴方は彼らを“人間”と認め、愛し救済する事が出来ると果たして本当にお考えか? その答えは否、断じて否だ。はっきり言おう、感染者は人を逸脱した“ゾンビ”という存在であり、彼らを救う唯一の方法は死という苦しみからの解放以外、他に道は無いのです。その最も効果的な手段として、活動の司令塔となる頭部を破壊して生命の源を絶つか、若しくは動きを封じる為に手足をバラバラに―――>
<えーっ! 番組の途中ではございますが!! ここで一旦CMを挟みまして………>
とある有名な討論番組のコメンテーターとして招かれていた、元国立感染症研究所の感染病理部部長の肩書きを持つ人物が放った過激な発言を、血相を変えた番組司会者が大慌てで遮ったところで動画は終了する。
世界最大の動画共有サービスのサイトに、以前テレビで放映されていた番組を投稿したものだった。
動画が終了すると同時に、透き通るような色白のすらりとした手が動き、続けてマウスの操作が行われる。そしてパソコン画面上に表示されているカーソルは、次の動画の再生リストへとポイントされていた。
マウスを左クリックして動画再生を決定した少女が選んだものは、つい最近発生した人質立てこもり事件のニュースであった。
<――引き続き、現場から中継をお送りします。トラブルとなった知人家族をアパート二階の部屋に監禁して立てこもる容疑者に対し、捜査員は今も粘り強い説得を続けている模様です。尚、容疑者は元暴力団員で拳銃を所持しているとの情報があり、現場は非常に緊迫した状態が……あっ! 今、銃声、銃声らしき音が立て続けに聞こえてきます! えっ? あ、はい! たった今伝わってきた情報によりますと、どうやら容疑者の男は人質となっている女性に向けて発砲したらしく、それに対し特殊部隊SATが強行突入に踏み切った模様です!!>
<えー、蒲原さん聞こえます? 現場からスタジオに送られてきた情報だと、警察の説得交渉中に容疑者が人質に対し発砲したとの事ですが、突入した警官隊にも男が銃を発射しているという事でしょうか。その辺り確認取れますか?>
<現場は騒然としており詳細は不明ですが、たった今突入したSATが容疑者の身柄を確保したとの事です! あっ、規制テープが外されて、待機していた救急車がもの凄い勢いで現場アパート前に行きました。担架が運ばれております。恐らく怪我をした人質のものだと思われますが、情報によりますと容疑者は重傷、応戦したSAT隊員にも負傷者が出た模様です。救急車の周りには目隠しのブルーシートが張られておりますので、はっきりとは分かりませんが、これから負傷者が運ばれてくると思われ……え? 何あれ、何で……?>
<蒲原さん、どうしました? 何が起きたのかを詳しく教えて下さい>
<い、いえ、現場の混乱が酷くて私にも今何が起こっているかは……。只、救急隊が負傷した人質の女性を担架に乗せるところまでは確認出来ていたのですが、私が見た時は、いきなり暴れ出した人質女性が、応急処置を行っていた救急隊員に噛み付いていたような……。はい? 容疑者の男が暴れて捜査員と激しく揉み合っている? え、でも重傷なんじゃないの、その男って。あ、負傷したSAT隊員が仲間に付き添われて救急車へと向かっております。顔に多少の痕がありますが、どうやら無事なようです。あれ? でもあの人、様子が何か変よ。う、嘘!? あの人いきなり同僚の首を噛み千切ったわ! ど、どうなって……やだ、アイツこっちに来るわよ!!? い、いや、いやああぁああああああぁぁああああッッ!!!>
<か、蒲原さん、蒲原さん!? え、えー…、只今映像に不手際があったようですが、急ぎ状況の確認を行っておりますので暫くお待ち下さい。視聴者の皆様に対し、多大なご迷惑をお掛けした事を深くお詫び申し上げます。……えー、では、一旦次のニュースを―――>
そこで動画の再生は終了した。
何の感慨も示さずに、少女は無表情のまま黙々とまた別の動画を選んで再生し、視聴する。パソコンを弄り始めてから既に一時間近くは経過していた。
娯楽で溢れかえる厖大な数の投稿動画の中から有益な情報になりそうなものだけを抽出し、ひたすら確認を行う姿は、まるで単純作業を繰り返す機械のようであった。
そんな少女――黒崎楓の様子を、宇賀達也は自室のベッド上に胡坐をかいて座りながら、黙然と見守っていた。
部屋に設置された腰高窓からは、午前の眩い日光が射し込み、室内に散乱している物品群を明るく輝かせている。
楓が達也の家を訪れてから、既に三日が経過していた。
尤も、最初の日は丸一日以上寝たきりの状態で、二日目の昼過ぎにようやく目覚めた楓だったが、その時に達也と互いの事情と現状についての情報を交換した後は、買い置きしてあった栄養バランス食品と缶詰を細々と二人で分け合って食べ、そして日暮れ後には、未だ疲労が抜けきっていなかった楓は、直ぐに就寝したのだった。
無論、楓と達也が一緒にベッドで寝た訳ではなく、楓は達也の自室と同じ二階にある彼の両親の寝室を借りて、二人は別々に夜を明かしたのだった。
そして本日に至るのだが、実は密かな問題が朝から浮上していた。
それは、楓にとって極めて深刻かつ切実な問題であるが、一方の達也にとっては正に目の保養かつ眼福となる幸せな問題であった。
(ああ、やっべ。昨日の裸ワイシャツも最高だったけど、これも最高だぜ! 姉さん、素晴らしい財産を遺してくれてありがとうっ!)
煩悩と妄想を脳内で絶賛フル稼働中の達也が、そんな場違いな感謝の念と共にハァハァと鼻息を荒くする。
その邪念に満ちた達也の視線の先、パソコンラックの前でオフィスチェアにちょこんと小振りなお尻を乗せた楓のその“姿”こそが、発端となる異彩を放っていた。
何故ならば、今少女が身に付けている衣服は、俗に言う『メイド服』だったからである。
抜けるような白肌で構成された細く小さな肢体は、濃紺のフリル付きミニワンピースに包まれている。
尤も、頭の被り物は楓が強硬に拒絶したので流石に無かったが、しかし薄い胸と腰回りは純白のエプロンが覆い、両脚には黒のニーソックス、両手首には可憐なデザインのリストバンドが装着されていた。
澄んだ黒眼と肩口で揃えられている美しい黒髪に加え、精巧な人形を彷彿させる秀麗な幼い顔立ちの少女が、丈の短いキュート系メイド服を着用しているという容姿のアンバランスさは、ある種の背徳感と淫靡感を存分に際立たせていた。
(ああ、目の前に生のメイドっ娘が居るなんて。マジで生きてて良かった)
感情を露にはしていないが、どことなく憮然とした様子でパソコンを操作している楓を見詰めながら、達也はしみじみと思っていた。
生きた人間を喰らう感染者――“ゾンビ”が日常を蝕み、文字通り世界は地獄と化した。それでも、己の前に居る天使の如き素敵な女の子と出会えたという境遇を考えると、不謹慎とは思いつつも達也は神に感謝したい気持ちになっていた。
何せこれまで達也が生きてきた人生の中で、姉以外でこれ程身近に女性の存在が有った事など、一度も無かったのだから。
(……それにしても、不思議な女の子だよな。楓ちゃんって)
冷厳な雰囲気を纏った楓の相貌を思い浮かべつつ、達也はこれまでの経緯に思いを馳せる。
普通の女性……それも年端もいかない女の子であれば、こんな異常極まるゾンビ災害下において冷静に行動することはおろか、まともな精神状態を保ち続けることも困難な筈だ。しかしこの少女に動ずる様子が全く見られないのが、彼には気掛かりだった。
実際、男であり今年で二十四歳となる大人の達也ですら、楓がこの家に迷い込んで来るまでは生きる意志など完全に喪失し、何もかも諦めていた程だ。
短期大学を卒業後、IT・情報処理業界の中堅会社にシステムエンジニアとして就職したものの、結局激務についていけず早期退職。その後、再就職しようと足掻き続けるも、失敗の連続で働く意欲を失った達也は、やがて部屋に閉じこもるようになってしまった。
そんな達也に対し、父と姉は彼の失敗を嘆くのみで、手を差し伸べてはくれなかったが、唯一親身になって息子の世話を焼いていたのは母だけであった。
だがその生活も、ゾンビ化する謎のウイルスによる感染爆発のせいで、突如終わりを告げる。
八月下旬から始まった、世界中を席巻する前代未聞の伝染病に係わる一連の事件は、テレビやラジオにおける連日連夜の報道の他、SNSやネットの巨大掲示板や大手ライブ動画配信サイトでも『世界オワタ』や『日本終了のお知らせ』、『リアルバイオktkr』果ては『格差崩壊リア充ざまぁwww』等のネットスラングが氾濫するお祭り騒ぎになった。
そして達也もまた元々アニメやゲーム、漫画や映画などの趣味が高じてゾンビに関する知識が豊富だっただけに、このどうしようもない閉塞感を打破出来る糸口になるのでは、と逆にこのパニックの到来に当初は喜びすら覚えていた。
だが直ぐに達也は、それが勘違いであった事を痛烈に思い知る羽目となる。
まず父が朝いつも通り自宅から出社したのを最後に、二度と帰って来ることはなかった。
そして次に別居した姉も、独り暮らし中の自宅アパートから出掛けたまま帰宅することなく、以後は音信不通となり、そのまま行方不明となってしまった。
最後は、達也が懸命に制止したにも係わらず、母は父と姉の所在を確認しに臨時的に設立された避難所へと向かい、結局その時に襲われてゾンビの仲間入りとなってしまった。
家族がいつでも帰宅出来るようにと、家の玄関ドアの鍵をわざと開けておいたのが逆に仇となり、ゾンビとなった母が自宅へと舞い戻って達也の自室の扉を弱々しく引っ掻き始めた時、達也は只々途方に暮れるばかりであった。
鋼の意志を以って人間ではなくなってしまった母を殺し、サバイバルの様相を呈した日常を生き抜こうという気力は全く湧かなかった。
そもそもこの地獄で一縷の希望を見出し、苦しみながらも生きていくという覚悟を達也は持つことが出来なかった。恋人も親しい友人もいないのに、何故ゾンビに喰い殺される恐怖を無理に我慢して生きなければならないのか、その的確な答えがどうしても思い浮かばなかったのだ。
だから達也は自室の中で目を閉じ耳を塞ぎ、やがて全ての終わりが訪れるその時まで、ひたすら虚構の世界へ逃避し続けていた。
そんな矢先である、楓と名乗る少女と出会ったのは。
ある時、一階で何かが争っている物音を耳にした達也が驚いてキッチンの方を確認すると、絶命した母と気を失っている楓が共倒れになっているのを発見したのである。
その時達也は、永久に母を失った現実の悲しみよりも、儚い妖精の如き美しく可憐な少女の姿に意識を奪われ、躊躇することなく楓を介抱したのだった。
確かに家族を失った悲しみ、特に最後まで自分を世話してくれた亡き母の事を想うと、達也は今でも胸が張り裂けそうな痛みを必死に堪えねばならなかった。
だが同時に、いや若しくはそれ以上に、達也の頭は楓の事で一杯になっていた。
出会ったばかりの上に、年齢差や性格、そして楓の生い立ちといった諸々の事情について、何一つ不明であるのにも係わらず達也は見惚れ、少女と共に在りたいと望んでしまった。
有り体に言えば、達也は楓に“一目惚れ”してしまったのである。
汚れた患者衣を脱がし、ボディーシートとウェットティッシュで気絶している楓の小柄でスレンダーな体躯を丁寧に拭いながら、じっくりたっぷりと細部や大事な部位まで徹底的に見定め咬傷の有無を確認した後、熟慮に熟慮を重ねた上で、達也は少女の寝巻きにワイシャツを選んで着せ、ベッドに運んだのであった。
その際、確かに感染者による噛み痕は見当たらなかったものの、足裏を始め身体には幾つかの擦過傷が認められた為、その傷が原因で万が一ゾンビに転化した場合に備え、楓の手足をベッド上に拘束したのだった。
そして楓のあどけない寝顔を見ている内、若い衝動に駆られた達也が無抵抗な少女の蒼い肉体に欲情し、何度も襲いたいと考えてしまったのは当然の成り行きであった。
しかしその都度理性を総動員させ、ギリギリのラインで彼は踏み止まった。
それは、達也が特別フェミニストを気取っていたからではなく、ましてや警察に捕まる恐れを考慮して、眠っている少女を強姦しなかった訳ではなかった。
ここまでゾンビ感染が広がった今、社会秩序など最早形骸化も甚だしく、例え堂々と犯罪行為に及んだとしても、司法機関による刑罰的制裁は皆無に近かった。
それでも達也が一線を越えることがなかったのは、一重に彼が有する生来の臆病さと、亡き母の優しげな面影が脳裡にちらつき、それが歯止めとなっていたからである。
(ほんと、冷静沈着な娘だよな。ってか、クール系美少女って完璧俺のストライクゾーンだわ。記憶喪失っていう点も楓ちゃんには悪いけど、ミステリアスな魅力があってグッドだよね)
やがて長い眠りから目覚めた楓との質疑応答を経た達也は、その時になってつくづく少女に対して愚劣な行為に及ばなかった事に胸を撫で下ろすと同時に、その泰然自若な所作と心胆を有する楓に対し、畏敬めいた好意を明確に抱くようになった。
だが一方で、美麗だが庇護欲をそそる幼い容姿と相反する大人びた態度のギャップは、著しく達也にとって煩悩を刺激する結果を生み出すことになり、それ故楓が『メイド服』を着る羽目に陥ったといっても過言ではなかった。
本日早朝のことである。
かつて両親が使用していた寝室から起きてきた楓が、開口一番に「着替えを借りたい」と達也に申し出たのだった。
ちなみにその時の少女の恰好は、裸にワイシャツを羽織っただけという、健全な日本男性であれば諸手を挙げて喜びそうな性的魅力に溢れた身なりであった。
多分に後ろ髪を引かれながらも、惚れた少女の頼みを無碍に断るという選択肢は達也には無く、早速楓に別な着替えを用意しよう考えた。だがその時になって彼は、はたと気付く。
そう、全般的に細過ぎる上に、短躯である少女のサイズに合う衣服などこの家には存在しないという事を、すっかり失念していたのだ。
勿論、父の衣類などワイシャツ以外は使い物にならず、女性物の衣服でも、母は平均的な身長な上に体躯はややぽっちゃり型だったので、楓が着用するにはダボダボ過ぎた。
それは、スレンダーかつ高身長だったモデル体型の姉が、実家の自分の部屋に放置してある衣類にあっても同様であった。
そんなこんなで悩んでいた達也であったが、何とか少女が着られるような衣服はないかと、久しく使われていない姉の部屋を隈なく漁っていた時、ふと押入れに仕舞われていた衣装ケースの奥底に眠っていた、ハロウィン用の仮装コスチュームを発見するに至ったのである。
そしてそれこそが、楓が今着用している『メイド服』に他ならなかった。
派手好きな性格の姉がワザと狙ったのか、それとも単純に寸法を間違って購入したのかは永遠の謎となってしまったが、その『メイド服』のミニワンピースはかなりサイズが小さくしかも短かった為、もし姉が着用していたとすれば確実にショーツが丸出しになっていたのは間違いなかった。
実の弟である達也にとっては、姉がそんな際どいコスプレ姿で男に媚を売っているのを想像すると、彼女の本性を知っているが故に何とも複雑な気持ちとなり、是非このコスプレ衣装の事は記憶から抹消したい誘惑に駆られたのだが、不意に天啓が閃き、彼は迷わず楓にこの『メイド服』を手渡したのであった。
しかも幸いなのか最悪なのかは微妙なところだが、『メイド服』専用の際どい下着や、そのコスプレ衣装一式が良好な保存状態で全部揃っていたのである。
華奢で小柄な体躯の楓にとって、唯一サイズ的に合う服がこの『メイド服』しかなかった……のかどうかは甚だしく疑問が生じるところではあるが、それでも達也は己が信念に基づきそれを押し通した。
無論、そんなふざけているとしか思えない衣装を目の当たりにした一方の楓が、その秋霜のような表情を崩し、殺気を孕んだ眼光にて達也を射抜きながら「貴様、正気か?」と底冷えのする声音を発した時、彼は死を覚悟すると同時に、新たな性癖が芽生えそうな興奮を覚えてしまうのであった。
だが結局、達也の必死過ぎる説得と言い訳により、楓は本当に渋々と嫌々と憎々しげな態度でその『メイド服』に肌を通したのであった。
その後、数少ない食料品を消費して二人は朝食を終え、楓は達也の承諾を得てパソコンを使って情報収集、一方手持ち無沙汰となった達也の方は、ベッド上で胡坐を組んで座り、黙々とネットサーフィンするメイドな少女の姿を飽くことなく見詰め続け、現在に至るのであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ふぅっと、艶やかな薄紅に色づいた唇の間から、楓は何度目かの吐息を漏らす。
朝からパソコンを弄り、ネットサーフィンを続けながら、少女は自身に必要な情報は次々と収集していった。
国内がこのような未曾有の混乱状態にあっても、奇跡的に未だネットワークシステムが残存されていたのは驚きであり僥倖であったが、しかしそれも長くは続かないだろうと楓は踏んでいた。
それはどのサイトに接続しても、混乱の収束に向けた前向きな情報が得られなかった事実からも明らかであった。
(事態は悪化の一途を辿っている……か。愚図愚図はしてられんが、かといって拙速に事を運べば取り返しの付かんミスを犯しかねん。『研修所』までの安全なルートを緻密に割り出し、慎重かつ最速で動かねば)
既に達也から現在位置を聞き出し、楓の目的地である『研修所』までの道のりは把握済みであったが、様々な懸念が少女を悩ませていた。
行く手を阻む、恐ろしく危険かつ脅威的な存在である“感染者”に加え、ライフラインが断絶し災害救助の目処が立っていない今、食料品等の補給物質に関しても入念に計画を練り、迂闊な行動は絶対に避けなければならなかった。
(かつての俺――黒崎諒の肉体を取り戻す鍵は、十中八九“先生”が握っているのは間違いない。『研修所』まで辿り着くことさえ出来れば、必ず“先生”の行方について何らかの情報が得られる筈。問題は、如何にしてこの練馬区から新宿区の『研修所』本部まで、危険を回避して向かうか、だな……)
都心部に進めば進む程、当然人口密度は増す。であれば飛躍的に感染者の数が増大するという点については、最早言わずもがなである。
先行きについて考えると、暗澹とする気分に陥る楓であったが、実はそれ以外にも切迫した問題点が浮上していた。
(危険は承知の上だが、急がねばならん。でないと、俺は――)
焦燥感が胸内に巣食っていた。
何としても早く、『研修所』の執行者であったかつての自分、幾度の死線を乗り越え、幼少より徹底的に鍛え抜いてきた黒崎諒が有する鋼の如き肉体を取り戻したい理由が、少女にはあった。
その理由は、自我の希薄化……いやもっと詳しく述べるならば、黒崎諒という自我が楓という名の少女本来に宿っている自我に吸収されてしまい、今の自分の思考や感情が完全に消失してしまうのではないか、という危惧であった。
最初は漠然とした不安であった。
だが、昨日今日と日を重ねる内に、施設で目覚めた当初の意識と肉体の動作に関するズレや、些細な違和感が急速に薄れてきており、今朝にあっては暫くの間、自分が黒崎諒なる男性であるという認識が完全に抜け落ちており、ごく自然に女性としての自分を受け入れていたのである。
しかも更に最悪なのは、その状況に対し己が何の危機感すら抱けずにいた事だった。
その原因に関して、精神が肉体に引っ張られているという側面は当然あるのだろうが、しかしそれ以上に“黒崎諒”という異物が混入された“楓”という名の少女の魂が懸命に適合を図ろうとした結果、片方の自我の吸収ないし、両方の自我が徐々に融合を始めているのではないか、という結論が少女の脳裡を占めた。
それを理解した時、黒崎諒の意識を有する楓という名の少女は、顔面が蒼白になるのを抑える事が出来なかった。
(クソ、ふざけるな。任務中における戦いで死ぬ名誉すら与えられず、こんな訳の分からん現象に巻き込まれた上に、このまま俺の人格が消えて無くなるなど、絶対に我慢ならん)
臍を噛む楓であったが、更に今朝方の達也とのやり取りを思い出し、荒れ狂う激憤が腹腔を満たしていた。
(そうだ。それに何故、この俺がこんなヒラヒラする戯けた服を着用せねばならんのか。全く以って有り得ん。クソ、何という屈辱だ……!)
突然我が身に降り掛かった理不尽な運命を思い、憤懣やるかたない感情に支配された楓が、ぎりっと奥歯を軋らせた。
その故、思わず手に持ったマウスの底をキーボートが載った天板に強く叩きつけてしまい、ばんっという大きな音を立ててしまったが、直ぐに楓は物に当たるその無意味な行為を後悔した。
「ど、どうしたの楓ちゃん。何かあった?」
「……いえ、ちょっとこの『ゾンビに噛まれてみた』という実況動画の配信者の意図が読み取れず、思わずイラっとしたのでマウスに当たってしまいました。申し訳ありません」
「ああ、そう。なら別にいいんだけど……」
パソコンの前に座っている楓の肩越しから、おずおずと不安げな声を掛けてきた達也に対し、少女は後ろを振り返ることなく画面に視線を固定したまま、適当な答えを返すのだった。
その時、丁度モニターに映し出された映像には、何故か自分にはウイルスに対する免疫があると信じ込んでいる動画配信者が、実際に感染者に噛まれてその後の経過を実況するという、あらゆる意味で体を張った趣旨のものが垂れ流されていた。
「あ、楓ちゃん。俺ちょっと一階に下りて、荷物の整理をしてくるよ。今朝で食べ物も尽きちゃったし、昼までには家を出るでしょ?」
「そうですね。私もこれ以上こちらでお世話になるのも心苦しいですし、取り敢えず最寄の避難所や安全な場所を目指して、今後の身の振り方を考えたいと思っています」
「うん、分かった。そうとなれば、俺も楓ちゃんと一緒に行くよ。この家がずっと安全だって保障なんて無いし、何よりもこんな危険な状況の中を、君みたいなか弱い女の子を一人で歩かせる訳にはいかないからね」
「………そうですか」
達也の答えを聞いた楓が、僅かな間を空けた後、低い声音で返事をする。
そして、楓の言葉を聞いた達也は特に気負った様子もなく、のんびりとした所作でベッドから腰を上げ、部屋を出て行った。
そんな達也の後ろ姿に視線を向けながら、楓は思考を巡らせる。
(正直、足手纏いだとは思うが、この身の脆弱さを考慮すれば、素人を連れ歩くリスクを差し引いたとしても、確かに仲間が必要かも知れんな。まあ最悪の場合、奴を囮にして逃走路を確保するという手段も可能ではある。いずれにせよ、情報収集を兼ねて一度は避難所に赴き現状を確かめる必要があるだろう。それまでは奴と行動を共にした方が、何かと便利といえば便利か……)
やや暫くの間、楓はパソコン画面の方に茫漠とした目線を投げながら、これからの行動指針と計画をつらつらと脳内で練り上げていた。
その頃パソコンモニターには、実験と称してわざと感染者に腕を噛ませ、その様子をライブ配信していた動画配信者が狂気と錯乱に蝕まれた挙句、結局ゾンビ化した末路が映し出されていた。
再生していた動画に微塵の興味も抱かなかった楓が、自分もそろそろ動き出そうと思い、パソコンの電源を落とそうとしたその時。
ガシャンッというガラスの破砕音が、大気を震わせた。
その音は決して大きくはなかったが、少なくともこの家……階下から響いてきたのは確実であろうと楓の直感は告げていた。
直後、耳を澄ませた楓の鼓膜は、一階リビングの方から湧く複数の靴音と、達也ではない他人のくぐもった声を察知した。
(侵入者、か?)
楓が警戒レベルを最大まで一気に引き上げ、椅子から立ち上がる。
そして、達也が下りていった一階の様子を窺う為、気配を殺しながらも、素早い動きで部屋を後にしたのだった―――
少し急ぎめで投稿しましたが、やっぱり遅筆ですね(汗)
今回は、前半部分は視点を変更してみました。
もし分かりづらかったら申し訳ありません。作者の力量不足ですね。
次もなるべく早めに投稿したいと思っていますので、何卒よろしくお願いします^^