第20話 「予感」
長いです。
――九月二十七日。
スーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』の二階に設けられている畳敷きの休憩室にて、黒崎楓と高城花音の二人はその日、宇賀達也の持ち物である非常用手回し充電ラジオを使って情報を集めていた。
その情報は、日本の公共放送を担う事業者が繰り返し流しているものだった。
内容は、災害緊急事態の布告の下、各所に設営されている避難所の案内と避難指示、新型ウイルスの被害規模とそれに付随するニュース、また警察や自衛隊を中心とした被災者及び避難住民に対する救難措置の状況についてだった。
しかしそれらの情報の内、楓が最も気になった事項は、日本政府が首都機能を東京から札幌へと一時移転すると共に、事態の可及的速やかな解決を図る為、北海道庁本庁舎において臨時の緊急対策本部を立ち上げたという件であった。
(政府は首都を放棄し、都民を見捨てたのか? ……いや、それは無いな。資本・資源・活動が東京に一極集中している現状に鑑みれば、国家の中枢部である東京を切り捨てる選択肢などそれこそあり得ん。それにマス・メディアの情報通りならば、諸機関による救難活動が被災地で未だ実施されている点も、今回の首都機能の一時移転が復興を前提とした戦略的撤退であるのは明白だ。が、それにしても……)
膝丈の紺色キュロットスカートに地味なストライプ柄のシャツブラウスを着た楓が、ラジオの置かれたテーブルの前で行儀よく正座したまま思惟を巡らせ、その柳眉を曇らせていた。
一方、テーブルを挟んで楓の前でアヒル座り(女の子座り)している、ベージュのテーパードパンツにネイビーのカットソーチュニックTシャツ姿の花音もまた、毛先をしきりにクルクルと巻きながら、不安げな顔つきでラジオを見詰めていた。
この日は、一昨日から降り始めた雨が午前中で上がるも、太陽は依然として雲に阻まれて顔を出さず、午後は曇天という天候で推移していた。
そして今日、激しい戦闘の後遺症によって全身倦怠を患っていた楓は、これまで満足に起き上がることすら出来なかった状態からようやく回復し、ある程度の日常生活動作を花音の補助無しで行えるまでになっていた。
その事から、午前の早い時間に起床した楓は、多少もたつきながらも何とか自力で食事や排泄を行った後、次いで事前準備と滞っていた情報の収集を始めたのである。
まず事前準備については、近い将来スーパーマーケットから脱出を図る際に必要と思われる物を揃える為、楓は店舗一階の売り場にあるリュック型の非常用持出袋を選び、動きを阻害しない程度の必要最低限の生活物資を詰め込む作業を行った。
他方、楓の武器であるサバイバルナイフについては、異端の感染者である“男”との戦闘終了後に達也が回収して、工具用ポーチのベルトに装着された鞘へと戻していた。また、飛び道具として使用したドライバーに関しても、損傷したものは除外して、達也が不足した分のドライバーをポーチへ新たに付け足し、楓に手渡していた。
ちなみに、全人類に共通する“排泄”という生理現象にあっては、スーパーマーケット内のトイレはいずれも水洗である為、停電及び断水している今は通常の便器洗浄が出来ないことから、排泄した後はバケツに汲み置きしてある雨水を使って流すか、もしくはビニール袋と新聞紙や紙おむつを併用して汚物を処理するなどの方法を取るしかなかった。
他にも、売り場の商品である凝固剤、消臭剤、ポリ袋がセットになった簡易トイレを使ったり、新聞紙や紙おむつの代用品としてペットシーツ、猫砂を排泄物の処理に活用するなどして、トイレ問題の打開に取り組まねばならなかった。
それはともかく、華奢で小柄な体躯である為、今着ている女性店員用の制服のブカブカ具合に多分な煩わしさを楓は実感しつつも、最低限の生活必需品が入った非常用持出袋を背負って休憩室まで戻ったのである。
その後、現状についての情報を確認しようと、あらかじめ達也から借り受けていたラジオの電源を入れたのだった。
またその時、同じく休憩室で荷物の整理をしていた花音も手を止め、ラジオから流れる放送を聞こうと楓の傍に座ったのであった。
「……ねえ、楓ちゃん。わたし達、これからどうなっちゃうのかな?」
休憩室に中波ラジオの音が流れる中、花音が青ざめた顔で、ぼそりと口火を切った
すると、目を上げて花音の方を見た楓が、淡々とした語調で告げた。
「ラジオを聞く限りでは、感染被害は極めて深刻であり、残念ながら私達を取り巻く状況は厳しいと言わざるを得ません。しかしそれでも、未だ警察や自衛隊などの治安部隊が被災地で救難救助に従事しているのであれば、助かる見込みは十分あります」
「うん。けど、本当に救助なんて来るのかな。だって、政治家の偉い人がみんな東京から逃げちゃったのは、新型ウイルスに感染した人が多すぎて、お巡りさんや自衛隊の人達も手に負えなくなったからでしょ? それに、都内だけじゃなく全国でこの病気が発生してパニックになってるって、誰かが言っていたし……」
「……確かに、花音の懸念は当然の事だと思います。放送ではそこまで言及していませんが、全国規模に拡大した当該感染症が齎す影響は、間違いなく国家存亡に関わる類いのものです。だからこそ、政府首脳陣は東京から一時撤退して体制の再編を図り、事態の収拾に臨むべく躍起になって動いていると思われます。その事から、救助に関しても只待つのではなく、自発的な行動が必須となるでしょう」
「そう、だよね……」
花音の陰鬱な小声が、室内を満たす温い空気を微かに震わせる。
そして俯き加減となり、暗い顔つきで物思いに沈む花音の様子を、黙ったまましばらく見詰めていた楓であったが、やがて視線を外すと、手元に置いてあった飲みかけの野菜ジュースの缶を手に取った。
缶を持ち上げて中身の液体をひと口飲んだ後、楓は冷然たる双眸を宙に据えながら思索に耽った。
(……やはり、新型ウイルスの封じ込めは失敗したか。以前あの男から、東京都を中心とした大都市圏に対する封鎖ラインの話は聞いたが、もしかすると封鎖計画それ自体が、何らかの理由によって頓挫したのかも知れん。いずれにしても、政府が今回の感染爆発に際し、自衛隊の治安出動と首都圏封鎖という強硬策に打って出たにも関わらず、感染を食い止められなかったのは疑いようのない事実だ)
数日前に達也から聞いた情報とこれまでの実体験を回顧しつつ、楓は更に疑義を胸の内で呟く。
(とはいえ、例えどんな悪性流行病だろうが未知の奇病であろうが、この短期間で首都を放棄する事態に陥るなど、果たして本当に起こり得るか? 確かに、この感染症の罹患者は極めて危険かつ異常ではある。加えて、その爆発的な感染力はまさに驚異の一言に尽きるが、政府とてそれなりの防疫対策は講じた筈だ。……薄々感じていたが、どうにも違和感が拭えん。この脆さ、他にも理由が有るのではないか?)
疑念が、楓の端麗な幼顔に微かな歪みを強いた。
どうにも釈然としない気持ちを呑み下すかのように、楓は手に持っているジュースの缶を口元に運ぶと、そのまま一気に中身を飲み干した。
そして楓が空き缶を静かにテーブルの上に置くのと同時に、花音は俯かせていた顔を持ち上げると、その虚ろな瞳を前方へ彷徨わせつつ口を開いた。
「わたし何か悪い事したかな? 確かに変な病気が流行ったせいで日本も大騒ぎになっているのはニュースやネットで知っていたけど、わたしの周りは全然いつも通りだったよ。朝起きたらパパとママが居て、おはようって挨拶してからご飯食べて学校に行って……。皆、伝染病の予防でマスクをしていたけど、それ以外は本当に普通だったの。それなのに……あんな、あんな突然…………」
わななく唇から紡ぎ出される言葉は、悲痛に彩られていた。
何よりも、生まれた時から平和な日常を当たり前のように享受してきた花音にとって、これまでの凄惨極まる体験やこの先も続くであろう過酷な現実は、十五歳という未熟な精神を追い詰めるのには十分過ぎるものであった。
そんな事情がある中、ラジオから聞こえてくる逼迫した状況は、花音が無意識に封じ込めていた記憶と感情を激しく揺さぶり、心の平静を奪ってしまったのである。
(心的外傷後ストレス障害⦅PTSD⦆、か? ちっ、厄介な……)
眼から涙を溢れさせ、頭を振りながら嗚咽交じりの呟きを漏らし続ける花音の姿を黙って見ていた楓は、内心で舌打ちをしていた。
未曽有の激甚災害に遭遇したことで数多の死に直面し、尚かつ自身も生命の危機に瀕した経験が、花音の精神に深刻な心的外傷を刻み付けているのは紛れもない事実であった。
その為、今回はラジオの放送が引き金となって過去の出来事を追体験した結果、強い恐怖感を伴うショック状態に陥った花音を見て、楓は心的外傷後ストレス障害(PTSD)の発症を疑ったのだった。
「わたし死にたくない。何より感染しておかしくなった人達に喰い殺されるような死に方なんて、絶対に嫌なの。……ねえ、楓ちゃん。もしかしてこれって全部悪い夢だったりしないかな? だってほら、こんなパニック映画やホラーゲームみたいな状況、普通に考えて有り得なくない?」
「…………」
「あ、そうだ。実はわたし何かの事故で意識を失っていて、本当は今も病院のベッドで眠っているかも知れないよね。だからそう、実際にはパパもママもちゃんとお家に居るし、学校の皆や世の中だって、本当は何一つ変わってなくてさ――」
「花音」
すすり泣きながら、尚も現実逃避の言葉を重ねようとする花音の口を封じるかのように、楓が鉄の如き冷酷さを帯びた声を放った。
無機質めいた美貌とは相反する、楓の鋭い眼差しと滲み出る威圧感を敏感に察知した花音は、気圧されたように口を噤む。
楓はそんな花音の様子を見遣りつつ、静かな声音にて言い継いだ。
「貴女がどんなにこの現実を悪夢だと思い込み拒否しようとも、過去の出来事は覆りませんし現状が好転することもありません。いえ、寧ろその逃避は、自分だけでなく他人にも害が及ぶ可能性があります」
「楓……ちゃん……」
楓から情け容赦の無い言辞を浴びせられた花音が、愕然とした面持ちで悲痛に彩られた掠れ声を出す。
慰めや励ましの言葉ではなく、まるで突き放すような楓の物言いにショックの色を隠せない花音が、下唇を噛んで俯いた。
花音の口腔から漏れ出る力の無い泣き声が、室内に満ちる重い雰囲気をより一層沈ませる。
(……ったく、いちいち面倒な小娘だ)
意気消沈といった風に、肩を落としてすすり泣く花音へと視線を向けていた楓は、胸中で嘆息と愚痴を零しながらも、今度は弱めの語勢にて取り成すように言った。
「花音、聞いて下さい。先程も言った通り我々が置かれている立場はかなり厳しく、また自衛隊などによる救助活動もどこまで当てになるか分かりません。だからこそ、互いの助け合いが必要なのです。私達全員が生き延びる為に」
「……生き延びる為の、助け合い?」
楓の言葉を聞いた花音が涙で濡れた顔を上げ、覇気の無い声で喋った。
それに対し楓は軽く顎を引いて首肯した後、更に言葉を重ねた。
「別に特別な事ではありません。ここ数日、満足に動けぬ私を貴女が世話してくれたように、今度は救援の手が差し伸べられるその日まで、花音の身辺について私が護衛する役目を担おうというだけの話です」
「え? 楓ちゃん、どうして? だってさっき、わたしが皆に害を及ぼすって言っていたのに……」
「それは、辛いからといって現実から目を逸らし、聞きたくないからと耳を塞いで過去に逃避を続ければ、やがては精神の均衡を失い、自身のみならず周囲を巻き込んだ破滅を招き寄せるからです。……貴女は独りではありません。例えこの先どれ程の苦境に立たされようとも、互いが手を取り合い全力で事に当たれば、前途に光明を見出すことも決して不可能ではないでしょう」
「……ぅ……」
「残念ながらこの状況下では、嫌でも非情な現実を直視しなければなりません。だから、辛ければ幾らでも弱音を吐いても構いませんし、手助けが必要な時はいつでも力を貸しましょう。花音、貴女が過酷な世界から目を逸らさず必死で生き抜こうとする限り、私は助力を惜しみません」
きっぱりと言い切る楓の黒い瞳には、揺るぎのない意志が宿されていた。
その一方で、花音は両手を使って溢れ出る大粒の涙を拭いながら、懸命に言葉を探していた。
胸が熱くなるのを花音は抑えることが出来なかった。途切れることなく滴り落ちる雫が両手を水浸しにする頃、ようやく花音が声を絞り出した。
「……ありがとうね、楓ちゃん」
「感謝など不要です。私はあくまでも事実を指摘し、尚かつ今後の方針を述べただけに過ぎません」
目頭をしきりに擦りつつ礼を述べる花音に対し、楓は微々たる感情の動きを見せずに素っ気無く答えを返す。
だが花音は、そんな楓の態度など一切気にする風もなく、その小振りな丸顔にはにかんだ表情を覗かせて言葉を続けた。
「ううん、楓ちゃんが言ってくれたこと、凄く嬉しかった。……えへへ。貴女は独りじゃないとか、わたしを護衛するなんて台詞、堂々と言っちゃうなんて完全に反則だよ。もし楓ちゃんが男の子だったら、わたし間違いなく恋に落ちていたかも」
「……は? 恋?」
花音の突拍子もない発言に、眉根を寄せた楓が思わず怪訝な声を発してしまう。
すると、涙で赤く充血した目を柔和に細めながら、花音が無邪気な口調で言った。
「やだなー、楓ちゃん自覚なさ過ぎ。今の状況であんなカッコいいこと言われちゃったら、女性なら誰だって惚れちゃうよ。厳しく言う時は言う、でもその後のフォローもちゃんと忘れずにしてくれるなんて、まさに理想の恋人って感じじゃない? 楓ちゃんが女の子じゃなくてしかもフリーだったら、わたし百パー告ってたなぁ」
「……話の意味と内容が、今一つ理解出来ないのですが」
「あはは、ごめん。何だか嬉し過ぎて変なこと口走っちゃった。けど、本当にありがとう楓ちゃん。正直に言うとね、わたし色んな事が怖くて怖くて仕方がないの。それこそ頭がおかしくなりそうなぐらい。でもさっきの言葉を聞いて、これから先どんなに辛くても頑張って生きようって思えたの。それもこれも全部楓ちゃんのおかげ。だから、私に手伝えることなら何だってするから、遠慮なく言ってね」
「…………分かりました」
すっかり自制を取り戻し屈託のない笑顔で喋る花音の姿を視界に捉えたまま、楓が表情を変えずに平板な声で返事する。
だがその時、楓の胸の内には疑問が渦巻いていた。
(あのまま発狂されては面倒だからと、気を静める為に取り敢えずそれっぽい美辞麗句を並べてみたものの、上手く説得出来たのかこれは? ……大体、小娘ならずあの男もそうだが、何故この身に対して好きだの惚れただの恋だのという単語が会話の中に突然出てくるのだ? 頭が緩いのか、もしくはそれが妙な流行り言葉であるのかは知らんが、実に奇怪な連中だな)
首を傾げそうになるのを堪えながら楓は、その後もラジオから繰り返し流れてくる情報に耳を傾けつつ、その一方でどことなく嬉しそうな様子を見せる花音と、取り留めの無い会話を続けるのであった。
それからやや時間が経過した後、いつも通りドアをノックする音と共に一人の男が休憩室へとやって来た。
無論、姿を現したのは宇賀達也に他ならないのだが、ネイビーの七分袖シャツと黒色カーゴパンツに身を包んだ彼はその日はいつにも増して上機嫌……というか、楓と花音が思わず引くぐらいの満面の笑みを湛えているのだった。
「やあ元気かい、我が姫君たる楓ちゃん! それに、例え理不尽な理由でポニーテールが校則禁止にされようとも、全男子の夢と希望が詰まっているポニテスタイルを貫いてくれよう花音ちゃん。いやいや、二人がこうやって仲良くテーブルを挟んで座っている姿を見ると何か安心するよ。外はゾンビだらけで最悪だけど、目の前に可愛すぎる未来の奥さんと、ポニテが正義の少女が居てくれる限り、俺はどこまでも頑張れるね!」
「……藪から棒に何ですか? 元々おかしいのは仕方がないとはいえ、あまり狂った言動は周囲に迷惑ですので、少し控えて頂きたいのですが……」
室内へと足を踏み入れるや否や開口一番、元気よく妄言を垂れ流しまくる達也に向かって、楓が冷ややかに告げる。ちなみに花音は、達也のハイテンションについてゆけず唖然としたまま固まっていた。
「相変わらず楓ちゃんの愛は辛口気味だけど、でも逆にそこがシビれるあこがれるゥって感じだから、君が好きだっていう俺の気持ちは結局のところ、益々激しくなるばかりなのさ!」
「成る程、良く分かりました。貴方との意思疎通は非常に困難だという事ですね。……ところで一つ気になるのですが、その手に持っている紙袋は一体何ですか?」
声色を励ます達也に対する返事は実に辛辣なものあったが、その時ふと彼が左手に提げている紙袋に気付いた楓が、眉を顰めて問い質した。
すると達也は、テーブルに向かい合って腰を下ろしている楓と花音の前で、手にしている紙袋をこれ見よがしに掲げて嬉々とした声を発した。
「よくぞ聞いてくれました。これはね、何か役立つ物はないかなぁって、事務所の中を色々とガサ入れしていた時に見つけたのさ。火事場泥棒みたいな真似はあまり好きじゃないけど、今は非常時だし何よりこれは楓ちゃんにとって絶対必要になる筈だから、ちょっと無断借用してきたんだよ」
「私に、絶対必要な物?」
「そっ。ぶっちゃけ服なんだけど、まさに神様が君の為に用意したとしか思えない最っ高の品なんだよね、これが。メイド服はこの前の件でボロボロになっちゃったし、今楓ちゃんが着ている店の服もサイズが全然合ってないから正直不便でしょ? でも、俺が持ってきたこの衣服は寸法もぴったりだと思うし、汚れや生地の痛みとかも一切無いから安心して」
「別な衣服……ですか。確かにそれは助かりますが、本当に私が着られるものなのですか?」
晴ればれした顔で説明する達也に訝しげな視線を向けながら、楓が疑問を口にする。
「それは勿論さ。しかも楓ちゃんに相応しい素敵な服だから、是非とも着て欲しいな! ――という訳で花音ちゃん、悪いけど楓ちゃんの着替えをちょっと手伝って貰えない? 病み上がりってのもあるし、恐らく一人で着るのは大変だろうからさ」
「へ? あ、はい。別にわたしは構いませんけど……」
達也からいきなり水を向けられた花音が、戸惑いつつ言葉を返す。
「うん、ありがと。じゃあ俺は一旦部屋から出るから、後はヨロシクね~。あ、それと俺ドア前で待機しているから、楓ちゃんが着替え終わったら一声掛けてくれると嬉しいな」
花音にそう伝えると、達也は件の紙袋をテーブルの上に置き返答を待つことなく、足早に部屋から出て行った。
他方、場に残された楓と花音は互いに顔を見合わせた後、疑わしげな眼差しを机上に鎮座する紙袋へと向けるのであった。
「――最高だ。いや、最早これは完全に神ってるとしか思えない程に魅力爆発だよ。メイド服も素晴らしかったけど、しかしこっちはそれを遥かに凌駕する程の愛くるしさと色っぽさが際立っていて、まさにexcellentかつmagnificentって感じだね! 繰り返し言うけど、マジで最ッ高だよ楓ちゃんっ!」
「わ、わたしも達也さんと同じ。可愛らしいし、楓ちゃんに良く似合っていて凄く素敵だと思うな。だから……その、あんまり怒らないでね?」
「…………ええ、分かっています。贅沢を言える状況でない事も、例えどんな戯けた装いであろうがこれだけしっかりとサイズが合い、尚かつ機能的であるという好条件を備えた衣服を、私の単なる我儘で否定する訳にはいかない事も。ええ、はい。それはもう頭にくるほど十分に理解しています」
それを見た達也がすぐさま歓喜の声を上げると、次いで花音が遠慮がち言い、最後に楓が恐ろしく不機嫌な語調で言葉を発する。
その光景は、楓の着替えが終わり、花音から入室の許可を貰った達也が再び部屋へと舞い戻った時のものだった。
興奮しまくる達也を余所に、楓は憤懣やる方ない思いであったが、しかしそれ以上の疑問が脳裡を占めていた。
即ち、何故こんな衣類がスーパーマーケットの事務所に有ったのか、という謎であった。
勿論、楓が疑義を抱くのも当然だった。何故なら、達也が紙袋に入れて持ってきた品は、所謂ゴスロリ衣装に他ならないのだから。
そして世俗に疎い楓では当然知る由もなかった。己の着用する衣服が、某アニメに登場する女性キャラのコスプレである事を。
このゴスロリ衣装は、ふんだんにあしらわれたフリルが特徴の、赤と黒を基調とするやや露出が高めなワンピースであり、更にそれを彩る腰元の赤リボンと首のタイ、そして黒地のアームカバーやガーターストッキングがより艶やかさを演出する極めて良質なコスプレ服であった。
より詳細を述べるならば、豪奢なヘッドドレスが完全にネコミミを意識した形状となっていることからも、当該衣装については自衛隊が異世界で活躍する傑作ファンタジーアニメの登場人物である、大きいお友達に大人気の某神官様の恰好に相違なかった。
だが何よりも驚くべきは、下着も含めたこの衣装が楓にぴったり合っているというご都合主義であり、これこそまさに神がドゥフフとほくそ笑みながらイタズラを敢行したとしか思えない、数奇な出来事といえた。
秋葉原のコスプレショップや総合ディスカウントストアならいざ知らず、どこにでもある中規模のスーパーマーケットの、しかも事務所内にゴスロリ衣装が置いてあるなど不自然も甚だしかったが、実は店長の隠された性癖と趣味によるものが原因であった事など、例えどんな天才的少年名探偵でもその真実に辿り着くのは困難といえた。
もっとも、達也だけは自身に宿る野生の勘というか、残留するオタクの波長を敏感に察知し、薄ぼんやりと本件の真実について勘付き始めていたのだが、如何せんどうでもいい話であったのでそれについて触れる事は一切なかった。
「いやぁ素晴らしい、実に素晴らしいよ! これで楓ちゃんがちょっとギャルっぽくかつ甘エロっぽい口調で喋ってくれたり、ハルバードなんか手に持って暴れまくったりしたら、俺速攻で信者になっちゃうな。まさしくリアル使徒様バンザイって感じだよね!」
「……宇賀さんが何を言っているか相変わらず理解不能ですが、取り敢えず何故かイラっとくるので今すぐ口を閉じて頂けますか?」
はしゃぐ達也に向かって、テーブル近くの畳上で正座している楓が、柳眉を大胆に寄せながら剣呑な声音にて言葉を放った。
するとその瞬間、これまで喜色満面だった相貌から一切の笑みを消した達也が、ずかずかと大股で楓のすぐ傍まで近付いてしゃがみ込むや否や、何と横合いから全く躊躇せずに勢いよく寝転んだ。
達也が顔を上向きにして、楓の処女雪の如き白さと柔らかさを有する楓の太股へいきなり頭部を乗せたのである。端的に述べると、楓が達也を膝枕している状態となっていた。
「――っ!?」
あまりにも予想外の出来事により、流石の楓も常日頃のポーカーフェイスを驚愕に崩し、思わず息を呑んで固まってしまう。
無論、その信じ難い光景を目撃した花音もまた、口をあんぐりと開けたまま氷結したように身体を硬直させているのは、最早言わずもがなである。
そんな中、達也がにわかに力強く怒濤の勢いで喋り始めた。
「酷いよ、楓ちゃん! 君からすれば確かに俺は役立たずな男かも知れないけど、それでも必死で頑張っているんだよ? 大好きな楓ちゃんからどんなに冷たくされたって俺の愛は絶対に揺るがないけどさ、それでもせめてあの時みたいに『達也』って名前で呼んで欲しいんだ! このままだと俺、間違いなく楓ちゃん分が枯渇して寂し死にしちゃうよ!!」
「あ、あの時は戦闘中で無我夢中だったのです。……しかしまあ、貴方がそこまで呼び方を気にするのなら、これからは苗字ではなく、た、達也と呼び捨てにしましょう。後、その……別に私は達也に対し故意的に冷たい態度を取ってなどいません。…………多分」
「うん、楓ちゃんのクーデレに関しては十分承知しているから心配しなくていいよ! ――よしっ、名前で呼んでもらうはこれでオッケーだから、後は膝枕状態での頭なでなでをついでにお願いします!!」
「は? あ、頭なでなで……?」
いきなりの展開と申し出に、すっかり虚を衝かれ狼狽状態に陥ってしまった楓が取れた行動など、せいぜい達也が発する怪しげな単語を訊き返すことぐらいであった。
だがそんな楓とは相反して、達也の方はより一層舌の回転数を上げていく。
「そうさ。深く考えちゃ駄目だ、ありのままを感じるんだよ楓ちゃん! さあ、お早く!!」
「わ、分かりました。こ、こうですか?」
まるで魔に魅入られてしまったかのように、楓は唯々諾々と達也の言う事に従ってしまう。
慣れない手つきで達也の頭を撫でつけながら、楓は頭の片隅で様々な疑問と違和感が膨れ上がっていくのを感じていたが、気持ちの方は不思議と不快ではなかった。
いや寧ろ少女の魂は、眼前の男のことを――黒崎楓は全力で否定したが――可愛らしいとすら思う意味不明な感情に支配されてしまっていたのだった。
一方達也は、楓が拒絶しないと見るや、益々行動をエスカレートさせていった。
「ああ、そのぎこちない動作が逆に萌えを加速させるよ! くそぅ、このまま大人しく我慢なんて出来るものかっ! ごめん楓ちゃん、俺このまま突貫するけど怒らないでね!!」
「え? んぁっ!?」
楓からの返事を待たずに、そのままくるっと半回転する達也。
勿論、そんな恰好になってしまえば、達也の顔が楓の太股の間に埋まるのは必然であった。
そして更には、ワンピースの裾が捲れた女性の魅惑たるデルタゾーンに向かって達也が鼻を突っ込むと、あろうことかそのままフガフガと鼻を鳴らして楓の香りを吸引し始めたのである。
その姿はまさに豪遊っ……! 完全に調子に乗った達也、楓に対して無謀な変態豪遊を敢行する!!
――その後、何とか我に返った楓はありとあらゆる負の感情を暴発させ、いつの間にか取り出したドライバーで達也の頭を突き刺そうとするのを、花音が必死で止めたのは言うまでもなかった。
それは、幾度も繰り返されて告げられる、一つの報知であった。
<――尚、先日行われた記者会見の中で、杉村官房長官は一連の騒動にはテロ組織の関与が明白であり、戦後初となる自衛隊の防衛出動には何ら問題は無いとの見解を改めて示しました。また現在、救難救助に従事する警察・自衛隊に対しテロ組織が武力攻撃を行い、それによって民間人を含む多数の死傷者が出たとの情報なども入ってきており、政府は迅速な対応を…………>
付けっぱなしのラジオから流れる平坦な声が微弱に大気を振動させた後、やがて虚空へと掻き消えていった――――
いつもながら大変、大変遅くなりまして申し訳ございません(泣)。
スランプだ~なんて言いながら、少し執筆から離れるとマジで続きが書けなくなってしまいました。
それでも何とか気力を奮い立たせながら今回のお話を書いたのですが、恐ろしく時間が掛かってしまい、完成までに一か月少しという有り得ない遅さと記録してしまいました。
でもおかげ様で、ちょっとだけ執筆の意欲と勘を取り戻したので、次話はもう少し早く投稿したいです。
色々ご迷惑をお掛けしますが、どうぞ気長に待って頂けるとありがたいです。
それでは次話もよろしくおねがいします!^^




