第4話 「生存者」
今回は説明がメインです。
覚醒と同時に、頭の芯に痺れるような鈍痛が響いた。
そして、酷く萎えた身体と込み上げる吐き気に悩まされながら、少女は接着されたように固まった瞼を押し上げようと、必死に努力した。
その一方で、全身を支配する熱、痛み、嘔吐感といった不快な変調により、少女は知らずか細い呻き声を漏らしてしまう。
どうにか気力を振り絞って瞼をこじ開けると、輪郭の定まらない薄ぼんやりとした視野が白っぽい何かを捉えた。
はっきりとしない対象物に少女が眉間に皺を寄せて考えるも、一瞬後にはそれが天井であることに思い至る。
そして、身体感覚が天井に対して平行である事と、不安定な視覚がタオルケットを認識した事で、自分が寝ている状態なのだとようやく気付いた。
(…ここ、は……?)
少女は胡乱な思考で状況の把握に努めようとするが、意識の衰弱はそれを許さず、再び強烈な眠気が襲う。
その時、ごく身近に人の視線と気配を感じたが、抗い難いその睡魔に誘われた少女は、何ら状況を確認出来ぬまま目を閉じ、意識は再び闇にのめり込んだ。
眠り、僅かに覚醒し、再び微睡む。
繰り返す混濁の中、少女は長い時間を睡眠に費やした。
立て続いた急迫の事態により心身共に疲弊していた少女は、長い眠りの中で誰かの人声を聞いたような気がしたが、それも朧げで目覚めは未だ遠いままだった。
どのぐらい時間が経過したのか、少女には判別出来なかった。
ただ長い眠りの中で、少女は自身に纏わる幾つかの記憶を断片的に夢で見ていた。
一つは、『研修所』の執行者である自分自身――黒崎諒の事。
もう一つは、実験室と思しき場所で、意思の力で物体に干渉する超常的な【念動力】という才能を行使していた、もう一人の自分自身――楓の事。
そして最後は、二人に共通する極めて重要な人物――“先生”の事。
全ての繋がりが不鮮明であり、加えて自身を取り巻く状況も、依然として混沌の中にあった。
憶測だけが先行し、何の解決策も見出せぬままであったが時は進む。
やがてはっきりと意識が戻った少女は、静かに両の瞼を開き、眠りから目覚めた。
目を開き、焦点の定まらぬ視界で周囲を確認する。
窓から射し込む陽射しに照らされた部屋は、散らかり放題で汚れていた。
フローニングの床には、空のダンボール箱やペットボトル、プラスチック製の弁当箱などが無造作に且つ無秩序に散乱していた。
また壁一面には、デフォルメされた女の子や、いやに肌の露出が多い女の子が沢山描かれているアニメポスターが、隙間なく貼り付けてあった。
そして、少女が寝ている場所はスチール製のパイプベッド上であることが判明したが、寝具は所々薄汚れており、すえた汗の臭いが鼻腔を衝いた。
華奢で小柄な少女の体躯を覆っているのは水色のタオルケットであったが、その下の柔らかな素肌に通されている衣服は、何時の間にか汚れた患者衣から清潔な白のワイシャツへと変更されている。
しかしながら、相変わらず上半身と下半身のデリケートな部分を包み込む下着類が何も無いことに気が付くと、少女は微かに表情を歪めた。
「やあ、目が覚めた?」
そんな彼女の様子を窺っていたのか、不意に若い男の声が上方から降ってきたので、少女は慌てて声の発生源へと頭を巡らせた。
するとベッドの足下付近に、キャスターと肘当て付きのオフィスチェアに座した二十代と思しき中肉中背の男性が、口角をぎこちなく吊り上げながら自分を見詰めている事を、少女は今更ながら認知したのであった。
「……っ!」
息を呑む少女の脳裡に、今までの記憶が次々とフラッシュバックする。
目覚めた施設内で出来事と、其処からの脱出劇。
次にゴーストタウンと化した住宅街を彷徨い歩いた結果、耐え難い飢えと渇きに蝕まれたことで無施錠だった一軒家に忍び込み、運良く食料品と飲料水を手に入れた。
だが、その家のキッチンで化け物となった中年女性から襲撃を受けてしまい、少女は辛くもそれの撃退に成功したのであったが、結局そのまま気を失ってしまったのだ。
(くそっ、まずったかッ!)
即座に状況を理解した瞬間、躰が条件反射のように防御体勢へと移行しようとするが、しかしそれは達成出来ずに終わってしまう。
見ると、少女の両手首と両足首には薄手のフェイスタオルが巻かれ、更にその上からマジックバンド結束テープとネクタイの二つを頑丈に複合させて手足の自由を奪っていた。
その上、手足を拘束しているそのマジックバンドとネクタイはベッドのスチールパイプへと伸びており、つまり少女の体は、身動きが取れぬようにベッド上で大の字に縛り付けられているのであった。
「そんな怖い目で睨まないでくれよ。悪いけどこれは必要な措置なんだからさ」
己の現状を理解した少女が怒気を孕んだ鋭い視線を向けると、対するチノパンにTシャツ姿の若い男は微苦笑を浮かべながら言い訳をした。
「……何故こんな真似を?」
渇きにより痛む喉に眉根を顰めつつ、少女は掠れた声を静かに発した。
躰を起こそうにも拘束が邪魔をして満足に動けぬ為、少女は首だけを持ち上げ瞬ぎもせずに男を睨んでいた。
「一番目立つ足裏の傷の他に、肘と膝に負っている細かい擦り傷以外は特に目立った怪我――特に身体に噛み傷が無かったから、多分君は感染者じゃないとは思うけど、用心するに越したことはないからね」
「………」
曖昧な笑顔を湛えたまま喋る若者を無言で見詰めながら、少女は考える。
眼前の人物は、どことなく茫洋な雰囲気が垣間見えること以外は、至って平凡な顔立ちと体型の標準的な一般男性であった。
恐らく少女が忍び込んだ家の住人であろうことは容易に推察出来たが、問題は眼前の男が自分に対し害意を秘めているか否かだった。
(邪な気持ちを抱いてこの身を拘束しているのなら、奴にとって今こそが絶好の機会だろう。もし愚劣な行為に奴が走るのならば、その時は若干体力的には厳しいが《力》を使用するしかあるまい)
相変わらず空腹と喉の渇きが少女を蝕んでいたが、それでも長い睡眠によって体力はある程度回復していた。
それ故、現時点で少女が【念動力】を発動することに支障はなかった。後は相手の隙を見逃さぬよう、注意深く接していけば良いだけである。
(目の前に居るこの男がもし“悪人”であるというのならば、その時は排除すればいいだけの話だ)
日本の暗部に巣食う“悪者”を秘密裏に処断する『研修所』の執行者たる黒崎諒には、殺人に対する忌避など皆無であった。
いや、正確には“正義の執行”の為に相手を殺害することへの罪悪感は、幼少期より施されてきた特殊な教育と訓練によって麻痺しているだけに過ぎないのだが、少なくとも己の障害となる人物に対して容赦する気など、少女には毛頭なかった。
「あー…。ところで、俺の名前は宇賀達也って言うんだけど、君の名前を教えてくれないかな?」
沈黙を保ったまま、射抜くような鋭い眼光を放つ少女の底知れぬ気配を感じたことで、僅かにたじろいだ若い男――宇賀達也が取り成すように自分の氏名を名乗り、次いで少女の名前を尋ねた。
(ちっ。そんな自己紹介よりも、まずはこの拘束具を外す方が先だろうが)
苛ついた少女が思わず舌打ちしそうになるが、取り敢えずは相手の神経を逆撫でするような言動や態度は見せない方が得策だと考え、不満を一時保留したまま自分の名前を言う為に口を開く。
「私は、黒崎りょ――楓」
「へ? クロサキリョカエデ?」
「違います。ちょっと喉の調子が悪くて、発音が不明瞭になってしまいました。私の名前は、黒崎楓。ク・ロ・サ・キ・カ・エ・デ、です」
「あ、ああ、そう。素敵な名前だと思うけど、何で自分の名前をそんな一言一句区切るの?」
「……別に、貴方に聞こえやすいよう強調して名乗っただけです」
なるほどと、納得したように頷く達也を横目に見ながら、黒崎楓と名乗った少女は物思いに耽っていた。
(咄嗟に言ってしまったが、まさかこの少女の姿で黒崎諒という俺の本名を名乗る訳にはいかないからな。男としては甚だ遺憾ではあるが、今は黒崎楓と名乗った方が無難だろう)
楓がそのような事に思考回路を働かせていると、達也がわざとらしく一つ咳払いをした後、おもむろに言葉を発した。
「えっと、楓ちゃん。教えて貰いたいんだけど、君は一体何者なんだい? 感染者だらけの街の中をたった一人の女の子が出歩いて無事に済むとは到底思えないし、その上君は病院の検査着のような服を着たまま、この家の中で気絶していた。是非ともそこら辺の事情を俺に話して欲しいな」
「…………」
思わず、馴れ馴れしく楓ちゃんなんて呼ぶんじゃねえクソ野郎、と目前の男に罵声を浴びせたくなる楓であったが、何とか理性を総動員してその怒りを抑制することに成功する。
不愉快さをおくびにも出さずにポーカーフェイスを保ったまま、楓は僅かに間を置いてから言葉を発した。
「……説明をする前に、まずはこれを外してくれませんか?」
首を巡らせ拘束されている手足の方に目線を向けながら、楓が達也に申し向けた。
「え? うーん、それは……」
「私自身、特に体に変調を感じませんし、先ほど貴方も大丈夫だと言っていました。こんな不自由な状態では話もままなりませんし、正直苦痛です。どうかお願いします」
煮え切らない態度を見せる達也に双眸を据えた楓が、畳み掛けるように懇願する。
(さて、奴はどう出る?)
敵の出方論という訳ではないが、中身は別として外見的には苦しげな様子を見せる年端もいかない少女の要望を無碍に断るような人物であれば、相手は心中に悪意を秘めている可能性が高いと言えるだろう。
それ故楓は、宇賀達也という人間を見極める良い判断材料となると思い、敢えて切実な様子を見せて相手の反応を確かめたのだ。
無論、眼前の男が取る行動如何によっては、警戒レベルを一気に引き上げる覚悟を楓は決める。
「……オーケイ。別に楓ちゃんを苦しめる為に縛っていた訳じゃないから、直ぐに外すよ。ちょっと待ってね」
微かな間の後に、達也は承諾の意を楓に伝えた。
そして椅子からすっくと立ち上がり、少女の手足を拘束しているマジックバンドとネクタイの結び目を早速取り外しに掛かる。
「ありがとうございます」
「ん。楓ちゃんが家のキッチンで倒れていたのが昨日のお昼過ぎくらいだったから、一応念のために丸一日様子を看させて貰ったんだ。けど、これだけ時間が経っても未だに発症しないんだったら、君は間違いなく平気さ」
平坦な声音でお礼を述べる楓のベッド脇にしゃがみ込んだ達也が、作業の手を止めずに喋る。
程なくして拘束具は全て解除され、楓は晴れて自由を取り戻すことが出来たのだが、緊縛を取り外す最中達也が、寝ている楓の露となっている艶やかな胸元のラインや、針金のような細い生脚とその付け根の部分をチラチラと盗み見ていた。
勿論楓はそんな粘つくような雄の視線に感付いており、思わず気持ち悪さで肌が粟立ちそうになるが、それでも達也が素直に自分の要望を聞き入れ拘束を解いたことから、一応彼は“敵”ではないとの評価を下していた。
「先程の質問……つまり、私が一体何者なのか、という点についてですが」
身を起こし、ベッドの端に座り直した楓が、手足の動作の確認を行いながら言った。
一方の達也も「うん」と返事をした後、再びオフィスチェアへと腰を下ろして、話を聞く態度を取っていた。
その様子を見遣りつつ、静かな声音で楓が言葉を継ぐ。
「実は、私自身も全然分かっていません。というのも、目覚めたとき私は病院みたいな施設のベッド上で、しかも自分の名前以外は何も思い出せない状態でした。それから何とか施設を抜け出して住宅街を彷徨っていたら、たまたま宇賀さんの家の玄関が開いていたのです」
「………」
「そして、喉の渇きと空腹が限界に達していた私は、已む得ず無断でこの家へ入り込みそのまま台所に向かいました。すると其処でいきなり女性の方に襲われたので、私は咄嗟に包丁を取り出して身を守ろうとしたのです。でも、その結果―――」
「……ああ、分かっているよ。あれは俺の母親、さ」
目を伏せ、俯き加減で喋る楓が言い淀むと、その後を引き取るような形で達也が沈鬱な声を発した。
達也の答えを予期していた楓は、想定していた通りに言葉を選びつつ喋る。
「いくら不可抗力だったとはいえ、結果的に私が宇賀さんのお母さんに手を掛けたのは事実です。にも拘らず、貴方は気絶していた私を介抱して下さったのですから、その親切については感謝の言葉もありません」
「母のことで楓ちゃんが気に病む必要はないよ。感染者――ゾンビになっちまった人間を救う方法なんて無いんだ。本来は、息子の俺が母さんを楽にしてあげなきゃいけなかったんだろうけど、結局俺には出来なかった。だから、代わりに役目を果たしてくれた君を助けるのは当然のことさ」
「そう、ですか。差し出がましいとは思いますが、宇賀さんの心中はお察しします。申し訳ありません、本当はもっと色々お話すべきだとは理解しているのですが、残念ながらこれ以上は何も思い出せなくて……」
楓が目線を床に落としまま、頭を振って言う。
「無理しなくていいよ。それに、母さんの件を気に掛けてくれてありがとう楓ちゃん。でもさ、君ってば記憶を無くしているのに、よくこんな滅茶苦茶な環境の中を無事に切り抜けて来たね。俺的には、そっちの方がよっぽど驚きだよ」
途方に暮れる様子を見せる少女を気遣いながら、達也が尋ねた。
「運が本当に良かっただけです。ところで宇賀さんにお願いがあるのですが、今この日本で一体何が起きているのか教えて頂けませんか? 私が気付いた時には既にこんな状態でしたから、未だに混乱していまして」
「ああそっか、楓ちゃんは記憶喪失だもんな。じゃあ今世の中で何が起きているかなんて知る訳ないよね。勿論、俺でよければ幾らでも教えてあげるよ。といっても、俺が知っている情報なんて高が知れているけどね」
楓が面を上げ、その涼しげな目元の奥に覗く双眼を達也の顔に向けて申し出た。
そしてその申し出を、控え目な笑みを口元に刻んだ達也が快諾する。
「お願いします」
感謝の言葉を述べつつ、楓は密かに胸の内で安堵していた。
達也に話した内容については、無論、楓にとって都合の良いよう部分的に誤魔化したものである。
記憶喪失という設定については若干苦しいものがあったが、只、実際“黒崎諒”としての記憶に不明瞭な部分が幾つか有ることから、あながち全てが嘘という訳でもなかった。
また一方で、楓が達也の家で気絶した際、丁度患者衣の恰好だったのも良い材料であったといえよう。
(癪に障るが、思いの外『少女』の容姿が役立っているな。正直、俺にとっては貧弱なこの体は欠点しかないと思っていたが、少なくとも今は達也と名乗る目の前の男から、余計な疑念を抱かれず簡単に情報が引き出せるのは好都合だ。では、もう少し“物分りの良い少女”とやらを演じてみるか)
散らかり放題となっている広さ六畳半ほどの寝室を一瞥しながら、楓は様々な思惟を行う。
そして、あらゆる物品がうずたかく積まれたパソコンラックが設置してある、部屋の片隅の方へと椅子ごと移動した達也の横顔に視線を移した時、楓はある事をふと思い出した。
(そういえばこの恰好…、奴が俺を介抱した時に着せ替えたのだろうが、何故裸の上にワイシャツを着せたのかが理解に苦しむ。文句を言える立場ではないだろうが、もっとマシな衣服を用意出来なかったのか?)
ゴミの集積場のようなパソコンラックに置いてあった500ミリのミネラルウォーターを手に取った達也を、楓は不審の眼差しで見詰めていた。
「はい、楓ちゃん。ずっと寝ていたから喉が渇いてるでしょ? 温いけど飲んで」
「ありがとうございます」
達也からペットボトルを受け取った楓が、感謝の言葉を述べつつ相手の挙措を注視する。
口元に微笑を刻みながらも達也が、視線を偶然ないし意図的に、己のワイシャツから剝き出しとなっている素肌に向けているのを楓は敏感に察知した。
処女雪の如き色白から成る、谷間に至らないなだらかな起伏の胸元や、生まれたての小鹿を想起させるスレンダーな肌理細かい肢体は、まだ未成熟な幼さが残る故に、少女特有の危うい色香を醸していた。
そんな未完成な魅力を総身に纏わせた楓に達也がミネラルウォーターを渡すと、彼は再びパソコンが収納されているタワー型のパソコンラックへと身体を戻した。
その際、達也が小声で「肌ワイ萌え」という、意味不明な言語を吐き出すのを見逃さなかった楓は、
(怪しい奴だ。やはり油断は禁物ということか……)
怜悧な美貌を引き締め、達也に対する警戒レベルを心の中で僅かに上昇させるのであった。
貰ったペットボトルのキャップを開き、中のミネラル水で渇いた喉を潤していた楓は、達也がラックの天板に載った既に起動済みのデスクトップパソコンを操作して、インターネットを開くのを見た。
インターネットエクスプローラーを立ち上げると、自動的に大手企業のポータルサイトに繋がるように設定されており、パソコンの液晶モニターには新聞・通信社が配信する多種多様なニュースや記事が映し出されていた。
「ここら辺りのライフラインはもう完全にストップしちゃっているけど、幸いこの家は屋根にソーラーパネルが設置されているから、太陽発電のおかげで日中の間だけ電気は確保出来ているのさ。それと通信システムの方は、ギリの状態で何とかまだ生き残っているみたいだから、こうしてネットにも繋げるって訳」
達也がマウスを操作しながら喋る。目はモニターに固定されたままであった。
その声を聞いた楓は、座っていたベッドの端から立ち上がり、ミネラルウォーターを手に持ったまま達也が腰を下ろしているオフィスチェアの傍まで近付き、横からモニターを覗き込む。
そして画面の中に表示されているネットニュースを目にした楓は、驚愕の表情で息を呑み、各種記事の見出し文とその内容に見入っていた。
『新型インフルエンザか 劇症型ウイルス、中国で猛威』
『強毒性のウイルス、インド・アフリカ・欧州各国にも飛び火』
『封じ込め失敗、米国内混乱 世界保健機関(WHO)による緊急事態宣言も虚しく』
『東京アウトブレイク発生 国内における防疫体制の弱さ露呈』
達也がサイト項目にある過去のトピックスを選び、八月下旬に掲載されていた主な記事を次々と表示させる。
眉間に皺を寄せた楓がパソコン画面右下隅に表示されている時刻表示に目線を落とすと、今は九月二十三日の午後一時二十分となっていた。施設で目覚めてから一日が経過していた。
(俺の記憶は八月の上旬以前までしかない。その月の終わりにこんな爆発感染が世界的に起こっていたのか)
自分が見知らぬ施設で寝ている間に、謎の伝染病が世界中で猛威を振るっていた事実に、楓は戦慄を禁じ得なかった。
そんな楓に対し達也は補足的な説明を付け加えながらパソコンを操作する。そして次第にディスプレイ上には、過去の記事から最近の記事が掲載されたウィンドウが同時に複数表示されていた。
「……これは」
それらの記事を目の当たりにし、楓は唖然とした声を上げた。
九月上旬から中旬にかけての記事は、まるで出来の悪いホラー映画の紹介文を彷彿させる内容であった。
『世界各地で大規模な暴動が発生 軍との武力衝突で死者多数』
『暴動の拡大拡散、謎の伝染病が要因か WHO公式見解』
『米ニューヨークにて、世界感染症学会と世界公衆衛生会議の緊急総会が同時開催』
『新たな問題 新型ウイルスによる精神疾患が原因の殺傷事件が深刻化』
『誤診か? 死亡診断された感染患者が錯乱状態で息を吹き返し、看護師に怪我を負わす』
『日本国内において猟奇的殺人事件が相次ぐ 政府主導で非常態勢入り』
到底信じ難く、現実離れした内容のニュースが画面に氾濫していた。
そんな記事を一つ一つ食い入るように見詰めていた楓に向かって、達也が重い語調で言葉を発した。
「先月の終わり頃から新型の伝染病が世界的に流行しているって事で、フェーズ6だ何だって、世間は大騒ぎだった。でも、そんなものは只の始まりに過ぎなかったって皆すぐに気付いたよ。だって、ウイルス感染者が無差別に人を襲い喰うんだぜ? しかも死んで蘇るっていうおまけ付きで。ああ勿論、感染者に噛まれた人間も奴等のお仲間入りっていうのはセオリー通りね。正真正銘のゾンビ・アポカリプスが、マジで世界に到来したのさ」
「ゾンビ・アポカリプス……?」
「まぁ楓ちゃんのような普通の女の子には、ちょっと馴染みのない言葉だよね。要は、生ける屍“ゾンビ”による世界の終末って意味さ。ホラーゲームや映画なんかじゃ結構メジャーな展開だと思うけど、現実が実際そんな世界になってみるとガチで地獄だよ」
「…………」
達也の説明を聞いた楓は、形の良い桜色の唇を真一文字に引き結ぶ。
そして、厳しい眼差しをパソコンモニターに固着させたまま、微動だにせず沈思黙考する。
「楓ちゃん?」
「……現在の状況。最新の情報について何か分かりませんか?」
黙りこくる楓の様子を訝った達也が呼び掛けるも、その返事は極めて感情に乏しい無機質なものだった。
「え、いや、一週間前くらいから記事は更新されていないんだ。最後は、これ以上の感染拡大を防ぐ為に、首都圏全域に対する大規模な封鎖ラインを設けるっていう緊急放送がテレビやラジオなんかであったけど、それがどうなったかは結局分からずじまいさ」
「では、警察と自衛隊は?」
「あー…。確か治安出動とか何とかで、警察と自衛隊が全面協力して東京都内の各所に設営されている帰宅困難者用の避難所や、感染者隔離施設なんかの維持と護衛に従事しているみたいだね。でも多分、治安部隊の大半は封鎖ラインの見張りとかの任務に就いているんじゃないかな」
「……なるほど」
こくりと小さく顎を引いた後、楓は言葉を継いだ。
「ところで、この付近一帯の住民は何処に?」
「うーん、六日前にこの練馬区の小泉学園地区の方にも避難勧告が出されて、大半の人達は避難所に指定されている学校や集会所の方に避難して行ったよ。まあライフラインが途絶しちゃったから家に籠もるのは厳しいし、銃を持っている警察官や自衛隊員が守っている避難所の方が、自宅よりも安全だと思ったんじゃないかな」
「貴方は、どうして他の皆と一緒に避難しなかったのですか?」
「いやいや何を仰る。楓ちゃん、これは常識だから知っておいた方が良いよ。ゾンビもので避難所と言ったら、完全にデッドエンドまっしぐらだから。まぁテンプレだと、混乱直後は避けて暫くした後に、残った物資や生き残りの幼女とかを回収しに向かう方が安全なんだ」
「…………」
また奇怪な言辞を弄する達也の顔を、楓は冷やかな光を宿した眼差しで見詰めていた。
そんな無言の圧力を感じたのか、達也が微妙に上擦った声で言い訳を始める。
「ま、まあ、実際のところは俺引き篭もりだったから、部屋から出る勇気が無かったんだ。で結局、ウジウジ悩んでいる内に時間が経っちゃったんだけど、今度は俺の忠告を無視して避難所に向かっていた母さんがゾンビになって帰って来ちゃったから、余計部屋から出られなくなったんだよね」
「そうですか」
特段興味の無さそうな表情と声で返事をする楓は、その時別な事柄に意識を傾けていた。
(警察と自衛隊が総力を結集してこの事案に臨んだとしても、未曾有のアウトブレイクが発生した国内の治安維持は困難極まるだろう。そうなると当然裏で『研修所』も動き、各執行者達は政治の中枢を担う要人の警護、若しくは混乱に乗ずる不穏分子の排除の任に就いている筈だ。いずれにしても、俺は最優先で“先生”の所在を掴まなければならん)
憂いを心中に秘め、楓は一つの目的に思いを馳せる。
(何としても本来の俺――黒崎諒の肉体を探し出し、一刻も早く元の姿に戻らねば……!)
圧し掛かる不安と鬱屈を撥ね付けようと、楓は凄愴な決意を胸に、奥歯をきつく噛み締めるのであった。
毎度遅筆ですみません。
ゾンビなお話の執筆が楽しくて仕方がありません^^
シリアス一辺倒だと疲れちゃうので、適度にギャグとエロも入れていきたいです(笑)
ゾンビを愛し、TS娘を崇拝する変態的な作者ですが、次話も何卒宜しくお願いします!^^