第8話 「Day of the dead ⑧」
長いです。
※9月15日、誤字の修正及び、後半の一部の台詞などを加筆修正しました。
学級表札に『二年E組』と記載されている教室の出入口ドアから、黒縁眼鏡に小太りの体躯が特徴的な生徒――瀬戸健太が恐る恐るといった体で顔を出し、停電によって闇へと落ちた廊下の様子を窺っていた。
暗闇の中、唯一の光源となっている廊下の天井に取り付けられた非常灯の淡い緑色の光が、床の上に転がっている数多の亡骸を朧げに浮かび上がらせていた。
健太が掛けている度の強い眼鏡のレンズ越しに見えるその血塗れの光景は、まさに生徒の虐殺現場と呼ぶに相応しい凄惨極まるものであった。
(見た感じ、この階での銃撃戦は止んだみたいだけど……。それにしたって酷過ぎだろ、この状況。いったい何人の生徒が巻き添えになったのかな?)
一歩、暗い廊下に足を踏み出した健太は、目の前の惨状に様々な思いを巡らせていた。
その時、健太の耳朶に複数の音が触れた。
それは階下から轟く激しい銃声音と構造物が破壊される騒音であり、またもう一つは、自分が今いる廊下に漂う致死に至る傷を負いながらも、辛うじてまだ息のある生徒が発する苦痛に満ちた呻き声であった。
(助けたいとは思うけど……ごめん、僕じゃ無理だ。何で110番も119番も全然つながらないんだよ。というか、回線がパンクするって普通ありえないだろ。もしかして、ネットでやたら大騒ぎになっている都内の暴動が原因なのかな?)
先ほど健太は、学校を占拠した武装テロリスト達によって没収された自分のスマートフォンを取り戻したのだが、その際に自分の両親を始め、警察や消防にも電話連絡を試みたものの、いずれも不通という結果に終わったのだった。
焦った健太は慌ててスマホからインターネットに接続し、ニュース及びSNSなどの各種コミュニケーションツールを利用して情報の確認を行った。すると、現在都内で大規模な暴動が発生中であり、ネット上で大騒ぎになっている事を知ったのである。
(今騒がれている暴動の正体が、実はゾンビ化した感染者って話は本当なのかな? まあどっちにしろテロリストが学校を武装占拠したり、暴動が都内のあちこちで発生するなんて色々ヤバすぎだよ、日本。……けど、僕にはこれがある)
どう考えても自身を取り巻く環境は最悪の一言に尽きるが、それでも手の中に感じるずしりと重い、革命と抵抗のシンボルである木と鉄で構成された赤き自動小銃――AK47の存在は、不安の泥沼に嵌り込みそうになる健太の心に勇気を与えてくれていた。
偶然かはたまた必然であったのかなど主因となる張本人以外に知る由もない事だが、いずれにせよ健太は諸々の事情から、二年E組の教室内で仲間割れによって殺されたテロリストが所持していた、実弾入りのAK47とその予備弾倉を奪取する事に成功したのだった。
そして健太は、腰だめに構えたアサルトライフルの方へ視線を落としながら呟くように言った。
「頼りにしてるぜ、相棒」
まるでアクション映画の主役を張る俳優のように、もしくはアニメや漫画、小説などの物語に颯爽と登場する主人公のように、健太は小銃を胸元に引き寄せながら、そんなわざとらしい台詞を口にする。
それは、どんな逆境や難局にも敢然と立ち向かい窮地に陥ったヒロインを救う、健太が夢想し希求する憧れのヒーローになる為の呪文めいた言葉であった。
更に銃という存在は、格闘技どころか運動そのものが苦手な健太にとって、己の願望を叶えてくれる最高の相棒に違いなかった。
(他の人はともかく、柏木さんは僕が助けなきゃ駄目なんだ……!)
虚勢じみた勇気を胸の内で奮い起こし、健太は音楽室を目指す。
そしてその音楽室に居る者こそ、卑劣な犯人によって連れ去られた学年一の美貌とプロポーションを有する才女――柏木菜月なる悲劇のヒロインであった。
男女共に絶大な人気を誇る彼女を救うという任務を達成する事こそ、周囲から虐げられている自分が、ヒーローとして生まれ変わる必須の条件であると健太は思っていた。
とはいえ、その考え方が本当に正しいかどうかは実ところ健太にも自信は無かったが、しかしこのまま何も行動を起こさず、何も成せずに終わる結末だけはどうしても嫌だった。
勉強とスポーツ、更に容姿すらも万能な妹と常に比べられ、両親から全く期待されない惨めな自分を変えたかった。
またいつも自分を見下し、無価値という烙印を押し付けてくるクラスメイトらに対して、そうではないという事を健太は空想などではなく現実で証明したかった。
チャンスは今。不謹慎とは思いつつも今回の事件は、健太にとって己という存在をヒーローへと躍進する千載一遇の機会に他ならなかった。
だからこそ、十七年という短い人生の中で今まさに岐路に立っていることを自覚する健太は、危険を顧みずに行動するのだった。
ほんのわずかでも気を抜いた瞬間、恐怖や緊張であっという間に萎みそうになる勇気を懸命に保持しつつ、健太は細心の注意を払って暗い廊下を進む。
暗がりの中にあっても、学校の生徒である健太は当然ながら校内を知悉している為、音楽室までの移動に関してはさほど難しいことでなかった。
一方、緊張と恐怖で口内がカラカラに乾き、小刻みな震えがひっきりなしに走る両足をぎこちなく動かしながら、健太は奇妙に静まり返った五階の様子に漠然とした不安感を抱いていた。
(下の方から聞こえる銃声は、おそらく突入してきた警官隊とテロリストが戦っているものなんだろうけど、この階に居た犯人達は、ひょっとして教室でいきなり仲間を射殺したゴツくてデカいあの男の人が皆殺しにしたとか? まあ、ただ単に戦場が下の階に移行だけなのかも知れないけどさ……。いずれにしたってこの暗さはマズいよ。誰がどこに潜んでいるか不明だし、何よりこの妙な静けさが不気味で怖すぎる)
見通しの利かない暗い廊下をそろりそろりと忍び足で歩を進める健太の全身は、特別激しい運動をしていないのにも関わらず、既に汗でびっしょりだった。
夜を迎えても残る蒸し暑さに加え極度の緊張がもたらす異常な発汗が、健太の着る半袖の白ワイシャツやグレーのズボンの布地に大きな染みを作っていた。
健太は両肩にAK47の負い紐と、四本の予備弾倉を突っ込んだスクールバッグのショルダーベルトをたすき掛けにした状態で、黙々と足を動かし続ける。
移動速度は遅いとはいえ、幸いにして健太が懸念するような不測の事態は起こらず、目的地である音楽室まであと僅かという距離であった。
だがその時、健太は暗闇に浮かぶ人影の存在に気が付いた。
急上昇する心拍数と共に思わず立ち止まる健太であったが、そのシルエットの姿は前方の廊下の壁に寄り掛かるよう形で座っており、しかもどうやらこちらの方には気付いていない様子であった。
(誰? 生徒……いや、もしかして負傷した犯人とか? ヤバい、もし相手が犯人で、しかも僕に襲い掛かってきたとしたら、撃つしかないじゃないか。けど、その場合って正当防衛で間違いないよね? てかその前に、僕が犯人を銃で撃つ? いや死ぬだろ、普通に考えて銃で撃たれれば。つまりそれって、僕が人を殺すってこと、だよな。……嘘、マジで?)
矢継ぎ早に溢れ出す疑問と共に、健太はガチガチに固まった身体を無理やり動かして、彼我の距離を少しずつ詰めていく。無論、AK47の銃口はしっかりと相手の方へと向けたままで。
もし目の前の相手が犯人の一味であり、更にこちらに対して危害を加えるような素振りを見せたならば、その時は自分の身を守るために躊躇せずに撃たねばならない。
それはつまり、生きている人間を殺す覚悟はあるのか、という果てしなく重い問い掛けに相違なかった。
撃つか撃たれるか、殺すか殺されるか、そして逃げるか戦うか。
明確な決断と自問の答えを保留にしたまま、健太は歩を進める。顔から血の気は引き、呼吸は無意識に荒くなっていた。
いずれにせよ、まずは眼前の存在が誰であり、また何であるのかを確かめなければならなかった。
AK47のセレクターレバーの位置を単発に合わせ、引き金をひけばいつでも射撃できる態勢を維持していた健太は、更にじりじりと近付き闇を透かして対象の確認を行った。
「……あ、れ? もしかして、佐々木さん……?」
背を壁に預け、足を床に投げ出して座っている目前の対象者が顔見知りであることに気付いた健太が、安堵の吐息と共に誰何の小声を発する。
暗がりに浮かび上がる小柄なシルエットは、白色のタイ付き半袖ブラウスにチェック柄のスカートといった出で立ちの、健太と同じクラスに在籍する佐々木希という名の女子生徒であった。
すると、互いに容姿が視認できる距離まで近寄ってきた健太の呼び掛けに対し、希は座った状態から立ち上がることなく頭だけを声の方に巡らせた後、弱々しい調子で疑問の言葉を返すのだった。
「……え? 瀬戸くん、なの? どうして……?」
「あ、はい、瀬戸です。どうしてって言われると、まあ……その、色々あって音楽室に向かう途中なんだ、今。というか、佐々木さんこそ大丈夫? ひょっとして怪我してる?」
「……うん。体のあちこちが痛いけど、特に左の足首が最悪。ちょっと動かしただけでも、気絶しそうになるくらい痛みが酷いの」
校内の照明が全て消えているせいではっきりとは見えないものの、しかし壁にもたれ足を伸ばす希の表情が、苦痛に歪んでいるのだけは闇の中でも容易に判別できた。
その様子を見た健太が希の前に跪き、心配顔で声を掛ける。
「怪我は逃げるときに?」
「ええ、廊下を走っていたら誰かに凄い力で背中を押されたの。それで私バランスを崩して変な転び方しちゃったんだけど、そのときに足首を思いっきり捻っちゃって。でもそれより最低なのは、自分が逃げるのに夢中で、倒れている私なんかお構いなしに踏んづけたり蹴っ飛ばしたりする人間が沢山いたってことよ」
「そりゃあ、誰だっていきなり校内が真っ暗になった上に、逃げた先の、それも超混雑している廊下で突然銃撃戦が始まればパニックになるのは当たり前だけど……。だからといって、自分が助かる為なら他人の事なんかお構いなしっていうのは、ちょっと酷い話だよね」
事情を聞いた健太が同情の意を示すと、希が小さく顎を引いて返答した。
「ホントそうだわ。……でもまあ本音を言えば、私だって自分の事で精一杯だった訳だし、あんまり偉そうに他の人達の事を批判できないかも。それにしても、瀬戸くんって優しい人なんだね。私、全然知らなかった」
「へ? い、いやいやいや、僕は別に優しい人間なんかじゃ――って、あれ? 明かりが……」
クラスの女子から初めて向けられた好意的な言葉に、顔を照れで紅潮させた健太がブンブンと首を左右に振りながら否定の言を述べたその時、突如消え失せていた照明器具の光が復活し、校内は再び昼間のような明るさを取り戻した。
反射的に廊下の天井を見上げた健太であったがすぐに顔を下ろし、改めて正面に座っている希の姿を確認した。
体格が平均よりもやや小柄という以外、外見に関してはこれといって全く特徴の無い地味な女子生徒というのが、佐々木希に対する健太の印象であった。もっとも今は、額や手足の擦過傷やブラウスの汚れ、破れなど明かりの下で際立っていた為、痛々しい雰囲気が圧倒的となっていた。
「……瀬戸くん。それって怖い人達が持っていた銃、だよね? それに、さっき音楽室に行くって言っていたけど……」
消えていた廊下の照明に輝きが戻ったことで、今まで暗くて朧げにしか見えなかった自動小銃の存在をはっきりと認めた希が、驚愕の視線を張り付かせつつ健太に問うた。
そんな希に対し健太は、どこか誇らしげな響きを乗せた返事をする。
「気付いた? この銃は、教室で犯人が落としたものを護身用でちょっと借りたんだ。本物は初めてだけど操作方法は一応分かるし、何よりこれがあれば、いざって時に必ず役立つ筈さ。例えばほら、音楽室に連れて行かれた柏木さんを助ける場合とか……ね」
「柏木さんを? そういえば、彼女を音楽室に連れて行くって悪い人達が言ってたもんね、確か。……瀬戸くん、ごめんなさい」
脈絡なく突然紡がれた希の謝罪に、健太はほんの少し虚を衝かれた表情を浮かべる。が、すぐに健太は、彼女が何について謝ったのかを察した。
希が顔をうつむかせ、唇をほんの少し噛むような仕草をした後、僅かな間をおきボブの髪型を揺らしながら再び面を持ち上げ、言葉を継いだ。
「私、貴方がクラスの中で孤立してるのを知っているわ。でも瀬戸くんは、そんなの関係なく柏木さんを助ける為に危険を承知で音楽室に向かうんでしょ? それって普通の人じゃ絶対できない、凄く勇気のある行動だと思う。だからこそ私、瀬戸くんに対してちゃんと謝らなきゃいけないの。だって今まで、貴方のことを全く知ろうともせずに皆と一緒になって無視していたから……」
「それは……まあ、その、確かにこれまで嫌な思いは沢山してきたけど、そもそも僕から佐々木さんに話し掛けたのだって今日が初めてな訳だし、無視はお互い様さ。だから君がそんなに謝る必要なんてないよ。それに、柏木さんを助けに行くことだって、全部自分の為にやっている事だから、全然偉くなんてないよ」
「瀬戸くん……」
謙遜する健太に、希が熱っぽく潤んだ瞳を向ける。
今まで過ごしてきた高校生活の中で、クラスの女子生徒と世間話はおろか、ここまで好意的かつ親密な会話などまるで経験の無い健太は、嬉しさのあまり思わずカッコつけた台詞を吐いてしまったが、本音を言えばもっと複雑でドロドロした感情を内包しており、爽やかな要素など何一つなかった。
だからといって、それを目の前の女子に吐露するような無様な真似は、健太には出来なかった。
何となく心情的に落ち着かなくなった健太は軽く咳払いした後、縋るような眼差しを向ける希から目を逸らして尋ねた。
「佐々木さん、動ける? もしよかったら僕と一緒に音楽室に行く?」
「ううん、ごめん。立ち上がるのは何とかなりそうだけど、歩くのはちょっと無理そう。私、瀬戸くんの足手まといになりたくないから、ここで警察の人が助けに来てくれるのを待ってるわ」
足首の痛みが激しいのか、希が白い額にポツポツと脂汗を滲ませながら言った。
それを聞き、健太は素人考えながらも、希の怪我の具合は捻挫ならまだマシな方で、下手をすれば骨に異常があるかも知れないと思っていた。
いずれにしても彼女に医師の治療が必要なのは明白であり、加えて音楽室が安全なのかも分からない現状では、一抹の不安はあるものの、この場所で待機してもらった方が無難であると健太は結論付けた。
「……オッケー、じゃあこうしよう。とりあえず佐々木さんにはここに居てもらって、音楽室の安全を確認できたら迎えに来るってのはどう? 怪我で動くのはキツいかも知れないけど僕が手を貸すし、何より警察の助けを待つにしても音楽室の方がここより絶対マシだと思うからさ」
「うん、分かった。それじゃあ私、瀬戸くんが迎えに来てくれるのを待ってる。……良かった、ホントは一人になるの凄く不安だったの。出来るだけ早く戻ってきてね、お願いだから」
「もちろんさ。柏木さんの無事と音楽室の安全を確保したら、すぐ戻ってくるよ。――それじゃあちょっと行ってくるから、ここで待っててね」
そんな挨拶と共に、健太が腰を上げる。
すると健太を見上げていた希が、ぎこちなく唇を動かして笑みを形作り「いってらっしゃい、気を付けて」という見送りの言葉を紡ぐのだった。
頷いた健太は踵を返すと音楽室を目指し、明るさを取り戻した廊下を再び進み始めた。
一瞬、このまま音楽室には向かわず希の傍にいて、彼女を守るべきなのではないかという迷いが生じたが、しかしすぐにその考えを健太は打ち消した。
己が決めたヒロインは、佐々木希という平凡な女子ではなく、柏木菜月という名の男子生徒なら誰もが見惚れる美少女であり、今もその決意は変わらなかった。
多分に後ろ髪を引かれる思いはあったが、しかしすぐに戻ってくれば大丈夫だろうという気持ちの方が勝り、僅かな迷いはあったものの結局、健太は当初の予定通りに音楽室へと向かうのだった。
去り際に一度だけ後ろを振り返った健太が見た、座ったままこちらへ向かって遠慮がちに小さく手を振る希の姿が、いつまでも網膜に焼き付いて離れなかった――――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
薄くなった頭頂部と、神経質そうな容貌に無精ひげを付け加えた三十代半ばの男――飛田泰章は、ある確信を抱きつつゆっくりとした足取りで屋上に続く階段を上っていた。
暗い階段を上る飛田の胸の内は、荒れ狂う憤怒と疑念に支配されていた。
やがて屋上へ通じるドアが設置された階段室へと辿り着いた飛田は、右手の中にある旧ソ連軍を代表する自動式拳銃のマカロフPMの銃把をきつく握り締めながら、空いている左手で屋上のドアを静かに開けた。
屋上ドアの施錠はされていない。何故ならそれは、飛田の思想に同調し今回の学校占拠に参加した“革命軍”のメンバー二名が、見張りの役目を負って屋上で待機していたからだった。
とはいえ、その二人のメンバーも既に死亡していることを飛田は知っていた。
その理由は、一名は五階から屋上に向かう途中の階段踊り場でうつ伏せの恰好で斃れている姿を発見したし、もう一名にあっては、月明りに照らされた屋上のコンクリート地面に仰向け姿で斃れている姿を今まさに見ているからだ。
両者に共通する事項は、頭部や胸部を的確に狙って放たれた銃弾が彼らの肉体を完膚なきまでに破壊し、真っ赤な絵の具を派手にぶちまけたような血溜まりが床一面に広がっているという点であった。
飛田は把持する拳銃を前方に突き出しながら、慎重に歩を進めて屋上へと出た。
屋上に特別な施設は無く、ただ灰色の空間が広がっているだけの場所であった。
銃の用心金に差し込んだ右手の人差し指は引き金に掛かっている為、何かあればいつでも発砲可能な体勢だった。
屋上を流れる生温い風が、汗に濡れる頬を無遠慮に撫ぜる。
「……いるんだろう? さっさと出てこい、お前に聞きたいことがある」
落ちくぼんだ目を忙しなく動かしながら、飛田はある人物に対する呼び掛けの言葉を発した。
それは現時点において、強行突入してきた警察の特殊部隊と“革命軍”の同志らが階下で銃撃戦を行っている状況と、屋上の見張りを担当していた仲間の二名が、同じく警察隊の狙撃やヘリコプターを用いた屋上からのラペリング降下作戦によって排除されたのでないと確信しているが故の言動であった。
そしてある人物とは、“革命軍”の母体となる新左翼党派に対しての資金や武器といった諸々の援助の引き換えに、光台高校を武装占拠する計画を飛田に持ち掛けてきたとある『組織』に所属する者、『ファング』という暗号名で呼ばれている男に他ならなかった。
屋上に夜間照明は無く、また校舎内や校舎横の外灯の電力が遮断され、学校そのものは暗闇に囚われている状態となっていた。
だが屋上に関しては月明りもあり、更に学校の周囲に建ち並ぶ戸建て住宅やアパート・マンション、それに商業ビルなどから放たれる数々の照明が街路灯の代わりとなって、僅かながらも視界は確保されていた。
そんな屋上の中を飛田は一歩、二歩と用心深く足を動かし、ファングの姿を探し求める。
己に忍び寄る濃密な死の気配に身を強張らせつつも、飛田は腹腔に湧く激憤と懐疑の感情を糧にコンクリートの地面を踏み進めた。
不意に、そして唐突にその瞬間は訪れた。
何の前触れもなく、完全に虚を衝く形でいきなり自身の背後から湧き出した気配に対し、飛田は振り向きざま右手のマカロフPMを相手に向けようと動いた。……いや、正確には動こうとした。
「動くな」
感情を氷結させた無機質な警告が、飛田の背後から放たれた。
その刹那、飛田は金縛りにあったように躰を硬直させた。背中に感じる底知れぬ殺気の塊が、あらゆる反撃の動作を封じる結果を生じさせていた。
鉄を連想させるような重く低い声音、頑強な長身体躯を誇っていながらもどこか朧な雰囲気を纏う異端の存在――ファングが、ツーハンド・グリップで握った消音器付きの自動式拳銃H&K Mk23 ソーコムピストルを半身の体勢で構え、飛田の背後を取っていたのだった。
「ふん。その声はファング、お前だな? やはり裏切り者だったか。どうやら鼠みたいにコソコソ陰で動き回るのがお得意らしいが、目的は一体何だ?」
「…………」
顔を前に向けたままの状態で飛田が、自分の背後に立つファングに向けて揶揄を込めた質問を行うも、だが返ってくる答えは沈黙だけであった。
何も喋らないファングに対し、飛田は瞳と声帯に憎悪を張り付かせながら更に疑義を投げ掛けた。
「俺を……“革命軍”を最初から潰す気だったのなら、わざわざ協力者を装う必要などあるまい。ファングよ、お前ら『組織』の真の狙いは何だ? 何故、我々に対しわざわざ援助を行った上で、このタイミングで裏切るような真似をする? どうして、こんな回りくどい方法を選んだ?」
続けざまの問いにも、やはりファングからの返答はなかった。
その無反応ぶりに焦れた飛田が思わず後ろを振り返ろうと身動ぎするも、それは再び「動くな」というファングの冷厳な声によって制止させられた。
首を前方に固定させたまま飛田が盛大な舌打ちを行った後、唸るような語調にて話を続ける。
「いいだろう。だんまりを決め込むなら、こちらが勝手に話すまでだ。……我々とて、お前らが“あの方”や“先生”などと呼び崇拝している彼の話を全て鵜呑みにするほど愚かではないさ。だが一度会った際、現在の腐りきった日本を正すという理念と志は間違いなく本物だった。だからこそ俺は、彼が立案した計画に乗る事を決意し、この地で『革命』の礎となるべく行動を起こしたのだ」
黒色の上空を仰ぎ見た飛田が圧し出した言葉は、校舎の下の階から響く銃声と人声に混ざって夜風に流れた。
「それがいざ蓋を開けてみればどうだ? 人殺しを厭わず、自らの死をも辞さない覚悟で臨んだ我ら“革命軍”の武装蜂起は、現政府に一矢報いるどころか世間の注目すら集められぬまま不甲斐ない終わりを迎える。結局、マスコミ連中がこぞってテレビで垂れ流す、都内で頻発する暴動及び自衛隊駐屯地に対する爆破事件などの話題の中に我々の存在は埋もれ、『革命』の意義やその価値すらも愚かな大衆は無意味に消費するだけだ。いや、そもそも蘇った死者が人間を襲うなどという与太話が堂々とニュースで取りざたされている辺り、この国に未来はない」
飛田の歪に吊り上がった口端から、ハハッ、という乾いた笑いが吐き出された。
「貧富の格差を助長し、労働者の人間性や正当な権利をひたすら踏みにじる腐った資本主義からの解放を願い、また国民を不当に支配し政策という名の下に徹底的な搾取を行う、悪魔の如き支配者階級の打倒を我らは誓った。だがその正義は、気高き思想や理念に殉じる誇りを持ち得ぬ奴隷どもが構築した社会構造の中では空虚でしかない。それは俺とて、嫌というほど分かっている。だからこそ全ての軛から脱する為の『革命』だった筈だが、今一歩のところで、こうも邪魔されるとはな。……物事がうまく運んでさぞかし良い気分だろう、ファングよ」
苛うような、嘲るような口振りで飛田が喋る。
「たまたま俺が下の階で外の様子を窺っていたら、上の、それも大勢の人質を監禁している五階から派手な銃撃音が聞こえてきたが、あれはお前の仕業だろう? おかげ様で脱兎の勢いで逃げ出してきた人質達と、尻に火が付いた国家権力の犬どもが無粋に踏み込んできたせいで学校内はあっという間にお祭り騒ぎだ。実に見事なお手並みだよ、ファング。一応、お前の裏切りを想定して同志らには注意を促していたが、どうやら上手く立ち回ったようだな。いずれにしてもこれで計画はご破算……いや、お前らにとっては予定通り、か」
「…………俺があの方から指示された事項は二つ。一つ目はあんたら“革命軍”が起こす立てこもり事件に手を貸し、ある程度の時間を稼ぐ事。二つ目はタイミングを見計らって飛田さん、あんたを殺す事だ」
これまで必要最低限の言葉しか発しなかったファングが、ここでようやく能動的に口を開いた。乾き切った声音だった。
一方、ファングの話を聞いた飛田は、面白くなさげに鼻で笑いながら言った。
「ふん、ようやくまともに喋ったと思えば、なかなかどうして実につまらん内容だな。大体にして、俺を殺すというのなら何故さっさと殺らない? それに、もし俺が屋上へ上がらずそのまま階下に留まり警官隊に捕まっていたとしたら、お前は一体どうするつもりだったのだ?」
「……それは――」
ファングが返答をしようとした丁度その時、校舎内に設置された全照明が再び煌々と輝きを取り戻した。
だがそれと同時に、聞く者の心胆を寒からしめる極めつけに怖気の走る何かの咆え声の大合唱が、まるでこれから盛大な演奏会でも開かれるような勢いで校舎の外から沸き起ってくるのだった。
「な、なんだこれは……?」
「感染者の群れだ。あんたは自分の事で頭が一杯だったから気付かなかったのかも知れないが、学校周辺は既に奴らだらけだ。しかも感染者の一部は、既に校舎の中にまで侵入してきている。この場所が化け物どもの巣窟になるのは、最早時間の問題だな」
相貌に驚愕を張り付けた飛田の喘ぐような問いに対し、ファングは淡々とそして冷ややかな声にて答えを返した。
信じ難い事実に唖然とする飛田に向かって、ファングが低い語勢で言葉を継いだ。
「飛田さん、あんたがさっき述べた質問の回答だ。当初は確かにあの方から与えられた任務を果たそうと、俺は懸命な努力を続けていた。が、現状を考えてどうにも馬鹿らしくなったので止めた」
「は? 止めた、だと?」
「ああ。例えあんたが警察に身柄を確保されようが、最後まで抵抗して射殺されようが俺には関係ないし、正直どうでもいい。自分の命を引き換えにしてまで任務を果たすつもりは毛頭ない。何よりこんな状況だ。あんたを生かしたところで、飢えた感染者たちの群れを突破して無事に学校から脱出できるとは到底思えないからな。……まあそれは、俺にも当てはまる事だが」
「だ、だったら貴様は何故、何故この屋上に居た? 俺を殺す為ではないのか!?」
「いや、それは違う。ただ単純に、今すぐ現場から離脱を図ろうにも、下の階では警察の特殊部隊とあんたら“革命軍”がど派手な銃撃戦を繰り広げているだけでなく、外から雪崩れ込んできた感染者群と逃げ延びた人質達が入り乱れている限り、脱出など不可能だからな。そこで俺は様子を窺う為に、屋上へやってきたんだよ。そんな時に、丁度ノコノコとあんたが現れたって訳さ」
ファングのあまりにも明け透けな物言いに、飛田は歯を噛み鳴らしながら「貴様……」という憎悪に満ち溢れた呻き声を発する。
そして、激しい怒りによって躰を震わせた飛田が、こめかみに青筋を浮かび上がらせつつ凄まじい形相で言葉を放った。
「ファング、質問は二つだ。まず一つ、さっきお前は我々の活動に手を貸し、ある程度の時間を稼ぐとか抜かしていたな。あれは一体どういう意味だ?」
「……さあな、その件に関しては俺に答えを期待しても無駄だ。どうしても理由を知りたければ直接あの方の下に行き、問い質してみるといい」
「使えん奴め。やはりお前など所詮、使い捨ての駒という訳か。では最後の質問だ、ファング。俺をどうするつもりだ?」
「別にどうもしないさ。先ほども言ったように、今さらあんたを生かそうが殺そうが大した意味はないんだよ。だから、このまま大人しくしていれば俺はこの場を立ち去る。但し、前にも言ったように、もしあんたが俺に銃を向けようとすれば――」
直後、ファングの言葉は途中でくぐもった発砲音に取って代わった。
消音器付きの45口径ソーコムピストルが二度振動するや否や、圧縮空気が漏れる音と共に空薬莢が二個、宙を舞う。
至近距離で発射された二発の45ACP弾が、右手に把持するマカロフPMの引き金を振り向きざまにひこうと試みた飛田の顔面を、瞬時に損壊した。
飛び散る血肉と眼窩からこぼれ落ちた目玉が、赤くけぶる世界を割って屋上のコンクリート地面へと落ちる。無論、くず折れる飛田は即死の状態であった。
「……だから言ったろう、飛田さん。只の脅しだろうが何だろうが、俺に銃口を向けると後悔する羽目になる、と」
たった今しがた使用したソーコムピストルの引き金から指を離し、構えを解いたファングの口から静かな言葉が発せられた。
不思議なことに、鉄を想起させる低い声音の中には、ほんの微かな憐憫と悲哀の色が混じっているようだった。
ファングが立っている屋上に再び生温い夜風が吹き流れ、辺り一面に立ち込める濃密な血臭を緩やかに遠くへと運んだ。
こうして都立光台高等学校を占拠した武装集団、“革命軍”の筆頭者である飛田泰章は志半ばで、その命を散らしたのだった――――
大変お待たせして申し訳ございません。
本当は今回で終わらせるはずだったのですが、またも予想以上に文量が増してしまったため、健太くん側の決着は次話となってしまいました。
ちょっと中途半端な形となってはしまいましたが、次話ではついにというか、ようやく黒幕の方々にも登場してもらおうと思っています。
で、それが終わればずっと放置状態となっている主人公の楓ちゃんや諒の物語が動き出します。
さて、相変わらずの遅筆っぷりですが、応援して下さる読者様のご期待に添えるよう全力で執筆していきますので、今後も何卒よろしくお願い致します!




