第18話 「休息」
少し長いです。
「…………ん」
僅かな衣擦れの音と共に、やや鼻にかかった気怠げな声が、幼い女の子――黒崎楓の可憐な唇の間から漏れ出る。
次いで、眠りから目を覚ました楓がゆっくりと瞼を持ち上げた後、朝日が差し込む明るさに加え静穏を保っている部屋の様子を窺う。
(朝、か……)
新たな一日の始まりを告げる蜂蜜色に彩られた外界から隔てられた室内において、畳の上にマットレス代わりとして敷いた段ボールの寝床で楓は身体を横たえたまま、起き抜けの曖昧な思考を整理しつつ静かに首を巡らした。
すると、楓のすぐ隣で同じく段ボールを下敷きにして規則正しい寝息を立てている少女――高城花音の姿が視野に収まった。
(……いくら何でも近すぎだろう、これは。寒くもないのに、何故こんなにくっ付いて寝たいのか訳が分からん)
自身とほぼ密着した形で寝ている花音に対し若干うんざりとした疑問を抱くも、だからといってこれが何かの不都合を生じさせている訳ではなく、また特に支障になるような問題でもなかったので、楓は放置しているのだった。
ちなみに今の楓と花音の姿は、地味なストライプ柄のシャツブラウスに膝丈の紺色キュロットスカートという出で立ちである。無論、二人とも――特に楓の方は服のサイズが全く合っていなかったが、これは『グレートバリュー練馬小泉店』の女性店員用の制服を寝間着として借りているのだった。
(……まあ、別にどうでもいいか)
どことなく投げやりな感じで思考を打ち切った楓は、そっと短い溜息を口から吐き出しつつ、花音のあどけない寝顔から目線を外して顔を正面に戻す。
続いて、枕の代用に使っている折り畳んだ座布団から頭を離し、楓はゆっくりと上体を起こし始めた。
だがその途端、躰の節々から痺れにも似た痛みが走り抜ける。
「……っ、ぅ……」
思わず楓がその人形めいた美貌を歪めて、小さな呻き声を漏らした。
(ちっ、あれからもう三日も経っているのに、相変わらずこの様か。こんな万全から程遠い今の状態では、外に出るなど自殺行為でしかない。クソ、こんな所で愚図愚図している暇はないというのに……)
楓らが現在留まっている『グレートバリュー練馬小泉店』の売り場内で遭遇した感染者の“男”との死闘から、既に四日目を迎えていた。
辛くも戦いを制し生き延びる事に成功した楓であったが、しかし精神と肉体を極限まで酷使した影響及び戦闘よる負傷の代償は、華奢で小柄な少女の身に行動不能の弊害を齎したのである。
それ故『研修所』の執行者であり、かつての己――黒崎諒の身体を取り戻す為の行動が阻害されている現状に対し、楓は焦燥並びに憂悶がひしひしと胸の底にわだかまるのを感じていた。
「……楓ちゃん。体、まだ痛むの?」
隣からぼそっと声が湧いた。
見ると、目を覚ました花音が自分を見詰めていることに楓は気付き、返事をする。
「いえ、大丈夫です。日常的な動作を行う分には問題ありません」
「本当? それならいいんだけど、無理しちゃダメだからね」
すぐさま面差しを硬質のそれへと戻し、いつもの抑揚を欠いた語調で唇を動かす楓に向かって、心配げに瞳を揺らめかせた花音が身を案じるように言う。
それから緩やかに起き上がった花音が、はにかんだ笑顔を浮かべつつ言葉を継いだ。
「――おはよう、楓ちゃん」
「……おはようございます、花音」
柔らかな声音の花音と、素っ気無いが丁寧に挨拶を返す楓。
温みを伴った陽光が、視線を交し合っている二人の姿を色鮮やかに照らしていた。
それは、楓と花音の二人が寝室として利用している、スーパーマーケット二階に設けられた従業員控え室兼休憩室での、朝のひと時の事であった。
――四日前となる九月二十四日。
東京都練馬区の中型スーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』の売り場内において遭遇した、圧倒的な強さと凶暴さを兼ね備えた異端の捕食者なる“男”を、黒崎楓と宇賀達也の両人は死力を尽くし、紙一重の差で斃す事に成功した。
またその時、“男”から襲撃を受け喰い殺された高城花音の担任教師である坂本修一が生きた死者として再び蘇ると、その彼に対し教え子が、狂気さながらに二度目の『死』を与えるという衝撃的な出来事があった。
昼を過ぎ、日没を迎えた店舗売り場内で、楓と達也、そして花音の生存者三名は色々な思いを内に抱えながらも、危機的状況を脱した事でようやく人心地を取り戻したのだった。
そして同時に、心身共に疲れ切っていた一同であるが、十分な食糧の確保と安全な宿泊施設の利用が可能となった今、その貴重な環境をふいにしない為に早速行動へ移らねばならなかった。
尤も、激しい戦闘により疲労の極みにあった楓は言うに及ばず、また花音の方も精神的なショックが悪影響を及ぼし、満足な働きを期待するなど土台無理な話であった。
以上の理由から、三人の中で唯一の男性であり、かつ比較的まだ元気が残っている達也が、全ての後始末や各種作業を独りで行わねばならなかった。
まず始めに、楓を背中に負ぶった達也は花音を伴って店舗二階にある畳敷きの休憩室へと向かい、そこで怪我と疲弊によりぐったりしている楓の世話を花音に頼んだのである。
その次に達也が行ったのは、建物の外階段に面し二階へと通じている、自分達が入ってきた窓の割れた片開きのスチール製ドアに対する、窓の目張りや商品が梱包された段ボール箱の積み重ねによる即席バリケードの構築といった、応急処置的な補強であった。
作業を終えた頃には、薄闇が世界を包み込んでいた。
力のいる作業を休まずに行ったことで、流石に達也もへとへとに疲れてしまっていたが、それでもまだ最後の大仕事が残されていた。
それは、店舗一階の売り場内に放置されたままとなっている、二体の亡骸の処理に他ならなかった。
彼らが動くことは二度と無いので、片付けを後日に回しても特に危険や問題もなかったのだが、売り場に無残な死体が転がっているという光景はやはり精神衛生上にもよろしくないという判断から、達也は疲労困憊の体に鞭打って作業を決行したのだった。
遺体の収容場所としたのは、店舗一階の裏方に複数有る冷蔵・冷凍室の内の一つ、精肉作業室の奥に設置されている冷凍倉庫であった。
とはいっても既に停電してから何日も経過している為、冷却装置は作動しておらず中の食肉等の品物も全て痛んだ状態となっていたが、強い密閉力を有する特殊ハンドル付きの完全な閉鎖空間となる冷凍倉庫は、人間の死体を収容するにはまさに理想的な場所といえた。
しかし問題は、どうやってそこまで遺体の搬送を行うかである。花音が止めを刺した坂本教諭の方はまだしも、襲撃者である感染者の“男”の方は達也より背丈が大きい上に、うんざりする程の膨大な筋肉がその巨躯を埋め尽くしているのだ。
無論、根性を総動員させて何とか引っ張って死体を運ぶという方法もあるが、それでは時間も掛かり過ぎるし、甚大な労力を費やすことにもなる。
なので達也は、積み荷の運搬時によく使用される手押し式の大型平台車をバックヤードから探し出し、それを使って一体ずつ片付けを行った。
これは、以前ゾンビ映画で観た知識をそのまま達也が実践したものであるが、いざ現実にやってみると中々に骨の折れる作業となった。
台車の上に死体を乗せるのにも、積み荷である死体がずり落ちないよう慎重に目的地まで運び込むのも、そして冷凍倉庫内で荷物を下す……といったそれら運搬工程を単独で実施せねばならなかった。
特に、かなりの重量物となる“男”の搬送作業に関しては、達也が思わず根を上げてしまいそうになる程キツイものとなった。
それでも失敗と工夫を積み重ねながら、達也はどうにかこうにか“男”を冷凍倉庫の中に運び入れる事に成功し、心身共に多大な負担の掛かる辛い『労働』をその日の内に終えたのであった。
ちなみに、作業に必要と思ってあらかじめ店内に有ったゴム手袋やマスク、業務用エプロンといった用具を借りていたが、結局は血などの体液や汚物といった様々なモノが付着して酷く汚れてしまった為、『労働』が終わると達也はそれら一式を纏めてビニール袋に入れ、そのまま精肉作業場のゴミ箱へと捨てた。
全てを終え、店舗二階の事務所にあるソファへ達也が身体を沈めた時にはすっかり夜間を迎えており、電力が死んでいる状態の店内もまた暗闇が当然のように支配していた。
母の形見でもある各種防災グッズが収められたデイパックの中から取り出した自前の懐中電灯の活躍で、真っ暗となった店内でも支障をきたすことなく移動が可能であったものの、貴重な乾電池を消費してまでこれ以上の行動など無意味であったし、何より既に体力の限界を迎えている達也の肉体は、早急な睡眠を欲していた。
売り場内で見つけたミックスフルーツの缶詰を勢いよく掻き込んだ後、間を置かずに達也の意識は眠りの中へと落ち、波乱に満ちた一日がようやく終わったのである。
――翌二十五日。
その日の午前中は曇り一つ無い晴天であったが、しかし午後になると天候が崩れて雨模様となり、日暮れ前には雨天となった。
従業員用の休憩室は、小型の流し台を始め、木製テーブルや食器などの物品が収納された棚が配されている間取り十二畳ほどの小上がり和室であり、楓と花音の二人はそこに雑魚寝をして一晩を過ごした。
布団はおろか毛布すら休憩室に備えられていなかったが、幸い夜も気温は高かったので風邪を引くような心配はなかった。
それとは別に、昨日達也から楓の世話を頼まれた花音であったが、正直なところ医者でもない只の女子中学生である彼女に出来る事など、高が知れていた
それでも、硬い畳の上で直に寝かせ続けるのは体に良くないと思った花音は、以前テレビで見た防災知識を活かし、豊富にある段ボール箱を分解して重ね合わせ、簡易マットレスとして楓をそこに寝かせた。
一方楓の方といえば、目立った外傷は無いものの体調不良が甚だしく、朝を迎えても寝床から全然起き上がる事も出来ずに、ほぼ一日中眠り続けているような有様であった。
その上、寝ている間も苦痛に苛まれている楓は、寝汗に塗れた細く小さな総身を捩らせながら、荒い呼気を繰り返していた。
花音は、そんな状態にある楓の躰を真新しいタオルで丁寧に拭ってやると共に、少しでもリラックス出来るようにと、熱冷ましの冷却シートを額にピタッと貼り付ける等の看病を行っていた。
また、時折目を覚まして喉の渇きを訴える楓に対して、栄養と吸収力に優れているスポーツドリンクを選び飲ませて上げたりもした。
売り場や各階に点在している倉庫や物置といった場所から、飲料水・食糧品・家庭用品などを一揃い入手する事が出来たので、自分の母校である区立北小泉中学校での避難生活と比べれば遥かに快適であるのを花音は実感していた。
その事が花音に気持ちを整理する余裕を生み出し、様々な思いを巡らす機会を与えた。
未曽有の災害により安否不明となってしまった両親の事や、学校脱出の際に離れ離れの憂き目に遭った親友の望月美羽及び、花音が淡い恋心を抱く浅野駿矢の行方。
そして、このスーパーマーケットで起こった出来事や、今後の見通しについて等々……。
そんな出口の無い思考の迷路に花音が頭を悩ませていると、楓の見舞いに来た達也がドアをノックして休憩室へと入ってきたのだった。
手には、どこから見つけたのか女性従業員用の制服を二組持っており、これを一時的な部屋着として使って欲しいと達也が申し向けてきたのであった。
確かに、楓が今着ているメイド服は先の戦闘のせいで破れや解れに加え薄汚れていたし、花音の方も学校の制服をずっと着たまま過ごしていたので、着替えが有るのはとても有り難かった。
尤も、女性にとっては下着類の替えの方がより重要な問題であるのだが、かといってそれを男性の達也に相談するのは憚られた為、花音が自分で考えるより他なかった。
一方、休憩室内の壁側に設置されている棚を物色していた達也は、中から卓上型ガスコンロとミニサイズの片手鍋を見つけ出すと早速それらをテーブルの上に置き、カセットコンロを点火させて鍋に入れたペットボトルの水を沸かし始めた。
そして、流し台の上部に据え付けられている水切りラックからお椀を三つ取り出した達也は、服と一緒に持ってきていた種類別のフリーズドライ雑炊をそれぞれのお椀に入れた後、片手鍋を器用に傾けて入れ物に熱湯を満たしていく。
物音により目覚めていた楓であったが、結局激しい戦闘の後遺症で満足に動けぬ為、花音と達也が協力して楓の食事を手伝う形となった。
花音がスプーンで掬った雑炊を甲斐甲斐しく楓の口元へ運ぶ。
すると、花音に向かって楓が目を伏せたまま消え入りそうな声で「……ご迷惑をお掛けします」と言葉を落とすのであった。
圧倒的な強さだけでなく、得体の知れない不可思議な《力》を秘めている冷厳な雰囲気を醸す少女に対し、花音はどうしても心中にわだかまる畏怖の感情を拭い去ることが出来ないでいたのだが、この時ばかりは庇護欲を駆り立てる儚げさといじらしさの方が勝り、何となく楓に親近感を覚えるのだった。
程なくしてお椀の中身を空にした楓は達也に手伝ってもらい、感染症予防の為にきちんと液体ハミガキと歯ブラシを併用して歯磨きを行った後、再び眠りについた。
この時には既に自分用の雑炊を食べ終えていた花音は、楓が寝床に戻ったのを見届けると達也に向かって話し掛けた。
「……あの、宇賀さん。今更こんなコト言うのも何ですけど、楓さんとはどういったご関係なんですか? お二人はご兄妹ではないんですよね?」
「うん。彼女――黒崎楓ちゃんは俺の妹じゃないし、別に前から知り合いだった訳でもないよ。ごく最近……つまり、この災害中に出会ったばかりさ」
「そうなんですか。何だかとても親しげな感じに見えたので、ご兄妹じゃないにしろ、てっきり知り合いなのかなぁって、今まで思っていました」
「まあ、楓ちゃんとは短い付き合いだけど、色々あったからね。それに、彼女は命の恩人というか、俺にとって掛け替えのない大事な女性だし」
花音の問い掛けに、達也がのんびりとした口調で答える。
二人はテーブルを挟んで差し向かいで座っていた。
一旦言葉を切った達也が、空になったお椀に余ったお湯を注ぎ、白湯にして飲み始めるのを見詰めていた花音が、少し遠慮がちに言葉を発した。
「大事な、女性ですか。それでしたら……その、変な言い方だとは思いますけど、楓さんってちょっと普通じゃないっていうか、実は特異体質とか特殊技能の持ち主だったりしませんか?」
「うーん……。まあ確かに、楓ちゃんは普通の女の子と比べるとかなり違うかもね。何たって見た目はか弱いのに、腕っぷしは滅茶苦茶なぐらい強いし、精神面だって相当タフだもんなぁ。その点では、彼女は特異というか特殊な才能の持ち主だと思うよ」
達也が花音に目を向けて言った。
「えと、わたしが言っているのはそれとは別の意味で……。勿論、あんな細くて小さな女の子がもの凄く強いっていう事にとても吃驚はしていますけど、もっと違う、何というか……こう、例えば天才的な手品師だったり、或いは不思議な能力が密かに有ったりして、はんどぱわぁ的な超常現象を巻き起こしちゃったりするような人、ではありません……よね?」
喋っているうちに自分でも何が何だか分からなくなってしまい、段々と質す言葉の語尾が尻つぼみになる花音であった。
「ああ成る程、そういう事か。――楓ちゃんはね、魔法少女なんだよ」
が、達也の返答は実に断言的なものだった。
「は? ま、魔法少女……ですか?」
達也の口から突然飛び出してきた奇怪な単語に対し、花音は表情を引き攣らせながら思わず問い返していた。
大真面目にそんな世迷い事を口にする達也に対し、花音は思わず語気に『頭大丈夫かこいつ?』みたいな色を滲ませてしまう。
「ああ。俺にとって楓ちゃんは、正真正銘の魔法少女に間違いないんだ」
だが当の達也は穏やかな調子で言いながら、目線を花音から外して床に就いている楓へと向けていた。
その眼差しはとても慈しみに溢れており、言動はともかく態度や口調は決してふざけている様子ではなかった為、花音はどういった意図でそんな事を言ったのか図りかねていた。
思わず口を噤んでしまう花音に構うことなく、達也は言葉を継いだ。
「俺が楓ちゃんを家のキッチンで初めて見た時も、彼女はあんな風に疲れ果てた様子で眠っていたんだ。いや、正確に言うと気絶していた、かな? ……どちらにしろ、ゾンビになった母さんのすぐ傍に、血塗れのガウンを着た見知らぬ女の子が床に倒れていたら、流石に驚くよね」
「え、ええ、それはまあ。でも、それって?」
花音の戸惑ったような声に、寝ている楓の姿を見遣っていた達也が目線を再び正面に戻すと、口元をほんの僅かに綻ばせて言った。
「うん。たまたま俺が住んでいる家のキッチンに迷い込んだ彼女が、ゾンビになった母さんに襲われたんだろうね。けど、楓ちゃんって超強いから、逆に襲い掛かった母さんの方が返り討ちされちゃったのさ。……息子の俺が何もしなかったせいで、母さんは感染してゾンビになった。だから母さんを楽にしてやる役目も本当なら俺の筈だったのに、それを楓ちゃんが代わりに果たしてくれたんだ。――それこそ、辛い時や苦しい時に現れて不思議な力で助けてくれる、アニメの魔法少女みたいに颯爽と」
「…………」
「でも、そんな彼女に比べて俺って奴はさ――」
何と言っていいか分からない花音が無言でいると、視線を落とした達也が独白を続ける。顔に浮かぶ笑みは自嘲に移り変わっていた。
「何の取り柄も無い人間で、しかも仕事を辞めてからずっと部屋に引きこもってしまうような、所謂ヒキニートだったんだ。仕舞いには父や姉からも見放されていた俺は、今の世の中が戦争でも伝染病でも何だっていいから全部『リセット』されてしまえって毎日願っていたよ。だからこそゾンビ騒動が始まった時、願いが叶ったと思って無邪気にはしゃいでいたんだ。これから自分に……いや、生きている人間全てにどれだけ過酷な未来が待ち受けているのかも知らずに」
目を上げた達也が花音の瞳を真っすぐに見詰め、更に言葉を紡ぐ。
「まず父や姉が消息不明になった。それから次に、居なくなった二人の行方を調べようと近所の避難所に向かった母がゾンビになって家に帰ってきたんだ。家族を全て失い、自分の愚かさにようやく気付いた時には全部が全部手遅れの状態で、しかも臆病で愚図な俺はゾンビに殺されるのがどうしようもなく怖くて、何の行動も起こせずに只自室で震えていただけだった」
「宇賀さん……」
花音の小さな呼び掛けに対し、達也が唇を柔らかな形へと緩めて喋る。
「そんな俺を、楓ちゃんは魔法を使って助けてくれたんだ。勿論、戦いの際に見せる特殊な能力もそうだけど、本当の意味で俺を救ってくれたのは『希望』っていう名の魔法に他ならなかった」
「……希望……?」
達也の言葉を呟くように繰り返す花音へ、達也が微笑みを湛えたままゆっくりと首肯し、そして言った。
「ああ。大好きな彼女と共にこれからも日々を重ねていきたいという『希望』と、愛する彼女を守り、少しでも力になってあげたいっていう『希望』の魔法を、楓ちゃんは絶望の中にいた俺に掛けてくれたんだ。大事な家族すら助けられなかった馬鹿で愚かな俺に、新たな生きる意志と力を芽生えさせてくれた楓ちゃんは、まさしく俺の救世主ならぬ、愛すべき幸運の魔法少女ってところさ」
「……どうしてそこまで家族でも友達でもない他人を信用できるんですか。好きだから? それとも、相手が幼い女の子だから? ごめんなさい、お二人を疑うつもりなんて全然ないんです。只わたし、この前の時に見た不思議な光景がどうしても気になっちゃって……」
達也の言葉を聞いた花音は、先日の売り場内で目撃したあまりにも非現実的な戦いの記憶を思い起こしながら、沈んだ声音でそんな疑念を口にした。
それに対して達也の語感は、あくまでも朗らかなものであった。
「別に謝る必要なんてないよ。初対面の人間を警戒するのは至って普通の事だし、高城さんが色々疑問を抱くのも当然だと思うよ。……うーん、俺の場合は楓ちゃんに一目惚れしちゃっているから、例え不自然な点があっても普通に受け入れているけど、もしこれが彼女じゃなかったら、いくら俺でも簡単に他人を信用したり、ましてや信頼なんて絶対しないさ」
「一目惚れ……? 好きな人だから、全ての事情を受け止めているんですか?」
「ああ、勿論さ。それに正直な話、俺も君と同じく楓ちゃんの素性は知らないし、不思議な能力についても全然分かっちゃいない。まあその辺の事は、記憶喪失だって本人も言っているし、いつか本人の口から説明してくれるのを気長に待つしかないかな」
「…………その、不安はないんですか? 楓さん本人はともかく、異常なまでに強い理由や不思議な能力を秘めている事について、何も知らなくても」
おずおずと尋ねる花音に向かって、達也は笑んだまま静かに答えた。
「不安だし、恐いさ。楓ちゃんが普通の女の子じゃないってのは、彼女と一緒に過ごせば否が応でも気付かされるよ。偉そうな事を言ってても、内心は彼女の不可思議な“力”に対してビビったりもした。けど、今は違う。俺は好きな楓ちゃんをどこまでも信じて、全部受け入れようって決めたから。それに、人はそれぞれ色んな事情を抱えて生きているだろうし、それを無理に訊くのはあまり良くないことだと、俺は思うんだ」
「……そう、ですね」
迷いなくその想いを言葉にする達也の真っすぐな視線に耐えきれず、花音は顔を俯き加減にして力なく声を発した。
達也の言う通り、花音自身も他人に知られたくない、訊かれたくない感情や事情があった。
だからこそ、敢えて何も尋ねないことが楓を思いやり、そしてまた気持ちを汲む行いであるのを、達也がちゃんと理解し尚かつ実践しているのだと、ようやく花音はこの時点で気付いたのだった。
「ごめんなさい。色々と失礼なことを言ってしまって……」
それ故に、花音は自分が如何に無思慮であったのか恥じて、謝罪の言葉を述べた。また同時に花音は達也のことを、ちょっと頼りなさげな印象が見受けられるものの、やっぱり大人だな、と心の中で見直していた。
「だから別に謝らなくてもいいって。そうだなぁ、今日は無理っぽいけど明日以降に楓ちゃんの具合が良くなったら、彼女と色々話をしてごらんよ。どちらかと言えば楓ちゃんは無口な方だし、喋り方も素っ気無く感じるかも知れないけど、話せばきっと高城さんも彼女の内に秘めるその優しさと魅力に気付く筈だからさ」
晴れやかに破顔した達也が言う。
それに対して、顎を軽く引きながら「はい」と返事をする花音であったが、ふと思いついて言葉を継いだ。
「あの、こんな状況ですし、わたしのことは遠慮せずに名前で呼んで下さい。苗字だと何だか凄く他人行儀のような感じがしちゃって……」
「うん? ああ、そうか。じゃあ今後は遠慮なく花音ちゃん、って呼ばせてもらうよ。その代り花音ちゃんも俺を名前で呼んでよ。何なら親しみを込めて気軽に『たっちゃん』でも『たっつん』でも良いからね」
「あ、いえ。達也さんで結構です」
「……うん。そうだよね、やっぱ」
にっこりと微笑みながら拒否する花音に、達也が若干しょんぼりした声で言った。
その瞬間、花音は自分の行為に気付き、微かな驚きを感じていた。
災害の後、全く心に余裕の無かった花音は、久しく笑うという感情を喪失していた。だが、達也という名前の男性が持つ温もりと優しさによって、いつの間にか花音は笑顔を取り戻していたのだった。
その事実に、花音は心地良い感情の揺らめきを胸中に抱きながらも、同時に未だ殆ど喋っていない楓に対する興味が次第に大きくなっていくを感じていた。
もし明日、楓の体調が良く会話が可能ならば、色んな話を沢山して少しでも仲良くなりたい……。そんな前向きな思いが、花音の気持ちをより明るくし心を軽くさせるのであった。
何層にも重なった雲から落ちる雨が、地表を濡らしていた。
そして、休憩室に沁み渡る雨音が、三人の生者に束の間の安らぎを与えるのだった―――
毎度ながら遅くなりました。
今回はちょっとほのぼの? なお話しとなりました。
次話もほのぼのに加えて、更にギャグと微エロ? 的な要素を入れようと思っています。
以前感想に頂いたご要望も、いよいよ炸裂いたしますよ!(笑)
なので、次話も何卒よろしくお願い致します。お楽しみに!^^