第5話 「Day of the dead ⑤」
お待たせして大変申し訳ございません。
太陽が沈み夜の帳が下りた今、世界を満たしているのは暗闇であった。
とはいえ遥か昔ならばともかく、現代社会においては例え深更であっても絶えることのない人工照明が闇夜を緩和し、人の生活行動は時間的束縛から解放されていた。
無論それは、人質テロ事件の現場となっている東京都練馬区朝日町、東京都立光台高等学校二年E組においても例外ではなく、教室内は天井に設置されている蛍光灯の恩恵によって視界が確保されていた。
その灯りの下で、強制的に自席に着かされている人質の生徒達の顔色は不安と恐怖、そして極度の緊張から生ずる疲労のせいで悉く悪かった。
一方、本件の被害者である教員と生徒を含む総勢四十一名の人間を見張っている者……つまり犯人グループの様子は、今のところ自制が働いており直ちに人質を殺傷するような事態には発展していなかったが、しかしその危うい均衡も崩壊間近であろうことは誰しもが肌身で感じていた。
特に今回の学校立てこもり事件を引き起こした、“革命軍”を名乗るテログループの主犯である飛田泰章とは別の組織に所属し、尚かつ協力関係にある者――『ファング』という暗号名を有する男にとっては、自身に課せられた本来の任務を果たす為に情勢の変化は欠かせない要素であった。
そして今、頑強な長身体躯を包む黒地の戦闘服とタクティカルベストに加え、自動式拳銃のソーコムMk23と個人防御火器(PDW)と呼称される新型短機関銃のMP7で武装したファングは、教室の教壇脇に置かれた椅子に腰を下ろしながら己の動く機会を待っていた。
(帝国主義及び独占資本主義に毒された日本を救済する為の“革命”、か。実に逞しい妄想の持ち主だが、少なくとも飛田の奴に投降の意思も要求の妥協案も無い以上、この事件が交渉で解決することはあるまい。また混乱の渦中にある政府や警察に、時間をかけて犯人を説得する余裕など無いだろうから、間違いなく早い段階で強攻策に打って出てくるに筈だ。……となると後は、タイミングの問題だな)
椅子の背にもたれつつ、ファングは思いを巡らせる。
自称“革命軍”のリーダーである飛田が要求する現阿武内閣の退陣など、政府や警察が唯々諾々と従う訳もなく、また交渉の余地すら皆無である以上、警察側に残された手段はたった一つだけだ。
即ち、特殊部隊による強行突入である。
そしてファングにとって、突入を敢行する警官隊と人質を盾に応戦する“革命軍”が齎す混乱こそが、己が任務を果たす絶好の機会なのであった。
(いずれにせよ学校を占拠してから既に六時間以上が経った今、都内の逼迫した情勢に警察は焦りを募らせ、対する飛田の方も全く進展しない状況に相当イラついているだろう。であればこそ、そろそろ両者が弾けてもいい頃合いだと思うが…………む?)
その時、静かに神経を研ぎ澄ませていたファングの耳朶に触れる音があった。
廊下側からファングが陣取る二年E組へと徐々に近づいてくる音の正体は人声であり、またそれは己が目当てとする人物が発したものだと即座に察知する。
とはいえその声音はもはや怒号に近く、先刻と同様に自動小銃のAK47とフェイスマスクで素顔を覆った部下二人を伴い教室内へと足を踏み入れた、声の主である三十歳代半ばの無精ひげと薄い頭頂部が特徴の男性――飛田の姿は、左手に持った携帯電話に向かって大声で喚き散らすような格好であった。
「――いいか、これ以上お前らの下手な時間稼ぎに付き合うほど、俺はお人好しじゃないぞ! くだらん小細工を仕掛ける暇があったら、お前ら警察の犬どもは我々の要求に対する回答をさっさと出すよう政府の連中に働きかけろ!」
教室で監禁されている四十名の生徒らが何事かと息を呑む中で、飛田が携帯電話に怒鳴り散らしながら、椅子に腰を下ろしているファングの傍へと近寄ってくる。
その飛田は、彫深い面立ちを無表情に固めたファングの方を一瞥した後、更に会話を続けた。
「なに? 生徒を何人か解放しろ、だと? ほう、こちらが慈悲深い態度を見せれば、それだけ早く政府側も誠意ある対応を実行すると言うのか。……なるほどいいさ。ではこれから我々なりの誠意ある態度というやつを、お前らに見せつけてやろう。それこそ嫌になるぐらいにな」
不気味な含み笑いと共にそう言い放った飛田は携帯の通話ボタンを押し、尚も説得を続けようとする交渉担当の警察官の声を一方的に遮断した。
それを見計らい、これまで黙っていたファングが口を開く。
「どうするつもりだ」
「どうするつもり? ふん、愚問だなファング。未だにくだらん言い訳と誤魔化しで時間を浪費する国家権力の犬どもに対して、改めて我々の断固たる決意をいうものを思い知らせてやるだけさ」
目を上げて問うファングの無機質な声に対し、飛田が鼻で笑いながら返答する。
それから飛田はファングの傍を離れると、続いて黒板近くに置かれた椅子に座っている二年E組の担任教師の前まで移動した。
驚いて顔を上げる担任の男性教師の前で、顎に手を当てた飛田が再び言葉を発した。
「なあ先生、あんたに頼みたいことがあるんだが、一つ頼みを聞いてもらえるかい?」
「も、もちろんだとも! 私に協力できることがあるなら何でも遠慮なく言ってくれ。あなた方のやり方は確かに過激だが、聞き及ぶ限りでは今回の件もきっとやむにやまれぬ事情からこうするしかなかったんだろう? それなのに警察ときたら、のらりくらりと責任の所在を曖昧にするから一向に解決の目途が立たないんだ。分かる、分かるよ。結局は警察の怠慢こそが非難されるべきであり、強い信念に基づき犠牲を覚悟で行動するあなた方を悪と断じるなど、それこそ私は――」
「ああもういい、それ以上は言わなくて結構だ。あんたが我々の気持ちを理解し協力してくれるのなら、非常に助かるよ」
助かりたい一心からか、酷く狼狽えた様子で捲し立てる若い男性教員の言葉を飛田が途中で遮った。
次いで飛田は、フェイスマスクを被った二人の部下にさっと目配せを行う。すると彼らが左右から担任教師の腕を取り、強制的に椅子から立たせた。
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。私はあなた方の頼み事なら喜んで手を貸すし、何だってやるよ。それにこのクラスの担任である私がいれば、生徒を利用する場合にもきっとお役に立てる筈さ。だから頼むよ、どうか手荒な真似はしないでくれ。な?」
「そう心配するなよ、先生。なに、あんたにはちょっとそこの窓から警察に呼び掛けてもらいたいだけだ。さっきの弁舌ぶりを遺憾なく発揮して一席ぶってくれれば、外の連中も慌てて動き始めるだろうからな。我々も鬼じゃない、もしこれで上手く事が進めばまずあんたを真っ先に開放する。どうだ、悪くない話だろう?」
不安に顔を引きつらせた教師の口から吐き出される保身の言辞を聞き流しながら、飛田が不自然なほど穏やかな口調にて条件を持ちかける。
しかし男性教員は、飛田が弄する甘言に彩られた話に対しても何ら疑うことなく「そういう事なら……」と、露骨にほっとした様子を見せて教室の窓際へと自ら歩を進めた。
日没後においても外の動きを監視する目的で、一部を除き窓にはカーテンが引かれていない。そこに飛田の部下二人に伴われて教師が立った。
校舎五階にある二年E組の窓からは、正門やその付近の景色が一望できる。
そして現在、光台高校の正門側路上には投光器及び機動隊の投光車が各所に配置されており、加えてその周囲を透明のポリカーボネート製のライオットシールドや各種防護装備で身を固めた機動隊員と、特殊班SITや銃器対策レンジャー部隊などの特殊部隊員らが完全武装の上で即応展開していた。
そんな緊迫した状況下で、不意に教室の窓が開け放たれると男性教員が姿を現した。
現場で臨戦態勢を整えている全警察官が息を呑む中、投光器が投げ掛ける光に晒された二年E組の担任教師と思しき成人男性が何かを喋ろうとした大きく息を吸い込んだ瞬間、それは起こった。
突如、ターン! という僅かに間延びした拳銃の発砲音が轟く。
その直後、教師の体が前のめりに崩れ落ちるや否や、まるで飛び降り自殺の如く空中に身を躍らせたのである。
あっ、という声が事態の推移を見守っていた警察官らの間から漏れた。そして凍結した時間の中で、教師の身体は重力の働きによって真っ逆さまに高速落下した後、最後は校舎外のアスファルト路面へと叩きつけられた。
おぞましい衝突音が鳴り響いた場所には、落下の末に生じた激突で頭部と手足に著しい損傷を負った教師の遺体が、血だまりの中で無造作に転がっていた。
学校の外で当該事件を注視する誰もが言葉を失い、呆然と立ち尽くしていた。
またその一方で、惨劇の一部始終を目撃する事となった二年E組の全生徒は、あまりの衝撃に悲鳴を上げることすら出来ぬまま、血の気を失った顔で口を閉ざしていた。
だが後ろから教師を銃殺した上に、教室の窓から死体を投げ捨てることを部下に命じた張本人は、手に持った携帯電話に向かって無慈悲な言葉を告げていた。
「見ただろう、我々の“決意”と“覚悟”を。いいか、これは始まりに過ぎん。貴様ら無能な役人どもが時間を無駄にする限り、人質を殺す。それも次は二人、更にその次は四人といった具合に処刑する人数を増やしていく。次のタイムリミットは約一時間後だ。これ以上の犠牲を防ぎたいのであれば、今すぐ政府にこちらが要求した回答を行わせろ。もしそれが出来なかった場合は、また人質が死ぬだけだ」
だらりと下げた右手に握られているのは、たった今しがた使われた旧ソ連製の自動式拳銃――マカロフPMであった。
そして飛田は喋り終えると、銃を持っていない左手に保持する携帯電話を操作して、受話口から漏れ聞こえてくる交渉担当官の荒々しい声を容赦なく断ち切った。
警察に対する飛田の一方的な通告が終了した後に沸き起こるのは、教室内を支配する果てしなく殺伐とした雰囲気と沈鬱な空気。そして、学校の外から響き渡る凄まじい喧騒の嵐だった。
「大した演出家だな、飛田さん。これで誰も後には引けなくなった」
そんな中、先の凄愴たる光景を目にしたにもかかわらず、ファングは椅子に着座したまま平然と述べた。
すると携帯をズボンのポケットへと突っ込んだ飛田が、歪な笑みを顔面に張り付かせながら押し殺した声を発する。
「お褒めに預かり恐縮だがな、ファングよ。一つお前の勘違いを訂正させてもらうと、我々に退路は初めから無いのだ。ましてや、国民から搾取するだけしか能のない無知蒙昧たる政治家どもに安易な選択肢など与えてやるものか。……それとも同志、まさか怖気づいて奴らに投降しようなどと考えているのではあるまいな?」
言い終えると同時に、飛田がおもむろに下げていた拳銃を持ち上げると、銃口をファングに突き付けた。
対するファングの方は、銃を向けられても尚その硬質な面差しに何ら変化は生じていなかったが、しかし総身から滲み出る気配は明らかに殺気が纏わりついていた。
「粛正を気取るのはあんたの勝手だ。しかし只の脅しだろうが何だろうが、俺に銃口を向けると後悔する羽目になるぞ」
「ほう? 随分と威勢がいいなファングよ。まあいい、お前がどう思おうと我々は我々の崇高な志に基づき使命を全うするのみだ。お前が“革命軍”の同志として協力を惜しまんというのであればそれで良し。だが、もしほんの少しでも裏切るような素振りを見せれば、その時は真っ先に処断してやる。分かったな、それをよく肝に銘じておけ」
「好きにしろ」
唇をめくり上げ捻じれた笑みを湛えつつ申し向ける飛田に対し、ファングが底冷えする声音で吐き捨てるように言った。
その返事を聞いた飛田は、尚も猜疑に満ちた目をファングへ向け続けるも、あっさりと銃口を外してそのまま右腰に装着しているヒップホルスターに拳銃を収めた。
「ではまたな、同志よ」
皮肉げにあえて『同志』という単語を強調して言った後、飛田がさっと踵を返し入ってきた時と同じく、部下二人を引き連れて教室を後にする。
そしてその後ろ姿を、ファングは凍てついた眼差しで見送るのだった。
(やはり我慢しきれず、奴は時計の針を自ら進めたな。……ならば俺もそろそろ動くべきか)
業を煮やした飛田は人質を殺すことで、政府に決断を強いた。
未だ自分達の要求が通ると思い込んでいるからこそ、飛田は残るおよそ一二〇名にも及ぶ人質の命を盾に強引な手段を講じたのだろうが、結局のところそれは裏目に出るとファングは結論付けていた。
人質が一名殺害されたことで警察側は先程までとは異なり、短時間の内にこれ以上の人的被害を防ぐ為の強行突入に踏み切る筈だとファングは確信していた。
またそれと同時に、彼は特殊部隊が踏み込んできた際における己の立ち回りについてや、その事前にどう動くかを黙考する。
現在二年E組には、ファングの他に人質の生徒を監視する役目を負った、自動小銃のAK47で武装するファイスマスクを被った三人の男達が居た。
見張り役である三人の配置は当初、教室前方に設置されている黒板傍に一人と、廊下へ通じる前後の戸口に一人ずつとなっていたが、飛田が出て行った後、彼らは何故か持ち場を離れて教壇付近に集まり何事かをひそひそと話し合っていた。
無論ファングはその事に気付いていたが、相手が明確な敵対行動を取るようならばともかく、部下でもましてや仲間でもない彼らが何を考え、そしてどう動こうがさして興味はなかった。
だがファングの思惑とは相反して、肩を寄せ合って密談をしていた三人の自称“革命軍”のメンバーは、やがて一つの合意に達したのか互いに頷き合うと一人がその場から離れ移動を始めた。
持ち場に戻るのか思いきや、場を離れたフェイスマスクの男は負い紐付きのAK47を左肩に掛けた状態で、何故かそのまま真っ直ぐにファングの方へと歩み寄ってくる。
今のところ敵意は感じられないものの、相手がいつどこで仕掛けてくるか不透明であるが故に、ファングは悟られぬように警戒心を引き上げつつ自ら口火を切った。
「何だ?」
「あ、ああ。実はちょっとアンタに頼み事があってな……」
「俺に頼み事?」
「まあ、な。ただあまり表沙汰にはしたくない話だし、アンタも知ってる通り何せリーダーは気難しい人だから、俺らも腹を割った相談ってのがなかなか出来なくて正直まいっているのさ。でも部外者のアンタなら色々と融通を利かせてくれそうだし、何よりあの人に対しても全く物怖じせずに物を言えるってのが非常に良いところな訳よ。だからさ……」
フェイスマスクのせいで顔の全体像を見ることは出来ないが、それでも眼前に立つ男の声色や肌質、仕草などから判断するに年齢は二十歳前後であろうとファングは読み取った。
その上でファングは無言のまま軽く顎をしゃくり、迂遠な言い回しで話の要領を得ない彼に向かって『さっさと要件を言え』というニュアンスを込めた合図を送る。
するとそれを理解したフェイスマスクの若者がぐっとファングの方に顔を近づけ、更により一層声を潜めながらようやく本題を口にした。
「俺らだって覚悟を決めてこの『決起』に参加した。けど、さっきの見ただろ? こっちの要求に対して政府がどう結論を下そうとも、結局俺らは誰も無事じゃ済まないって事さ。別にそりゃあいい、さっきも言ったがそれは覚悟の上だからな。けど、もしこの先自分に未来が無いって分かっていたら、ほんの少しだけ我儘を言ったって罰は当たらねえと思うんだ。例えばほら、その、女……とかさ……」
「ああ、なるほどな。要するに、捕まる前に人質の女子生徒もしくは女性教員を強姦したいという事か」
語尾を濁すファイスマスクの若者に対し、ファングが冷淡に告げる。
すると若者はちらっと後ろを振り向き、こちらの様子を窺っている二人の仲間の方を見てから再び頭を戻し、言い繕うように話を続けた。
「身も蓋もない言い方するなよ……。別にそう悪い話じゃない。ある意味これはビジネスみたいなもんさ。俺達は気に入った女を選び、逆にその女は俺らに対して奉仕活動をする。その見返りとして、俺らがリーダーに懇願してその女の命を保障してやるって寸法さ。分かるだろ? つまりこれはギブアンドテイクの関係ってやつで、女も自分が助かると思えばきっと嫌だとは言わねえよ。お互い合意の上だったらレイプじゃない、そうだろう?」
「……ギブアンドテイク、か」
「ああ、そうさ。第一これだけ目の前に若い女がゴロゴロいるってのに、ただ指をくわえて見ているだけなんて流石に勿体なさすぎだろ。それに、もし政府の連中が要求を突っぱねて、リーダーが人質を全員処分するなんて言い出したら味見するチャンスも無くなるからな。なあ頼むよ、俺と後ろの二人で決めた話にアンタもひと口乗ってくれれば決して悪いようにはしない。ぶっちゃけ、リーダーとアンタの関係は微妙なんだろ? だったら尚のこと、今俺らに恩を売っておく方が色々と無難だと思うぜ?」
「…………。そうだな、確かにお前の言う通りだ。では俺もその話に便乗させてもらうが、まずは話を持ち掛けてくれたそちらが先に目当ての女を選んでくれ」
僅かに思案するも、しかしすぐにファングは軽く頷きつつ承諾の言葉を放った。
その返答を聞いたフェイスマスクの若者が、嬉々とした様子で「ありがとうよ、じゃあ早速……」と言うとファングから離れ、後ろの方で結論を待っている仲間二人の方へ報告しに向かった。
他方ファングにあっては、自分達の担任教師を銃で殺害した非情な犯人グループが次に何をするのか、また誰かを殺す相談でもしているのか、そんな不安と恐怖の呪縛に囚われ悲愴な面持ちで固まっている生徒らを、冷えた双眸で静かに見詰めていた。
(……まさに渡りに船、だな。存分に利用させて頂こう)
ファイスマスクの男達から持ち掛けられた話題は、現状のファングにとって好都合であり、すぐさま脳裡に最適・効率的な戦闘理論を展開させていく。
またそれと同時に、今回の件についてファングは、おそらく彼らの目前で飛田が人質を射殺した事が原因であろうとも考えていた。
普段は理性で抑え込んでいる剥き出しの雄の衝動が、殺人という非日常的な光景を直視した事、そして銃を持った己が他者を支配しているという暴力的優越感によってタガを外した結果、雌を犯したいという本能に根差した性的欲求を我慢できなくなったのだろうとファングは推考する。
(それにしても、女に拒否権や命が助かる保証など何一つ無いのに『ギブアンドテイク』とは笑わせる。が、まあどうであれ、俺の仕事がやりやすくなる分には何だって構わんがな)
『研修所』の執行者として、喜怒哀楽といったあらゆる情動を完全に制御しているファングは、これから起こる事態を極めて冷静に分析していた。
故に、先程のフェイスマスクの若者が一人の女生徒――柏木菜月に向かって指名の言葉を放った時点で、己がこの先取るべき全ての“行動”を決め終えたファングは、ゆっくりと椅子から腰を上げるのだった。
「おいそこのお嬢さん、名前は何て言うんだ? そうだ、お前だよお前」
「……え? わ、わたしです、か? 柏木……菜月ですけど……」
運悪くというよりも、際立つ美貌のせいで当然の如くファイスマスクの男達から目をつけられてしまったのは、美しい小顔を彩る艶やかなストレートロングヘヤに加え、思春期特有の瑞々しく抜けるような色白の柔肌で構成された抜群のプロポーションの持ち主である柏木菜月であった。
学年で常にベスト5の学力をキープする才色兼備の美少女は、教室の中央近くの自席で怯えた眼差しを人殺しのテロリストに向けながら、震え声で返事をした。
「ナツキちゃんか。いいねぇ、名前も見た目も俺好みだぜ。ってことでさ、これからお前にちょっと個人的な相談があるから、今から俺と一緒に別な部屋へ行こうか」
「…………っ」
粘着質を帯びた語調と、自分に対して舐め回すような視線を向けるフェイスマスクの男の理不尽な命令を聞いた菜月は、すぐに女性としての危険を本能的に察知し身を固くさせた。
その姿を見たファイスマスクの男は、下卑た笑みを口元に刻みながらつかつかと大股で歩き、嫌悪と恐怖で小刻みに震える少女の席前まで移動する。
「おら、さっさと立て、あんま手間かけさせんなよ。けどまあ、手荒な方が良いっていうならそれはそれで俺は全く構わねぇぜ?」
「……ひ、……い、嫌……!」
そして、催促されても顔を俯かせたまま席から立ち上がろうとしない菜月の手を掴み、そのまま強引に連れて行こうとする。
だが、少女が悲痛な声で拒絶の声を絞り出したその瞬間、
「――――やめろ! その手を放せよ、彼女が嫌がってんだろ!!」
一連のやり取りを目の当たりにしながらも、己が身の可愛さ故に見て見ぬふり決め込む大勢の生徒達の中、一人の青年が力強い声と共に席から立ち上がり割って入った。
「篠倉君……!」
「海斗、駄目っ!」
そして同時に二人の女子生徒の声が重なる。
美男子とはいかないまでも、愛嬌のある整った容姿とサッカーで鍛えたすらりと均整の取れた体躯を持った青年――篠倉海斗の無鉄砲な行動に対して、喜色の声で彼の苗字を呼んだのは菜月。
しかしそれとは逆に、彼の身を案じて名前を呼び制止の声を放ったのは、薄茶色のショートヘアが特徴的な細身の美少女――新見彩花であった。
「あ? おい小僧、てめえ自分の立場ってものを理解してんのか? すっこんでろ、ぶち殺すぞ!!」
すると、にやにやと薄ら笑いを浮かべていたファイスマスクの男が一転して怒号を上げ、把持する自動小銃のAK47を海斗へと向けつつ邪魔者を睨みつけた。
まさに一触即発の雰囲気が教室内を満たす。
その一方で、これまでの経緯を黙って観察していたファングであったが、偶然にもその時、ふと彼の冷徹な瞳が教室窓側の一番奥の席へと向けられた。
ファングの視界に映じるのは、何故か酷く焦った顔で座席から腰を浮かせている小太りの生徒の姿であった。
しかしそれも束の間のことで、小太りの生徒のことなど全く眼中にないファングはすぐに視線を外し、再び修羅場を演じる者達の方を見やった。
生徒の口から発せられる静かなざわめきが、二年E組を席巻し始めつつあった。
だが、それすらもこの先訪れる騒乱と惨劇の序の口ですらないことに気付く者など、たった一人の例外を除き、誰もいなかった。
長らくお待たせして大変申し訳ございませんでした。
しかもいつも通りまた話の構成が変化して、一話余計に増やしてしまいました。
なので、今の話が終わるのが次話となりますのでご了承下さい。
何とか早く本編に話を戻すよう頑張りますので、どうかよろしくお願いします。
遅々として進まない物語を見捨てないでいて下さる読者様に、最大級の感謝をこの場を借りて申し上げさせて頂きます。




