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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第二章  転変
28/36

第6話 「Day of the dead ⑥」

少し長いです。







 




「小僧、これが最後だ。大人しく座れ。じゃなきゃマジで死ぬぜ?」


 都立光台高等学校を占拠した武装集団テロリストの一味であるフェイスマスクをかぶった男が、脅迫きょうはくの言葉を腰だめに構えた自動小銃アサルトライフルAK47の銃口と共に、一人の青年へと向けた。

 だがそれにひるむことなく、スポーツで鍛え込んだシャープな肉体と適度に整った容貌ようぼうの持ち主である青年――篠倉海斗しのくらかいとは席を立ち、敵愾心てきがいしんちた瞳で相手をにらえながら言い返す。


「ふざけんな! お前の方こそ、今すぐ彼女のそばから離れやがれっ。さっきからキメェんだよ!」


「口の利き方を知らねえくそガキが……。ちっ、っちまったら色々と面倒くせえ事になるから出来れば避けたかったが、こうなりゃ仕方ねえ。小僧、お前が悪いんだぜ? 優しい俺の警告を無視しやがったんだからな」


 海斗のげんに対し、フェイスマスクから覗く唇を酷薄こくはくじ曲げながら男がうなるように言うと、AK47の引き金に指を掛けた。

 すると教壇近くに立ち、これまで様子をうかがっていた同じくフェイスマスクを被った仲間のテロリスト二名も、他の生徒を威嚇いかくするかのように自動小銃アサルトライフルを構える。

 抜き差しならぬ緊張が教室内をはしり抜け、異様な沈黙が空間を支配した。

 しかし次の瞬間、ある気配が動き、


「……どうしてもそいつを殺したいのなら別に構わんが、その代り女と過ごす時間を捨てることになるが本当に良いのか?」


 そんな鉄を彷彿ほうふつさせる冷ややかな声が、大気に微弱な震動を与える。

 声の主は、三十代手前のほりの深い顔立ちに底無しのくらさを宿した双眼を有する『ファング』の暗号名コードネームを持つ男であった。

 鋼鉄材がしんに入ったがごとき頑強な長身体躯(たいく)に加え、黒地の戦闘服とタクティカルベスト、そして自動式拳銃オートハンドガンソーコムMk23と新型短機関銃(PDW)MP7で武装したファングが、殺気立つフェイスマスクの男へと近付きつつ問いの言葉を口にしたのであった。


「ちっ、わざわざアンタに言われなくても、んなこたぁ分かってんだよ。だからって、こんなガキに舐められたままってのはよぉ……」


 ファングの声にフェイスマスクの男がぐっと息を詰まらせると、次いで舌打ちを大きく鳴らしながらふてくされ気味に言い、撃つのを躊躇ためらう素振りを見せた。

 もしこのまま激情に任せて自分に盾突いてきた男子生徒を射殺すれば、人質の女子生徒や女性教員を性のけ口にする計画は確実に頓挫とんざする事となる。

 何故ならそれは、フェイスマスクを被る彼らが『リーダー』と呼び、“革命軍”を名乗るテログループの代表者である飛田泰章とびたやすあきの許可なく人質を勝手に殺傷すれば、飛田の逆鱗げきりんに触れるのは明らかであるからだ。

 そして、自らが掲げた思想に凝り固まる偏執的へんしゅうてきな性格の飛田は部下の身勝手な行為に対して寛容かんようとは言いがたく、処罰は不可避であった。


 当然そうなれば飛田の監視の目が厳しくなり、結果としてフェイスマスクの男が目を付けた女子生徒、ロングの美しい黒髪と切れ長の瞳、更に未成年ながらもグラマラスなスタイルを誇る色白の美少女――柏木菜月かしわぎなつきを抱くことは不可能となる。

 そして強制性交を共謀している他二人の仲間もまた、それが原因でファングの指摘した通り女を脅して犯す好機チャンスを永遠に失ってしまう。

 だから女に未練のあるファイスマスクの男は、自分を睨みつけてくる生意気な男子生徒を殺してしまえば目論見が全てご破算になるのをおそているからこそ、発砲を躊躇ちゅうちょするのだった。


 揺曳ようえいする心を代弁するかのように銃口を小刻みに揺らすフェイスマスクの男と、銃を向けられ流石さすがに肝を冷やした様子の男子生徒が互いににらみ合ったまま、わずかな時間が過ぎる。

 他方、そんな二人の様子を静かに見詰めていたファングは、その冷厳たる相貌そうぼうを青ざめた顔で必死に相手をめ続けている男子生徒の方へと固定させた後、無機質な声を放った。


「血気盛んなことは結構だが、蛮勇ばんゆうを振るえば待ち受ける未来は犬死にだ。無駄に逆らって死にたいのであれば、俺が今この場で始末をつけてやる。お前が決断しろ」


「……ぐっ……」


 地の底をうように沈むファングの言葉は、極めて陰惨いんさんな問い掛けであった。

 およそ人間らしい感情を微塵みじんも感じさせぬその声音と気配に、これが只の脅し文句ではないことを海斗という名の男子生徒は即座に悟る。

 それこそ理屈抜きで眼前の大男が危険であると本能が悲鳴を上げ、意図せずにうめき声がれてしまう程に。


「――ッ、くそ……!」


 フェイスマスクをかぶった者達などとは比べ物にならない程の威圧感と危険性を有した存在を前に、海斗は知らず冷汗と共に身体を強張こわばらせ、かすれた声でののしりの声を上げるしかすべがなかった。

 だがそれでも海斗は、気圧けおされながらもいた女性を守らんと若者特有の向こう見ずな勇気を振り絞って、ゆっくりと自席へ近付く大男に対して不屈の闘志を示そうとする。が、その刹那、


「海斗、お願いだから、もうそれ以上言うのはやめてっ!」


 蹴るような勢いで席を立つと同時に、悲鳴じみた叫び声を上げて海斗の行動を制止したのは、ショートの薄茶色の髪にぱっちりとした目、そして小ぶりな鼻と口で形成された整った顔立ちの健康的スレンダー体型が見栄える美少女――新見彩花にいみあやかであった。

 廊下側のやや後ろ側が座席である海斗から若干じゃっかん離れた教室中央付近の最後尾が自席となっている彩花は、幼なじみである彼の無謀な行為を止めようと必死であった。

 細身のからだを震わせ懸命に訴える彩花の声を聞いた海斗が、はっとしたように幼なじみの女子生徒の方へ振り向くと、続けて苦しげに言葉をし出した。


「けど彩花、このままじゃ柏木が……」


「そんなの分かっている! でも、さっき目の前でうちらの担任が殺されたの見たでしょ? このまま逆らい続けたら海斗、間違いなく殺されちゃうよ。彼女の為に海斗が死ぬなんて事、そんなのあたしは絶対に許さないからっ!」


「新見さん、あなた……!」


 まるで幼児がイヤイヤをするように、首を何度も左右に振りながら叫ぶ彩花の声音は、歪んだ顔と同じく悲痛なものであった。

 そんな鬼気迫る彩花の姿を目の当たりにした海斗は、迫力に押されたように言葉を呑み込む。しかしそれとは対照的に、話題の中心人物となっている柏木菜月は海斗に向けていた先ほどまでのすがるような視線から、打って変わって憎しみのこもった眼差しを彩花へと送りながら呟くように声を発した。


 確かに以前から篠倉海斗が自分に好意を寄せているのを菜月は知っていたが、かといって彼から告白があった訳でもなく、ましてや海斗に対し何ら特別な感情を抱いていない菜月が告白をする道理もないので、当然二人の関係は彼氏彼女の間柄ではなかった。

 一方クラスメイトである海斗と新見彩花が幼なじみであり、更に彼女が彼に恋慕れんぼの情を抱いているものの未だ恋が実る気配はないといううわさを前に耳にしたことはあったが、かといって彩花と友人でもない菜月には全く興味の無い話でしかなかった。……そう、今日この時までは(・・・・・・・・)


 端的に言えば、彩花は愛する海斗の命を救う為に菜月を見捨てるつもりなのだ。

 現に幼なじみである彩花の言葉は、海斗の心と身動きを封じるのに絶大な成果を上げていた。

 他の女ではなく私を選んで欲しいという彩花の願望が如実にょじつに含まれた先の台詞によって、海斗がありありと苦悶くもんの表情を浮かべ一気に威勢を失っていく様を、菜月は落胆らくたん苛立いらだちが入り混じった双眸そうぼうでただ見詰めているより他なかった。

 もし菜月が更に哀訴あいその声を上げたところで、彩花の邪魔が入るのは確実であり、そうなれば海斗も結局のところ迷いを振り切れず動けないのは明白であった。


 このまま海斗が犯人グループに逆らい続け、上手く大きな騒動に発展してくれれば自分が下種げすな欲望の標的から逃れられるのではないか、という菜月のあわい期待はもろくも崩れ去った。

 それでも一縷いちるの望みをかけて他のクラスメイト達の顔を見渡す菜月であったが、普段は調子よく彼女をチヤホヤする男子達はおろか、友人である筈の女子達ですらも、皆一様に顔を伏せたまま関わり合いになることを避けていた。

 誰も助けてくれないというその非情な現実を前にして、ぬぐいきれない虚無感が諦念ていねん拍車はくしゃを掛け、菜月の美貌に暗い影を落とした。

 そして再び教室内に息苦しいほどの沈黙が訪れた時、『ファング』なる暗号名コードネームを“組織”から与えられた男が、冷酷な権威を込めた語調にて命令の言を放つ。


「座れ」


「……ちっ、くしょう……!」


 歯ぎしりしながら海斗は悪態あくたいをつくが、しかしそれは反抗というよりもはや悔しまぎれに言葉を発しただけに過ぎず、結局は命ぜられるままに大人しく着席した。

 幼い頃からの知己ちきである彩花のなり振り構わぬ制止が決定打であったものの、頭の片隅で警報を鳴らし続けている海斗自身の生存本能もまた、無茶な行動に歯止めを掛けたのは噓偽うそいつわりのない真実であった。



「へへっ、どうやらあの小僧もようやく自分がどんな立場にいて、俺達の指示に逆らえば命がねえってのをちゃんと理解したようだな。ってことでよ、邪魔者もいなくなった事だし、そろそろ俺と個人面談・・・・の時間だぜ? カシワギナツキちゃん」


 クラスの中で唯一、反抗的な態度を見せた篠倉海斗が着座した後に、それを見届けた彼の幼なじみである新見彩花が自席に腰を下ろすと、早速フェイスマスクの男が劣情を乗せた視線を柏木菜月へと送りつつねばついた口調にて言った。


「…………はい」


 そして菜月の方は、己の卑猥ひわいに満ちた妄執もうしゅうを垂れ流すフェイスマスクの男の宣言に対し、ただ暗い表情と声音で承諾しょうだくの返事をするしか選択の余地がなかった。

 次いでフェイスマスクの男が顎をしゃくって促すと、菜月はぎこちない動作でノロノロと立ち上がるも、先ほど彩花が口にした二年E組の担任教師が犯人に射殺されるというあまりにも凄惨な光景を目撃したクラスメイト達は、やはり萎縮いしゅくしたまま何も行動を起こさずに菜月を見捨てたのであった。


「その女を別な場所に連れて行くのなら、音楽室が適当だろう。この教室から最も近く、更に同じ五階校舎の中でも端側にあるので比較的目立ちにくい。何より音楽室であれば防音効果もそれなりに期待できるから、ある程度の騒ぎを起こしても大丈夫なはずだ」


「なるほど音楽室か、良いねえ。そこなら女をたっぷり可愛がっても、あえぎ声なんかが外に漏れ聞こえる心配もないって事だな。そんじゃまあ、今から音楽室でナツキちゃんを心置きなく奏でて(・・・)やるとするか」


「――っ……」


 ファングの申し向けに、フェイスマスクの男がニヤニヤと口元を緩ませながら喜色と好色に弾ませた言葉を返す。

 その一方で、二人の会話を聞いていた菜月にあっては沸き起る嫌悪に顔を引き歪ませたものの、だがそれもほんの一瞬で氷像のごとき無表情へと戻すと共に、虚ろな視線を宙空に彷徨さまよわせていた。


「……では俺も音楽室まで同行しよう。その方が、そちらにとっても何かと都合が良いのではないか?」


「ああ、言われてみれば確かにそうだな。もし運悪く途中でリーダーとばったり出会っちまっても、俺一人よりかはアンタと一緒の方が不自然じゃないし、勝手に持ち場を離れた言い訳もしやすいか。オーケイ、じゃあよろしく頼むぜ」


 ファングとフェイスマスクの男がそのようなやり取りを行った後、順番待ちで教室に居残る他二人の仲間に引き続き人質の監視を頼むと、菜月をともなってファングらは教壇側の出入口扉の方へと移動する。

 そして教室から出る間際、不意に菜月が立ち止まってある方向……苦渋に染まった表情で見送る海斗の方へ首を巡らすと、悲哀をたたえた涙混じりのおもてで声を発した。


「篠倉く……ううん、海斗君・・・。わたしを守ろうとしてくれたの、本当にすごく嬉しかった。――ありがとうね」


 その言葉が純粋に感謝の気持ちを述べただけなのか、それとも何か別な意味合いを秘めたものであったのかは当の菜月以外、誰にも分からなかった。


「かし……、わぎ……」


 ただ一つだけ確かに言えることは、自身の無力と後悔にまみれた千切れ声を落とす海斗の胸中きょうちゅうに、菜月という少女の存在が強烈に刻み込まれたという事実であった。

 そして、外を取り巻く喧騒けんそうとは真逆の、まるで泥沼のようなどんよりとした沈黙に支配された二年E組から、菜月・ファング・フェイスマスクの男らが出て行った。




 先頭を菜月に歩かせ、その後ろをフェイスマスクの男とファングらが追随ついずいする。

 一同の目的地である音楽室は、二学年の生徒が在籍する各HR教室と同じ校舎棟五階に設けられており、更に住宅街を眺望ちょうぼうできる校舎南側の二年E組から、グラウンドや体育館棟に面している校舎北側に配置された音楽室や視聴覚室などの特別教室までは、まさに目と鼻の先といっても過言ではない距離であった。

 その為、例えどんなにゆっくり廊下を進んだところで要する時間などたかが知れていた。


 移動距離、時間共にごく短いものであったが、幸いというべきかフェイスマスクらのリーダーである飛田泰明とびたやすあきを始め、事情を知らない他の仲間達に見つかることもなく三人は目指す先へと辿たどり着いたのだった。

 時刻が夜間帯に入ったことから外は暗闇に包まれていたが、校舎五階の廊下や各教室の天井には蛍光灯の明かりがけられており、視界は確保されていた。


「短い間だったが、ぶっちゃけヒヤヒヤしちまったぜ。何せ他の奴等に人質を連れ歩いている姿なんか見られちまったら、まず面倒くせえ事になるのは目に見えているからな。いくらアンタが一緒に居てくれても、リーダーに何の断りもせず勝手な事やっちまってんだから不安なのは仕方がねえよ」


「そうだな」


 施錠されていない音楽室の引き戸を開けて中へ入ると、まずフェイスマスクの男が先に口を開き、次いでファングが言葉少なに答えを返した。

 他方、二人に先行する形で音楽室に足を踏み入れていた菜月にあっては、間もなく行われるであろういかがわしい行為から、ほんの少しでも長く逃れたいという心情を表すかのように、可能な限り男達と距離を置こうと窓際まで歩を進めていた。

 室内は蛍光灯の明かりで満たされており移動には何ら支障は無かったが、代わりに全部のカーテンが閉められていなかった為、窓外から中が丸見えの状態となっていた。


「へっ、丁度いいや。おいナツキちゃんよ、窓のカーテンを全て閉めろ。このままじゃ外でこっちの動きを監視している連中に、一部始終を見られちまうかも知れねえからな。……ま、けどナツキちゃんが自分のあられもない姿をどうしても外の奴等に見せつけたいってんなら、別にカーテンを閉めなくても俺は構わないぜ?」


「……っ、し、閉めます」


 フェイスマスクの男が吐く嗜虐しぎゃく的な揶揄やゆを受けた菜月は、羞恥しゅうちに顔をかっと赤らめながらも、男の指示通りに窓のカーテンを閉め始めた。

 そんな菜月の後ろ姿を、舐めずるような目つきと劣情を帯びた薄笑いを浮かべたファイスマスクの男が見詰める。無論、女子用夏服である白色サマーベストの下のタイ付き半袖ブラウス、またチェック柄のスカートからのぞける菜月の官能的な肢体したいを前に、男が既に下半身の局部を膨張ぼうちょうさせていたのはもはや言うまでもなかった。


「さて、と。後がつかえていることだし、さっさとおっぱじめようかね。なあアンタ、すぐ教室に戻らねえんだったら、ちょっと見物してい――――ぶっ」


 そばに立つファングへ向けて、ファイスマスクの男がそんな言葉を投げ掛けるもしかしそれは途中で断ち切られ、代わりに口から漏れてきたのはくぐもったうめき声であった。

 奇妙な発声音と不穏な気配を敏感に感じ取った菜月が、気になって作業の手を止め後方を振り返ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。

 菜月の視野に飛び込んできた情報は、犯人の大男が仲間であるはずのフェイスマスクの男の背中に回り、左手で口と鼻をふさぎ右手を後ろ腰に当てているというものであった。


 正確には、油断で無防備となっているフェイスマスクの男の背後にファングが音もなくに忍び寄り、所持するコンバットナイフで後ろ腰から腎臓じんぞう部分を狙って刺突しとつを行ったのであった。

 更にファングは刺したナイフをひねってから一旦引き抜くと、迅速かつ完全に息の根を止める為に、姿勢を崩したフェイスマスクの男の頸動脈を容赦ようしゃなく刃でき切ったのである。


 血飛沫ちしぶきが室内に舞い、命を絶たれたフェイスマスクの男が声も無く床へとくずおれた。

 そしてあまりにショッキングな光景を目の当たりにしてしまった菜月は、恐怖と混乱で心身共にすくみ上がってしまい、「ひ……」という悲鳴にすらならないかすれ声を出して床にへたり込んでしまう。

 その一方で絶命した相手の前にかがみ込み、衣服を利用してナイフに付着した血糊ちのりぬぐい始めたファングは、菜月の方に視線を向けると一切の揺らぎを感じさせない語勢にて言葉を発した。


「――女、俺はお前の生死に関与するつもりはない。が、一つ忠告をしてやろう。もしわずかにでも自身の生存率を上げたいのであれば、性急な行動はひかえ、これから起こる混乱に乗じて逃走を図る方が賢明な選択だ」


「…………え?」


 人を平然と殺す男を前に、次は間違いなく自分の番だと思っていた菜月は両目を見開き、絶望に身体を震わせたままファングを凝視するより他にすべがなかった。

 だがそんな菜月の恐慌きょうこう余所よそに、ファングは血を拭い終えたナイフを鞘に戻しながら淡々とした口調で述べたのだった。

 そして菜月は、ファングが発した言葉があまりにも予想外であった為に思考が追いつかず、呆然とした顔つきで調子外れな声を思わず上げてしまうのであった。


 しかしそれ以後、ファングが菜月に対して口を開くことはなかった。

 極めて衝撃的な光景を目撃した影響で、横座りのような格好で床にへたり込む放心状態の菜月をファングは無視して立ち上がると、亡骸となったフェイスマスクの男が所持する自動小銃アサルトライフルのAK47や、同人が着装するタクティカルベストに取り付けられたマガジンポーチに入っているAKの予備弾倉をそのまま放置して音楽室を後にする。


 ファングが出て行った後に取り残されたのは、室内に充満する濃厚な血臭の中で虚ろな瞳を空間に彷徨さまよわせる菜月と、血にまみれたフェイスマスクの死体だけであった――




(……よくも、あんなつまらん台詞せりふを吐けたものだ)


 音楽室から二年E組へと戻る最中、ファングが先ほど柏木菜月という名の女子生徒に向けた己の言葉を思い返し、こみ上げる自嘲じちょうの感情を抑えきれないでいた。

 もっとも本来であれば自らをあざる思考そのものすら余計であり、任務には一切の感情を排して当たらなければならない事を理解しているファングであったが、それでも心の奥底に巣食う疲弊ひへい如何いかんともしがたいものがあった。

 それが先ほどの、しなくてもいい“忠告”をファングに口走らせる原因につながっていた。


 それはいつの頃だったか、ファング自身も定かではなかった。

 ただ物心ついた時には、“悪”たる存在に正義・・鉄槌てっついを下す『研修所』の執行者として訓練を施されていたファングにとって、日々の生活は文字通り生きるか死ぬかの毎日でありそれ以外の意味など皆無であった。

 訓練の成績が悪ければ、与えられた任務に失敗すれば、それらはいずれも死に直結する。だからこそファングは、死に物狂いで己を律し鍛え、数々の困難な任務を見事に完遂かんすいしてきた。


 それもこれも全ては死にたくないが故に。

 ごつく強面こわもての見た目からは想像がつきにくいが、生来ファングは人一倍、“死”の恐怖に関して敏感な男であった。臆病者であると言い換えてもいい。

 だから訓練で相手をあやめることも出来たし、課された任務で対象ターゲットを殺害することに躊躇ためらいはなかったし、また自己防衛の為ならば敵となるあらゆる者の殺傷をいとわなかった。

 それもこれも全ては殺されたくないが故に。


 しかしある時をさかいに、いつ殺伐とした毎日が終わりを告げるのかという疑念の声がファングの脳裡のうりにちらつくようになった。

 そしてその声は、年齢を重ねるごとにより深く、より大きなものとなってファングの精神を少しずつ摩耗まもうさせ疲弊させていったのである。

 それでもファングは疲労にむしばまれた心を抱えながらも、任務の達成こそが『研修所』の指導者たる“先生”が唱える社会正義の実現につながり、やがてはこの殺し殺される世界から足を洗える日がくると信じ続けて闘い続けることが出来た。

 そうあの日(・・・)までは。


 その任務は、救世ぐぜうたった暴力団絡みのとある過激な宗教家の教祖を消せ、という内容のものだった。

 その時ファングは、『ジャッカル』という暗号名コードネームを与えられた仲間のサポートを担当していた。

 ジャッカルはまだ二十歳の若者であったが、執行者としての任務遂行能力は極めて高く、特に格闘術と銃剣術に関してはファングを始め他の同僚より数段秀でており、何よりも“先生”に対する忠誠心は狂信的なまでに高い男であった。


 だからこそ、より確実な任務の達成の為に選抜されたメンバー中、最優秀であるジャッカルが標的を仕留める役目を担当し、ファングや他に数名参加した執行者らは彼のサポート役に当たっていたのである。

 しかしそんな完璧な布陣で挑んだはずの任務は無様に失敗し、挙句あげくの果てには信徒から猛反撃を受けたファングやジャッカルらは命からがら現場を離脱する有様となった。

 幸い互いの協力で事なきを得たが、今でも任務の失敗に関しファングは疑問を感じていた。誰かが単純なミスを犯したり、ましてや油断があった訳でもないのだ。


 そもそも、あの件に関しては本来の任務とは別な何か(・・)が意図されていたようにしか、ファングは思えなかった。

 でなければ、絶妙のタイミングで対象の暗殺を実行したジャッカルの動きが防がれるはずなど無いのだ。――それこそ相手側に、誰かが情報をリークするような事実がなければ。

 とはいえ真相は闇であり、またファングにそれを調べる手段や方法もなかった。

 ただそれ以後、奇妙な噂が執行者の間で飛び交い始めたのである。


(ジャッカル――いや、確か本名は黒崎諒という男が、任務失敗の責を負って“あの方”が秘密裡に行っている人体実験の被験者になった……か)


 廊下に立ち止まったファングが、右脚のレッグプレートに取り付けたタクティカルホルスターから自動式拳銃オートハンドガンのH&K Mk23 ソーコムピストルを引き抜くと、今度は同じく左脚に巻いたマガジンポーチから取り出した消音器サプレッサーの金属筒をソーコムの銃口に装着しつつ、様々な思いを巡らせていた。

 一方、負い紐(スリング)で吊った新型短機関銃(PDW)のMP7の方は動きを阻害しないように背中の方に回していた。


「課された任務は果たす。だがその後は……」


 心中にわだかまる思いを乗せて、ファングが独りごちる。

 不審を抱えながらも流されるままにファングは、理想郷の実現の為に現日本政府から離別する意思を明確にした“先生”の決起に参加し、当該事件に関わる羽目はめになったのである。

 だが黒崎諒の人体実験の件といい、更に関係者の間で密かにささやかれていた、『研修所』が不必要と判断した執行者を専門的に排除・・する役割を負った“処分人パニッシャー”なる者が実在する事を知ったファングは、改めて自分達が使い捨ての道具であり“死”以外の解放など絶対にあり得ない現実を悟ったのであった。


 だからこそファングは、まとわり付く疲れにさいまれながらもある決断を下そうとしていた。

 無論それは“組織”に対する裏切りであり、それこそまさに“処分人パニッシャー”から排除の対象として追われる覚悟をせねばならない。

 しかし例え待ち受ける未来が絶望しかなくとも、“先生”が希求する崇高すうこうな理念によって迷走し続ける『研修所』に隷属れいぞくしたまま使い潰されるよりは、少なくとも自由を手にどこぞで野垂れ死ぬ方がはるかにマシな生き方だとファングは思っていた。


(どのような結末を迎えるにしても、これが俺にとって最後の任務なる、か。生存できる可能性は半々だが、やるだけやってみるさ。……少なくとも、飛田の奴だけは確実に仕留めなければ俺の立つ瀬がないからな)


 そんな決意を胸に二年E組へと戻って来たファングは、右手に把持はじする消音器サプレッサー付きのソーコムピストルを見えないよう後ろ腰へ隠しながら、静かに出入口の引き戸を開けるのだった――――
















本当に申し訳ございません。

内容が膨らみすぎて、また一話伸びてしまいました。

ですが、次こそはクライマックスとなりますので、やっと今の過去編も終わりになります。

次話もなるべくお待たせしないよう頑張りますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

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