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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第二章  転変
36/36

第14話 「銃声」

長らくお待たせしました。

遅いですが、令和2年、初の投稿です。






 




 ――九月二十八日、正午すこし前の時刻。

 東京都練馬区に所在し、都道24号線の幹線道路に面する鉄筋コンクリート造り二階建ての食料雑貨販売店スーパーマーケットは、店名を『グレートバリュー練馬小泉店』といい、どちらかと言えばややこぢんまりとした感がある中規模商業店であった。

 とはいえ、店舗敷地内には平面駐車場および一層二段自走式の立体駐車場が併設されていることもあり、都内ではそこそこの集客力と人気を誇るスーパーマーケットとして近隣住民から認知されていた。

 また『グレートバリュー練馬小泉店』の一階は売場となっており、二階は事務所や従業員専用の控え室兼休憩室と更衣室に加え、物置代わりの小部屋が幾つか設けられていた。


 普段であれば午前の開店と同時に、客が食材や日用雑貨品を買い求めて入れ替わり立ち替わり来店するが、しかし今は『グレートバリュー練馬小泉店』に訪れる客は皆無であった。

 例えその日が好天に恵まれ絶好の買い物日和であろうとも、客足はゼロだった。

 別に建物の改装のため閉店中であるとか、店舗の定休日だとかの理由でそのような状態になっている訳ではない。

 その証拠に、大勢の()()がスーパーマーケットの敷地内にとどまらず、付近の通り、近隣に建っている住宅や商業施設などの建物の内外といったありとあらゆる場所に存在し、無秩序な集団を形成していた。

 但し、それら群集は全て“生きている人間”ではなく“生者を襲う死者”であるが故に、商品の購買意欲などという真っ当な理由で各所に寄り集まっている訳ではないことは、一目瞭然いちもくりょうぜんであった。


 彼ら()()()()()の正体は、中国から端を発し瞬く間に世界中へと感染拡大した極めて奇怪で恐ろしく致死性の高い、謎の新型ウイルスの病者たちであった。

 そしてまだ午前中ながらも、真夏の如きじりじりとした灼熱の太陽光に照りつけられた建造物群の間をさまよい歩く、その感染患者ゾンビらが欲するたった一つのもの。それは、生きた人間の新鮮な血肉に他ならなかった。

 その意味合いにおいて、スーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』へ大勢の捕食者ゾンビたちが足を運ぶのには、確たる理由があった。

 すなわち、彼ら死者に残された唯一の本能である“食欲”を刺激する()()()()()()()――活力に満ちた生者特有の魅惑の芳香ほうこうただよわせる、黒崎楓くろさきかえで宇賀達也うがたつや高城花音たかしろかのんなる三名の“獲物”が店舗内に居るからであった。


 一方で、そこに行けば必要なものが手に入るというおぼろげな生前の記憶と染み付いた習慣が、感染者ゾンビたちをスーパーマーケットへと向かわせる要因にもなっていた。

 いずれにせよ、命の温もりがこもった鮮度の高い血と生肉を渇望する死者達が、生存者という極上の()()を貪り喰うために『グレートバリュー練馬小泉店』へ引き寄せられているのは、紛れもない現実だった。

 透き通るような青空の下、永久に満たされることのない空腹に支配された死者ゾンビの集団が、どことなく悲哀の色合いを乗せたおぞましいうめき声を口腔から垂れ流しつつ、生者の姿を求めて終わりのない放浪を続けていた。




 水の流れのようになめらかに、そしてまろやかに動く。

 力まずリラックスした状態で、ゆっくりと柔らかな静の運動を続ける。

 緩やかに動かされる手足と、深くゆったりとした腹式呼吸。

 空間に連綿と大小さまざまな円が刻まれ、優雅かつ流麗なひとつの『舞』が形を成していた。

 スーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』の二階、物置として使われている小部屋で『舞』――二十四式太極拳の套路とうろを、小柄で華奢きゃしゃ体躯たいくの少女が演じているのだった。


 少女が行っている套路は多少の差異はあるものの、空手などの日本武道における伝統的な“型”と概念は一緒であり、中国武術の古くから伝わる練習方法の一つであった。

 套路とは、主に連続的な攻守の技法、立ち方や歩き方(歩方、走方)、呼吸法(吐納術)に加え運気法(気功)といった武術に必要な要素を単独で効果的かつ効率的に練功できる、体系化された一連の動作である。

 そして二十四式太極拳は『簡化太極拳』とも呼ばれ、楊家・陳家・呉家・孫家・武家に代表される五大門派の純粋な武術としての古式太極拳(伝統拳)とは異なり、主に健康増進や入門套路としての位置づけで1956年に中国政府の体育委員会スポーツ部門が楊家太極拳の主要な型を統合簡略化して編み出した新しい太極拳(制定拳)だった。


 深い呼吸を行いつつ上体を左転させて、重心を前に踏み出している左足に移す。それと同時に、軽く握った右の縦拳を前方に柔らかく突き出し、左手のひらを右肘の内側に添える。

 切れ目なく今度は、重心を左足に乗せながら左手の平を上に向け、右肘の下から右腕をなぞるようにして前方へと伸ばす。合わせて右の縦拳もほどき、そのほどいた右手の平を上に向けながら両手を前に出す。

 少女が、二十一式の『転身搬攔捶ジュアンシェンバンランチュイ』から二十二式の『如封似閉ルーフォンシービー』の動作へと移行したのだった。

 余分な力を抜き、あくまでも緩やかに、まろやかに、滑らかな運動が続く。

 少女の身のこなしはとても静かでスローテンポであるにも関わらず、全てが繊細かつ優美であり、堂に入ったものであった。


 太極拳の套路とうろを行う少女の名は、黒崎楓くろさきかえで

 低い身長と肉厚に乏しい見た目のせいで、他人が抱く彼女の第一印象は“か弱い”や“儚げ”又は“貧弱”などの負の要素が先行しがちであるものの、しかしそれらを軽く覆すほど楓の容姿は完璧に整っていた。

 両手に収まる程の小顔は幼げながらも巧緻こうちを極めた人形の如き美麗さを有し、更に均整の取れた細長い手脚や、衣服の中でささやかな膨らみを主張する胸元および、たるみなど無縁の腹部。そして、しなやかに引き締まった魅惑的なラインを保持する下半身を含めた少女の全身は、全てきめの細かい白雪の肌で構成されていた。

 絶世の、目も覚めるような、はっと目を引く……そんな枕詞まくらことばが必然となる美少女、それが楓という人物であった。


 からすの濡れ羽色の如き、肩口まで伸びた艶のある綺麗な黒髪が、套路とうろの動きに合わせてさらりと流れる。

 黒目がちの瞳、まぶたを縁取る長い睫毛まつげ、そして桜色の唇と共にまっすぐ鼻筋の通った絶妙のバランスを保つ端正な小顔は、透明感に満ちた白肌の肢体の動きに合わせて方向転換を続けていた。

 やがて楓の姿勢が、二十四式太極拳の最終套路となる『収勢シュウシー』へと移行を開始した。

 白鶴の舞にも似た気品のある伸びやかな動き、悠然と流れる水のように切れ目なく続き、雲のように変転極まりない太極拳をひとつの芸術アートと捉えれば、その類い稀なる美貌と蠱惑的こわくてきな色香を漂わせる未成熟の身体を持つ黒崎楓は、様々な意味において最高の表現者に違いなかった。――たった一点を除いて。


 というのも楓が現在、着用している衣服に問題があった。

 それは、フリルがふんだんにあしらわれた赤と黒を基調とする露出度の高いワンピースであり、更に腰元の赤リボンや首のタイ、黒地のアームカバーやガーターストッキングといったアニメのコスプレ兼ゴスロリ衣装というものだったからである。

 しかも日本の自衛隊が異世界で活躍する姿を描く某作品に登場するヒロインのコスプレとなる、派手さとあでやかさが同居した特徴的なゴスロリ衣装に加え、付属ベルトに通したドライバーや釘などが在中する無骨な工具用腰袋(ポーチ)と鞘に収納されたサバイバルナイフが、彼女の細腰にぶら下がっているのだった。

 そんな風情皆無な恰好で、伝統的な中国武術である太極拳の套路とうろを行うのはどうひいき目に見ても不釣り合いと言うしかなかった。


 ちなみに当のコスプレ&ゴスロリ衣装はテレビアニメ版に準拠している為、全体的に肌の露出が多い上に、猫耳を模したヘッドドレスを頭部に装着しなければならなかった。がしかし楓は、意図的に頭部の装飾を外していた。

 その理由は、もちろん本人がネコミミ型ヘッドドレスなど付けたくなかったからであるが、しかしそのような楓の行いに対し、


「――やっぱりネコミミが無いのは寂しいなぁ……」


 という抗議めいた独り言をつぶやく見学者が居るのだった。

 ごく小さな声であればともかく、相手が声をひそめずに普通の声量で呟くものだから、当然それは楓の耳に届いていた。ましてや、段ボールが山積みとなっている狭い物置部屋ならば尚更である。

 しかしその声を聞いても楓の反応は、形の整った細い眉の片方がわずかにピクッと動いたのみで、表面上は平静そのものに見えた。

 黙々と太極拳の套路を続ける楓は、やがて終わりの姿勢である二十四式『収勢シュウシー』の最後の動作、自然立ちの状態で下腹部の前で右手の上に左手を重ね、左右の親指を軽くつけた座禅の際に行う手の形をとって緩やかな深呼吸を繰り返した。

 そして深呼吸が済むと結んだ両手を静かにほどき、ゆっくりとした動きで両腕を脇に下げる。


「……大人しくするから見学させてほしいと言ったのは貴方ですよ、達也。その約束が守れないのであれば、今すぐこの部屋から退去してください」


 套路の終了と同時に、近くの重ねた段ボール箱の上に腰を下ろしているお喋りな見学者の方へこうべを向けた楓が、冷ややかな言葉を放った。

 すると、中肉中背の身をネイビーの七分袖シャツと黒色カーゴパンツで包んだ二十代半ばの男性――宇賀達也うがたつやが、慌てて椅子代わりにしていた段ボール箱から立ち上がった。そしてすぐさま、焦った顔で早口にまくし立てる。


「いや、誤解なんだ楓ちゃん。今のは君に対する発言じゃなく、俺の本音というか心の声が勝手に口から漏れてしまっただけなんだ。ほら、要するにあれだよ。強すぎる愛ゆえの衝動的な現象ってやつさ。可愛すぎる楓ちゃんなら絶対ネコミミが似合うのに、どうして付けてくれないのかなぁっていう疑問というか不満が心の叫びとなって、俺に独り言を強制させたんだ。とはいえ、どんな理由にせよ、余計なお喋りはしないっていう約束だったのに俺がそれを破ったのは事実だよな。ごめん、楓ちゃん」


「……まあ以後、気をつけて頂ければ結構です。指摘したいことはそれこそ山ほどありますが、貴方の特殊な性癖と言動に関しては、今さら何を言っても無駄だと理解しているので諦めます」


「何をおっしゃいますか。好きな女の子のネコミミ姿をおがみたいと思うのは、古今東西の男性が誰しも持ち合わせている共通の欲求、そして願望なんだよ楓ちゃん。ましてそれが美少女であれば尚更だ。元ネタのキャラとは設定ちがうけど、もしだよ? もし楓ちゃんがそのゴスロリ衣装にネコミミを装着した完璧な姿に加え、“にゃん”を語尾に付け加えて喋るなんていう『にゃん語』の量産が可能となった暁には……。そこらの男なぞあっという間に叩けるね!」


「…………死ね、にゃん」


「それ何か違うよ、楓ちゃん! っていうか、すっごい睨みつけながら底冷えする声でのにゃんは、逆に怖すぎるから止めて!」


 殺気をみなぎらせた楓の絶対零度の視線と言葉を受けた達也が、肝を瞬間凍結させ悲鳴を上げる。

 そのとき横合いから、


「わたしそのアニメキャラのコスプレの事はよく分かんないけど、達也さんの言う通り、楓ちゃん超かわいいし普通にネコミミ似合うと思う。にゃん付けも大抵の人はアウトだけど、楓ちゃんに限ってならわたし的には全然ありっていうか、むしろご褒美って感じ? あ、でも、今みたいに怒って言うのは無しね」


 楓や達也とは違う第三者の声が割り込む。声音は少女のものであり、控えめだが優しげで柔らかなものだった。

 その声を聞いた楓が、先ほどの達也と同じく段ボール箱の上に座るもう一人の見学者の少女へ目線を移動させると、鼻から息を吐き出しつつ不満げに述べた。


貴女あなたもですか花音かのん。以前にも言いましたが、例えどんなたわけたよそおいの衣服であっても、サイズがしっかり合いそれなりに機能的であれば我慢して着用します。例え常時このロクでもない衣装をズタズタに引き裂き、目の前の変態的言動を垂れ流す男に向かって投げつけたい衝動が湧き上がってこようとも、他に選択肢が無い以上、自制します。但し、舐め腐ったネコミミと語尾のにゃん付けは論外なので却下しますが」


「そ、そうなんだ。色々と複雑なんだね、楓ちゃん」


 柳眉を吊り上げる楓の言葉に対し、長い黒髪を後ろで束ねたポニーテールが特徴の花音と呼ばれた少女――ネイビーのカットソーチュニックTシャツ及びベージュのテーパードパンツといった出で立ちの高城花音たかしろかのんは、その綺麗に整った目鼻立ちと頬から細い顎にかけてのラインにあどけなさを残した小顔に苦笑を浮かばせながら、ぎこちなく返した。

 年齢は十五歳で現役の女子中学生である花音だが、多分に未成熟な部分を残しながらも身長は同年代の女子の平均より高めであるだけでなく、特にラフな衣服の上下の双丘そうきゅうを大きくかつ魅惑的に盛り上げているプロポーション抜群の肢体は、全体的にちんまりとした体躯の楓とは対照的に女性の色気に満ちあふれていた。


「そんな事より、なぜ二人ともこの部屋に居るのですか? 私の練習風景など見ても何も面白くないでしょうに」


「なぜって楓ちゃん病み上がりでしょ? なのに、いきなりトレーニングするっていうから心配で見に来たのよ。もちろん興味があったのも事実だけど。だってもの凄く強い楓ちゃんが、一体どんなトレーニングしているのか気にするなって方が無理じゃない?」


 言外に、お前ら他にやる事がないのかという含みを持った楓の問い掛けを、花音が相好そうごうを緩めながら無邪気な様子で返事する。


「俺も花音ちゃんと同じ理由さ。ところでさっき楓ちゃんが練習していた中国拳法みたいなやつって、もしかして太極拳? 正直、太極拳のイメージって沢山の爺さん婆さんが早朝に公園とかでのろのろ怪しく動いているだけって感じだったけど、実は極めると楓ちゃんみたいに超絶強くなれたりするのかな? だったら俺にも教えて欲しいな。あんま激しい武道とか拳法なんかは無理だけど、いま見た感じ太極拳だったら格闘技センスが無くても普通に出来そうだし」


「確かに先ほど行っていた套路とうろ……型は太極拳に違いありませんが、私は別に太極拳を極めてなどいませんし、それ以前にそもそも強さを求めて練習していた訳ではありません」


 花音に続いて発された達也の言葉に、楓がかぶりを振りつつ淡々と答えた。


「え、そうなの? じゃあどうしてやっていたの?」


「端的に述べれば、精神集中と健康増進を図るための道具ツールとして太極拳が最も都合よかったからです。色々な見解はありますが、私の認識する太極拳は肉体と技能の鍛錬を目的とした武術というよりも、一種の“禅”もしくは気功に他なりません」


「ふむ、禅か……。あれだね? 邪念があると和尚おしょうさんに棒で肩を叩かれたりするやつとか、きみのぜんぜんぜんせからぼくはっていうアレ的な事か。けど気功もロマンがあるよね。体中の気を両手に集めて、四角を作った手の間から強力な気功波をぶっ放したりとか是非やってみたいな。よし分かった。厳しい修行になりそうだけど、俺超がんばるから教えてくれ楓ちゃん。あ、ちなみに修行内容はハードでも、手取り足取りムフフでウフフのアダルトな感じでお願いします」


「……最初の方だけ貴方が座禅を意味することを喋ったのは分かりましたが、しかしそれ以降は全く意味不明です。とはいえ、達也がとりあえず私の話を真面目に聞いていないばかりか、馬鹿にしていることだけは十分過ぎるほど理解したので、相応の処置が必要だと存じます」


「え? あの、そ、相応の措置?」


 楓の只ならぬ雰囲気を感じ取り、達也がゴクリと生唾を飲み込む。

 すると幼い白皙はくせきの美貌を怒りに険しくさせた楓が、額に冷汗をにじませる達也の面前で自身の腰に巻いた工具用ポーチのポケットの蓋を開け、中から鋭く尖った小さな凶器――五寸釘をおもむろに一本取り出した。


「ええ。ここに一本の五寸釘があります。今からこの釘を貴方の腐った頭にぶち込み、中に詰まったクソごと風穴をこじ開けたいと思いますので、その場を動かずにじっとしていてください。脳の風通しが良くなれば、達也の混乱低迷し続ける思考も多少は改善されるでしょうし、なにより私の気分がスッキリします。これこそまさしく相互扶助そうごふじょの精神であり、WIN-WINの関係というやつでしょう」


 コクリと小さく頷いた楓が殺気を帯びた漆黒の双眼で達也を見据え、冷淡に告げる。


「いやいやいや、全然それ助け合いの精神じゃないし、絶対WIN-WINの関係でもないから! 普通にWIN-LOSEで俺KillされてDeathっちゃうよ! というか、脳に風穴あいたら即死だよ、あの世行きだよっ! 楓ちゃんが五寸釘を投げたらガチで殺戮レベルになっちゃうから本当に止めて! さっきのは決して楓ちゃんを馬鹿にした訳じゃなくて、単なるご愛嬌というか冗談だったんだけど、気に障ったのなら謝るよ。土下座しろっていうなら今すぐやるんで許してください! ついでにその小さいおみ足で、俺の頭や背中とかを踏んでくださるのであれば凄く、もの凄く助かりますっ!」


「お、お願いだから落ち着いて、楓ちゃん! 達也さんはいつも変なことばかり言うけど、悪気は無いと思うの。たぶんおそらくきっと。と、とにかく、楓ちゃんが危ない物を投げたら達也さんが大怪我……ううん、下手すると死んじゃうかも知れないから絶対に駄目。お願いだから許してあげて、ね?」


 眉間に深いしわを刻みあからさまな不機嫌さを示した楓が、小さな手に凶器たる五寸釘を握り締めて今まさに投擲とうてき体勢に入ろうしたところで、達也が平謝りをした。

 ただし達也の謝罪にあっては、多分に己の性的嗜好が見え隠れする珍妙なものであったが。

 その様子をそばで見ていた花音が血相を変えて二人の間に割って入り、なんとか流血沙汰を避けようと懸命な努力を行うのだった。


(若干、りていないようにも見えるが、まあこれだけ脅せば少しは反省しただろう。……それにしても今さらの話だが、やはり二人はこの身の()()()をしっかりと認識しているようだな。まあ、その件で何らかのトラブルが生じているわけでもないし、特に気にする必要はないだろう)


 何かと騒々しい達也と花音を視界に収めながら、楓は現状について思いを巡らせていた。

 会話をすれば大概ロクでもないことや意味不明な言語を垂れ流す達也に対し、楓は脅し文句と激昂げきこうを装った意趣返しで溜飲を下げようと企て、一応はその目標を果たしたのだった。

 それ故に先ほど発した言葉や一連の行為は全て演技であり、思考は周囲の反応を冷静に分析していた。

 常識的に考えて、小柄で線の細い非力な少女が五寸釘を相手に向かって投げつけたところで最悪、軽度の出血が関の山だろう。大怪我や、まして人死に云々(うんぬん)などという話は大袈裟もはなはだしい。


 だが達也と花音の二人は知っていた。

 楓が常識から外れた不思議な《力》の持ち主であり、単に釘を投げつけただけでも桁違いの破壊力をもって人を殺傷できることに。

 《力》――【念動力】。

 意思や思念などの強い精神作用が不可視の力場を具現化し、現実世界の物質に対して既存の物理的要因なしで移動やその他の現象を発生させる能力を【念動力】またはPKといい、同時にそれらの総称がサイコキネシスであることも楓は理解していた。

 正確には少女の肉体に転移した“黒崎諒くろさきりょう”の自我に、元々の人格である“楓”という幼い少女の意識が流れ込んで結びつき、その結果、超能力に関する様々な知識と経験が記憶に上書きされたのであった。


(【念動力】にPK、サイコキネシスか。随分と荒唐無稽な話だが、しかしその不可思議な《力》がなければ貧弱な我が身では到底、この地獄での生存が絶望的だったのは間違いない。その点では感謝するべきだろうが、そもそもの話として“執行者”たる自分が、目覚めれば見知らぬ施設のベッドで寝ており、しかも突如として超能力少女になっていたなどとは、運命の悪戯いたずらというにはあまりにもたちが悪い。ともあれ一刻も早く元の身体を取り戻し、“先生”のために責務を果たさなければ)


 降り掛かった理不尽な境遇に眉を曇らせつつも、内に秘めた決意を改めて固めた楓は、これまでの経緯いきさつ脳裡のうりによみがえらせた。

 目覚めた後、曖昧な記憶に頭を抱えながら、襲い掛かる生きた人間を喰う感染者ゾンビらの包囲網をどうにか切り抜け、見慣れぬ施設から脱出した事。

 そして謎の施設から付近の住宅街へと逃れ、諸々の事情から立ち寄った民家で宇賀達也と出会い、紆余曲折を経て共に行動するようになった事。

 次いで、夜を迎える前に十分な食糧と一晩の安全な寝床を確保するため訪れた食料雑貨販売店スーパーマーケットでの、極めて異端かつ強靭な身体能力を誇る感染者ゾンビの“男”と文字通りの死闘を演じた事。


 また同スーパーマーケットには先客として二名の避難者がおり、幸いにして“男”の襲撃を免れ生き残った一名、高城花音が後に合流した事。

 一方、死闘の末、辛くも強敵の打破に成功したものの怪我および心身の疲労が激しく、回復に数日を費やした事。

 そして先日、未だ完治には程遠いが、ようやく誰かの補助なしで日常生活動作をこなせるまで心身の調子が戻った為、本日の朝食後、リハビリを兼ねて以前に習い覚えた太極拳の套路(とうろ)を行った事。

 ちなみに、本日の朝食の前に別室で就寝中の達也を起こそうとした際、下半身の一部分においてギンッとそそり立つやけに立派なナニかを現認してしまった()()()に関しては、鋭意努力の結果、記憶から丸ごと削除デリートすることに成功(?)していた。


(“先生”が全ての件のキーパーソンであるのは確実だ。しかし問題は、首都圏から日本全国規模へ拡大した感染爆発パンデミックによって社会機能が完全に麻痺まひしているこの状況下で、どうやって“先生”と連絡を取るかだ。警察と自衛隊の活動に期待して生活インフラの復旧を待つ? あり得んな。かといって何か妙案があるわけではないが、人喰いの化け物(ゾンビ)集団が外をうろついている以上、積極果敢に自ら行動せねば待ち受ける運命は『死』のみ)


 色素の薄い白く小さな手に目を落とした楓が、更に意識を思索へと埋没させる。


(だからこそ足止めされている現状をどうにか打開し、最も“先生”の居る可能性が高い新宿の蔵本商事本社ビルへと一刻も早くおもむかねば。よしんば“先生”が不在だとしても、そこなら豊富な武器弾薬と各種装具、戦闘糧食と非常用飲料水が保管されている上に、有益な情報や連絡手段も得られるだろう。何より本社ビルは要塞なみの堅固さを誇っており、籠城には最適な場所だ)


 己の目的地について様々な思考を巡らせていた楓であったが、その時、ふと先ほど行った太極拳の套路とうろのことが脳裡のうりをよぎった。

 現状の打開策の一環として、転移前となる“黒崎諒”であった頃の鍛え抜いた強くしなやかな肉体と運動能力をイメージし、病み上がりのリハビリを含めて虚弱かつ貧弱な少女の身体をほんの少しでも改善しようと行ったのが、練習負荷の軽い太極拳であった。

 太極拳に関しては、悪を排し正義を成す『研修所』の“執行者”であり『ジャッカル』の暗号名コードネームを与えられ徒手やナイフ、銃器などの近接戦闘を始め、他のあらゆる戦術行動に精通した“黒崎諒”である己が以前、肉体強化そのものではなく主に体内のエネルギー(呼気や精神集中などの内的機能)を強化する目的で習得したのだった。


 任務の達成に必要な集中力の保持とその向上を図るための方法は千差万別だが、多岐にわたる武術および格闘技を好んで研究する“黒崎諒”には、あくまでも興味本位であったとはいえ太極拳との相性は決して悪くなかった。いや、むしろ他の手段より効率的で効力に秀でていた。

 昨今のアメリカ国防総省においても、精神を使って脳の作用を変え物事に影響を与える様々な研究が進められ、なかでも伝統的な中国の『気功』を基盤に開発された現役と退役した軍人向けの健康増強プログラムは多数の実施者から、うつ病の緩和や不眠症などの減少、生活の質への満足度が高まったとの報告があがる結果を生み出していた。

 そのような事情にかんがみて()()()は太極拳の套路を実行したのだったが、結果はまさに予想以上であり驚くほどの実感をもたらした。


 “黒崎諒”であった頃も、太極拳独特のスローテンポな動作を通じて頭と意識を身体的緊張から切り離し、最良のリラックス状態に入ることで生物学・性的物質の自然機能、呼吸法、意図および集中力といった、概念上の内部エネルギー(いわゆる“気”)を高める方法を独自に会得し実践していた。

 太極拳のトレーニング効果は健康維持やセンシビリティを研ぎ澄ますのに役立ち、()()()でも少なからず良い影響を与えていたのは確かであった。

 だがそれはあくまでも一般的な範囲内の話であって、()()()の身で実施した先刻のトレーニングにおける内部エネルギーが小周天(身体の中を流れるエネルギーの道)を激しく流れる強烈な感覚は、以前と比べて雲泥の差があるのは間違いなかった。


(まさか太極拳の套路を通じて、これほど体調が回復するとはな。おそらく、この身にあらかじめ備わっている【念動力】とかいう不可思議な《力》が関連しているのだろうが、たった一回の稽古でこれ程の効力を体感できるのは異常という他あるまい。……まあ一日も早く健康を取り戻し、ここから出発できるというのであれば別にどうでも構わないが、意外と眉唾ものだと思っていた仙道とやらを紐解けば、何かヒントが見つかるかも知れん。もし機会があれば、それを調べてみるのも面白そうだ)


 また楓はさっと周囲を見渡し、こんな建物内の狭くほこり臭い閉塞感がただよう物置部屋などではなく、新鮮な空気と清涼感に満ちあふれ、生命の息吹を肌で感じられる開放的な大自然のなかで太極拳を行えば、さぞかし健康増進に関して絶大な効果を得られるだろうとの確信めいた予感があった。そして同時に、何よりも素晴らしい気持ち良さを味わえるはずだとも考えていた。

 喧騒に満ちた大都会よりも、人里から離れた静寂せいじゃくな場所を好む性格の()()()にとって、他人との関わりから隔絶された山や森などの自然に恵まれた環境は、趣味と実益において貴重な存在であるのは確かだった。

 自分の好きな情景を思い浮かべ、後はついでに温泉なんかもあれば最高だ、などと意識を空想に傾けた楓が、冷たい相貌そうぼうを崩し満足気な様子でコクコクと小さくうなずいていると、それを見た達也が遠慮がちに話しかけてきた。


「あ、楓ちゃん。謝罪の意味を込めて、君に対してひとつだけ助言というか、忠告をしてもいいかな」


「……何ですか?」


 再び、透明な氷像を彷彿ほうふつさせる冷ややかな表情へとおもてを戻した楓が短い返事をすると、達也がおもむろに切り出した。


「うん。さっき楓ちゃんがやっていた太極拳についてだけど、一人もしくは俺や花音ちゃんの前で練習するのは全然問題ないと思うんだ。けど、それ以外は絶対に駄目だ、決して認められない。なぜって? そりゃもちろん、やたら短いそのスカートで足を上げたりかがんだりしたときに、君の綺麗な太ももの先にあるミニサイズの丸い桃ヒップとセクシーな紐パンが丸見えになっていたからさ。楓ちゃんの動きに合わせて俺も見る角度をちょっと変えてみたりしたけど、まさに想像以上だったよ。ふりふり動くあらわなお尻を見ながら俺は、非情な現実の前では絶対領域という言葉など存在しな――――うわっ!!」


 真面目くさった顔つきで色情まみれの言辞を並べ連ねる達也であったが、それは電光の速さで飛来した五寸釘によって強制遮断された。

 達也の顔面すれすれを通過し、一瞬で物置部屋の壁に五寸釘を根本までめり込ませた投擲とうてき者は無論、楓において他なかった。


「チッ、外したか。ああ、すみません。手が滑りました」


「いや楓ちゃん、いま完全にる気で釘ぶん投げたでしょ! というか、最初にチッって舌打ちした後、小さな声で外したって呟くの聞こえたんですけど!? 俺、すっごい命の危険を感じるんだけど気のせいじゃないよね、絶対!」


「ちょ、ちょっと楓ちゃんストップ! 達也さんの方もこれ以上、変なこと言っちゃダメ! 確かに楓ちゃんが着ている服って普通でも際どいっていうか、むしろギリギリアウトな感じがするけど。でもだからといって、下着が見えていることを男性から指摘されたら例えそれが本当のことでも、すごく恥ずかしいし嫌な思いをするの、女の子は。分かるでしょ?」


 ややズレた意見を述べながら、慌てた様子で花音が仲裁に入る。

 顔面を蒼白にさせる達也と、花音の発言に対して物申すために口を開く楓。

 そして楓が声を発するその直前、


 ――タタン、タタタタン、タタタタタタタ――


 という、どこか爆竹の炸裂音にも似た乾いた物音が、部屋に設置されている腰高窓の外からはっきりと、そして近くから尾を引くように連続で聞こえてきた。

 しかも音は一つだけにとどまらず、重複するような形で二つに分かれてこだましていた。


「これは、銃声……?」


 疑問の口調であったが、しかし楓の理性と経験は瞬時にその物音について正確な判断を下していた。

 故に、それが自動小銃マシンガン連射フルオートでの発砲音であることを楓は悟り、次いでこれから待ち受ける未来についても理解していた。

 鳴り響き続ける銃声と共に、生者の血肉を喰らう死者ゾンビたちの凄まじい咆哮ほうこうが一斉に外で湧き起こる。



 時刻はちょうど正午を迎え、おびただしい“死”の運命が楓、達也、花音を飲み込もうとしていた――――














新年が始まってから既に結構日にちが経ってしまいました。

本当は昨年末に何とか投稿を間に合わせようとしましたが、普通に無理でした。すみません。

とまあ、相も変わらず酷い遅筆ですが、令和2年新年度と新展開でちょうどいいかなと思い、今回のお話を執筆しました。

皆様お待ちかねの(?)、主人公楓ちゃんが超久々の登場です。

昨年は、仕事やら新居への引っ越しやらで全然執筆する時間が取れなかったのですが、今年は新しい場所で腰を落ち着けて活動できると思うので、どうにか執筆速度を上げて投稿期間を少しでも短くしていきたいと思っております。

スローペースですが、読んでくださる皆様のご期待に添えるよう今年は頑張っていきたいので、何卒よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ついに楓ちゃんがでたー! 更新ありがとうございます! たたたまらーん! ムハー! [一言] 「しね、にゃん」 爆笑ですよこんなん。一応言ってくれる楓ちゃんの優しさが感じられました…
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