第16話 「死闘・後編」
長いです。
眼前の光景は、宇賀達也の胸を焦燥に灼くと同時に、現実感というものを奪い去るものであった。
何故なら、スーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』の売り場内で繰り広げられている現実が、余りにも常識という枠組みを超えていたからである。
それ程までに黒崎楓という名の少女と、圧倒的な威圧感を総身に纏う感染者である“男”の戦いは想像を絶するものだった。
いや、正確に述べるならば、達也の視線の先に映る両者の死闘は、極めて高い技術レベルでの命を懸けた格闘戦の真剣勝負というよりも、まるでアクション映画を鑑賞しているような錯覚に陥る程、超人的な応酬の連続であった。
どちらかといえば運動音痴な上に争い事が苦手な達也とて、主にテレビを通じてだが、ある程度の武道や格闘技に関する知識は有った。
しかし、自分がど素人であるという事を差し引いたとしても、楓と“男”の攻防がおよそ『普通』からかけ離れた、常軌を逸したものであるのは直ぐに理解出来た。
何しろ、目で追えないぐらいの異常なスピードで両者が動いている上に、楓の方はどう見ても物理法則というものを無視した挙動で攻撃と防御を行っているのだ。
それは、自分の家に侵入してきた三人の暴漢を楓が一人で倒した時も、達也は少女の『強さ』に対して少なからず違和感を覚えていたが、今回はそれが更に顕著であった。
堂々たる体躯と凄まじい力量を誇る感染者の“男”を前にしては、例え成人男性となる己であろうとも瞬殺されてしまうのを、達也は肌身で感じていた。
だがそんな強大な敵に対しても、か弱いと言っても差し支えない華奢で小柄な体躯の楓が、果敢に攻め互角の戦いを繰り広げているのだ。
確かに楓の動きは、徒手格闘の修練を積んだ者のそれであった。
無論、少女の幼い容姿やほっそりとした体形に鑑みればそれだけでも十分驚嘆すべき事なのだが、それ以上に年齢や性別などの要素に加え、こと戦闘に直結する相手との体格差や身体能力差を覆すその技倆は、いくら達也が素人だとしてもそれが異質であると本能が察知していた。
荒唐無稽な話だが、それこそ魔法や超能力といった超常的な《力》を楓が行使しているのではないか……と、馬鹿げていると分かった上で達也はそう思わざるを得なかった。
しかし状況は、そんな考えすら許されない程に悪化してゆく。
楓が感染者の“男”に腹部を殴られ、吹き飛ばされたのだ。
危機的状況に達也は居ても立っても居らず、楓から動くなと言われた商品棚の陰から飛び出し後、無我夢中で叫んでしまう。
そんな中、辛くも“男”から与えられる『死』を免れた楓は、すぐさま反撃に移る。
それこそまるで稲妻と化した楓の疾風怒濤の攻勢は、達也の目から見れば間違いなく仕留めたと思えた。
だが、これまでの攻防の中で楓が放った最大最速の攻撃すらも、“男”を倒すには至らなかった。
更にあろうことか、相手から反撃の蹴りをまともに受けた楓がもう一度吹っ飛ばされ、地面を転がされる羽目に陥ってしまったのである。
地面に倒れ伏し動かぬ楓を目の当たりにした達也は、異常・異端すぎる感染者の前であるにも関わらず、躊躇することなく少女を庇うように抱き締めた。
腕の中の少女は余りにも儚げで、そしてボロボロの状態であった。
前後不覚の状態に陥っている楓の幼顔を覗き込みながら、達也は如何に己がくだらない疑念を抱いていたかを酷く後悔した。
例え、眼前の少女がどのような不可思議な現象を起こす存在だとしても、自らの死すら厭わず矢面に立って強敵と戦う楓に対し、一体何を疑い、一体何を恐れる必要があるというのか。
そして、独力でこの地獄を生き延びられるだけの優れた判断力や行動力を有していながらも、無力な自分を見捨てる素振りも見せない大切な少女が瞬く間に痛んでいく光景に、達也は煩悶するのであった。
「――楓ちゃん、しっかりして!」
「……宇賀、さ……ん?」
楓の躰を抱きかかえながら達也が悲痛な声で呼び掛けると、意識が朦朧としているのか、目線を彷徨わせながら喘ぐような呼吸で掠れ声を出す。
「こんな、くそっ、酷え……!」
激しい戦闘の代償として、着用しているミニワンピース型のメイド服は所々擦り切れ、その上きめ細やかな美しい白肌に幾つかの擦過傷が刻まれているのを認め、達也は悲しげに表情を歪めつつ呻くように言った。
「ぁ、……か、はっ」
何かを喋ろうと楓が口を開くも、横隔膜が痙攣を起こしているのか出てくるのは千切れた呼気のみであった。
「今すぐ逃げよう、あんな化け物に勝てっこないよ! このまま黙って楓ちゃんが殺される姿を見ているなんて、俺は嫌だッ」
達也が満身創痍となっている楓を腕の中に抱えながら、悲愴な面持ちで強く訴え掛ける。
これ以上続ければ、間違いなく己にとって掛け替えのない女性を失うと思ったが故の言葉であった。
「……駄目、です。こちらが背を向けて逃げ出そうとすれば、その瞬間……二人とも殺され、ます」
途切れがちに言いながら楓は、小刻みに震える手で達也の服を掴んで上体を起こした後、その目線を圧倒的な力感を漲らせている捕食者の“男”へと向ける。
達也もまた同じく“男”の方に目を向けると、楓のナイフによって受傷した左側頭部から黒く濁った血液を滴らせつつ、ゆっくりとした歩調で二人が居る場所へと近付いて来る姿を捉えた。
人肉を求める食欲衝動に支配されている通常の感染者とは一線を画す、その圧倒的な強さと悠然とした振る舞いに、達也は改めて戦慄を感じていた。
確かに楓の言う通り、ここで敵に後ろ見せた途端、隙だらけとなった背後を襲われて二人とも八つ裂きにされるのは明白だ。また、極めて高い相手の身体能力を考慮すれば、どう見積もっても無事に逃げ切れるとは思えなかった。
しかしだからといって、苦悶の表情で未だ荒い吐息を重ねている手負いの楓が、このまま壮絶な強さを誇る“男”との戦いを継続したとしても、自ら死地に足を踏み入れるだけだと達也は嫌でも理解していた。
「でもこれ以上は――」
「宇賀さん、お願いがあります」
それだけに、これより先は確実に猫が鼠をいたぶるような凄惨な光景になると判断した達也が、険しい表情で言い募ろうとするが、それを断固とした口調で楓が遮る。
そして達也の腕の中から抜け出し、覚束ない足取りで立ち上がった。
「楓、ちゃん……」
「すみません。どうやら、私だけであの敵を倒すことは無理なようです。そこで申し訳ありませんが、宇賀さんの力をお借りても宜しいでしょうか?」
少女の名を呆然と呟く達也に対し、楓は前方を見据えたまま静かな口調で頼み事をすると、立ち塞がるよう形で“男”の進路上へと歩み出る。
その姿を見詰めながら、何の力も無いがそれでも少女の身を守ろうと決死の覚悟を内に秘めた達也が、楓の小さな背中に向かって言葉を送った。
「も、勿論そんなの、わざわざ断らなくったって、楓ちゃんの頼みなら俺はどんな協力だってするさ。けど、そんなボロボロの体じゃ無茶だよ……」
「私が、敵の動きを一瞬だけ封じて隙を作り出します。だから宇賀さんは私の合図と共に、その手に持っているバールで……――」
素早い動作で振り向いた楓の双眸を、達也が食い入るように見詰める。
交わる瞳。朧の如き儚くもどかしい想いが、二人の間を刹那に流れた。
そして一拍置いた後、
「――アイツの顔面を、思いっきりぶん殴って下さい」
静かにそう言い切った。
芸術的な彫刻を想起させる冷たい面差しは、いつもの通り。
だがその時、完璧に整った幼顔の中にある瞳の奥が、微かに揺らいでいるのを達也は見て取った。そして、楓という名の少女が発露させた、さざ波のような感情の震えも。
それはまるで、達也に謝罪するかのように。
また、悲しげにも後悔しているかのようにも感じ取れた。
だがその一方で、透徹した死への覚悟と現状を打破する為の期待感というものも、同時に籠められているのが達也には分かった。
(いつだって君は慎重で、正しい判断と行動を取ってきたじゃないか。今回の件だって、何も間違っちゃいないよ)
恐らく楓は、相手が通常の感染者でしかも一体ということから達也の承諾を得ぬまま戦いの火蓋を切り、そして予想に反して敵が強大だった為に追い詰められてしまった事を気に病んでいるとすぐさま察する。
しかし日暮れも迫っている中、食糧や安全な場所を確保する為にはこのスーパーマーケットこそまさに最適なのだ。それを達也は理解しているが故に、楓の決断がほんの少しだけ拙速だった可能性が有るとはいえ、その事を責める気など毛頭なかった。
そもそも、現状己が足手まといであるのを自覚している達也は、楓に全幅の信頼を置いているのだ。ましてや命の恩人でもあり、惚れている女性に対して浅ましくも全責任を押し付ける行為など、絶対に許容できる話ではなかった。
楓ほどの実力が有れば、達也を犠牲にしてこの場から逃れることも十分可能であろう。けれどもそうはせず、決死の覚悟で強敵の“男”を倒し活路を見出そうとする楓に向かって、達也は自らの想いと、大切に思うその気持ちを伝えようと口を開く。
だが、結局それは言葉にならぬまま搔き消えてしまう。
何故なら、楓が達也の返事を待たずに歩み出し、接近中である凶悪狂暴な捕食者たる“男”を迎え討ちに向かってしまったからであった。
そこから先は、まるで時間と空間を圧搾したかのような光景の連続だった。
相変わらず楓と“男”の動きが速過ぎるせいで、身のこなしの視認はほぼ不可能だった。
映像を早送りしているかのような両者の攻防を前にして、達也は只々息を呑み立ち尽くす以外に成す術がなかった。
それほどまでに、達也の眼前で展開されている戦いは総毛立つような凄まじさがあった。
“男”が打つ。
楓が躱す。
瞬き一つすら愚鈍となる凝縮された世界の中で、死神が喝采を送る狂気の武闘を見詰めながら、達也は緊張で汗ばんだ右手を握り締め、六角バールの硬い感触を確かめた。
(俺に、出来るのか……?)
疑問が鎌首をもたげ、弱気が達也の体を強張らせる。
その間にも、目の前で繰り広げられている戦いは加速していく。
いや、正確に述べるならば“男”の猛攻に対して、楓が必死で回避し続けているという状況であった。
楓が達也に対し、敵の動きを一瞬だけ封じて隙を作り出すと約束したが、しかしそれが果されるとは到底思えなかった。
(違う、そうじゃない。彼女は必ず約束通りにチャンスを掴んで、ゾンビの動きを止めてくれる筈だ。問題があるとすれば、それこそ俺の方だ)
奥歯をきつく噛み締めながら、焦げ付くような思いを達也が巡らす。
許されることなら戦いなど放棄して、今すぐ楓と一緒にこの場から逃げ出したかった。
少し遠く離れた所には、女学生と思われる自分達とは別の生存者が居たが、もしその女性を置き去りにすることで楓が助かるのならば、達也は躊躇なくそうするつもりでいた。
達也にとって楓の存在はそれだけ特別であり、また阿鼻叫喚の地獄絵図の如き今の世の中において、心の奥底から信頼できる唯一無二の人間でもあった。
(でも本当に俺が……俺なんかが、あんな化け物に近付いて顔面をぶん殴れるのか?)
だからこそ、達也は自信がなかった。
楓が作るその千載一遇の好機に対し、運動神経の鈍い自分がきちんと役目を果たせるかが不安であるのだ。
そもそも、上手くタイミングを合わせられるかどうかも分からない。寧ろ余計な手出しをして、逆に状況を悪化させてしまう恐れすらあった。
極度の緊張と心に絡みつく恐怖で、手足はずっと小刻みに震えている。
しかし状況は、達也の思惑など無視して大きく動いた。
これまでの格闘技的な動きから一転、獰猛な野獣を彷彿させる動きで、突如“男”が楓を咬もうとしたのだ。
尤も、感染者の常識に照らし合わせて考えれば却ってそれが普通で、今までの戦い方が異常であったのだが、いずれにしても虚を衝くという意味では見事だった。
「――っ!」
それを見ていた達也が、楓の危機に思わず叫び声を出しかける。
だが驚くべき事に、その咬み付きを間一髪でどうにか回避した楓が一瞬の隙を狙い、反撃へと転じたのだ。
それも、ど派手なとも言うべき空中での廻し蹴りであった。
まるで独楽のように楓自身が回転する凄まじい廻し蹴りを二発連続で放ったのだが、しかし“男”は、その攻撃すらも見切って避ける。
背筋が寒くなる思いを達也は感じるが、次に起こった出来事はまさに急転直下ともいうべき驚くべきものとなった。
攻撃を躱されてしまい、滞空で蹴り抜いた状態の楓が直後、“男”の足元へと瞬時に降下したのだ。次いでそのまま相手の脚に少女の四肢が巻き付くと、さながら旋風と化して前方回転したのである。
そして、足取りされた“男”が楓の回転に巻き込まれた結果、その堂々たる巨躯はバランスを崩して大きく傾ぎ、床へと転倒したのだ。
刹那、達也は悟る。
合図も何も、これが最初で最後、そして最大の好機であるのは火を見るよりも明らかであった。
己など足元にも及ばぬ程の優れた戦闘技能を有する楓ですら、単独では異端の感染者たる“男”を倒すことは不可能だと言った。そして今、その大いなる脅威が達也の眼前にて完璧な形で態勢を崩しているのだ。
動くべき時はまさにこの瞬間であると、達也の直感が命じていた。
“男”が起き上がろうともがき、四つん這いの姿勢となる。
敵の頭部は無防備、タイミングは現時点を置いて他に無い。
だが、意に反して達也の全身は金縛りにあったように動かない。
額から止めどなく恐慌の冷汗が流れ落ち、手足は小刻みに震動したまま自由と力を剝奪されてしまっていた。
(今、今だろ!? くそっ、何でこんな時に限って……手も足も動かないんだよ! ちっくしょう、俺ってやつはいつもそうだ。昔っからいざって時に怖気づいて、結局何にも出来やしないんだ。いや待て、そもそも楓ちゃんからの合図がまだじゃないか。だったら今じゃなくて、もっと別なタイミングがあるんじゃないか?)
臆病な心が、達也の思考を迷走させる。
それが現実逃避でしかないのは分かっていたが、様々な負の感情が勇気を振り絞ることを阻害していた。
(ごめん、楓ちゃん。やっぱり俺じゃ無理だよ。だってアイツは、現にもう立ち上がりかけているじゃないか。愚図の俺なんかじゃバールでぶん殴ろうとしても、きっと当たる前に返り討ちに遭って終わりさ。やっぱり、あんな正真正銘の化け物を倒すなんて不可能なんだよ。怖いんだ、自信が無いんだ。許されるならこの場から逃げたい。けど……けど、それじゃあ君が――)
怖かった。
自身が死ぬのも、楓を失うことも、役立たずのまま終わりを迎えてしまうのも。
勇を鼓して踏み出すことの出来ない己を唾棄し、楓や“男”のような他者を圧倒する程の強さを持ち得ない己の無力さを侮蔑した。
泣きたくなる程に滑稽な自分を呪い、精神の燃焼を果たせぬまま無様な姿を晒して終わる予感を、達也は否応なしに抱いてしまう。
だが、その時――
「―――達也ッッ!!!」
己の名を呼ぶ楓の絶叫が、達也の鼓膜を衝き抜けた。
これが合図。そう、これ以上ないぐらいの絶大な合図であった。
普段は冷静及び冷淡な口調で達也のことを『宇賀さん』と呼ぶ楓が、形振り構わず達也の名前を叫んで協力を、助力を求めたのだ。
そして、その楓の渇望こそが、懊悩に呪縛されていた達也の心を起爆させる。
寒気の代わりに、熱気が。
震えの代わりに、滾る闘志が。
迷いの代わりに、愚直なまでに揺るぎない想念が。
脳を、肉体を、精神を、細胞を、魂を、宇賀達也という人間を構成するありとあらゆる要素を総動員させて、愛する少女の声に応えろという想いが激発した。
「おぉおおおぉぉおおおおッッ!!!」
それは、まさしく咆哮だった。
死の恐怖も緊張も迷いも弱気も全部無理やり捻じ伏せ、達也は灼熱と化した闘志の奔流に身を委ねながら雄叫びを発して、“男”へと突進する。
幸いにも、対する“男”は未だ万全な態勢には程遠かった。また、これまで楓の強さに気を取られて達也という存在を蚊帳の外に置いていた事も、好機に拍車を掛けていた。
つまり、突如とした達也の参戦はものの見事に“男”の虚を衝き、結果として絶妙かつ最高のタイミングにて攻撃を加えることに成功したのである。
素人ゆえに、踏み込みは粗雑であった。
また、下手に力み過ぎているせいで駆ける足もぎこちなく、やや遠間の位置にいる敵の所まで向かう動きは決して素早いとは言い難かった。
全体的なバランスも悪く、振りかぶったバールも隙だらけで不格好そのものだった。
採点すればまさに劣悪と酷評されてしまうような拙い攻撃であるが、しかし死地でさえも何ら躊躇することなく足を踏み入れるその一途で熱く、何人にも覆せない純然な恋慕の情は、
あらゆる理屈を凌駕し、それを最強の一撃へと昇華させる――
そして、多少もたつきながらも達也が最強を自負する捕食者たる“男”へと肉薄し、その異相に向かって渾身の力でフルスイングした不可避のバールを打ち込んだ。
黒崎楓は、その瞬間を見た。
身の内からあらん限りの気合を、勇気を迸らせた宇賀達也が、己が敵である“男”の顔面へと全力でバールを横薙ぎに振るうその姿を。
一方、比類なき強さを誇る異端の感染者たる“男”は、自身の足元に密着している楓を攻撃しようと考えていた事でそちらの方に気を取られてしまい、達也の存在を察知するのが遅れたばかりか、接近すらも易々と許してしまった。
完全に対処が後手となった“男”であったが、しかしそれでも不完全な体勢のまま咄嗟に交差させた両腕を上げて防御を試みる。
ブゥンッ、と空気を唸らせて、達也が打ち放ったバールが炸裂する。
だが驚愕すべきは、やはり“男”の反応速度と身体能力であった。
絶妙なタイミングで仕掛けた達也の攻撃すらも、“男”は防ぐことに成功する。
勿論、大の男が渾身の力で放った鈍器をまともに受けては、いかに驚異的な筋肉の鎧を纏っていようが流石に無傷という訳にはいかない。
空手の防御法である変則の十字受けで、片腕を犠牲にすることにより頭部を狙った致命的となる打撃を防いだのである。
達也が振るったバールが、めきぃっ、という鈍い衝撃音を響かせながら“男”の前側の左腕へとめり込む。
それにより左前腕部分が拉げ、更に姿勢が整っていなかった“男”は、突進の勢いに加え土壇場で発揮させた達也の火事場のクソ力によって、押されるような形でたたらを踏んだ。
しかし、結局そこまでが限界であった。
達也の攻撃は、敵の左腕を潰すことが出来ても、斃すまでには至らなかった。
憤怒、激怒。
狩人たる“男”の満身を蜃気楼のような鬼気が満たし、同時にきつく歯を嚙み締めたことで顎の筋肉が隆起する。
雑魚としか認識していなかった達也という存在が、楓という極上の獲物を嬲り殺しにする愉しみを邪魔した上に、あろう事か己に手傷まで負わせた事が“男”の怒りを触発したのだ。
壊された左腕など歯牙にも掛けず、総身に凄愴な怒気を孕ませた“男”が、達也の命を奪おうと一歩足を踏み出す。
そして達也にあっては、“男”が発散させている意識が圧し潰されそうな程の威圧感と雰囲気に呑み込まれ、怖気づいた足が思考とは無関係に後退を始めていた。
死の恐怖に心魂を蝕まれた達也では、生き延びる術など最早無いに等しい。
(まずいッ!)
達也の援護により無事“男”から間合いを離した楓であったが、視線の先にある火急の事態を目撃し、反射的に【念動力】を発動する。
それと同時に“男”の右足が、達也の顔を目掛けて急激に跳ね上がった。
「ぅわっ!?」
驚きに達也が頓狂な声を上げながら床に尻餅をつくのと、“男”の右上段廻し蹴りが達也の頭上を壮絶に薙ぎ払ったのは、ほぼ同一であった。
紙一重の時間差にて楓の【念動力】が生み出した力場が、若干離れた場所にいる達也のもつれていた足下を掬って転倒させ、当たれば確実に頸椎を砕かれ死に至る“男”の上段廻し蹴りの回避を、ギリギリのタイミングで成し得たのだ。
何はともあれ、このおかげで達也は虎口を脱したのである。
「……ぅ、ぐっ――」
楓が、口腔から低い呻き声を零す。
過度な【念動力】の行使と、精神集中法による肉体潜在能力の強制的引き出しにより、楓の心身は既に危険水域へと達していた。
眩暈と脱力感、そして意識は徐々に薄れつつあり、加えて満身創痍の四肢は痺れや鈍痛に支配され、最早満足に動かすことも叶わなかった。
耐え難い頭の重みと、心臓の鼓動が軋みを上げて生命の危機を訴える中、それでも楓は気力を振り絞って最後の仕掛けを実行に移す。
動作は一瞬、達也へ蹴りを放ったことで自分から気を逸らした“男”の後頭部を狙い、楓が右手に把持したサバイバルナイフを弾丸のように投げ打つ。
その時には、鉛のように重たくなった足を必死に動かして距離を取り、楓は“男”の背後への位置取りを確保していた。
そして更にナイフを投げた後、即座に楓は腰元の工具用ポーチから大きさと種類の異なるドライバーを纏めて三本――つまり残存する全てのドライバーを取り出す。
不意を衝いたナイフの投擲は、【念動力】の助力により苛烈な速度と類い稀な精度を発揮する凄まじいものであった。
ビュンッ、という風切り音と共に、ナイフが高速で目標へと吸い込まれる。
だが、死角から狙撃されたにも関わらず“男”は大気の乱れを敏感に察知し、飛来するその鋭いナイフを信じ難い反応速度で、尚かつ的確に動いて回避してのける。
(化け物め……!)
胸中で戦慄の罵りを発しつつも、しかしこれは楓にとって想定内の流れであった。
確かに、楓が持つ武器の中で最も殺傷能力が高いナイフの投擲は躱された。
されど少女の狙撃はそれ一つのみではない。寧ろ、ここからが本番となる。
直後に二投目。
“男”が身を捩ってナイフを回避した後、そのまま楓の方へと体勢を入れ替えた地点に着弾するよう軌道修正されたドライバーが、間髪を容れずに飛来する。
ナイフを投げた後、工具用ポーチから取り出したドライバーを楓が続けざまに放っていたのだ。
無論これも【念動力】が付加されており、狙点となる頭部へまともに命中すれば、いくら強靭な“男”といえども致命的となる、危険な貫通力を秘めた代物であった。
だがそれすらも“男”は、振り向きざまの勢いを利用しつつ咄嗟にその飛翔する凶器を躱す。
体重移動と頭を僅かに捻って攻撃を捌くヘッドスリップで危険を潜り抜けた“男”であったが、今回は流石に無傷という訳にはいかず、投擲を避けた際に頬肉をざっくりと抉られる代償を支払う事となった。
どす黒い血飛沫が宙に舞う。が、やはり斃すまでには至らない。
しかし更に押し寄せる三投目。
先程と同様のドライバーによる狙撃であるが、その間隔はまさに一瞬と思うことですら生温いぐらいの苛烈な連投であった。
“男”の右眼を標的とした、致死を約束する【念動力】が加えられた投擲。
対する“男”の方は、二投目の飛翔物を回避した直後であった為、未だに姿勢を立て直すことが出来ず、瞬時の判断の下、無事な右腕を使ってそれを払い除けようと試みる。
空を引き裂いて迫る、工具の矢。
目視などほぼ不可能な速度で射撃されたそれを、“男”は常人を遥かに超越した身体能力と活性化された五感を最大限に発揮して、対処を実行する。
“男”が刹那に自身の右腕を横へと振るい、間一髪にて飛来したドライバーを打ち払ったのだ。
防御の成功により、射出された凶器が定められた進行方向と付与された力を共に喪失し、虚しく宙を泳いだ。
まさしく神技にも等しい防御術にて悉く危機を叩き潰す、最強の捕食者たる“男”であったが、実はこの時、彼はたった一つだけ誤解していた事があった。
それは、“男”が物体の飛翔時に生ずる大気の乱れから判断して、狙撃に用いられた武器は全部で三つだと考えていたのである。
しかし楓が投擲に使用した武器の総数は四つ。
鋭敏な感覚を有する“男”が、何故この時に限って読み間違ったのか。
答えは単純であったが、しかし同時に非常識でもあった。
それ故に“男”は、判断を誤ったのだ。
だが、これこそが生と死の境界線。
楓にとっては、活路を開く唯一無二の荒業。
“男”にあっては、次の一撃を躱すことさえ出来れば完全勝利を約束される。
そう、空中で静止した状態となっている最後のドライバーの存在が、両者の生死を分かつのだった――
黒崎楓の仕掛け。
それは、ナイフ一本とドライバー三本での弾幕を実行した際、内一本のドライバーのみを【念動力】を用いて空中停止させたのだ。
随分な奇策であったが、これには十分な理由がある。
一つは、“男”の意識の間隙を衝く為。
もう一つは、連続三回の射撃を行うことで“男”の体勢を完全に崩し、決め手となる最後の投擲に対して回避不可能な状況を作り出す為。
そして最後の一つは、ただ単純に【念動力】で補強した程度の狙撃では“男”の防御を打ち破れないと判断し、ある手段を用いて究極の一撃へと引き上げる為。
条件は、全て出揃っていた。
楓の立て続けの投擲により、“男”はこれ以上の回避も防御も不可能な状態であった。
また、達也の奮闘によって“男”の左腕が潰れている事実も、後押しとなっていた。
更に、物体の空中停止という“男”にとって理解の範疇を超えた出来事が、驚愕という形となって判断を鈍らせ、同時に対処も遅らせた。
楓が左足を一歩踏み込む。
――眼前には、乾坤一擲の切り札となる工具があった。
左足を進めるのに合わせて、楓は右拳を出した。
――【念動力】を更に発動し、半瞬にて着弾修正を実行する。
突きの形は縦拳であり、その細腕は僅かに曲がっていた。
――その動きは、中国武術の一つ、形意拳の中の『崩拳』に酷似していた。
刹那、縦で突き出された拳の先に【衝撃波】が発現する。
それは、爆発の破壊力。
それは、閃光の速度。
それは、悪夢を穿ち、死神すらも切り裂く、凄絶な輝き放つ流星。
そしてこれこそが、相手を殺すか又は己が殺されるかという極限の二者択一となる、文字通りの『必殺』となる一撃であった。
空間を、そして大気を貫くのは【衝撃波】で超加速された、究極の弾丸の如きドライバー。
“男”は動けない、躱すことが出来ない。
右腕は先ほど防御に回したことにより使用が出来ず、可能ならば左腕を犠牲にしても“男”はその狙撃を防ぎたかった。
だがそれは不可能なのだ。何故なら、達也の攻撃により左腕を破壊されてしまったのだから。
最強を自負し、その通り圧倒的な実力を誇っていた異端の感染者たる“男”の頭蓋が、楓の【衝撃波】を伴った打突で超加速されたドライバーによって鮮烈に穿たれる。
そしてその瞬間、少女が「分水嶺」という小さな呟きを発したのは奇しくもほぼ同時であった。
断末魔の声すら無く、“男”の堂々たる体躯が戦場と化したスーパーマーケットの床へと崩れ落ちた。
この時点を以って死闘は、黒崎楓と宇賀達也の死に抗う二人が、『最強』という名の悪夢に魅せられた一人の“男”を斃したことで、幕を閉じたのである―――
いつも通り遅くなりまして、申し訳ございません。
予想以上に文章量が膨らんでしまい、執筆している当初、この話で纏められるかどうか不安でした(汗)
まあ、何とかこれで死闘編は終わらせることが出来たので、ほっとしています^^
次でちょっと和むお話を入れた後、第二章となる予定です。
いよいよ、物語の全体像を描いていきたいと思いますので、今後も何卒宜しくお願いします!