第12話 「策謀する者達」
大変長らくお待たせいたしました。
長いです、加えてやや話が難しいかも知れません。
――九月十七日、午後一時。
新型ウイルス感染患者による大規模な“暴動”の被害拡大を防ぐ為、機動隊と陸上自衛隊による都心封鎖作戦が発動されてから二日後。
東京都新宿区西新宿某所にて――。
そのビルは、日本屈指のターミナル駅であるJR新宿駅西口からやや離れた場所にあり、また飲食店が入った雑居ビルが建ち並ぶ繁華街や、副都心と呼ばれる超高層ビル群が林立するオフィス街を結ぶ通りの一角にあった。
広大な面積を誇る新宿中央公園を始め、東京都庁、京王プラザホテル、財閥系企業ビル等といった象徴的な建造物群の中で、そのビルは巨大で外観も近代的だったが、しかし付近の瀟洒な造りのビルと見比べるとやや地味な存在といえた。
つまり『蔵本商事株式会社』なる当該ビルは、斬新なデザインで設計されている訳でもなく歴史的な重厚感を誇っている訳でもないが故に、関係者以外の者にとっては何ら面白みのない一般的な建築物に過ぎなかった。
……ただしそれは、あくまでも外見だけの話であるが。
蔵本商事本社ビルは、その存在自体が他の企業や会社とは一線を画していた。
強化コンクリートに囲われたエントランスホール正面のガラスは全て多重構造の防弾性能を有しており、更に出入口の自動ドアを通り抜けた先の空間は守衛室、受付カウンター、エレベーターホールと順に続いているが、どれも厳重なセキュリティシステムの監視下に置かれている。
それは、天井の至る所に設置されている監視カメラを始め、エントランスからエレベーターホールへ通じる歪な通路の壁には金属探知機が巧妙に隠されていたり、他にもX線撮影機材が内装にカモフラージュされて要所に配されているのだった。
無論、システムだけでなく人材も普通ではない。ビルの保安を担う守衛、総合商社である蔵本商事に勤めるほぼ全ての社員、果ては受付嬢や清掃員に至るまで、とある“組織”の出身もしくは関係者という具合であった。
“組織”――名を『研修所』といい、それの実体はあらゆる非合法手段を用いたトラブル処理のエキスパート養成機関であったが、表向きには会社が携わる各事業に必要な知識や技能を修得する為の、いわば社員教育の場として認知されていた。
一方、蔵本商事は機械、医療インフラ、エネルギー、金属資源、化学品、食料、農林資源、消費財といった生活産業分野の他に民間警備事業にも幅広く手を染め、物品の販売及び貿易業、国内外における各種製品の製造・販売やサービスの提供、各種プロジェクトの企画・調整、投資ならびに金融活動などグローバルに多角的な事業を展開している。
また資本金は二〇〇〇億円あまり、社員数にあっては単独で約三五〇〇名、関連事業所などを含めれば延べ従業員数は六〇〇〇〇人を優に超え、年間売上高は四兆円近くにも達し、業績を着実に上げているのだった。
つまり、非の打ち所がない優良企業体として社会に溶け込んではいるものの、しかしそれが『研修所』を母体とする二重構造の組織であることを知っているのは、ごく一部の限られた人間のみであった。
そもそも『研修所』なる非合法の“組織”が設立された経緯には、第二次世界大戦――太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦後、灰燼と帰した日本が急速な復興を成し遂げていく過程で、身ひとつで成り上がった蔵本宗一郎という人物が深く関わっている。
戦後復興の中で巨万の富と絶対的な権力を手にした蔵本宗一郎は、国内最大手の財閥グループの理事長を務めると共に、天文学的な資産を背景に日本政府を裏から操るフィクサーとなった。
そんな絶大な権力を握るフィクサーと政財界のトップに立つ者達にとって、国家の暗部というべき武器密輸や人身売買、麻薬等の違法薬物に絡む国際的なダーティビジネスの問題解決を図る機構の設立は必至であり、それが『研修所』発足の契機となった。
やがて時代の流れと共に、フィクサーの座は蔵本宗一郎から彼の長男である蔵本英雄へと譲られたが、その権力交代に合わせて『研修所』もまた、“組織”としての在り方や性質に変化が訪れた。
それは蔵本英雄の野望である、日本という小さな島国から世界のフィクサーへと羽ばたく為の足掛かりとして新たに創業した『蔵本商事株式会社』に伴い、事業拡大の際に生じる様々なトラブルを、苛烈な手段で極秘裏に排除する為の私兵として『研修所』の独占を目論んだのであった。
もちろんその動きに対し、同じく裏社会で暗躍する政治家、官僚、資産家、広域暴力団組織の組長といった闇の権力者らが相次いで反発するも、結局は全員、絶大な“力”を持つ蔵本英雄という名のフィクサーの前に膝を屈する形となった。
己に楯突く勢力を軒並み封じ、更に極めて危険な暴力装置である『研修所』を意のままに動かす蔵本英雄を阻む者など、もはや誰一人いなかった。
そしてまた、名実共に裏社会の頂点に君臨するフィクサーの富と権力に縋ろうとする者も後を絶たなかった。
裏の顔を持つ『蔵本商事株式会社』の主なクライアントは日本政府であり、当然、莫大な機密費が国から支払われている。が、その一方で、会社は秘密裡に現代版の傭兵組織であるアメリカの民間軍事会社(PMC)と積極的な交流を図っており、『研修所』の活動は日増しに闇深く、より過激化の一途をたどっていた。
そんな情勢下において某月某日、国粋主義を標榜する一団がフィクサーたる蔵本英雄に接触を図り、とある提案を持ち掛けてきたのだった。
だがその提案は人類史上最悪のものであり、日本はおろか世界の文明社会を滅亡させる危険性を孕んでいた。
あまりにも独善的で、どこまでも純粋な意志をもった一握りの人間の策謀が、未曽有の新型ウイルスによる感染爆発を引き起こし、尚かつ今も蔵本商事ビルの周囲を取り巻く、生者の血肉を貪る屍者の猖獗を極める結果を生み出した。
一連の出来事は全て、世界の基軸たるグローバル資本主義、新自由主義を否定する者達が既存の原則や価値観を打破し、独自の新秩序構築の理想を掲げ行動したが故に生じた悲劇であった――――
「――以前にもお話しましたが、今の日本に蔓延る愚民思想と呼ばれる“病魔”は、それこそ人間を人喰いの化け物に変える新型ウイルスよりも遥かにタチが悪く、適切な治療を講じずに放置すれば死……つまり、この国に待ち受ける未来は滅びしかなかったはずです」
蔵本商事ビルの四十階、社長室に配された応接ソファから生真面目な声が上がる。
会社のトップが所在するその空間は、広々としたフロアの床に敷かれた分厚い絨毯、落ち着いた内装、デスクやデスクチェア、書棚、観葉植物、応接セット等といった高価な調度品がバランス良く置かれ、気品と高級感に満ちていた。
大きな窓から射す眩い陽の光が室内を満たすなか、今の声を聞いた別な人物がデスクで東京の景色を見つめながら言葉を発した。
「適切な治療……か。なるほど言い得て妙だが、しかしまた随分と乱暴な治療方法だな。どちらかと言えば今回の案件は、治療などと生易しい表現ではなく緊急手術と呼ぶ方が妥当ではないかと私は思うがね。まあ、それより問題は患者側の体力ではないかな? 現状、君の言う荒療治に耐えるだけの体力が患者――この国には無いというのが私の率直な意見だ」
「おっしゃる通り、その懸念はぼくも抱いています。正直なところ、首都東京にばら撒いた未知の新型ウイルスが、まさかあのような形に進化するとは完全に想定外でした。それこそ本や映画、ゲームなどのフィクション世界に登場する怪物『ゾンビ』が実在となり、文明社会を脅かすとは……まさに“事実は小説よりも奇なり”ですよ。いや、もしくは“神の采配”と呼んだ方がこの場合は相応しいのかも知れませんが」
窓際に立つ人物――年配の男性の厳しさを帯びた硬い声音に対し、革張りのソファへ腰を沈めている和風のキリっと引き締まった面持ちの男が、やや苦笑交じりに答える。
その答えを聞き、男性は年輪を刻んだ容貌を窓へと向けたまま、再度問いを口にした。
「なるほど、懸念……か。では、君の言う想定外の出来事で例えこの国が滅亡することになっても、それは“神の采配”な訳か。分からんな。宗像くん、ひょっとして君はこの事態を憂慮はしていても、心の底では完膚なきまでの破滅を望んでいるのではないかね?」
「破壊と創造は表裏一体ですよ、蔵本さん。ご存知のように、新型ウイルスが世界規模で猛威を振るう前、日本は政治経済の両面に加え思想すらも袋小路へと入り込み、国家や国民の疲弊と閉塞感は末期的でした。またその一方で、冷戦終結後において世界を表層面でのみしか捉えることの出来ない自称保守や左翼は思考停止に陥り、永遠と不毛な議論を続ける始末。挙句の果てには、保守主義と過酷で絶え間ない階級闘争の温床たる新自由主義が水と油であることを解しない愚物が政界に跋扈し、グローバルという名のアメリカニズムの追従と戦後体制の維持に腐心するだけの売国政治がこの四半世紀、大手を振ってまかり通ってしまったのです」
「その結果、我が国は根幹から腐敗し解体されていった……か。それ故に君は『創造』という言葉を使ったのだな。“改革”でも“再生”でもなく、古き体制を根こそぎ滅ぼし真の意味で新しい“日本”をつくるという意味合いで」
「ええ、その通りです。『戦後レジームからの脱却』などとうそぶきながら、その実、己の保身の為に対米追従と売国路線の道を邁進してきた権力者および、短絡的な個人主義に走り、自分の頭で考えず、自分の意志で決めず、自分の判断で動かず、常に自己正当化の皮を被って自身の責任から逃避する大衆の無責任体質は、時代の流れと共に極めて深刻な綻びと歪みを国家にもたらしました。そしてその弊害はもはや修繕など不可能の状態であり、早急に何らかの手段を講じなければ、日本という国は愚劣な大衆社会に翻弄されたまま“常識”を見失い、やがては形骸化した“日本人”だけしかいない空虚で無機質な奴隷国家と成り果てましょう」
宗像と呼ばれた人物――衆議院議員、宗像亮憲が強い口調でそう述べてからひとつ呼吸を置き、更に言葉を継ぐ。
ソファに座る宗像亮憲は今年で四十一歳を迎えてもなお、端正な顔立ちとほっそりした体型を二十代の頃と何ら遜色ない若々しさで保っていた。またそれと同時に、最高品質の素材で仕立て上げられた洗練かつ都会的なデザインのオーダースーツを自然に着こなす貫禄も兼ね備えているのだった。
「そういう意味では、ぼくが完膚なきまでの破滅を望んでいるという蔵本さんのご指摘は、まさに的を射た指摘と言えるでしょうね。右も左も上から下まで小手先だけの革新幻想に踊らされて本質を見失い、永久に迷走を続ける今のこの国では中途半端な覚悟や施策などもはや無意味。ならばどうするか? 解決策はたったの一つだけです。無知と忘恩、詐欺と欺瞞に凝り固まった国に未来など皆無ならば、あらゆる犠牲と非難を覚悟の上で一度全てをリセットする為の破壊を断行せねばなりません。何故ならば、その徹底された破壊からの創造こそが明治維新に匹敵する本当の“革命”であり、崖っぷちに立たされた日本が生き残る唯一無二の手段なのですから」
「……“革命”か、まるで共産主義者の物言いだな。論理的な思考を積み重ね、拡大された人間理性の延長上に理想社会を見出そうとする進歩史観にのめり込めば、やがて行き着く先はフランス革命の末路や、ポル・ポト、スターリン、毛沢東といった独裁者らが社会正義の名の下に引き起こした殺戮の歴史の二の舞を演じるだけだ。高邁な理念を掲げて社会の変革を目指すのは結構だが、もし今回の件が失敗に終われば君や我々は国家存亡の危機を救った英雄どころか、卑怯卑劣なテロリストとして世界中の人間から糾弾されるのだぞ?」
東京の街並みを一望できる地上四十階の窓に立つ年配の男性――『蔵本商事株式会社』の筆頭株主兼代表取締役社長、蔵本英雄が目線を宗像へと移しながら苦々しい語調で言う。
六十代半ばの年齢に差し掛かっても未だ覇気に衰えを見せぬ蔵本は、その恰幅の良い躯を仕立ての良いダークグレーのワイシャツに深い茶色のストライプ柄ネクタイ、そして薄い縦じまが入ったネイビーのダブル六つボタンのスーツで固めていた。
年波を感じさせない身なりであったが、しかし額並びに頭頂部分における地肌の露出面積は広大であるが故に、肉体は老いを正直に示しているのだった。
「無論、全て承知の上ですよ蔵本さん。そもそもぼくは、左翼でも共産主義者でも合理主義者でもありません。付け加えるならば、復古主義や右翼らの過去の限定された時期に理想を見出す動きは、未来に理想郷を設定する左翼と理想主義という点でそう大差はないのです。だからこそ、ぼくは常々イデオロギーというものに対し疑念を抱いていました。そしてあらゆる思想や価値観は、個々の現実、歴史の副産物に過ぎないとぼくは考えています。故に『自由』や『平等』、『人権』などの価値も絶対ではなく、また普遍的ではありません」
座した姿勢で蔵本の眼差し受ける宗像は、更に話を続けた。
「先ほど蔵本さんはフランス革命について触れられましたが、まさしく件の革命は人間が生まれつき持つ普遍的権利……つまり自然権なる概念を基にジャン=ジャック・ルソーを代表とする近代啓蒙思想家たちが人民主権を提唱し、自由・平等・人権といった諸価値が次々と神格化された結果、生まれた地獄でした。自由は自由の名の下に抑圧され、大勢の人民が正義の名の下に虐殺される運命をたどったその歴史こそ、自由と平等の暴走の証左に他なりません。イギリスの政治思想家エドマンド・バーグが言うように、無秩序による無制御の自由は『自由』自体を破壊する。同じように平等や人権にあっても暴走を招けば、社会的機能は悲劇と虚無の蔓延によって内側から崩壊していく」
熱を帯びた言辞に浮かされる形で、宗像がソファから立ち上がる。
まるで何かの講演会か大学の講義のように、彼の長広舌は止まらなかった。
「ひるがえって我が国の現状はどうか? 戦後の高度経済成長を期に国は大義を見失い、国民の精神は社会が垂れ流す偽善・欺瞞・自己保身という毒に侵され続け、一億総愚民化に歯止めがかからない状態へと陥りました。一方、世論では独りよがりの自主、独立、自尊が幅を利かせた結果、誰しもが義務を放棄し権利ばかりを主張するようになりました。正当な権利とは、すべからく公共の福祉に反しないという『自由』の制限の下に成り立つ。言い換えれば、課された義務を果たしてこそ、初めて権利が主張できるのです。だが今の世の中はその逆、義務をないがしろにしたまま手前勝手な論理で権利を主張し、少しでも自分の思い通りに事が進まないと彼らはヒステリックに周りを攻撃するようになった」
「だからこそ君は、そんな病的で、幼稚で、卑劣で、無責任で、甘ったれた学生運動的な腐ったメンタリティーに支配された大衆社会に心底嫌気が差し、国家の破壊と再建に向けた計画を企てた。計画の実行に伴い、我ら『研修所』が手を貸して、中国から端を発した極めて高い致死率を有する未知のウイルスを東京へと運び込み、意図的に感染爆発を引き起こした。マスコミはそれを“東京アウトブレイク”などと呼び派手に騒ぎ立てていたが、事態は更に予期せぬ方向へと進展する」
宗像の言葉を引き取るような形で、蔵本が述べる。
すると言を認めて浅く首肯した宗像が、今度は薄笑い口元に張り付かせつつ蔵本の話を引き継いだ。
「そう。変異した劇症新型ウイルスによって発症した人間は全て『ゾンビ』という人喰いの化け物に変化し、都内のみならず日本中を未曽有の大混乱に陥れた。混乱の原因は、東京ほど大規模ではないにしろ羽田や成田、中部、関西、福岡といった主要な国際空港の他に、国際便を抱える各空港の封鎖、そして港湾封鎖の措置が甘かった為にウイルスは易々と国内へ侵入し、地方にまで感染が及んだからです。結局のところ、我々が都内で感染爆発を故意に発生させなくとも、いずれは同様の災害が国内で自然発生していたでしょう。もっともその場合は、現政府が血眼になって事態の鎮静化に乗り出し、どんな犠牲を払ってでも感染を封じ込めるでしょうから、混乱は拡大よりも収束する可能性の方が高い。だがそれでは意味がない、それでは我々の目的は成就されない」
「確かに、ウイルスがどんな変異をみせようが、封じ込めが達成されてしまえば我々の計画は頓挫してしまうからな。しかしだからといって、都内でのバイオテロと朝霞と練馬の自衛隊駐屯地に対する破壊工作は本当に必要だったのかね? ましてや、こちらの精鋭部隊とは別に、君の後援会組織である例の宗教団体に在籍する一部の信者が“神のお告げ”とやらを受けて、自衛隊や警察などの主要施設へ自爆テロを仕掛けるのは例え撹乱が目的だったとはいえ、いくら何でもやり過ぎだろう。これではまるで内戦ではないか。私はこの日本で戦争を起こす為に、君への協力を行った訳ではないぞ」
「誤解のないように言っておきますが、何もぼくは軍事クーデターや内戦で国家転覆を図ろうとは考えていません。第一『武力』という処方箋では根本的な解決にはならない。ましてや“愚鈍”に汚染されたこの国では尚更です。ならば、一連の破壊工作の目的は何か? もちろん蔵元さんがおっしゃった通り、我々の計画を阻害する立場にある治安維持組織の陽動と撹乱を狙ったのは確かですが、しかしそれはあくまでも副次的なもので、真の目的は国民の覚醒並びに選別を促すことです」
「国民の覚醒と選別、だと?」
宗像の不可解な言動に対し、蔵元が眉をひそめつつ訝しげな声を上げる。
しかし宗像の方は悠然とした歩調でソファを離れ、東京の景色が広がる社長室の窓へと視線を向けながら冷然と言い放った。
「変異前ですらほぼ一〇〇パーセントに近い致死率を誇る上に、凄まじい増殖力と感染力を有する今回の新型ウイルスは、更に短期間で遺伝子の急速な変異を起こして人間を共食いさせる最凶最悪の病原体へと進化を遂げました。この新型ウイルスが自然発生したものか、それともどこかの国または企業の研究機関が人為的に生み出したものであるかは定かではありませんが、少なくとも現時点おけるWHOの発表によれば、世界の感染者数は既に八億人を突破しているとのことです。しかもこの数字はネズミ算式に刻一刻と飛躍的な上昇を続けています。つまり今現在、日本を含め世界は、紛れもなく未だかつて経験したことのない未曽有の危機に直面している訳です」
睨みつけるような形で切れ長の目を窓外のビル群へ向けたまま、宗像は言葉を続ける。
「そのような状況下で、アジア各国に比べ遥かに恵まれた環境に生き、外因による脅威に晒される経験の無い日本人の大半は、この緊急事態に対してもメディアを通じ不安を口にするのがせいぜいで、問題と真剣に向き合おうとはしない。もし運悪く何かが起きたとしても国が、行政が、社会が何とかしてくれる、自分は被害者なのだから他者に助けてもらうのは当然の権利だという自己中心的な考えを決して変えない。関心事は自分の身の回りのごく狭い現実社会と、その逆に自分の世界観を都合良く補強し肯定してくれる情報過剰なネット社会だけ。だが、それでは起きたまま眠っているようなもの。ぼくが期待するのは、無関心と悪性の虚無主義を夢心地に眠り続ける彼らが、国家存亡の危難を契機に覚醒し、数多の犠牲から真理と道理を改めて学び取った上で、今度こそ正しい選択を行うことです」
「自分達を守ってくれるはずの自衛隊や警察がテロ攻撃によって機能不全に陥れば、拠り所を失った国民は過酷な現実の中で否が応でも自分自身で考え、動かざるを得ない。ましてや事態が混迷を極め、保身に走った愚かな政治家や官僚が国民を見捨てるような無様を晒せば尚更か。随分と乱暴なショック療法だが、虚構と欺瞞、そして腐敗の上に成り立つこの国を根底から破壊することで強制的な大衆の目覚めを促す一方、過酷極まる生存競争が愚民という存在を効率よく淘汰する、か。……ひとつ気になるのだが宗像くん、もしかして君は今回の騒動における膨大な人的、経済的損失を利用して民衆を扇動し、かつてのナチス・ドイツや戦前の大日本帝国のような全体主義国家の樹立でも目論んでいるのかね?」
蔵本の問い掛けに、窓に顔を向けていた宗像が振り返って答えた。
その宗像は、どこか面白がるような笑みを浮かべていた。
「その問いに今はYesでもあり、またNoとお答えしましょう。そもそもぼくはこの国で第二のアドルフ・ヒトラーを演じる気はありませんし、それ以前に、新たな独裁制を築き上げられるだけのカリスマ性を自分が持ち合わせていないことぐらい分かっています。が、しかし時流というものがありますから、国民の熱狂的な支持の下でぼくが新政権の首相として新たに生まれ変わった日本の舵取りを行うかも知れません。けどその重責を担うのは、ぼくではなく今は全く無名の誰かである可能性だって十分あります。先行きは不透明ですが、いずれにせよひとつ断言できるのは、この国の将来を決めるのは老人ではない、という事です。そうは思いませんか? 蔵本さん」
「それは嫌味かね? 四十代前半の若い君から見れば、六十代半ばに達した私など老人もいいところだろう。『老害』という蔑称を頭から否定する気はないが、とはいえ昨今の若者が高齢者よりマシかと聞かれれば、それもまた素直に首を縦に振る気には全くならん。まあ例えこの先どうなろうが、既に賽は投げられたのだ。我々に残された道は屍の山を築きながら、計画に従って只ひたすら突き進むのみ、か……」
口元を不機嫌そうに歪めながら言う蔵本とは対照的に、宗像は笑顔のまま「その通りです」と言って首肯する。
「――お話し中のところ大変恐縮ですが、お二人ともそろそろ出発する時間ではありませんか?」
すると、これまで同じ室内にいながら無言を貫いてきた第三の人物が、不意に蔵本と宗像に向けて声を発したのだった。
その人物は、先程まで宗像が腰を下ろしていたソファの対面に座していた。
「おっと、そういえばもうそんな時間か。では行くとするか、宗像くん。部下が屋上でヘリの準備を整え、私と君が来るのを待っている。フライト先は、確か例の宗教法人の施設本部だったな」
「ええ、そうです。ぼくの後援組織の方々が、本日そこで大事なパーティーを開いてくれるそうなので。この機会を利用して大勢の人間を我々の陣営に引き込むには、広大な敷地と要塞の如き堅牢な施設群、そして優秀な警備班に守られたあそこはまさに理想的な拠点と言えますからね。我々もそこでなら安心して活動に専念できますし、また要人だけでなく一般人の避難受け入れを積極的に行えば、良いアピール材料にもなるでしょう」
「違いない。じゃあ我々は一足先に出発するが、香月副社長もここでの業務に一区切りがつき次第、直ちにこちらへと飛んでくれ。ここでの仕事も山積みだが、向こうに拠点を移せば更に業務量は増す。悪いが君にはしばらくの間、東奔西走してもらねばならない。負担を掛けると思うが、君の辣腕なくして事は達成できんのだ。是非とも頼むぞ」
言い終えた蔵本は相手からの返事を待たずに、そのまま部屋の出入口扉へと向かう。
蔵本の後を追うように宗像も動くと、室内及び扉外に警戒待機していた複数名のダークスーツ姿の警護員が俊敏に動き、瞬く間に二人の護衛体制を整えた。
扉を開けた警護班に囲われながら、蔵本と宗像は社長室を出て行く。
「分かりました社長。ご期待に添えるよう、最善を尽くします」
ソファを立ち慇懃な態度と穏やかな語調でそう告げる第三の人物――『蔵本商事株式会社』の副社長である香月稔が、部屋を後にする蔵本の背中を見送った。
落ち着いた雰囲気を醸す色と柄のオーダースーツに身を包み、五十代前半の年齢に達しながらも、鼻筋の通った面立ちと均整の取れた体型を崩すことのない香月は、年不相応な若い容姿や言動、立ち振る舞いなどの全てが上品かつ洗練されていた。
だがそんな柔らかい物腰とは正反対に、去り行く蔵本の後ろ姿を見据える香月の瞳には、ウエリントン型メガネのレンズを通して凄烈な冷光が湛えられているのだった――。
「……古き体制の破壊、そして新たな国家の創造か。永田町の論理どころか、我が国の民主主義の根幹すら覆すような“革命”を一介の国会議員ごときが成そうなどと大言壮語も甚だしいが、少なくとも何の覚悟も持たずに私利私欲で動く俗物よりかは、国を憂い滅私奉公の精神で決起したあの世間知らずの方が遥かにマシだと思わないか? 鏑木くん――いや、それとも暗号名の“処分人”と呼んだ方がいいかね?」
『蔵本商事株式会社』の代表取締役社長である蔵本英雄と、衆議院議員の宗像亮憲が警護班に守られながら社長室を出て行った後、居残った同社の副社長である香月稔は部屋に配された社長専用のエグゼクティブチェアに我が物顔で腰を下ろすと、呼び出しに応じて出頭してきた中年男性に向かって尋ねた。
その中年男性の名は鏑木であり、また同時に“処分人”なる暗号名を付与された『影』の問題解決人であった。
鏑木が香月の方に顔を向け、答えを返した。
「どちらでもお好きなように。ただ私は主義や思想、政治がどうのとかいう小難しい話は苦手ですので、そちら方面でのコメントは遠慮させて頂きたい」
感情のこもらぬ無機質な声であった。
声音がやや低いことを除けば鏑木という男の人物像は、四十代半ばと思しき凡庸な容貌とくたびれた安物のスーツ姿が相まって、外見的には街ですれ違っても何の記憶も残らない、仕事に疲れたしがない中年のサラリーマンという印象を周囲に与えていた。
但し、それら全てが擬態であることは、完璧な気配遮断を行う彼の技倆を察すれば自ずと答えは導き出されるのだった。
「無駄なお喋りは嫌い、か。まあ別に構わんよ。ところで術後の経過は順調かね? 報告では、まだ本調子ではないと聞いたが」
「確かに万全とは言い難いですが、“仕事”に支障はありません。馴染むのにやや時間は掛かっているものの、『処置』のおかげで性能は現状でも前とは比較にならないほど増していますので、今すぐ動けます。“先生”自ら私に連絡を寄越すとは、何か厄介な問題でも?」
「ああ、それなんだが実は――――」
副社長という立場ながらも同時に『研修所』の最高責任者を務め、同機関の実動員である執行者たちから崇拝と畏敬の念を込めて“先生”と敬称されている香月が、不始末を起こした彼らの後処理を行う“処分人”こと鏑木に向けて、とある話を切り出すのだった。
混迷は、更なる危険を伴って加速する――――
凄まじく間が空いてしまいました。
というか、前回の投稿から年号が変わってしまいました。驚きです(汗)
仕事に、文字通り『忙殺』されてしまっています。
加えて新居にお引越しのお話なんかもあったりして、大忙しです。
エタることは絶対にないのですが、ガチで一日一行を目指して超ノロノロと執筆しています(泣)
なので、次話はもう少し早めの投稿を、とは思ってますが、どうか超長い目で見て頂けると本当にありがたいです。
続きを待ってくださっていらっしゃる方には、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
何卒、次話もよろしくお願い申し上げますm(__)m




