第11話 「Day of the dead⑪」
明けましておめでとうございます。
2019年、初投稿になります。
さっそくですが、少々長いです。
後、残酷な表現があります。苦手な方はお気をつけ下さい。
標的に左足のつま先を向け、左半身の姿勢を取る。
左膝を軽く曲げて、右脚を真っすぐ伸ばし体重の三分の二を左足にかける。
銃前部に取り付けられた柄……折り畳み式のフォア・グリップを左手で、銃把となるピストル・グリップを右手で握る。
スライドストックの床尾を右肩に当て、肩撃ちの射撃体勢から、銃口に消音器をねじ込んだH&K社製のパーソナル・ディフェンス・ウェポン(PDW)であるMP7の引き金をひき絞る。
次の瞬間、消音器に抑制された静かな発砲音と共に、MP7から発射された超音速の4.6×30ミリの弾丸が、射程十メートルにも満たない距離まで迫ってきていた標的に命中した。
銃機関部の上に装着された無倍率のドットサイト越しに、標的となる先頭を走っていた薄汚れたワイシャツにスラックスという出で立ちの四十歳代と思しき血塗れの男の頭部が弾け、床に倒れ込む姿が見えた。
更に、立て続けに響くこもった銃声。銃の排莢口から排出された空の薬莢が、次々と宙に舞う。
冷静に無駄なく、精確に素早く即時射殺を果たす為、単発での速射にて二番目、三番目、四番目と続いてHR教室前の廊下を全力疾走してくる、複数の標的らの顔面に容赦なく弾丸を叩き込む。
着弾したどの標的も、射出口となる後頭部から毛髪の付着した皮膚や頭蓋の破片、脳漿などを空中へと撒き散らしながら、廊下の床へと崩れ落ちていく。
計五人の頭部……脳を破壊されたことで無力化された者達は、常人とはその存在が著しくかけ離れていた。
彼らは、未知の新型ウイルスに侵されて一度死んでから、全ての人間性を代償に再び蘇生した者達であり“ゾンビ”や“感染者”などと呼ばれていた。
呼び名の由来は無論、正体不明のウイルスによって生ける屍と化した彼または彼女らが、永遠の飢餓に衝き動かされ生きた人間の温かで新鮮な肉を求めてさ迷う、ホラー映画に登場するかの有名なモンスター、“ゾンビ”と全く同一の行動を取るが故にそう言われているのだった。
また蘇った死者達は多少の個体差はあれども、生まれて初めて歩き出した赤子の如きヨタヨタとしたぎこちない足取りなどでなく、短距離走の選手も顔負けとなる猛烈なダッシュで生者に襲い掛かってくるのだった。しかも筋肉のリミッターが外れた火事場の馬鹿力状態という最悪のオマケ付きで、だ。
いずれにしても、唯一の急所となる頭部に被弾し脳を損壊した化け物――生きている人間の肉体を貪り喰う五体の感染者達は完全なる『死』を迎え、死屍累々の地獄絵図そのものと成り果てた廊下の床に転がっていた。
死が蔓延する廊下を底無しの冥さを宿した双眼で見詰めながら、三十手前の彫の深い面貌の男は、新型短機関銃MP7を構えたまま慎重に歩を進め始める。
男は、鋼鉄材が芯に入ったような頑強な長身体躯を包む黒地の戦闘服の上にタクティカルベストを着込み、更に腰には多用途ベルトが、膝と肘にはそれぞれ強化素材の戦術ニーパッド、エルボーパッドを装備していた。また、左脚に弾倉入れ、右脚には自動式拳銃のH&K Mk23ソーコムピストルが収められているレッグホルスターが装着してあった。
その男は、周囲の者から『ファング』という暗号名で呼ばれ『研修所』なる“組織”に所属する執行者――殺し屋であった。
銃身の先端に取り付けられた筒状の消音器から立ち昇る硝煙が、MP7の銃口を前方に向けたまま足を動かすファングの視界を僅かに曇らせた。
すると、血と死体で埋め尽くされた廊下を進むファングの視野の端に、床にへたり込んだ状態で首を持ち上げこちらの動きを凝視している、一人の男子学生の姿が映った。
一瞬、感染者かと思い反射的に照準を合わせかけるが、しかしすぐにファングはそれを中断し、己を食い入るように見詰める黒縁の眼鏡を掛けた、丸顔の肉付きのよい学生を無視して脇を通り過ぎた。
今しがた屠った五名の感染者の獲物が、汗と涙と鼻水で顔面をびしょびしょにさせながら床に座り込んでいる小太りの学生であったのを思い出したが故に、ファングは彼を脅威と見なさず放置したのだった。
しばらくの間、屋上に身を潜めながら学校を脱出するタイミングを見計らっていたファングは、やがて意を決すると階下を目指して移動を開始した。
だが五階へ下りたとき、生き血の滴る新鮮な“食料”に有り付こうと、上を目指し四階の踊り場に殺到するイカれた群集の姿を目撃する。
迫りくる死の危険に肝を冷やしたファングはすぐさま身を翻し、現在地である東側階段から一刻も早く離れると共に、廊下を渡った先にある西側階段の方を脱出ルートに選び目指した。
西側階段へ向かうには二通りの手段があった。
一つは、各HR教室が並ぶ南側の廊下を渡る方法。そしてもう一つは、音楽室や美術室、図書室などの特別教室が並ぶ北側の廊下を渡る方法である。
ただし問題は、人質が捕らわれていた教室に面した南側廊下の方が、無人となっている特別教室に面する北側廊下に比べると負傷者や遺体などの障害物が多く、加えて仕留め損なった敵が潜伏している可能性も全くないとは言い切れない事から、移動の危険が高くなるという点であった。
そのような事情に鑑みれば、北側廊下をルートに選ぶのは当然であり、ファングも無論そう考え行動に移そうとした。がしかし、それはすぐに断念せざるを得なかった。
理由は実に単純だった。
北側の廊下へと足を向けたファングであったが、その直後、生きた人間の肉体を死肉に変える化け物連中が憐れな犠牲者に群がり、周りには目もくれず惨たらしい食事を行っている場面に出くわしたのである。
幸い捕食者らは食事に夢中でファングの存在に気付く様子はなかったが、その代わり現在進行中で喰い裂かれている生贄の男子生徒が放つ大音量の苦鳴によって、四階の階段踊り場に続々と集結している感染者たちがこの場に引き寄せられて来るのはまさしく時間の問題だった。
目の前にいる脅威の排除は容易いが、万が一始末に手間取ればその時点で確実に詰む。
ファングは瞬時にそう判断し、人喰らいの化け物どもが今いる場所へ大挙して押しかけてくる前に、可及的速やかな行動を開始した。
すなわち、あっさりとその場を見限るや否や、くるりと素早く躰を反転させ、多少の危険を覚悟の上で直ちに南側廊下へと向かったのである。
そしてその後、細心の注意を払いつつも迅速な足運びで二年の教室に面する廊下を突き進むファングの視界に、複数の感染者から追走され必死で逃げる少年の姿が偶然飛び込んできたのだった。
先ほど目にした、化け物連中に喰われていた男子生徒と同様、ファングは目の前の少年を助けるつもりなど毛頭なかった。
ただ、放置もしくは引き返して血路を開くよりは、前方の脅威を排除する方が遥かにリスクの少ない選択であると判断したが故に、必要に迫られてファングは逃げる少年を猛追する感染者たちの頭を撃ち抜いたのだった。
その時、眼前の標的を屠りながらも、ファングは無意識に己の運命について思いを巡らせていた。
“組織”に背くと決めた己が、この先どれ程の屍山血河を築かねばならないのかを考え、また同時に覚悟していた。
例え、この光台高校を武装占拠したテロリストグループ“革命軍”のメンバーだろうが、人を喰らう出来損ないの屍者だろうが、裏切り者を消す為に『研修所』から送り込まれてくる他の執行者であろうが、己の前に立ちはだかり障害となる者は誰であろうとも全部殺す。
理想郷を実現する為に、現日本政府からの離別を決意した『研修所』の長たる“先生”の崇高な理念を拒絶し逃げ出そうとする者に、安息などは永久に訪れない。
“組織”の命令で一時的に協力していた“革命軍”のリーダー、飛田泰章を自らの手で始末したのと同じく、己もまた遠くない将来において他の誰かに殺されるだろうとファングは半ば確信を抱いていた。
だがそれでも一向に構わなかった。
同じ野垂れ死にするとしても、首輪をはめられたままボロ雑巾のように使い捨てにされるよりかは、ほんの僅かな時間でも桎梏を逃れて自分の意志で生きる事の方がずっとマシだとファングは考えていた。
物心ついた頃から『研修所』に籍を置き、流血と死に彩られた人生を歩まざるを得なかったファングにとって、この混乱こそが“自由”を手に入れる最初で最後のチャンスだった。
もっとも、首尾よく学校を抜け出せたとして、その後の予定など何一つ立てていないファングであったが、それでも繰り返される殺伐の日々に摩耗した精神は『研修所』そして“先生”の下から、一刻も早く離れろと悲鳴を上げ続けていた。
例えその先に未来はなくとも、己が単なる『道具』ではなく一人の『人間』として生き、死にたいと渇望したが故に、ファングは全力を賭して戦うのだった。
障害となる脅威は排除し、行動の阻害となる要素は徹底的に叩き潰す。また、それ以外にあっては利用できるものは利用し、役に立たない存在は容赦なく切り捨てる。
だからこそファングは先刻、敵のかく乱を狙い犠牲を承知の上で教室に監禁されていた人質をあえて逃がし、その上で銃撃を仕掛けたのであった。
ファングが実行した作戦により、多数の人質が銃撃戦に巻き込まれ死傷する事態となったが、しかし結局のところは校内に立てこもるテロリストグループが交渉に応じない以上、警察の特殊部隊が人質救出という名目で強行突入してくるのは時間の問題であり、無論そうなれば、混乱の中で少なくない犠牲者が生じるのは確かといえた。
良心の呵責や後悔といった感情などファングは持ち合わせていなかったが、それでも流石に、感染者の集団が学校へ雪崩れ込むという事態は完全に想定外の出来事だった。
“組織”からの通達で、事前に新型ウイルス罹患者の特異性や、都内における感染爆発についての情報はある程度掴んでいたものの、ここまで状況が悪化するとはファングも思っていなかったのである。
――だからであろうか。
感染者がもたらす地獄の顕現は、幾多の修羅場を潜り抜けてきたファングの鋼の意志すらもぐらつかせる程に酸鼻極まるものであった。
――だからその邂逅は、ある意味で運命の出会いに違いなかった。
偽善者ぶって弱者を助けるような愚劣な真似など、絶対にするつもりはなかった。
また現実問題として他人に情けを掛ける余裕など無いし、仮にあったところで、今までの人生で散々手を汚してきた自分が今さら博愛精神に目覚めるなど、それこそ馬鹿げているファングは思っていた。
それ故に、ファングは泣き腫らした顔で座り込んでいるその少年を一顧だにすることなく、さっさと通り過ぎようとしていた。
だがその時、少年が発した声により、無視を決め込んでいたファングの足がぴたりと止まった。
それは、少年の口から発せられた言葉が、ファングにとってあまりにも予想外だったから。
それは、少年の口から述べられた言葉が、助けや救いを求める類いのそれではなく、血を吐くような渇望であったが故に。
「ぼ、僕……、あなたのように、強く、なりたい……」
少年の途切れ途切れの声は、ほんの僅かに揺れ動くファングの心の隙間へ、確かに滑り込んだのであった――
もう駄目だと思った。
もう自分は、感染者に喰い殺されると思った。
現に、必ず戻るという約束を交わした佐々木希の命を無残に奪った感染者らに追いかけられ、逃げ切ることも出来ず無様に転んでしまったのだから。
まさに絶体絶命の状況だと、丸みを帯びた肉付きのよい体格の男子生徒――瀬戸健太は痛感していた。
死の恐怖に直面し、健太は床に倒れたまま泣き叫んだ。
しかしその瞬間、健太の鼓膜は感染者の雄叫びとは別種の音を拾った。
すなわち、連なるように響く減音された独特のこもった発砲音と、直後に健太の背後で湧き起こる、液体が満たされた袋を床へと叩きつけ中身をぶちまけたようなドシャッとかビチャッというような物音だった。
驚き、弾かれたように面を上げた健太は、涙の水滴が付着した眼鏡のレンズを通しそれを見た。
小型の機関銃を立射の姿勢で構える、恐ろしく危険でどこまでも謎めいた頑強な長身体躯の男の姿を。
健太が慌てて後ろを振り返ると、自分を追ってきた捕食者らの姿は消えていた。
いや、正確に述べるならば、長身の男の射撃によって追跡者は全員頭を撃ち抜かれ、血の池と化したリノリウムの床へと沈んでいた。
あまりにも目まぐるしい状況の変化に健太の思考はついてゆけず、しばし呆然とその場で固まっていた。
運動を苦手としていながらも、感染者から逃れる為に死にもの狂いで走った健太は、額から滝のような大量の汗を滴らせつつ、肩で息をするような有様だった。
その時、思い出したように健太は再び頭を前に向け、涙で濡れた双眼をこちらの方に近寄ってくる長身の男へと据えた。
男が自分を助けてくれたなどという甘い考えは、微塵も湧かなかった。
健太は知っている。目前を歩く男がそんな生易しい存在ではないことを。
彼は、学校を占拠した武装グループの一員であったにも関わらず仲間を裏切り、更に敵を殺す為なら――健太を始めとする二年E組の生徒達――人質を容赦なく盾にするような非情かつ非道な悪人であるのは紛れもない事実であった。
床にへたり込む健太など目もくれず横を通り過ぎようとしている長身の男が、廊下に広がる地獄を生み出した原因の一端を担っているのは確かであることを、頭ではきちんと理解していた。
百も承知なのだ。男が正義の味方、英雄、救世主などという善を示す言葉とは真逆の悪者であるのは。
だからこそ健太が口にする言葉は、相手の慈悲を期待して助けを求めるものでなかった。
いま健太が切願し、切望し、切に欲するものこそ“力”であり、また“強さ”だった。
誰かが自分を救ってくれるのを待つような、誰かが自分に手を差し伸べてくれるのを祈るような、誰かの哀れみに縋るような生き方を健太は拒み、代わりに力強さを希求した。
それは、己が無力であったが故に、約束を果たすことが出来なかったから。
それは、己が弱者であったが故に、佐々木希という名の心優しき少女を死なせてしまったのだから。
「ぼ、僕……、あなたのように、強く、なりたい……」
声は上擦り、しかも呼吸が未だ乱れている影響で言葉は途切れがちだった。
だが健太は言った。言わずにはいられなかった。
目の前の男が、例え鬼や悪魔や人でなしのクズ野郎であったとしても、その“力”が本物であるのは間違いない。
何故ならその証拠として、武装テログループを相手にたった一人で戦い、更に怖気を振るう狂暴無残な感染者が群れを成して襲ってくる中をなお生き残り、こうして自分の前に立っているのだから。
それ故に、男の有する“力”に対しての血を吐くような羨望と渇望が、“強さ”を欲する健太の口を無意識に滑らせたのであった。
「……何だと?」
すると男が足を止め、顔を健太の方へと向けながら訝しげな表情と声音で訊き返してきた。
「あ……、いえ、その……」
一方、まさか自分の呟きが相手に聞かれ、ましてや返事があると思っていなかった健太は、しどろもどろとなって懸命に言葉を探す。
というかそもそも、健太が発した先程の言葉は相手に対し具体的な行動を求めるようなものではなく、あくまでも自己の願望に過ぎなかった為、問われたところで的確な答えを返すことなど無理であった。
黒ずくめの戦術装備に身を固めた厳つい相貌の男は、そんな焦った様子を見せる健太の間近に立ち、鋭い眼光で見下ろしていた。
(こ、怖っ……!)
纏う雰囲気も顔も殺伐極まる男から睨み付けられ、視線の重圧に耐えきれなくなった健太が、気圧されたように目を泳がせるとそのまま当てもなく周囲をキョロキョロと見渡した。
何か言葉を、と思いながら廊下の左右に首を巡らす健太がそれを目撃したのは、まさにその時であった。
「あ……」
思わず声を上げて固まる健太と、こちらに迫ってくるそれの方へ男が瞬時に銃を向けたのはほぼ同時だった。
健太から見て右側の方から、得体の知れない雄叫びを発しながら猛然と走り寄ってくるそれは、頭部を覆う防護面付きケプラー製抗弾ヘルメット、身を包む紺色の出動服の上には防眩黒色のアーマーベストと、両肘両膝にも黒い防護プロテクターを着装していた。
加えてその対象者が、負い紐付きの世界で最も有名な短機関銃であるヘッケラー&コッホMP5を首からたすき掛けに吊ってあるのを見て、健太はすぐに相手が警察官であり、また特殊部隊の隊員であると分かった。
だが待望の警察官が姿を現したというのに、安堵の気持ちなど全く湧かなかった。
おかしいのだ、何もかも。
廊下の床に座る健太及び、立射の姿勢でMP7サブ・マシンガンを構える長身の男と、こちらに向けて猛ダッシュする警察の特殊部隊員の彼我の距離は約十五メートル。
見る間に距離をどんどん詰めてくる警察官の恰好は、着ている出動服も、身に付けている各種装備資器材も全てがボロボロで薄汚れていた。
しかしそれだけならいざ知らず、健太がどうしても不信感を拭えなかったのは、やや引き上げられたヘルメットに付属されている顔面防護用の防弾バイザーシールドが真っ赤に染まっている点と、がむしゃらに走りながら身の毛がよだつ咆哮を上げている点であった。
警察官が感染者であるのは、疑いようがなかった。
その時、絶望感に打ちひしがれる健太の耳が、傍に立つ男のチッという舌打ちの音と共に、カチリという小さく硬質な音を拾った。
健太は恐怖で青ざめた顔を忙しなく動かし、長身の男――ファングが単発から連射へMP7のセレクター・レバーを切り替えた――と、治安維持を担う公務員から人肉を喰らう捕食者へと堕ちてしまった警察官の方を交互に見た。
(何で早く撃たないんだよ!?)
舌の根が強張るほどの焦慮が健太の胸中を満たし、内なる悲鳴が心を軋ませる。が、どうにかギリギリのところで自制が働き、喚き散らすような愚は犯さなかったものの衝き抜ける恐慌のせいで身震いが収まらなかった。
その間、健太と長身の男を獲物と定めた感染者の警察官が、廊下を一直線にひた走り距離を更に縮めてくる。
十メートル、七メートル、五メートル……最早、感染者の警察官は目前に迫ってきていた。
それに対し、男はまだMP7のスライドストックの床尾を右肩に当てた状態の、肩撃ちの射撃体勢を保持したまま発砲せずにいた。
いよいよ間隔が狭まってくると、健太の目線は、頬や鼻の部位を激しく損傷している捕食者と化した特殊部隊員の容姿に釘付けとなっていた。
迫りくる感染者の警察官が、ヘルメット内の喉元まで下げた目出し帽から覗く血だらけ顔面を醜悪に歪ませつつ、生者の新鮮な肉体を喰い千切らんと裂けんばかりに大口を開けていた。
危機的状況から逃れようと、たまらず健太が腰を浮かせたときに、それは起こった。
健太の真横でそれまで静止していた長身の男が、打って変わって必殺の意志を宿した急速行動を開始する。それはまるで、静かなる大気の叫喚であった。
男が狙点をやや下方に修正するや否や、銃の引き金をひく。
と同時に、消音器に抑え込まれたMP7の連続した射撃音が、一つに重なって廊下に響き渡った。
MP7から一連射された数発の4.6×30ミリ尖頭弾が、最接近してきた感染者の警察官の頭部ではなく左脚へと集中弾着し、左太股や膝周り、脛などの部位に深い損傷を与えた。
結果、命中した銃弾が運動エネルギーを伝達するのに必要不可欠となる複数個所の筋肉や腱、靭帯といった体組織を抉ったことで動きに支障をきたし、相手は大きくバランスを崩したのである。
つまりは、健太と長身の男の前で、左脚を撃たれた屍者の警官は疾駆の勢いを殺せず重心を失い、前のめりに膝を折るような格好となったのだった。
刹那、疾風が奔った。
長身の男が瞬時に、目の前で体勢を崩した感染者の警察官の右側面へと移動を行い、間合いを詰めたのである。
そして間髪を容れず、男は左足を軸に右の横蹴りを打ち放った。
タクティカルブーツに補強された、腰の入った電光石火の右足刀が相手の首筋にめり込む。
ゴキッという重く鈍い打撃音と共に、体重が乗った男の横蹴りをまともに受けた感染者は、脚部の損傷により踏ん張りが利かず首を奇妙な角度に傾けたまま、廊下の壁へと叩きつけられた。
だが、死者に生者の理屈は通用しない。
脚部への被弾や打撃によるダメージなど全く意に介さない捕食者は、壁に背をつけた状態で口腔から赤黒い粘液を飛び散らせながら、尚も獲物を喰らおうと凄まじい形相で雄叫びを上げる。
もっとも男の方とて、そんな事は重々承知の上で人を喰らう化け物と死闘を演じているが故に、驚愕や戸惑いなどの余計な感情はない。
男はそうプログラミングされた機械さながらに、何ら躊躇することなく瞬息で壁前の脅威へと肉薄すると、続いて手にするMP7サブ・マシンガンの消音器付きの銃口を下方からヘルメットのバイザーの隙間へと差し込み、咆え猛る感染者の顔面にピタリと突き付けた。
直後、くぐもった連続の発射音が健太の耳朶に触れた。
それと同時に、長身の男が把持するMP7の排莢口から薬莢が次々に弾け飛ぶのと、まるで狂ったリズムに無理やり合わせて踊っているかのような、脅威と化した特殊部隊員が体全体を小刻みに跳ね揺らす姿を健太は目にする。
防弾ヘルメットに覆われているおかげで直視は免れたが、音速を超える複数の銃弾を超至近距離から浴びせられた捕食者たる警察官の顔面及び頭部は、間違いなくミンチと化しているだろうと健太は目の前の凄絶な光景を見ながら茫然と考えていた。
他方、腰を僅かに浮かせた状態で固まっている健太の前で男がさっと動き、ヘルメットの内側から、大量の血液並びにその他の体液をこぼし落としながらくず折れる無力化した敵を抱き止めた。
長身の男は仕留めた特殊部隊員の頭部を自身の肩口に乗せたまま、対象がたすき掛けにぶら下げている銃口に消音器がねじ込まれたMP5の負い紐を、脱力状態にあるその身から器用に取り外した。
そして特殊部隊使用の短機関銃MP5を相手から奪い取った男は、ようやく正常な遺体となったそれを抱き留めたまま膝を素早く曲げて床へと落とし、遺体を仰向けの状態で寝かせた。
男は手にしたMP5を一旦床に置くと、続いて寝かせた遺体が身に付けているアーマーベストのポーチから銃の予備弾倉を抜き出そうと手を伸ばす。が、それは中止を余儀なくされた。
廊下の向こうから新たな咆え声と人影が続々と出現するのを、健太と鋼を彷彿させる長身の男は目にしたからである。
新手の出現先は、先ほど感染者の警察官が走ってきた東階段側の廊下……つまり二人から見て右手方向であったが、逆側の左手方向からも総毛立つ唸り声が間近から聞こえてきた。
東西に一直線に伸びる廊下での挟撃は、左右から押し寄せる屍の群衆に生きた人間が呑み込まれるという、まさしく逃げ場の無い屠殺場と同様の絶望の未来が約束されていた。
「くそっ」
低い声音に色濃い焦りと苛立ちをにじませながら、高い背丈かつ頑強な体躯を有する男は立ち上がることなく右膝を床につき左膝を立てた状態で、咄嗟に把持するMP7サブ・マシンガンのスライドストックを肩付けにし、濁流の如き勢いで駆け抜けてくる感染者群に対して狙点を合わせる。
そんな状況下において、矢継ぎ早に起こる情報の氾濫により思考回路が焼き切れる寸前となっていた健太は、男が膝射の姿勢でMP7の機関部に設置されているセレクター・レバーを指で一つ押し上げる――ファングが連射から単発へと射撃方法を戻した――姿を呆けたまま見詰めていた。
続けざまに男が単発の精密射撃を行い、まず左方向……西階段側の廊下の方から迫ってくる、最も近い感染者複数名の頭蓋を撃ち抜き脅威を全て排除する。
男が最初に片付けた彼らは、逃げる健太には目もくれず、怪我を負って廊下に伏せていた人質の生徒らの肉を夢中で食んでいた感染者の集団であった。どうやら食している“肉”の鮮度が低下したことで、現時点で最も生きの良い健太らを獲物と定めて動き出し始めたところを狙い撃ちしたのだと、健太は悟った。
更に遅滞なく男が膝射の姿勢を保持したまま体を入れ替えると、今度は東階段側の廊下から全力疾走してくるヒトの形をした肉食獣の群れに銃口を向けた。
「――小僧ッ」
決して広くはない廊下を埋め尽くす勢いで押し寄せてくる屍者の大群を前に、長身の男が切羽詰まった怒声を喉から絞り出した。
どうして男が自分に呼び掛けるのか、などという当然の疑問を抱く前に、健太は反射的に躰を動かしていた。
もちろん男の声は聞こえていたが、その意図や意味を脳が解釈する前に健太は無我夢中で後ろでなく前に向かって飛び出していたのである。二度と動くことのなくなった警察の特殊部隊員の方を目掛けて。
必死の形相で健太が、特殊部隊員が装着しているアーマーベストのポーチから次々とMP5の予備弾倉を抜き取った後、それらを全部ズボンのポケットに突っ込む。
極度の緊張と恐怖で手が震える。
もはや脂汗なのか冷汗なのか判別できない大量の雫が健太の全身から噴出し、肌や衣服を余すところなく濡らしていた。
だがそれを凌駕する程の生存本能と闘争本能が、健太の深奥で灼熱の塊と化して生き延びる為の“力”を手に入れろと無言の雄叫びを上げていた。
全ての光景がやけにゆっくりと流れるのを、健太は知覚していた。
警察官のアーマーベストのポーチから予備弾倉を残さず奪った後、次に健太は床に置かれている消音器とドットサイトが付属された特殊部隊仕様のMP5サブ・マシンガンを拾い上げた。
健太が拾ったMP5に繋がっている負い紐を首から通して身体に巻いた時、長身の男は怒濤の勢いで走り迫る感染者の群れの先頭集団に向けて精密射撃を繰り返しながらもそれを見ていたのか、膝射の姿勢を解いて素早く立ち上がった。
余計な言葉は交わさなかった。お互いが今やるべき事……現場から可及的速やかな離脱を行わなければならないと、死ぬほど痛感しているが故に。
男が回れ右をして、西階段を目指して駆け出す。
健太も慌てて男の背中を追って、廊下を走る。
二人の背後からは、銃などまさしく焼け石に水程度の効果しか発揮しない、氾濫した川を想起させる大群の感染者が無力化された仲間を踏み越え廊下を疾駆するのだった。
そこから先の健太の記憶は断片的であり、また意識もあやふやな感じという有り様だった。
ただはっきりと覚えているのは、謎めいた長身の男と共に逃げている途中、見知った顔の女子生徒がフラフラと覚束ない足取りで自分の前に現れたことであった。
その時、男が小さく罵りの言葉を吐いたのと、自分が意味不明な言葉で喚き散らしたのを健太は曖昧ながらも記憶していた。
無残に引き裂かれた白のブラウスを真っ赤に染め、頬や喉元、腹部に致命的な損傷を受けているにも関わらず平然とした様子で立っている少女の名前は、佐々木希。
かつての優しき人間性は完全に失われ、今その少女を支配しているのは空腹だけだった。
だから、安らかな死を迎えることなく腐った祝福によって再び動作を開始した佐々木希という名で呼ばれていた少女は、眼球、鼻孔、口腔、乳房、腹腔、性器、あらゆる臓器、四肢の末端にまで至る究極の飢餓を満たそうと、生者たる健太や長身の男を発見するや否や、甲高い唸り声を上げながら猛然と駆け出し始めた。
無論、少女が目標としたのは、二つの新鮮な肉の塊が居る場所である。
だがその状況は、すぐに終結を迎えた。
捕食者と化した少女の頭部に複数の銃弾が叩き込まれ、再起不能となるまで脳が完全破壊されたからである。
発砲したのは健太と男、両方であった。
ただ、佐々木希を仕留めたのが自分なのかそれとも男であったのかは、未だに健太は思い出せなかった。
結局、健太が記憶しているのは、火急の事態できちんと点検しなかったMP5には残弾が有り、尚かつ9ミリパラベラム弾が三点射撃で発射されたことであった。
床へと倒れ込む佐々木希の姿を目の当たりにしても、健太は嘆き悲しむ暇もなく逃げねばならなかった。
何せ後方から、残酷な死が迫っているのだから。
何せ背後から、具現した地獄が自分達を飲み込もうとしているのだから。
そして生きていれば、後でいくらでも悲しみに暮れ涙を流すことが出来ると健太は知っているが故に、今は必死で足を動かし続けるのだった――
ファングと瀬戸健太、この後二人がどうやって危機を脱し学校を離れたのかは、また別な話となる。
そして同じく二人が、奇妙な運命の導きによって黒崎楓と黒崎諒の両者に出会うのも、また別な話となるであった――――
遅くなりました。
本当は去年の年末に投稿したかったのですが、伸びに伸びて結局年をまたいでしまいました(´;ω;`)
待って下さる読者様にはご迷惑をお掛けして申し訳ございません。
これにて健太君編は終わりとなります。
予定していた黒幕さんの登場は残念ながら次話となります。
さて、いよいよ忘れさられている主人公たちが舞台へと再び戻ってくるので楽しみにして頂ければと思っております。
今年も全力で執筆していきますので、遅筆ではございますが何卒よろしくお願いします!m(__)m




