表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
3/36

第3話 「ゴーストタウン」

少し長めです。







 




 今にも口から飛び出てきそうな程、心臓が早鐘を打っていた。

 そして、鉛が詰ったように全身が重く、意識は朦朧もうろうとしていた。

 芝生となっている地面に両膝をついた状態で、少女は口を開けて激しく喘いでいた。


 疲労困憊(こんぱい)の極みであった。

 その上、止めどなく汗が滲み出る頭の中は、ズキズキとする頭痛が少女を責めさいなんでいる。

 しかし少女は何とか気力を振り絞り、急迫する状況を脱しようと震える両足に力をめて立ち上がった。


(立ち止まっている暇なんてない。一刻も早くこの場から離れないと……)


 よろめきながらも、少女は懸命に足を動かす。

 これまで素足で動き回ったせいで剝き出しの足裏は多くの擦過傷が出来ており、一歩前に進むごとにそれが酷い苦痛を生み出していた。

 その痛みに表情を歪めつつ、少女は胡乱うろんな思考で現状の把握に努めようとする。


(この酷い疲労感と倦怠感は、恐らく【念動力】を酷使し過ぎたせいだろう。確かに常識を遥かに超越したこの《力》は便利だし威力も凄まじいが、如何せん燃費・・が悪過ぎるな……)


 虚ろな歪みを口元に生じさせつつ、少女はゆるゆると左右にかぶりを振った。

 窮地を脱する為、咄嗟に発動させた“超能力”は確かに少女の命を救ったのだが、その反面、肉体と精神に多大な代償を支払う破目に陥ったのである。

 眩暈めまいと脱力感、それに加え鈍い痛みが少女をむしばみ、肉付きの薄い小柄な体躯は歩を進める度に軋み続けていた。

 そしてふと先刻の事を回想し、苦渋に眉根を寄せた。


(そういえば、あの声は一体……?)


 施設の正面玄関を抜け出た際、突如激しい頭痛と共に己が内にこだました不可解な絶叫を少女は思い出す。

 怖い、誰か助けて、とその声は悲鳴を上げていた。

 社会の秩序と安寧を乱す“悪人”を秘密裏に処断・・する『研修所』の強靭な執行者である自分には絶対に有り得ない、脆弱極まる感情の発露であった。


 あの時は憤怒により、その“声”を無理矢理封じ込めた。

 だがその一方で少女は、底知れぬ恐れと不安を抱いていた。

 何故なら、その“悲鳴”を上げた声の主こそが本来の少女の姿であり、今の“自分”は偽者――いや、少女の魂に巣食う不純物に他ならないのでは、という直感が働いたからであった。


「…くそ、何でこんな……」


 思わず愚痴が口元を割って零れ落ち、物思いは更に泥沼へと沈みかけるも、その時、背後にそびえるコンクリート塀の内側から湧き起った無数の唸り声が少女の思考を強制的に中断させた。


(まずい、愚図愚図している場合じゃない…!)


 蒼白な顔で後方を振り返ると、今し方少女が飛び越えたばかりの六メートル程の高さがあるコンクリート塀の向こう側から、次々と捕食者たる化け物集団の重なり合った咆哮が狂ったように轟いていた。

 少女の新鮮かつ生命力に満ち溢れた肉を逃すまいと、鈴なりの“群衆”が塀の内側でうごめいているのだ。

 詳細は不明なるも、殆どの化け物は恐ろしく高い運動能力を発揮する。それ故に、自身の背丈の倍以上もある障害物ですら、彼らは易々と乗り越えて来るのではという危惧の念を抱き、少女は焦燥に駆られた。


 塀の奥に覗き見える、六階建ての白く幅広い施設の外観をちらりと一瞥いちべつしてから、少女は足を速める。

 施設の駐車場に張り巡らされている塀を飛び越えた先、つまり施設正面から見て右手側の敷地外へと脱出した少女が現在立っている場所は、芝生の地面に街路樹が点在しているちょっとした広場であった。

 幸い着地点には、凶暴な捕食者達の姿は見受けられなかった。


(結局、俺は今何処にいるんだ?)


 少し走っただけで乱れる呼吸を抱えながらも、少女は現在位置の把握に努めようと付近を見渡す。

 しかし少女が目覚めた施設を始め、視界に映ずる全ての景色に土地鑑は無く、依然として自分の所在地は不明なままであった。

 澄んだ空の真下、なだらかに下る一般道の先には腐臭に彩られた戸建て住宅、アパート・マンション等の建造物が沈黙を保ったまま軒を連ねていた。


 僅かに逡巡した後、この場で右往左往していても百害あって一利無しと判断した少女は、自身の生存を確保する安全な場所を求めて、眼前に広がる住宅街の方へと足を進めるのだった。




 照りつける陽射しは、皮膚を焼き焦がすようであった。

 更に太陽光を吸収し続けるアスファルト路面が高温の熱放射を行い、それが照り返しとなって、呼吸もままならない程の猛暑を生み出していた。

 そんな中、少女はふらふらになりながらも歩き続けていた。


 閑静な住宅街であった。

 ひっそりと立っている電柱や交通標識、建物の間を縫うように張り巡らされている電線、家々の外周に設置された灰色のブロック塀、一戸建てやアパート等の敷地内に置きっ放しなっている自転車。

 そして見渡せば、コロニアル屋根とサイディング外壁で建造された新築住宅や、モルタルで外壁を補強した旧来からの木造住宅が所狭しと並んでおり、また道路は迷路のように狭く複雑に入り組んでいた。


 通りに、生きている人間の姿を発見することは出来なかった。

 一方で路上には、様々なごみやガラス片、コンクリートの欠片などが放置されたまま散乱しており、裸足のまま歩いている少女はそれらを踏まぬよう気を付けて歩かなければならなかった。

 しかし実際のところ今の少女は、そんな道路上に放置された障害物を避ける元気すら既に残っていなかった。


「…はっ……はぁ…っ……」


 激しい息切れが少女をさいなんでいた。

 下半身は鉛を呑み込んだように重く、無理を押して歩き続けたせいで膝や足首は悲鳴を上げ続けている。

 だが何よりも、耐え難い喉の渇きが少女の体力を根こそぎ奪い、最早走ることはおろか、普通に歩行することすら困難な状態に陥っていた。


(…み、水を…)


 少女は、自分が脱水症状を起こしていることを自覚していた。

 施設を脱出した後、暫くの間はこのうだるような熱気によって、少女の肢体から大量の汗が噴き出ていたのだが、やがてそれも枯れ果ててしまった。

 熱中症を発症する寸前であった。

 熱に浮かされたような倦怠感と疲労感に加え、嘔吐や頭痛といった症状が少女の総身を蝕んでいた。


 苦しくなっている呼吸を整えようにも、口内に唾一滴すら残っていない始末であった。

 どこか適当な場所で休息をと、道すがらにあった住宅等の確認を行ったが何処どこ彼処かしこも無人で、しかも戸締りがきちんとされており入ることが出来なかった。

 泥棒の真似をする気は少女にはなかったが、それでも激しい逃走劇の末、ボロ布のようになってしまった患者衣からもっと機能性の高い衣服に着替えたかったし、それ以上に栄養及び水分補給が急務である事を悟っていた。


(ここまでは運が味方してくれたが、これ以上進むのは無理だ……)


 暑さと渇きで視界は揺れ続け、鼓動は壊れそうな程に高鳴っている。

 歩こうにも、元々少ない少女の体力は既に底を突き、踏み出す足は重心を支えきれずによろめいていた。

 肩で息を継ぐ。少女にこれ以上の徒歩は不可能だった。

 それでも何とか気力を振り絞り、どうにか近所の家に潜り込もうと改めて決断した時、ふと目線の端に映るものがあった。


 少女がそちらの方に目を向けると、交差点の角に設置されている電柱に白の普通乗用車が頭から突っ込んだまま放置されていた。

 そしてフロント部分が派手に大破した車両の直ぐそばの地面には、腐乱した死体が幾つも転がっている。

 化け物の群れかと一瞬肝を冷やすが、墨汁をぶちまけた如く無数のはえがその腐敗した死体にたかり、ちたそれらの死者が動き出す様子がないことを確認すると、少女は安堵の溜め息を漏らした。


 腐乱死体から漂ってくる強烈な悪臭が微風に乗って鼻腔にまとわりつき、絶え間ない嘔吐感が少女の喉をひりつかせる。

 吐き気を堪えながら目線を動かし周囲の様子を探るが、近辺に捕食者の姿はなかった。

 それどころか、人影の途絶えた住宅街は不気味な程に深閑としていた。まさしくゴーストタウンであった。

 だが相反して少女の直感は五月蝿いほどに警鐘を鳴らし続け、早急にこの場を離れろと告げる。


(とにかく今は休息を……)


 鈍重な足を引き摺るように動かして、逃げるように交差点から離れた。

 そして幾分も歩かない内に、少女はとある住宅の前で足を止め、その外観を見上げた。

 それはグレーを基調としたシンプルモダンの二階建て箱型住宅で、外構は道路に面した開放的な造りとなっており、コンクリートの打ちっ放しと木材を組み合わせたエントランスの奥には木製の玄関ドアがあった。


(……開いている?)


 目を凝らすと、アルミフレームを取り入れたシャープなデザインの門まわりの開き扉は開放された状態となっており、更には玄関ドアも完全に閉じてはいなかった。

 化け物が家の中に入り込んでいる可能性は十分に考えられたが、他の完全施錠された住宅に侵入しようとするならば、少なくとも窓を叩き割ったり、戸口などを破壊しなければならない。

 すると当然その音は周囲に響き渡り、何処に潜んでいるか分からない化け物らを引き寄せてしまうのは明白である。


 何よりも少女の体力は既に限界を迎えており、選り好みしている余裕など皆無であった。

 意を決して少女は、目の前の一戸建て住宅に足を向ける。機能門柱にはガラス表札が掛かっており、黒文字で『宇賀』と書かれていた。

 物音を立てぬよう足音を忍ばせ、そっと門扉を抜けて僅かに開いたままになっている玄関ドアの前まで辿り着く。

 そしてドアをゆっくりと開けると、少女はその小柄な体躯を玄関の三和土たたきへと滑り込ませた。



 玄関内には、幸い化け物の姿はなかった。

 靴が散らかったまま放置されている広さ二畳程の玄関は、フローリングの廊下へと続いている。

 また床を見ると、三和土と上がりかまちには乾いた血痕が点々と続いていた。

 その血にいやな予感がした少女は懸命に耳を澄まし気配を探るが、痛いほどの沈黙以外は何も感知することが出来なかった。


(大丈夫…なのか?)


 半信半疑ではあったが、今更外に戻るような元気は少女に残されていなかった。

 音を立てぬよう、慎重に慎重を重ねて玄関ドアを閉めた後、少女は暫し迷った末に内側のサムターン錠を回して鍵を掛ける。

 カチッという小さく響いた施錠音を敏感に察知して、室内から飛び出してくるような化け物は現れなかった為、少女は今度こそ安堵の吐息を漏らした。


 仮に少女の後を追跡して来るような化け物がいるとすれば、これで外からの侵入は防げる。

 問題は、もし家の中に化け物連中が集まっていた場合、玄関ドアの鍵を掛けることは自らの退路を潰す行為に等しいが、少なくとも現時点で襲撃が無い以上、この方が比較的安全といえた。


(家人は逃げたのだろうか? それとも……)


 そんな事を考えながら、感染症の予防の為、床に付着している血痕を避けて廊下へと上がった後、静かに歩く。

 生活感が完全に途絶えた室内を、少女は細心の注意を払って進んだ。

 廊下の途中に二階へと続く階段が見えた。

 しかし少女は、二階へと向かわずにダイニングやキッチンがある部屋を探す。

 耐え難い喉の渇きが、少女に一刻も早い水分補給を要求していたからである。


 廊下の突き当たりに設置された曇りガラスが嵌め込まれた木製の片開きドアを開けると、そこは間取りが十二畳くらいの広さがあるリビングであった。

 リビング内が無人であることを目視で確認すると、次いで極力物音を立てぬよう室内へと足を踏み入れた。

 少女の位置から正面には掃き出し窓が有り、左手には四人掛けのコーナーソファと大型テレビが置かれ、右手側はダイニングテーブルが配されている。室内の窓は全てカーテンが閉じられており、薄暗かった。


 エアコンを始め、リビング内に設置された各家電製品は全て電源が落ちており、室内は蒸し暑かったが、外よりは遥かにマシだった。

 少女の予想に反しリビングやダイニングは整然としており、ソファに投げっ放しになっている雑誌や、食卓と思しきテーブルの上に食べた形跡がある食器がそのまま放置されている以外は、特段不審な点は見受けられなかった。

 それでも少女は油断せずに部屋続きとなっている台所の方へと移動し、ようやく目当ての場所へと辿り着く。


 眼前には、シンプルなデザインのシステムキッチンがあった。

 少女は近くにあった食器棚から迷わずグラスを一つ取り出すと、それを片手に持ったまま水道蛇口のレバーハンドルを開き、水を出そうとした。

 しかし当然と言うべきか、温くなった水が申し訳程度に出るも、それは直ぐに止まってしまう。グラスの三分の一にも満たない量であった。

 少女はほんの一瞬無念そうに表情を歪めるが、渇きがとっくの昔に限界を通り越していた為、しゃぶりつくように乾燥した唇をグラスの縁に押し付けて水を飲んだ。


 ごくごくと喉を鳴らして水を嚥下えんかする。

 美味かった。温くなった只の水道水ですら、今の少女にとってはこの上なく甘露で貴重な飲み水に違いなかった。

 だが元々少量であったグラスの水はあっという間に飲み干されてしまい、少女は未練がましい吐息を漏らす。


(…駄目だ、これじゃあ全然足りない。そうだ、冷蔵庫の中に何か残っていないか?)


 そう考えた少女はグラスをシンクに置き、次いで五畳ぐらいのキッチンの壁際に設置されている大型冷蔵庫の方へと足を運んだ。

 そして冷蔵庫の扉を開けた時、中からヒヤッとする空気が流れ出て少女の肌を刺激した。


(冷蔵庫が稼働している。だとすれば、この家の電力は生きているのか?)


 少女は軽い驚きと共に思考を巡らす。

 己が目覚めた場所である施設の電気は完全に止まっていた。更にこの家の水道も使用不可という状況をかんがみれば、この付近一帯の電気、ガス、水道といったライフラインはほぼ間違いなく断絶されているだろう。

 だが現にこの家の冷蔵庫は稼働中であり、内部に残されている極僅かな食料品は、どれも腐ることなくきちんと保存されているのであった。


(もしかすると太陽光発電か? だとすれば、ツキはまだ俺を見放しちゃいないってことだな)


 正しく少女にとっては僥倖ぎょうこうといえた。

 電気が生きていれば当然電話も使えるであろうし、加えてテレビやラジオから有力な情報だって得られるだろう。上手くいけば、膨大ぼうだいな情報量を有するインターネットに接続されているパソコンなどの情報端末がこの家で入手出来るかも知れないのだ。

 自身が必要としている情報の全てを、ここで一気に集められる可能性が高いことに少女は湧き上がる喜びを抑えること出来なかった。

 更に、冷蔵庫の中に残されていた『まぐろ』と大文字で表記された缶詰と、緑色のラベルに『おお~いお茶』と書かれている飲みかけのペットボトルを発見したことも、それに拍車を掛けてしまっていた。


(ツナ缶とお茶が同時に得られるとは。最高だ)


 少女は早速ツナ缶とペットボトルのお茶を冷蔵庫の中から取り出して床に置く。

 そして先程グラスが収められていた食器棚から、今度は一本のフォークを見つけ手に持った。

 床に腰を下ろした少女がもどかしげに缶のふたを開けると、フォークを使って掻き込むように中身を平らげていく。無論、食べる合間にボトルに入っているお茶も夢中で飲んだ。


 幸運だった。

 求めてやまなかった飲料水と食料品。そして、情報を入手する又と無い好機チャンス

 これらが一遍いっぺんに、少女の手元に転がり込んできた。

 確かにそれは、幸運以外の何ものでもなかった。

 それ故、飢えと渇きを同時に満たし、尚且つ展望に活路を見出した少女がほんの少し――そう、ほんの少しだけその素晴らしい幸運に気を緩めてしまったのは、ある意味仕方がない事であった。


 だから、その存在(・・・・)に気付くのが僅かに遅れた。

 それ(・・)はまるで、動く植物人間のようであった。

 外で少女に襲い掛かってきた高い運動能力を持つ獰猛な捕食者達とは、全く異なる種別タイプの化け物だった。

 乱暴な言い方をすれば、その化け物は標準の個体よりも身体機能が劣っている、弱い部類の化け物であった。


 しかし今の少女にとっては、それが逆に災いとなった。

 二階に居た化け物は、少女が玄関ドアの鍵を掛けた音を鋭敏に察知した後、彼女の“匂い”を追ってのそのそと階段を下りて来たのだ。

 唸ることなく、吼えることなく、ただ空気が漏れるような極小さな呻き声を発し続け、化け物は静かにリビングのドアを開け、室内へ侵入を果たしていた。


 一方、少女の方も僅かなドアの開閉音を耳に拾い慌てて振り返ったが、気付いた時には既にそいつ(・・・)はキッチンの入口まで迫っていた。

 氷柱と化した恐怖と戦慄が、凄まじい勢いで少女の首筋を撫でる。

 空洞となっている左の眼窩がんかから卵白のようなうみを滴らせつつ、捕食者となった家人らしきその中年女性は、所々欠損した両手の指を少女の方へと突き出し襲い掛かってきた。


「――ッ!」


 弾かれたように、少女が真横に躰を投げ出す。

 脇に飛びのくと同時に、つい今し方少女が座っていた場所へと、血に染まった洋服を着た中年女性が覆いかぶさるように突っ込んで来た。

 化け物の動きは決して俊敏ではなかったが、対する少女の方も酷く動きが鈍かった。

 極度の疲労が、少女の動作にかせめているからだ。


 ギリギリで攻撃をかわした少女は、至近距離で自分の方にこうべを巡らせる中年女性の顔をまともに見てしまった。

 片目が抉り取られて無くなっていた。

 片耳も喰い千切れて無くなっていた。

 鼻はもぎ取られて骨が剝き出しになっていた。

 下唇はぶら下がり、めくれた歯茎にはどす黒い血液と汚物がこびり付いていた。

 その無惨な姿は、想像を絶する程の醜悪さとおぞましさを兼ね備えていた。


 化け物の中年女性から間合いを離そうと両腕を使い後ずさるように起き上がった少女であったが、その時勢い余って背をキッチンシンクがぶつけてしまう。

 うっと痛みに小さな苦鳴を発した少女であったが、不意にある事を思い付き、咄嗟とっさにシンク下に設置されているキャビネットの取っ手を掴み引き出す。

 まな板やボール等の調理具が収納されているキャビネットの中には、スタンド式の包丁収納スペースもあり、そこには四本の文化包丁が仕舞われていた。


 泣くような弱々しい呻き声を上げながら、中年女性がぎこちない動作で起き上がる。

 少女がキャビネットから包丁を一本抜き出す。

 化け物が両手を広げながら、少女にしがみ付こうと突っ込んで来る。

 その襲撃を掻い潜ろうと、少女が身体をひねり動こうとした。

 いや、正確には動けという意識のみが先行しただけであった。


 疲労困憊(こんぱい)となった足は最早言うことを聞かず、少女は全く回避行動が取れなかった。

 両肩を掴まれた少女は、そのまま化け物に押し倒されてしまい、組み伏せられてしまう。

 化け物が巻き込むように体重を預けてきた為、少女は思いっきり背中を床に打ち付けてしまった。


「かはっ…!」


 呼吸が詰り、一瞬意識が遠のきそうになる。

 中年女性が押さえ込んだまま、獲物である少女の喉笛を食い破ろうと粘つく大口を開けた。

 真っ赤にただれた口腔が迫る。

 頭が状況を理解するよりも先に、少女は無意識で引き寄せた包丁の刃を横に寝かせ、噛み付きを防ごうとする。


 次の瞬間、がちがちがきがきっという歯と金物が擦れる奇怪な音がキッチンに響いた。

 密着するような至近距離に、中年女性の崩れた顔があった。

 捕食者たるその中年女性は、切創など気にも留めずに包丁の刃を噛み続けていた。

 間近に迫るその化け物を仰ぎ見ながら、少女は細かく息を切り、必死に酸素を求めて喘いでいた。

 全身の力は疲労・焦燥・絶望によってがれ、包丁の柄を把持する両手は風前の灯のように弱々しく小刻みに震える。


 むせ返るような血生臭さの中で、少女は脳裡に明確な“死”を思い浮かべていた。

 疲労に蝕まれた身では、化け物の拘束から逃れることも、戦闘を行うことも不可能なのは嫌という程、少女は理解していた。

 だからそれは、少女にとって最後の悪足掻きに過ぎなかった。

 焦れた中年女性の化け物が他の部位を喰い破ろうと、狙いを変える為に一旦首を引き、顔を持ち上げた瞬間だった。


 少女は即座に横に寝せていた刃を縦にした。

 つまり、包丁の先端を相手に向けるように持ち直したのである。

 刹那、意識が壊れる程に圧迫される。

 限界を超えた《力》の発動は命取りだと、理性が悲鳴を上げていた。

 無論、少女は全てを承知していた。


 そう、少女は全てを承知した上で、それでも【念動力】の発現を試みた。

 不可視の力場が濃度を増し、凝集していく。

 それと引き換えに、少女の心臓は狂ったように跳ね回り、更に熱を伴った頭痛が苛み始める。それはまるで、ドリルで頭蓋をじ開けられるような想像を絶する痛みであった。


「あ、あぁああぁああッッ!!」


 それは、悲鳴か絶叫か。

 凄まじい形相で、少女が金切り声を口腔からほとばしらせていた。

 上に乗る中年女性が、刃で切れた口端の筋がぶつぶつと寸断されようがお構いなしに、限界まで広げた口で少女の腕に噛み付こうと迫る。

 それを視界に収めながら、少女は強烈な印象イメージを形成させる。


 銃口から、銃弾が射出されるように。

 限界まで引き絞られた弦から、弓矢が解き放たれるように。

 神経を集中し、《力》を鳴動させ、物質は指向性を得る。

 瞬息、空間の歪みと共に、少女の手元から包丁が壮絶な勢いで撃ち放たれた。

 刃の射線上には、前方に突き出した中年女性の顔面があった。


 ざしゅっ、という不快極まる湿った音は、肉を切り裂き、頭骨を穿ったものだった。

 ぽっかりと開いた眼窩には、包丁の柄が根本まで埋め込まれている。

 文化包丁の刃が、中年女性の後頭部を貫き出ていた。

 血と脳漿のうしょうが飛沫となって、床へと散りばめられていた。


 動きを止めた中年女性の身体から力が抜け、そのまま前のめりに倒れ伏す。

 少女に覆い被さったまま、化け物は絶命した。


 息も絶え絶えの状態で、少女は身動ぎをしようする。

 だが身体は、全く動こうとしなかった。

 耐え難い苦痛と脱力感が、少女の全身を駆け巡る。

 視界が明滅を繰り返し、意識が暗闇に閉ざされようしていた。

 少女の患者衣は、上にいる中年女性の傷口から滴る粘液によって酷く汚れ、悪臭を放っていた。


 この服は絶対に捨てよう。

 そんな場違いな感想が頭に過ぎった後、力尽きた少女は気を失った。


 ――その時、誰かが自分の傍に歩み寄って来たことを、少女は知る由もなかった。





 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 夢。

 俺はまた夢を見ていた。

 だが不思議な事に、今回の夢の登場人物は俺ではなく少女本人のようだった。


 おぼろげだった場面が、徐々に鮮明となる。

 其処は何かの実験施設に違いなかった。

 だがその場所は、俺が生まれ育ち、“執行者”となる為の訓練を施された『研修所』とは全く違う所に間違いなかった。


 何もない白くて殺風景な部屋に、今よりもっと幼い少女の俺が佇んでいた。

 ただ部屋の正面には、やたらと大きな鏡が壁にめ込まれているのが気になったが、それが直ぐにマジックミラーなのだという事に俺は気が付いた。

 いや、これら全ての情報は、あらかじめ少女本人が知っている事なのだろうか?

 思考に混乱が生じてしまい、俺の記憶と少女の記憶の境界線が酷く曖昧になる。


 場面が移る。

 鏡に映る少女の俺は、無邪気な笑顔を浮かべて【念動力】を発動していた。

 操っている物体は、ボールや人形、積み木などといった玩具おもちゃばかりだった。

 それらの玩具を使って空中に浮遊させたまま静止、移動、回転などの実験を行っていた。

 もっとも、少女の俺にとっては実験というよりも単なる“遊び”の感覚に近かった。


 そんな【念動力】を用いた“遊び”を行っている少女に、ゆっくりと近付いて来る人物がいた。

 俺はその顔を見て驚愕する。

 柔和に目尻を下げて微笑む人物を、この俺が忘れる筈もない。

 満面の笑みを浮かべた少女が、彼の下へ駆け寄る。

 すると彼は、少女の頭を優しく撫でながら口を開いた。


かえで。今日は君に、とても良い知らせがあるよ」


 穏やかな声でそう告げる人物は、俺――黒崎諒くろさきりょうにとって、恩師であり父親でもある御方、“先生”その人だった。


 驚愕と混乱の極みに陥った俺の状態を汲み取ったかのように、全ての映像が急速に遠ざかり、虚無の闇が世界を覆い尽くした。

 やがて、周囲を埋め尽くす暗闇の中に、戸惑う意識だけが取り残された。

 目覚めが近いことを、俺は知覚する。




 ―――そして、諒/楓は現実へと覚醒を果たした。













遅くなりまして申し訳ございません。

どうにも遅筆なのですが、書きたい意欲は現在ハンパないです^^

ゾンビをこよなく愛するが故、もっともっと色んな話を執筆したいですね。

できるだけ早く書き上げ投稿していこうと思っていますので、何卒宜しくお願いします~!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ