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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
22/36

第21話 「Next stage」

ちょっと長いです。

※少しだけ加筆修正しました(9月6日)









 




 ――そして、九月二十八日。

 その日は、前日の曇天が嘘のように空は高く、透明な青が彼方まで続く晴天であった。

 だが何よりも、午前の外界を鮮やかに照らす太陽光は数多あまたの恵をもたらす輝きであると同時に、その強烈な陽射しは炎暑となって生きている人間を苦しめる過酷な環境をも生み出していた。


 東京都練馬区に店舗を構える中型スーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』の二階には休憩室があり、更に同所から望める建造物群はまだ早い時刻であった為に、外壁の色彩は軒並み黄金色に塗り潰されていた。

 そんな中、窓から差し込むまばゆい朝日が休憩室に敷き詰められている畳と点在する家具類を明るく照らし、更に部屋で寝起きする者らの姿形をくっきりと浮かび上がらせていた。


「――はい。終わったよ、楓ちゃん」


「……ありがとうございます、花音」


 高城花音たかしろかのんが微笑みを添えながら、目前にある小さな背中に向かって声を掛ける。すると、その背中の主――黒崎楓くろさきかえでが心なしか物()げそうな表情と語気にて、謝辞を述べた。

 礼の言葉は楓の着替えを花音が手伝ったことに対するものであったのだが、いつもより沈んだその声音は、複雑な心境を顕著けんちょに現わしていた。

『研修所』の執行者であったかつての習慣で、楓は相手側に心の内を容易たやすく読まれぬよう、常日頃から喜怒哀楽に代表される各種感情の機微を抑制する努力を積み重ねてきた。が、しかしここ最近は、それが失敗の連続となっていた。


 その具体的な例の一つとして、宇賀達也うがたつやが発見し楓のためにと持ってきた、やや特殊な衣類……詳細に述べるとネコミミ形状のヘッドドレス付き、ゴスロリ系コスプレ衣装に袖を通す際の忌避(きひ)感であり、着替え終えた今も楓の気持ちを乱しているのであった。

 しかしそれ以上に、未だに原因不明のままであるが、厳しい修練を経て鋼のごとき屈強な肉体を有していた“黒崎諒くろさきりょう”なる男性から、突然己の意識が貧弱極まる体躯たいくの“楓”という名の少女に転移したことで、精神や思考などの内面部分に様々な『弊害へいがい』が生じている状態は、少なくとも()()()の平常心を奪うのに十分な役割を果たしているのだった。


 そんな諸々(もろもろ)の事情がある中で、黒崎楓は起床した後、自身の常識からは完全に逸脱いつだつしているゴスロリ衣装に着替えるという苦行をこなさねばならなかった。

 無論、男性としての自己認識がある楓にとって、女性ものの衣服を着ることは決して愉快な出来事ではない上に、加えてつい先日まで着ていたメイド服及び、止む得ない事情により今後着用しなければならない某アニメキャラのコスプレである、やや露出高めの赤と黒を基調とするゴスロリワンピース服の存在について考えると、どうしても鬱屈うっくつした気分に陥るのを抑えられなかった。

 だが、結局のところ他に選択肢が残されていない楓は、不慣れな上に普通の衣類に比べると少々複雑な作りとなっているそのゴスロリ衣装を、実に嫌々そうな素振りを見せながらも花音の手を借りて着替えを済ませたのであった。



「じゃあ、わたし朝ごはんの用意をするから、楓ちゃんは達也さんを起こしに行ってもらっていい?」


 パジャマ代わりに使っている従業員用の制服を脱ぎ、休憩室の隣にあるロッカールームで拝借したラフな服装へと手早く着替えた花音が、乾燥処理を施された保存式米飯であるアルファ化米(山菜おこわ)の袋を、室内に持ち運んだ買い物カゴの中から三人分取り出しつつ、楓に向かってそう申し向けた。


「…………。分かりました」


 一方、楓はそんな花音に目を向けながら、若干の沈黙を挟んだ後、かすかに顎を引いて承諾の返事をする。

 その時、ふと楓の脳裡のうりに、昨日のひと悶着の光景が思い起こされていた。

 そしてくだんのひと悶着とは、今着ているやたらマニアックな恰好となった楓の姿を見て大興奮した達也が、いつぞやと同じくまたも暴走モードへと突入し、楓に対して破廉恥はれんちな行為を敢行したという内容である。


 勿論その後に、小さな顔を怒りで真っ赤に染めた楓が致命傷になりかねない()()()()()()を達也に加えようとしたり、慌てた花音がそれを必死に止めたりと、実に波乱に富んだ一日を終えたのだった。

 もっとも、流石さすがに調子に乗り過ぎた達也は、楓のみならず花音からもこってり絞られたのは至極当然の成り行きであった。


(まったく、本当に仕方がない奴だ。あの達也という男は……)


 呆れながらも、楓は引き結んだ口元が自然とゆるむのを感じていた。

 楓と花音の二人から、小一時間ほど厳しい説教を受けた達也の情けない顔がふと記憶によみがえり、何ともむずかゆい思いが胸の内を刺激したからだった。

 以前ならば、そのような情動が異常だという事を楓はすぐに知覚したはずであったが、しかしここ最近は頻繁(ひんぱん)に生ずる甘い思考回路が精神に多大な影響を及ぼし、達也の過度なスキンシップすらも嫌悪感が湧くことがなかった。


 いやむしろ、日増しに達也という男の存在が楓の中で大きくなっているのを、無自覚に許容さえしていた。

 理由は不明だった。だがそれでも一つだけ確かなのは、馬鹿で不器用でともすれば単なる変態の凡人……宇賀達也のひたすら真っぐで純然たる好意が、幼少から特殊な環境下で生きてきた()()()いびつで孤独な心を優しく包み込み、憂鬱ゆううつな気持ちすら簡単に払拭ふっしょくしてしまったという事実であった。

 果たしてそれがどのような未来につながるのかは、楓本人も含め現時点では誰にも分からなかったが、しかし達也を起こしに休憩室の出入口扉へと向かう楓の軽い足取りは、まるで新たな人生の始まりを示唆しさしているかのようだった――



 達也が寝起きしている事務所は、休憩室から見て東側の位置にある。

 廊下の壁に取り付けられている窓ガラスから差し込む朝日が、きちんとワックスがけされている床を明るく照らす。

 そんな中、さして距離が遠い訳ではないので事務所にはすぐ到着するのだが、それでも部屋を出た楓は細い廊下を歩きながら、現状について考えを巡らせていた。


 『グレートバリュー練馬小泉店』に初めて訪れた際に相対する羽目はめとなった、異常・異端なる強さを誇る感染者ゾンビの“男”との死闘から既に四日目が経過し、楓の体調は未だ万全でないものの日常生活に関しては問題なくこなせるまでに回復していたが、外の情勢はそれと相反するかのように深刻の度合いを増していた。

 先日ラジオによって知り得た情報では、封鎖に失敗した新型ウイルスが全国規模にまで拡散し、事態を重く見た政府が首都機能を東京から札幌へと一時移転すると共に、北海道庁本庁舎で臨時の緊急災害対策本部を立ち上げたというものであった。

 また都心では、現在も警察並びに自衛隊を中心とした治安部隊が、被災者及び避難住民の救難救助に従事しているとの事であるが、それらが順調に進んでいるとは到底思えなかった。


(テロ組織による武力攻撃……か。ラジオで詳細は述べていなかったが、大方“北”の特殊部隊やイスラム過激派組織⦅ISIL⦆、極左暴力集団などといった連中が実行犯なのだろうが、せんのは、いくら新型ウイルス騒動で国内外が混乱の極みあったとはいえ、内閣情報調査室、外務省の国際情報統括官組織、警察庁警備局、防衛省情報本部そして公安調査庁といった諸々(もろもろ)の情報機関が、今回のテロ事件の情報を何故掴むことができなかったのだろうか。それに、『研修所』はこの有事に対してどう動いている?)


 目線を窓の外の景色へと移しながら、楓は胸中に疑念を抱いていた。

 八月下旬に表面化した、感染者を人食いの化け物(ゾンビ)に変える謎の新型ウイルスは諸外国で猛威を振るっていたが、遂にはまるで日本の防疫対策をあざ笑うかのように国内でアウトブレイクが発生、国家存続の危機に関わる重大事案へと発展した。

 だがそれだけでなく、一連の事件の陰にテロ組織の関与が認められるのであれば、その意味するところは最悪の人的災害であり、国家転覆や侵略行為を狙った安全保障環境上、日本が極めて危険な立場に置かれているという現実であった。


(……やはり情報が足りん。もっとも日本政府が自衛隊に対し治安出動から、テロ組織による武力攻撃の緊急事態対処として個別的自衛権を発動させ、必要な武力行使が可能となる防衛出動にほぼ超法規的措置で切り替えたのだから、それだけ現状が緊迫しているのは間違いないだろう。それにしても新型ウイルスの感染爆発パンデミックに加え、民間人の救助を阻害するテロ攻撃、か。こんな危機的状況だ、一刻も早くこの身から元の体に戻り、『研修所』の執行者として役目を果たさねば……)


 そう考えた楓の脳裡のうりに、孤児だった己を育て確かな存在意義を与えてくれた“先生”の、穏やかな笑みをたたえた面差しが像を結んだ。

 自分の意味不明な性転換に関する件の重要人物キーパーソンとなる“先生”を可及的速やかに探し出し、元に戻る方法をたださなくてはならない。そうでなくては、執行者として今まで通り社会に蔓延はびこを滅ぼすという崇高な使命を果たすことが出来ないからだ。

 かつてないほどの国難に見舞われている現状において、『研修所』の果たす役割は平和を取り戻す上でこの上なく重要となるはずであり、だからこそ()()()は耐え難い焦燥しょうそうに駆られるのだった。


(そうだ。今にして思えば性転換の件はもしかすると深謀遠慮の下、先生が俺を邪悪な奴らから守る為に必要な措置を講じただけという事もあるのではないか? ……クソッ、何て愚かな。国家の汚れ役を一手に引き受ける先生のお考えをしっかり確認もせず、一人で勝手に焦るなど浅はかにも程があるだろうに。やはり、この身を正しく導いて下さるのは先生だけだ――)


 たゆたう思考に振り回されつつも、気付けば楓の足はいつの間にか事務所の扉前で止まっていた。

 “先生”の命令であれば、個人やテログループといった敵対勢力の種別に関係なく、それが例えどんなに過酷で困難な任務であろうが立ちふさがるを討ち滅ぼす覚悟があった。――それこそ、自分の命など何らかえりみることなく。

 だからこそ任務完遂の為に、こんな華奢で小柄な脆弱ぜいじゃくたる少女のからだから、あらゆる環境下での身体的酷使にも耐えうる鋼の如き強靭な“黒崎諒”の肉体を取り戻す必要があるのだ。


 早く“先生”に会って、もう一度『研修所』の執行者としての責務を果たしたい。

 何より、孤児だった自分を拾ってくれた、恩師であり父親代わりを務めてくれたいとしき“先生”が願う社会正義の実現の為ならば、身命をして幾らでも死体の山を築き上げるだけの決意にみなぎっていた。

 “先生”から優しい言葉を掛けられ、慈愛に満ちれた抱擁ほうようを受けられれば、心にからみつく全ての迷いや苦しみ、そして孤独が消える筈だと()()()は信じて疑わなかった。


 それ故に、事務所のドアノブを回した際に頭の片隅をよぎった優しげな微笑みを浮かべた達也の顔が、己の小さな胸にごくわずかな痛みと軋みをもたらしているのを、楓はついぞ意識することはなかった――




 事務所の中に足を踏み入れた時、楓は他に気を取られてせいで自分がドアノックをせずに入室してしまった事に遅まきながらも気付いたが、既に後の祭りであったので礼儀を無視してそのまま目的地へと向かった。

 目的地とはすなわち、達也が寝床としているブラックの三人掛け応接ソファの場所である。

 四十平米ほどの広さの空間を埋めているのは、デスクと書類棚、積み重ねられた収納ボックスなどや、他にPOSシステムのオフィスサーバーやパソコン、コピー機といった機器や各種事務用品であり、楓が目指す応接ソファの位置は部屋の一番奥、ブラインドが下りている窓際に配されていた。


「……達也、花音が朝食の準備をしています。直ちに起き、速やかな移動を開始して下さい」


 静穏に満ちた室内を足早に歩き、達也が現在進行形で寝息を立てているソファの正面に立った楓が、抑揚よくようを欠いた声音で目覚ましの言葉を発する。

 だが熟睡しているのか、楓の今の呼び掛けに対しても横になっている達也が起きる気配は全くなかった。


(いっそ、引っぱたいて起こしてやろうか? ……それにしても、呑気のんきに寝ている割には朝から随分と()()()()()元気いっぱいだな)


 わざわざ起こしに来てやったのにも関わらず、一向に目を覚ますことなくスヤスヤと気持ち良さげに眠り続ける達也の姿を見てイラっとした楓は、つい暴力的手段にうったえたくなるも、同時に視線の先に()()()()を捉えてしまい、思考は無意識にそちらの方へと流されてしまうのだった。

 合皮ソファの上に仰向あおむけで横たわる達也の恰好は、Tシャツにトランクスという実にシンプルなものであった。それだけに、男性の下半身が朝に行う自己主張という名の生理現象を、実にはっきりくっきりと明確な形で確認することが出来た。


(…………外見とは相反して、()()()()()意外とたくましいな。大きさも日本人男性の平均サイズを若干上回っているかも知れん)


 トランクスにテントを張っている達也のやんちゃ小僧をまじまじと見詰めながら、楓は対象物の形状や寸法について大凡おおよその見当をつけていたが、すぐにはっと我に返り、慌てて今しがたの思考を打ち消そうとする。


(待て待て待て、何で男のアソコなどを熱心に分析せねばならんのだ!? こんなモノ、自分ので散々見慣れて――え、いや、見慣れていた……のか?)


 その時、楓は不意に奇妙な感覚に襲われていた。

 確かに記憶の中には、その手の知識はある。だがおかしな事にそれは知識だけで、あまりにも『かつてそれが自身にも存在していた』という実感がとぼしかったのである。

 少女として目覚める以前は、間違いなく己が“黒崎諒”という男性だったのにも関わらず、だ。

 例えるなら、まるで実物には触れたことはないが写真や絵でならそれを理解しているといった、そんなどこか上っつらおぼろげな心理状態に陥っているのだった。


 だからなのか、知らず楓の佳麗かれいたる白雪の幼顔は純情可憐な少女のように真っ赤に染まっていた。

 制御を振り切って、感情が激しく揺さぶられる。

 心臓の鼓動が、耳障りなほど高鳴っていた。

 熱を帯びた脳が思考を曖昧あいまいにし、火照ほてり震える喉からは湿った呼気が不規則に吐き出されていた。


 ――やだ……でも、すごい。


 魂の深奥部に所在する“少女”のが、刹那に脳内をはしり抜ける。

 何がすごいのか絶対に知りたくもないし、全力で今の熱に浮かされたような気持ちを否定したかったのだが、如何いかんせん下腹を中心とした、肉付きの薄い未成熟な肢体に蠕動ぜんどうする甘切ない不可解な感覚が、()()()の理性を見事なまでに裏切ってしまっていた。

 そして微動だに出来ずにいる楓の視線は、ひたすら達也の顔と物議をかもす下半身の一部分のところを往復する始末であった。


(いかん、これは非常にまずい……!)


 まるで二律背反に陥ったかのような奇異な状況に翻弄ほんろうされ続けている楓の脳内で、焦慮しょうりょ並びに危惧きぐという名の警告音が大音量にて鳴り響いたその時、


「うぅ……ん。あ、れ? 楓ちゃん……?」


 何とタイミング悪く、寝惚けた声と共に達也が目を覚ましてしまったのである。

 しかも更に最悪なことに、狼狽うろたえまくっている楓の姿を、こうべを動かした達也が不完全ながらも視界に収めてしまったのだ。


「――ふあぁッ!」

「あべしっ!」


 その瞬間、弾かれるように動き出した楓が、仰向けの姿勢から起き上がりかけた達也の顔面に向けて、手刀チョップをいきなりベシッと叩き込んだのであった。

 一方の達也にあっては、何が起きたのかも全く理解できぬまま楓の攻撃を食らい、思わず荒廃した世紀末に登場する雑魚キャラの断末魔みたいな声を漏らすのだった。


「痛!? ちょっ、え? な……な、楓ちゃんどうして――」


「実に危ないところでしたまさに間一髪という他にありません危険な害虫が達也の顔面に張り付いていたので慌てて追い払った訳ですがその際に私の手が貴方にぶつかってしまいすみませんでした後おはようございます」


 目を丸くしながら驚きの声を上げる達也の言葉を遮って、楓が早口かつ一切の息継ぎ無しで思い付きの言い訳を羅列する。

 そして、若干おかしな言い回しなっていることなど全くお構いなしに楓は、で上げられたような赤面状態のまま強引に無表情を取りつくろうと、尚も言葉を放った。


「という訳で、朝食の用意をしている花音が貴方を待っています。私は達也を起こしそれを伝える役目を任されたのですが、これで達成です。そうなるとここに長居は不要、戻ります」


 そう言い捨てた後、ぱっと身をひるがえした楓はそのまま、はたから見るとまるで逃げ帰るような挙措きょそと速歩にて部屋から出て行った。


「…………へ?」


 そして当然の事ながら、疾風怒濤しっぷうどとうの展開に全然頭が追いつかない達也は、唖然あぜんとした顔で酷く間の抜けた声を上げるのだった。

 しばし呆然としていた達也がようやく諸々(もろもろ)の事情を理解し、超速で服を着て事務所から飛び出したのと、戻った楓が休憩室の出入口扉を開けたのはしくも同タイミングであった。



 こうして晴天に恵まれた九月二十八日の朝、ほんのちょっぴりの騒動を交えつつも三人は、感染者ゾンビが人間を喰らうという地獄絵図の如き絶望的な環境下において、奇跡のような穏やかさと和やかさに包まれながら朝食を取り終えることが出来たのだった。


 だが、ときは確実に進む。

 それが例え望もうとも、決して望んでいなくとも。

 数多あまたの犠牲を生み、まるで無数の運命を嘲弄ちょうろうするかのように、幾多いくたの思惑が澎湃ほうはいとして錯綜さくそうしていく。


 偶然か又は必然か。

 不思議なえにしによって共に過ごす事となった黒崎楓、宇賀達也、高城花音の生者三人には、その日の午後に再び激動に身を投じる羽目はめとなる未来を知るすべなど無かった。



 既にさいは投げられており、生者と死者には等しく破局を惹起じゃっきする()()が、“神”のごとき『宿命』から送られるのであった――――





 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 シュミット・アンド・ベンダー製の照準眼鏡ライフルスコープから覗ける十字線レティクルに区切られた円形の視野には、凄惨な光景が広がっていた。

 ベランダ近くに移動させた六人掛けリビングテーブルの上に乗り、膝撃ちの体勢――ニーリングポジションでナイツアーマメント社製のサベージM110・338ラプアマグナム狙撃銃を構える、耐火繊維ノーメックスのフライトスーツや抗弾ベストといった防眩ぼうげん黒色で統一された各装具を身に着けたその若い男は、身動ぎ一つすることなく状況の推移を見守っていた。


「……民間人か。どうやらまた何処どこかの避難所が、感染者どもに襲撃されたようだな」


 無言で消音器サプレッサー付きの自動式セミオートマチックスナイパーライフルの狙撃姿勢を維持し続ける若者の隣で、彼とほぼ同じ装備に身を包んだ長身と細目が特徴の、影山かげやまという名の三十代前半の男が外を見遣りながら冷ややかな声を発した。

 ベランダに続く窓際に立っている影山の手には、レーザー測距儀機能が組み込まれている暗視双眼鏡が握られている。それはつまり、若者が狙撃手スナイパーで影山が観測手スポッターという役割を意味していた。

 そして現在二人が陣取っている場所は、重量鉄骨造の四階建てマンション最上階の一室であった。


 狙撃の為に開け放たれている窓の外では、通りを逃げ惑う一般市民の集団が次々と感染者ゾンビの群れの餌食えじきとなっていた。

 逃げ遅れた生者が、怒濤どとうの勢いで押し寄せる死者の濁流に飲み込まれ次々と非業の死を遂げていく。

 足を取られ地面に突っ伏した男性が、疾走する数え切れない感染者ゾンビの中へと消え、宙と路面に血飛沫(しぶき)が広がる。

 身体のあちこちを感染者ゾンビに咬み裂かれ、おびただしい出血によって全身を紅に染めた女性が、断末魔の絶叫を上げ続けていた。

 商業ビルと住宅地が雑然と入り組んでいるこの場所に満ちるのは、只々むごたらしい“死”だけであった。


「あれでは誰も助からんな。まあ、別に民間人がどうなろうと我々の知った事ではないが、このままだと逃げてくる避難民に合わせて、こちら方向に化け物どもが引き寄せられてしまい任務に支障が出る。――距離レンジ四〇〇、阻止しろ」


 レンズ越しに見える、常人ならば間違いなく目を背けるだろう悪夢を具現化したその光景にも、何ら動じる素振りも見せず影山が言った。


「…………不可能ネガティブ。民間人と感染者が入り乱れている為、誤射の危険性がある」


 だがそんな影山の命令に対し、若者が静かな声で否定の言葉を返した。

 すると、双眼鏡を下げた影山が首を動かして若者の方を睨み付けながら、再び厳しい口調にて言う。


「誤射? 馬鹿か貴様は。避難民と化け物どもの()()を阻止しろと、俺は言ったんだ」


「………………」


「おい、さっさと命令を実行しろ。もし出来ないと言うのであれば我々……いや、崇高すうこうな理念により決起された()()()に対する裏切り行為とみなし、この場で貴様を排除する――」


 沈黙したまま動かない若者に対し、苛立ちをあらわにした影山が右腰のホルスターの中に収まっている自動式拳銃オートマチックハンドガン――SIG SAUER P226に手を掛けようとする。だがその瞬間、


「――――了解コピー


 短い返事と共に、若者が狙撃を開始した。

 引き金を絞って初弾を撃つ。そして間髪をれずに若者は二度、三度と連続でサベージM110狙撃銃の引き金をひいた。

 消音器サプレッサーの減音効果によって、最強クラスの威力と性能を誇る弾丸338ラプアマグナム弾が、くぐもった音と共に発射される。

 セミオート式スナイパーライフルの排莢はいきょう口から次々と飛び出る空薬莢が、テーブルやフローリングの上に落ちて転がっていく。


 その様子を見た影山は、腹立たしげな様子でチッという軽い舌打ちを行った後、再び双眼鏡を眼前に持ち上げて狙撃結果及び状況の確認へと移った。

 双眼鏡を通した影山の視界には、狙い撃ちされた標的ターゲットが338ラプア弾に頭蓋を見事に吹き飛ばされ、バタバタと路上へくずおれていく姿が見て取れた。

 当初、若者が自分の指示通りに狙撃を行っていると影山は認識していたが、しかしすぐにそれは違うと思い知らされる事となった。

 何故ならば、命中ヒット無力化キルされていく標的ターゲットは全て感染者だけであり、襲われて逃げ惑っている避難民に対しては一切当てていないのだから。


「貴様――なッ!?」


 憤怒の表情を浮かべた影山が、怒号を発しながら右腰に装着したホルスターからSIG P226の拳銃ハンドガンを抜き放とうとするもそれは、まるで魔法の如くテーブルの上から瞬時に移動し、影山の前に立った若者によって阻まれた。

 その時には若者の手に狙撃銃は無く、代わりに徒手空拳が影山の動きを完全に封じていた。

 若者の左手は、拳銃を抜こうとしている影山の右腕を抑え。

 若者の右手は、肘がわずかに緩んだ状態で縦の拳を作っており、影山の抗弾ベストの上に軽く添えられていた。


 次の瞬間、()()が起きた。

 ほぼゼロ距離の状態で、突き出された縦拳の先に不可視の【衝撃波】が発現したのだ。

 それはまるで、中国拳法の寸勁すんけい及びワンインチ・パンチと呼ばれる攻撃方法に酷似していたが、その正体は全く別物だった。


 ――【念動力】――


 物質の移動や、衝撃波を打撃に付加する超常的な物理現象であった。

 若者の縦拳にまとった凄まじい威力を秘めしその《力》は、抗弾ベストを着込んでいる影山の身体を真後ろへと派手に吹き飛ばした。

 そして、尋常ではない速度でそのまま壁へと激突した影山は、只の打拳が高硬度のセラミック製アーマーベストを歪ませるという信じ難い光景を目にする事なく、そのまま意識を失った。


「……クソッ」


 わずかに乱れた息の間から、若者がののしりの言葉を呟いた。

 一七〇センチ半ばの身長、そして目鼻立ちは端正といえるものの、しかし刃物のような鋭利な眼光と一切の感情を排した若者の相貌そうぼうは、彼が発する他者を拒絶する雰囲気と相まって、冷酷かつ無慈悲な機械を彷彿ほうふつさせる印象を周囲に与えていた。

 何より外見上は細身に見えるが、着衣の下に存在する若者の肉体は、幼少期より死に物狂いで修練を重ねてきた成果により、まさしく鋼鉄の如き強靭きょうじんさを有していた。


 それから若者は、ほんの少しだけ逡巡しゅんじゅんした後、テーブル上に置いてあるサベージM110狙撃銃を手に取ると、何の迷いもなくベランダから外へと躍り出た。

 常識的に考えて、四階建てマンションの最上階から飛び降りるなど……更にいえば、銃やアーマーベスト等の各種装備品の重さが加わった現実にかんがみれば、絶対に無事で済む筈がない。

 だがその若者は、当たり前のように怪我の心配などしておらず、むしろこう叫んでいた。


「――――()()()()ッ!!」


 と。

 その刹那、若者の魂の深奥部に存在する()()が応えた。


 ――うん、あの人達を助けなくっちゃ! それから…………


 アスファルト路面に着地する瞬間、やや不安定な出力ながらも、自身の識閾しきいき下から浮上した“存在”の()()()()()若者が【念動力】を最大限に発動させ、接地する際の衝撃を一気に緩和する。そして、



「……ああ。もう一度先生に会って、その真意を聞く――!」



 力強く大地を蹴るその若者――()()()が、己が内に潜む“少女”の声にそう返答したのであった。




 もう一つの迷いし運命が、この時を境に動き始めた――――
















お待たせしました。

この展開は、書き始めた当初から決めていたのですが、色々と読者様の反応が恐かったりします。

後一応、区切り的にこのお話で第一章が終わり、次話から第二章となります。

今回の終わりは特に気になると思われますが、次話はまたちょっと過去に戻って、物語の全容を描いていきたいと思っています。

超気合入れて大パニックを書いていきたいと思っていますので、今後も何卒よろしくお願いします!

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