第1話 「Day of the dead ①」
長いです。後、グロ多めですので、ご注意を。
時系列的には、第一章の9.5話の直後のお話です。
八月下旬に中国から世界中へと飛び火した激甚の新型ウイルスは、当初致死率九〇パーセント以上という極めて危険な伝染病として日本の首都東京都内だけでも二千人規模の惨事を引き起こしたが、事態はそれだけに止まらなかった。
ある時を境に突然変異を成し遂げた当該新型ウイルスは、ただ死を撒き散らすだけの存在から、感染患者の人間性を完膚なきまでに破壊し、更に死という絶対の理すらも捻じ曲げる狂気と破滅をこの世に齎したのだった。
即ちそれは、罹病者の悉くが新鮮な人肉を求めて彷徨う食屍鬼と化し、またその忌まわしき死者の大群が凶悪狂暴の暴徒として生者を……いや、文明社会そのものを貪り喰らうという地獄の現出に他ならなかった。
――九月十五日、正午過ぎ。
東京都内で突如発生した、新型ウイルス感染患者による大規模な“暴動”に対する緊急事態措置として、日本政府は直ちに陸自の東部方面隊第一師団及び中央即応集団(CRF)に対し治安出動を発令し、警視庁警備部隷下の特科車両隊を含む機動隊九隊と共に、都心の治安維持と“暴動”鎮圧の任務に従事するよう命じた。
また同時に、これ以上の混乱と感染被害の拡大を防ぐ為、大規模な“暴動”が発生している地域を囲い込む封鎖ラインを設定すると、すぐさま各治安部隊は行動に移り始めた。
封鎖ラインは二重に設定されていた。
即ち、東京二十三区の中で現在群れを成した暴徒により最も深刻な状況に陥っている中央区・墨田区・江東区を取り囲むような形で、東京都市計画道路環状線の内側である環状二号線及び外側となる環状四号線の要所に警察や自衛隊らがバリケードを構築し、群衆の暴走を食い止めようとする計画が立案されたのである。
そして最終的には、荒川・多摩川・環状八号線を結んだ外側ラインを完全に通行止めにして、大田区・世田谷区・杉並区・練馬区・板橋区・北区・荒川区・足立区・葛飾区・江戸川区といった地区全ての交通網を囲い込み封鎖し、都民の自由を奪ってでも感染患者を都心から外部に漏らさぬという強硬措置を、国家緊急権の行使に踏み切った阿武伸光総理大臣は国会審議を経ずして決行しようとしていた。
既に首都高速都心環状線――通称、首都高は全線通行止めの処置がとられており、また都心を走っているJR、地下鉄、バスといった公共交通機関も乗客の安全確保の為に、全線で運転見合わせが続いていた。
その為、移動手段を奪われた一般市民が駅職員やバス運転手などに詰め寄り暴行等に発展する騒ぎが都内の各所で頻発していたが、しかし屋外スピーカーから流される防災無線や広報車、また携帯電話から発せられるJアラート(全国瞬時警報システム)に加え、テレビやラジオでの緊急放送が立て続きに広報されると、只ならぬ危険を察知した大半の人々は恐れおののきながらも行政機関の避難指示に従い、指定された最寄りの一時避難施設に向かったり付近の建物内に留まるなどの行動を開始した。
そして、そんな混乱の渦中に突然放り込まれてしまった都民の横を、パトカーや機動隊の輸送車を始め、救急車に消防車、更にはレスキュー車などの緊急車両群が、けたたましいサイレンと共に疾駆してゆくのだった。
――同日同刻、国道1号線、日本橋中央通り。
上方に首都高、下方に東京駅や皇居、霞が関を擁する千代田区や中央区を流れる一級河川の日本橋川が望めるこの場所に存在感を示しているのは、日本の道路網の始点であり国の重要文化財にも指定されている石造二重アーチ道路橋の『日本橋』であった。
更にその周辺にはシンボルである三越日本橋本店、日本橋高島屋などの老舗高層デパートに加えて、スルガ銀行や三菱東京UFJ銀行といったオフィスビル群が林立する景観は、まさしく都心と呼ぶに相応しい風格と煌びやかさに満ち溢れた場所となっていた。
だが今は、そんな都会の活気や華やかさなどは微塵もなく、ただ不気味な物々しさと重苦しい雰囲気だけが周囲を覆い尽くしていた。
日本橋のやや南側に位置する中央警察署日本橋交番に現地指揮本部を置くような形で、周囲の道路や交差点にずらりとパトカーや機動隊輸送車、そして特科車両隊の放水車が配置されており、更にその警察車両の前面には透明のポリカーボネート製のライオットシールドを構える、紺色の出動服の上に黒のバイザー内装型ヘルメットと防護装備で身を固めた多数の機動隊員が緊張の面持ちで隊列を組んでいた。
また一方で、通りには歩行者並びに一般車両の進入を阻む、持ち運び式の鉄パイプ柵と鉄骨を組み合わせた車止め等のバリケードも隙間なく配置されており、機動隊員とは別の制服警察官らが誘導するカラーコーンで仕切られた急造の検問エリア以外の場所は完全に通行が遮断されていた。
無論、日本橋から西側に存在する幾つかの橋や主要道路に加え、中央通り南側の国道15線の車道や交差点にも検問所が急場しのぎで構築されており、これらを以って日本橋方向以外から進行してくる暴徒に対しても即応可能な態勢は整えられていた。
但し、万全を期すには治安部隊の絶対数が足りない上に、一般車両の交通規制や歩行者に対する避難指示の役目に当たる人員が著しく不足していた為、急遽構築された非常線や検問所では酷い混乱が生じていた。
通行に深刻な障害が生じた事により、大渋滞に陥った車列から鳴らされる騒然たるクラクションや、強制的な検問の理不尽さに対する怒りと不満を爆発させた人々の怒号が、所狭しと建ち並ぶビルの谷間に谺する。
「覚悟はしていたが、状況は最悪だな。……当該敵性集団の動きはどうか?」
「はっ。市民からの通報に基づき現場臨場している所轄勤務員とは別に、頭上から状況の追跡調査を行っている航空隊からの報告では、対象は既に近距離まで迫ってきており接触は間もなくだと思われます」
現場指揮車両であるトヨタ・ランドクルーザーのルーフ上に設置された物見櫓型の指揮台に立った大隊長の堂久保警視は、高所から部隊配置及び周囲の状況を俯瞰しながら問うと、隣に控える伝令長の警部補が携帯通信系の無線機のマイクを胸元で押さえつつ答えた。
疑問と苛立ちに塗り潰された民衆の罵声や怒声が非常線を覆い尽くす中、その上空を警視庁航空隊のヘリが回転翼のローター音を轟かせながら駆け抜けていく。
「民間人の避難誘導が全く追いつかん。我々の指示に従う気がなくとも、せめて彼らが無闇に外に出ず車中に留まるか付近の建物内へ入ってくれるなどしてくれれば、まだこちらとしても助かるのだが……」
「厳しい情勢であるのは間違いありません。各地点の部隊指揮官からの無線報告では、道路封鎖に従事している警官隊と一般市民との間で小競り合いが至る所で発生しており、このまま放置すれば新たな暴動に発展する危険性があるとの事です」
眉間に深い皺を刻んだ堂久保大隊長が溜め息交じりに言った後、険しい表情の伝令長が楽観的とは対極となる報告を行う。
防災無線の広報や、必死に避難誘導・指示を行う現場警察官や消防隊員などの努力も虚しく、渋滞で立ち往生した者や未だ自身が置かれている状況を的確に把握出来ていない人々の列が、徐々に殺気立ちながら制御不能の大きなうねりと化して様々な問題を各所で引き起こしていた。
またそれは非常線の地点だけに限った話ではなく、都内の主要駅を始め、指定された避難場所や買い物客に加え避難民が殺到した商業施設なども混乱の極みに陥り、口論や喧嘩などの粗暴事件が多発していた。
あまりにも性急過ぎる状況の変化は、当然の事ながら人々の心に極度のストレスを与える。それ故に、高密度の劣悪な環境下に晒され臨界点に達した群集心理の鬱憤は、理性ではなく本能にてそのフラストレーションを眼前の存在にぶつける事で精神の均衡を保とうするのだった。
表面中央部に『POLICE』と白文字でプリントされている透明の新型大盾を構える機動隊員に向かって、十数名の血気盛んな男達が「クソお巡りが邪魔すんじゃねえ!」とか「俺らの税金で食ってやがるクセに、何様だコラァッ!」などと罵声を浴びせながら勢いよく詰め寄り、治安部隊と民間人の間に一触即発の気配が漂っていた。
しかしその一方で、検問エリアに誘導する警察官の声を無視して通りに立ったまま緊張感の無い顔で、殺伐とする現場をスマートフォン片手に撮影する者らも大勢いた。
「地震や台風に対する防災意識は強くとも、このような大規模暴動や都市型テロに対する危機感の欠如は、我々も含めて平和に慣れ過ぎたこの国では最早病的だな。……安保闘争や全共闘運動の再来などと嘯くつもりはないが、少なくともこのまま放置すれば秩序の崩壊は火を見るよりも明らかだ」
あちこちで怒号が飛び交う騒然とした現場に視線を飛ばす堂久保大隊長の危ぶむ声に、伝令長の警部補が言葉を返す。
「それでは、一時的に交通規制と検問所の厳戒態勢を緩和し、滞留する都民を一気にバリケードの内側へ流すよう各部隊に通達しますか?」
「そうしたいのは山々だが、それでは背後に脅威を抱え込む結果になるだけだ。仕方がない、部隊員の一部を割いて検問所を臨時に増設し対処するよう各地点の指揮官に連絡しろ。まあこれも只の時間稼ぎにしかならんが、やらないよりはマシだからな。――む?」
硬い表情で命令を下す堂久保大隊長であったが、その時ある光景を視界の端に捉え、疑問の声と共に眉を顰めた。
隊列を組んで進行を阻止している機動隊員と小競り合いを起こしている者達の中に、突如異変が勃発していた。
たった今、敵意の矛先を眼前の警官隊に向けていた筈の都民の一部が何故か急にその標的を隣人へと定めるや否や、瞬く間に無秩序な乱闘騒ぎがそこら中で巻き起こり始めたのである。
急変する事態に暫し呆然とする機動隊員達であったが、次の瞬間、全ての終わりが始まった事をその場の全員が悟る。否、目の前に阿鼻叫喚の地獄絵図を突き付けられ理解せざるを得なかった。
人が人を喰っていた。
通りに凄まじい悲鳴が渦巻いた。
口汚く機動隊員に罵声を浴びせていた若い男が、寒気のする唸り声と共に背後からいきなり飛び掛かってOL風の中年女性に首筋の肉をごっそりと噛み千切られ、鮮血と絶叫を周囲に撒き散らしながらそのまま舗装路面へと押し倒される。
スマホで騒動を撮影している痩せぎすの男が、横合いから疾走してきた小太りのサラリーマンに襲われてしまい、自身の不幸を嘆く暇も無く眼球を抉られた後、引き裂かれた腹腔から臓物を鷲掴みにされて生きたまま貪り喰われていた。
狂気が混沌を加速させ、見る見るうちに騒乱と惨劇が非常線の周囲を埋め尽くす。
新型ウイルスに感染した人々が狂暴、暴徒化する情報に関しては、既に治安維持を担う者らには伝達済みであったのだが、正直なところ半信半疑の気持ちの方が強かった。
それだけに、新型ウイルスの感染者が避難する人々の間に紛れ込んでいる事は懸念材料であったし、検問などを通じて治安部隊は当然その警戒に当たってはいたものの、ここまで事態が火急であるとは誰しも思っておらず、やや事務的な感は否めなかった。
だからこそ、突然目の前で繰り広げられる現実を遥かに凌駕した、ホラー映画をそのまま具現化したかのような悪夢の光景に警官隊は浮足立ってしまうのだが、しかし無線機から齎される至急報は、より深刻さに拍車を掛けるものだった。
『至急、至急! 警視庁本部から各局、当該暴徒と思料される集団が日本橋の北並びに東方向から急接近中であるのを航空隊が視認。詳細は不明なるもその数は膨大であり、尚かつ移動速度も迅速である事から、非常線を抑える部隊は直ちに態勢を整えると共に、自他の受傷事故には特段の留意を払い厳然たる対処を願いたい』
伝令長が持つ携帯通信系の無線マイクから流れる警視庁通信指令本部の緊急通信を聞いた堂久保大隊長がいち早く我に返ると、すぐさま一般人に覆い被さり肉を咬み裂いている感染者達に対し、暴徒鎮圧用の放水砲を発射するよう特科車両隊に命じた。
すると、大隊長の指揮下で微速前進を開始した放水車が、標的となる感染者に向けて高圧放水を射出。
刹那、直撃を受けた感染者が襲い来る高水圧に耐えきれず、次々と派手にアスファルト路面の上を転がっていく。
またそれに呼応するような形で各小隊長の号令一下、分隊長に率いられた機動隊員が大盾操法にて“壁”を作り上げながら暴徒に向かって突進し、負傷した者の救助並びに逃げ惑う民間人の避難誘導を行う。
その動きを境に、日本橋南側の交差点に構築した非常線の北と東の両方向において、怖気の走る咆哮を上げて生者の肉を喰らう感染者と治安を担う警官隊との衝突劇が、まさしく怒濤の勢いで開幕したのだった。
「助けてくれぇっ!」
「痛い痛いいだ……ギャアァアァッ!!」
「ひぃいいっ! 何だ、一体何なんだよこいつら?!」
「ゾンビだ! 人を喰うゾンビだよっ! おい、後ろからも大勢来るぞ!!」
「逃げろ! お巡り何やってんだよ、俺らを助けろよ!!」
異常な混乱の中、泣き喚き絶叫する一般市民らの後方から凄まじい走力を誇る感染者の“群衆”が続々と加わり集結していく。するとその規模は、当初数十であったものから忽ち数百、数千へと一気に膨らんでいった。
それらは全てを打ち砕く荒波の如く、逃げ遅れた民間人はおろか、隊列を組み“壁”を作る機動隊員らの防御線すらも飲み込もうとするかのように、人雪崩となって凄絶な勢いで押し寄せてきたのであった。
「一列目、正面構えを保持したまま絶対に下がるな! 二列目三列目は盾を構える隊員の補佐を行い、衝突に備えろ!」
「放水車、水の弾幕を張って暴徒を押し止め、民間人を逃がす時間を稼げ!」
「分隊ッ! 催涙弾を使用! ガス銃構え、撃てぃッ!!」
指揮を執る各隊長らの怒鳴り声が矢継ぎ早に響く中、渋滞にはまり走行不能となった車両群を乗り越えて迫りくる感染者の群れに対し、強固な防御陣を整えた機動隊は果敢に放水車と催涙ガス筒発射器(ガス銃)を併用して応戦を試みる。
呼吸混乱や涙腺を刺激して一時的に視界を奪い、行動不能にする非殺傷兵器の催涙弾と、高圧放水にて暴徒の身動きを封じる放水砲を併用して治安部隊は暴動鎮圧に乗り出すも、すぐにそれは失策であり無意味である事が判明した。
何故ならば、全力疾走でこちらに向かってくる“群衆”の濁流は、全身血塗れで放置すれば間違いなく致命傷となる怪我であるにも係わらず、異常な力強さを発揮・保持したまま無限稼働する生きた死者という矛盾した存在であり、またある意味で完璧な独立ユニットであるが故に、鎮圧など不可能であった。
死者に生者の理屈は通じない。
酷く不気味かつ不自然な恰好で走る、自然の摂理に反した捕食者たる感染者の軍勢の勢いが衰える気配は微塵もなかった。
例え、撃ち込まれた催涙弾から発せられる刺激性ガスの白煙に包まれようが、放水車に備え付けられた放水砲による高圧放水をまともにくらって後方に吹っ飛ばされようとも、離散するどころか一向に怯む様子もなく何度でも立ち上がり、一心不乱に障害を乗り越えて肉薄してくるのだ。
そして、瞬く間に機動隊員が大盾で築いた“壁”へと到達した生ける屍達が、猛獣じみた薄気味悪い雄叫びを発しながら突破口を開かんと破竹の勢いで飛び掛かってくる。
壮絶な怒号と叫喚が大気を震わせ、大地を奔り抜けた。
押し迫る感染者達の圧力に負け、堪え切れずに防御姿勢を崩してしまった隊員の所へ“群衆”が殺到する。
綻びが生じた陣形の再構築を図る為、部隊員が大盾と警棒を巧みに駆使し必死で捕食者らを下がらせようとするが中々上手くいかない。
それどころか、逆に無数の感染者の手が隊員の方へと伸び、常軌を逸した膂力で絡み取られたその者は成す術もなく大群へと呑み込まれてしまうのだった。
民間人を含めた治安部隊の死傷者が、時を追うごとに加速度的に増えていく。
しかも、感染者に襲われ負傷した者達が猛然と跳ね起き、今度は襲う側に回って群れに加わる始末だった。
傷口から体内へと入り込んだ新型ウイルスが脳神経組織や身体の末端まで転移した結果、人間性を悉く喪失した暴徒――いや、生者の柔らかく温もりに満ちた新鮮な人肉を喰らう化け物へと劇変させているのであった。
防御を担う人員の減衰は、そのまま攻撃を行う側の増強に帰結する。今や捕食者たる感染者の軍勢は、万に届く程の規模にまで膨れ上がっていた。
「……全部隊員に通達。今より各自の判断における拳銃使用を許可する。尚、阻止する為であれば、相手側の生死を考慮する必要はない」
「ど、堂久保大隊長。しかし、それは……」
状況の成り行きを監視していた堂久保大隊長が、ぎりっと奥歯を軋らせながら低く声を圧し出す。
一方、実質的な射殺許可の命令に対し、伝令長が狼狽えたような声を出した。
通常、デモや暴動などに関する集団警備事件など場合、出動する指揮官以外の機動隊員は紛失・奪取の観点から拳銃を携行することはないが、今回の場合は事情が特殊であるが故に、全ての部隊員がニューナンブ・エアウェイト・サクラ等の実弾入り回転式拳銃を装備していた。
「最早、一刻の猶予も無い。このままでは部隊が総崩れとなる。伝令長、各中隊長や小隊長に対し早急に伝えろ。本件に関する全責任は私が受け持つが故、断固とした措置で持ち場を死守しろ、とな」
「りょ、了解しました。――!!? な、何なんだあれは……」
堂久保大隊長が発した過去に例を見ない厳命を、伝令長が各部隊の指揮官に向けて一斉通達しようとしたその矢先、彼は視界にそれを捉えてしまい、思わず呟くような掠れ声を発してしまう。
更に、伝令長が指さす方向に視線を移した堂久保大隊長もまたその光景を目撃し、驚愕に言葉を失ってしまうのだった。
それは非常線の北側、日本橋上空に位置する首都高で起こっていた。
首都高の低い側壁――壁高欄から次々と何かが盛り上がってやがて溢れ出し、まるで滝の如く下方に向かってドサドサッと勢いよく流れ落ちてくる。
よく目を凝らすと、それは重なり合った人間の塊であった。
いや正確には違う。首都高の高架上から次々と、道路、車両の上、河川といった場所に見境なく飛び降りてくるのは夥しい量の感染者達であり、彼らは非常線の維持に従事する生者の芳香に導かれて集合を果たしたのである。
濃厚な死の腐臭に彩られたその形容を絶する情景は、例えどんな鋼の意志と屈強な肉体を有する者であろうとも、自身の無力さを思い知らされる程に絶望的なものだった。
程なくして非常線のあらゆる箇所から、回転式拳銃の発砲の際に生じる独特な乾いた音が間断なく湧き起こり始めた。
だが、暴徒である感染者の群れに対して射撃命令を出した堂久保大隊長を始め、拳銃を把持する全ての部隊員らはその時、嫌というほど痛感していた。
こんなものは、只の焼け石に水でしかない……と。
非常線の瓦解は、既に目前まで迫っていた――――
――同刻、東京練馬区、陸上自衛隊練馬駐屯地。
それは、東部方面第一師団に治安出動が発令された事により、第一普通科連隊第二中隊第三小隊に所属する相田拓海三等陸曹が、打放しコンクリート仕上げの教室程度の広さを持つ武器庫に保管されている、負い紐に各自の氏名を書き込んである八九式5.56ミリ小銃を銃架から取り外した時の出来事であった。
武器庫と弾薬庫を厳重に管理している連隊火器係の陸曹らに武器弾薬の搬出を監視されつつも、相田は既にこの時、迷彩服3型の上に装着した戦闘防弾チョッキ3型及び、コンバットブーツ、弾帯、八八式鉄帽2型という出で立ちであり、陸自隊員における戦闘装着セットは万全……つまり、完全武装の状態となっていた。
『緊急通達、緊急通達。駐屯地内の各部隊は至急営門に向かい警備小隊の応援に向かえ。現在、営門前において多数の暴徒が民間人に対し無差別殺傷行為を敢行中。部隊員は直ちに民間人救出に当たっている警務班の援護と共に、不測の事態に備えて周囲の警戒を厳とせよ』
駐屯地施設の各所に設置されているスピーカーから、突如けたたましいサイレンの吹鳴と非常呼集の放送が響き渡り、それが出動命令により慌ただしい動作で準備を行っている全隊員の緊張を否が応でも高まらせていた。
一方、武器庫内でSIG P220 9ミリ拳銃をブラックホーク社製レッグホルスターに収納し、更に刃の点検後、鞘に戻した八九式銃剣を弾帯に吊った相田は続いて弾薬庫へと走ると、各隊員らが並ぶ緊迫した雰囲気に包まれた行列に加わり、やがて実弾が装填済みとなっている小銃用と拳銃用の弾倉をそれぞれ規定数受け取った。
今年で二十五歳を迎える相田三曹であるが、訓練などでない正真正銘の実戦は当然の如く生まれて初めての経験であった。尤も、相田を始めとする今の自衛隊員の中において、豊富な実戦経験を持つという者の方が極めて不自然な存在であるのだが。
それはともかく、弾薬庫を後にした相田は日頃から鍛え込んでいる肉体を全力で駆使し、集合地点に指定された隊舎を目指してひた走る。
九月に入ってからも続く真夏日のような暑さのせいで、全速力で走る相田の体温はあっという間に上昇し、重い装具に覆われた肢体はおろか、八八式鉄帽の下に収まる顔からも滝のような汗が顎から滴っていた。
程なくして隊舎の正面玄関付近へと辿り着いた相田は、そこに直属の上官となる霧島三等陸尉小隊長と共に、いつも見慣れている自分の部下である第二小銃班の面々が集まっているのを視界に収めた。
「来たか相田三曹。早速だが、営門に向かった第一・第二小隊とは別に、我々第三小隊は営門から東側区域の防備を担当する事になった。広報資料館から駐車場区画に連なる外柵を乗り越えて不法侵入する者を排除するのが、我々に課せられた主な任務だ」
相田が到着すると同時に、陸曹長上がりのベテラン自衛隊員である四十代前半の霧島三尉が、険しい顔つきで任務内容を告げる。
「了解。……武器使用の判断はどのように?」
熱気と緊張で汗だくとなっている相田が、霧島三尉に向かいやや上擦った声で尋ねた。
すると、ほんの微かに表情を歪めた相田の上官は、酷く硬質な声音にて答えを口にした。
「危害射撃については、自衛隊員並びに民間人に対し敵性勢力が殺傷兵器の使用意志を見せた場合、もしくは実際に使用した場合に限る。つまりは、正当防衛か緊急避難に該当する状況であれば、最小限度の範囲内で武器使用が認められる」
「……了解しました。急迫の状況下でのみ発砲を行うよう、班員に徹底させます」
「ああ、無論そうだが、もし己に危害が及ぶと感じたら、その時は撃つのを一切躊躇うな。全ての責任は俺が取る」
その言葉と共に、霧島三尉小隊長の指示でその場に集合を果たした十人編成となっている、第一から第三の各小銃班の全隊員が一斉に弾倉を八九式小銃に込め、機関部の上に付いている槓桿――コッキング・レバーを引き、初弾を薬室に装填する。
小銃の右側面に配置されている安全装置の切り替えレバーの位置は、語呂合わせで『当たれ』……つまり、弾の出ない『ア』の安全、『タ』の単発、『レ』の連射、そして三点射の内、まだ『ア』に固定されていた。
「これより状況開始。小隊、駆け足用意、前へっ!」
低いが張りのある霧島小隊長の号令と共に、小隊本部班と小銃三班からなる計三十八名の普通科第三小隊隷下の陸自隊員が揃って移動を開始した。
駐屯地に面する環状八号線である国道254号線からは、ひっきりなしに車両のクラクションの音や、事故と思しき激しい金属の破砕音が聞こえてくる。
またその合間を縫って、駐屯地の内外から次々と男性の怒声や女性の金切り声が湧き起こっており、それらの騒然たる音がより一層強く、隊員らの不安を掻き立てるのだった。
「相田班長。今、外で一体何が起こっているんですか?」
「……俺だって詳しくは分からない。けど、今回の治安出動は間違いなくこの件だろ? パニックになっているのさ、東京のあちこちで暴動が起こっているせいで」
駆け足での移動最中、第二小銃班の若い陸士が恐る恐る尋ねてきたので、受け持ちの班長である相田三曹が緊張した面持ちのまま、重い声で返答の言葉を発した。
顔面蒼白となり浮足立つ班員であったが、それでも霧島三尉指揮の下、相田を含めた各小銃班長が部下となる彼ら班員を叱咤激励しつつ率いて、それぞれ定められた持ち場へと衝く為に散開を始める。
だが、それが起こったのは丁度その時であった。
第三小隊が進む道の前方から、大勢の人々が必死の形相で何かから逃げ惑っているのを目撃してしまったのである。
それは実に奇妙な集団といえた。一目で武装勢力だと分かるような出で立ちの者や、銃や刃物などの人を殺傷する武器を把持した者はその中に存在しない。
だが、深い傷を負って錯乱状態にある血塗れの一般市民が、這う這うの体で逃げ走る同じ一般市民へと襲い掛かり、隊員達が唖然とする中で、見るも無残な光景が繰り広げられていた。
怒号、悲鳴、断末魔の絶叫、獣じみた咆哮。
頭頂部からだらだら血を流す男が、押さえつけた女を文字通り貪欲に喰い散らかし、噛み千切った肉片を咀嚼する。
頬肉をごっそり失った女が、地面に倒した男の柔らかな肉を引き裂いて、手足の腱を喰いもぎ取りながら溢れ出る大量の血潮を浴びていた。
大人が子供を殺し、子が親を喰い、足をもつれさせて転倒する老人の上を、若者らが容赦なく踏みつけながら逃げる。
隊員らの目の間には、まさしく地獄が広がっていた。
まるでスプリンクラーが壊れたかのように、真っ赤な夥しい血が周囲に跳ね、地面に撒き散らされる。
忽ちむせ返るような死臭が第三小隊を包み込むと同時に、営門方向から最初は散発的であったが、次第に連続した小銃の射撃音が大気を震わせた。
完全に度肝を抜かれた小隊の中で、唯一指揮官の霧島三尉だけが自分を取り戻すと、すぐさま防御態勢を取る命令を発しようとするが、それは二十代後半ぐらいのサラリーマン風の男性が助けを求めながら走って来たことで中断を余儀なくされた。
その時、相田は何故か嫌な感覚に捉われていた。直感と言い換えてもいい。
死が間近に差し迫っている危機的状況であるにも関わらず、逃げるのに邪魔以外の何物でもないアタッシュケースを後生大事に抱きかかえている、その不自然さ。
そして何より、まるでスパイ映画の登場人物のようにアタッシュケースの取っ手部分と自分の手首を手錠で繋いでいるのが明らかにおかしかった。
だからなのか相田はその時、無意識に指を動かして把持する八九式小銃の安全装置を解除していた。
下向きにしていた銃口を即座に上げて、銃床を肩付けした状態――肩撃ちの射撃体勢へと移行させながら、近付く男に対し相田が大声で警告の言葉を発しようとしたその刹那、
「神の御許にぃィッッ!!!」
スーツ姿の男が絶叫するや否や、アタッシュケースから目も眩むような発光の球が膨らんで弾け、瞬時に全てを呑み込んだ。
それと共に、凄まじい轟音と衝撃波が巻き起こり、相田を含めた第三小隊の全隊員を襲う。
猛烈な爆風によって、爆心地となった男の周囲に居た生者と死者、全ての存在が根こそぎ破壊され吹き飛ばされた――――
いつも遅くなってしまい、大変申し訳ございません。
第二章の始まりとなっておりますが、主人公の楓ちゃん達はちょっとの間だけお休みです。
申し訳ございませんが、少しだけ物語の全体像についてのお話にお付き合いして下さいませ。
というのも、ゾンビ小説を書き始めた時に、これが一番書きたかったというのもあります。
パニックをどこまで書き込めるか自信はございませんが、どうか楽しんで頂けると嬉しいです。
次も番外編となる『Day of the dead ②』を何卒よろしくお願いしますm(__)m




