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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
16/36

第15話 「死闘・中編」

長くなってしまったので区切りました。申し訳ございません。












 やがて刃は、異形の面相に驚愕をにじませている“男”へと吸い込まれていき―――


 楓が放ったナイフによる渾身の刺突は、最強を自負する感染者の“男”の眉間みけん穿うがつことなく、代わりに、相手の左側頭部から左耳上部にかける部位の肉を削ぎ落とすだけに終わる。

 ヘッドスリップ。

 “男”が膝を柔らかく使って重心を右足に移し、上体を僅かに右方へひねりながら頭の位置を動かして、必殺を期した楓の刺突を紙一重でかわしたのだ。


 スリッピングともいわれる、相手のストレートパンチを回避する時に用いられるボクシングに代表される防御技術である。

 だが“男”が躱した攻撃は、まさしく凡庸ぼんようとは掛け離れたものであり、本来であれば決して逃れるすべは無かったはずであった。

 相手の動きを予測しつつ巧妙に仕掛けを行い、更にそれらの布石を経てからの全身全霊を込めた楓の一撃は、まさに絶命を運ぶ死神の大鎌と呼ぶに相応ふさわしいものだった。


 しかし“男”は、そんな楓が放った必殺の一撃を、頭部に多少の傷を負いながらもギリギリで避けたのだ。

 その驚愕すべき回避を成し遂げたのは、ひとえに“男”が長年(つちか)ってきた空手の技倆ぎりょうに加え、とある事情から感染した際に生じた肉体の変異……つまり、常人を遥かに凌駕りょうがする感覚機能と運動機能の発現によるものだった。


(なっ……!)


 楓の顔に驚愕の色が湧く。

 それは、己が切り札ともいえる【念動力】と、極限まで高めた精神集中・・・・による肉体活性法・・・・・を併用した一撃必殺の刺突が、相手をほふることに微塵みじんの疑いも無かったからだ。

 異能を全開にした凄まじい速度と威力、そして虚実を巧妙に入り交えた完璧なタイミングと手応えは、間違いなく敵である“男”の反射神経を上回っていた筈であった。

 それ故、仕留め損なった事実は、楓に驚きという結果を生み出すに至ったのである。


「――ぐっ!」


 緊迫した声を発し、刹那の時間の中で次なる行動に移ろうと楓がもがく。

 その時、二度目は無い全力全開の攻撃を躱されたことに楓は驚愕と焦燥を心中に抱えていたが、対する“男”の方もまた、実際のところ余裕などは皆無であった。

 楓の刺突が凄まじく鋭く、余りにもはやかった為、回避にはどうにか成功したとはいえ、“男”はヘッドスリップ後に勢い余って大きく姿勢を崩したのである。


 楓から見て左下方に流れた“男”の体躯を視界に収めながら、急いで体勢を整えようとする楓であったが、次の瞬間、危険を示す赤が脳裡を埋め尽くした。

 “男”が崩れた状態であるにも係わらず急速な動作を行ったことで、空気に大きな揺らぎが生じる。

 刹那、楓の脳から総身へと下された指令は、即防御(ガード)であった。


(まずいっ!)


 戦慄せんりつ

 未だ空中であることから、敵からの攻撃は回避不可。

 であれば防御ガードするしか選択肢は残されておらず、楓は【念動力】を瞬時に発動させ、身を守る為の【盾】を構築する。

 そして同時に、楓がその小さなからだを出来るだけちぢめつつ、更に左腕を曲げて頭部を守る姿勢へと移行し、これから訪れる衝撃に耐えようとした。


 下から、“男”の左脚がぐんっと一気に跳ね上がる。

 急角度の左上段蹴りが、内側から楓を襲う。

 掛け蹴り。内に弧の軌道を描く内(まわ)し蹴りよりも、更に独特かつコンパクトなモーションが特徴の、裏廻し蹴り又はフックキックとも呼称される空手技である。

 (かぎ)型に曲がった膝から伸びる左のかかとが、まるでハンマーを叩き付けるような形で楓の身体へと打ち込まれた。


 刹那、重い衝撃。

 既に展開済みであった念動の【盾】を易々(やすやす)とぶち抜いた“男”の掛け蹴りが、強烈な圧力の塊と化して楓の躰に負担をいた。

 “男”の左踵が横()ぎに、楓の華奢な脇腹をしたたかに打つ。


「――ッぁ!」


 肺の中にあった、全ての空気が一気に絞り出される。

 景色が横殴りに千切れ飛ぶ。

 痛みよりも、圧倒的な衝突が楓の意識を奪おうとしていた。

 “男”の蹴りによって、宙に浮いたままの楓は真横へと吹っ飛ばされる。

 受身を、と消失しかける思考を必死に繋ぎ止めながらも、前後不覚に陥っていた。


 そして、更なる衝撃と震動。

 気付けば、ぐるぐると視界が回転しているのを楓は知覚する。同時に、自分が成すすべもなく床を転がっているという状況も。


「づ、ぅ……――」


 細い呻き声が、勝手に喉を開いてれ出る。

 さっさと動け、動きを止めるな、何でもいいから足掻あがき続けろ――と、『研修所』に所属する執行者としての戦士の本能が、矢継ぎ早に楓の肉体に指令を飛ばす。

 だが床を転がった挙句、倒れ伏したまま動けなかった。また、辛うじてナイフを握り続けている右手も、意思に反して全く動こうとしない。


「――……えでちゃん!」


 耳朶に触れる何かの

 そして、総身に走り抜ける鈍痛、吐き気、混乱。

 眩暈めまいが酷く、視野は今にも暗闇に吞み込まれそうだった。

 打撃を受けた脇腹を中心に、虚脱感や痺れのような感覚が楓の体中を覆っていた。

 それは、敵から受けた打突による損傷ダメージの影響もさる事ながら、【念動力】と併用した集中法による身体機能の強制的な底上げが深刻な疲弊をもたらし、楓の脆弱ぜいじゃくな体躯をむしばんでいたからである。


「――楓ちゃん、しっかりして!」


 そんな中、若い男の悲痛な声が、混濁する意識に割り込むような形で頭上から聞こえてくる事に、楓はようやく気が付いた。

 それと共に、いつの間にかうつ伏せの状態で倒れている楓の躰に腕が回され、仰向けに抱きかかえられていた。


「……宇賀、さ……ん?」


 朦朧もうろうとする意識の中、あえぐような呼吸と共に、楓が茫然自失の声を眼前の男――達也に向けて放った。

 一方、受身も満足に取れないまま床へと落ちたことで素肌に幾つかの擦過傷を負い、更には落下時の衝突によって虚ろな目線を彷徨さまよわせている楓を、達也は酷く悲しげに表情を歪ませながら見下ろしていた。


「こんな、くそっ、ひでえ……!」


 狼狽ろうばいあらわにした達也が、うめくように言う。


「ぁ、……か、はっ」


 そんな達也の姿を未だに揺れ動く視界の中に収めつつ、懸命に思考を常態に戻そうと努力しながら楓が喋ろうとするも横隔膜が痙攣けいれんを起こし、代わりに喉元からし出されたのは千切ちぎれた呼気であった。


「今すぐ逃げよう、あんな化け物に勝てっこないよ! このまま黙って楓ちゃんが殺される姿を見ているなんて、俺は嫌だッ」


 達也が満身創痍(そうい)となっている楓を腕の中に抱えながら、悲愴な面持ちで強く訴え掛ける。

 だが楓は、小刻みに震える手で達也の服をぎゅっと掴んで上体を起こすと、次いでこうべを動かしてその目線を、圧倒的な力感をみなぎらせた己が敵の捕食者たる“男”の方へと向けた。

 その時“男”は、刀傷を受けた左側の頭部から黒く濁った血液を滴らせていたが、何ら頓着とんちゃくする様子を見せずに、楓と達也の居る場所へとゆっくり近付きつつあった。


「……駄目、です。こちらが背を向けて逃げ出そうとすれば、その瞬間……二人とも殺され、ます」


 未だ悠然ゆうぜんとした態度を崩さない敵の姿を視界に捉えながら、楓は苦悶くもんの表情で荒い吐息と共に言葉をつむいだ。

 これまで楓は傷つきながらも、壮絶な強さを誇る“男”と相対し続けていたことにより辛くも命を繋ぎ止めるのに成功していた。

 しかし、今ここで楓と達也の二人が敵に背を向けて逃げてしまえば即座に抑止力を失ってしまい、たちまち無防備な背中を襲われて八つ裂きにされるであろう事は、実に容易たやすく想像が出来た。


「でもこれ以上は――」

「宇賀さん、お願いがあります」


 これより先は、間違いなく猫がねずみをいたぶるような凄惨な事態に陥ると判断した達也が、険しい表情で反論しようとした言葉を、静かな口調に勁烈けいれつな覚悟を添えた楓の声が遮った。

 それと同時に、楓が体重を預けている達也の腕の中からそっと抜け出し、よろめきつつも立ち上がる。


「楓、ちゃん……」


「すみません。どうやら、私だけであの敵を倒すことは無理なようです。そこで申し訳ありませんが、宇賀さんの力をお借りてもよろしいでしょうか?」


 困惑に悲嘆の色を含めた声音で少女の名を呼ぶ達也に向かって、楓は前方を見据えたまま一つの提案を申し向けた。

 そして、緩やかな歩調にて間合いを詰めて来る狂戦士バーサーカーの如き常軌をいっした強さを誇る“男”の行く手に立ち塞がるように、楓は前へと歩み出る。

 呆然と見送る達也の視野には、これまでの激しい戦闘のせいで痛み、薄汚れてしまった華奢で小柄な四肢と背中が映じていた。


「も、勿論そんなの、わざわざ断らなくったって、楓ちゃんの頼みなら俺はどんな協力だってするさ。けど、そんなボロボロの体じゃ無茶だよ……」


「私が――」


 只でさえ楓のひ弱な体躯は、食らったダメージと蓄積する疲労で手負いとなっている状態であり、加えて未だに呼吸も全然整ってなどいなかった。

 だがそれでも楓は毅然きぜんと立ち、意を決した口調で不安を乗せた達也の言葉に答える。


「敵の動きを一瞬だけ封じて隙を作り出します。だから宇賀さんは私の合図と共に、その手に持っているバールで……――」


 前を向いていた楓が素早く後ろを振り返り、達也と視線を交わす。

 刹那のときを、言葉にはならぬ複雑な想いを乗せた双眸そうぼうが交錯する。

 そして一拍置いた後、楓は達也にとある頼み事(・・・・・・)を口にした。


 喜怒哀楽に乏しい、いつもの人形めいた冷たい美貌は相変わらずのまま。

 だが楓の精緻せいちに整った面差おもざしの中には、本人ですら気付かない程のごく僅かな感情の迷いが見え隠れしていた。

 そして達也は、楓が微細に発露した感情の正体を目敏めざとくも看破していた。

 ほんの少しだけ逡巡しゅんじゅんした後、達也はその事を告げようと口を開くが、しかしそれは結局、楓に伝えられぬまま終わる。


 何故なら、前方へと向き直った楓は達也からの返事を待たずに素早く身を離し、接近中である強敵の“男”を迎え撃つ態勢に移ってしまったからであった。



 楓の疲労は、非常に深刻な状態となっていた。

 それは、今日の午前中から宇賀宅へ侵入してきた三人の暴漢との戦いに始まり、更に感染者ゾンビ蔓延はびこっている外を歩き続け、ようやくこのスーパーマーケットへと辿たどり着くまでの間、ずっと動き回っていたからだ。

 また、炎天下に加えて地獄と化した環境での道程は、まさに心身を酷使するものであった事から、多少の休憩を挟んだとはいえ、楓は確かに疲れを蓄積していた。


 そして極めつけは、目睫もくしょうに迫って来る異端の感染者ゾンビたる“男”から受けた打撃のダメージ及び、【念動力】の行使と集中による潜在能力の強制的引き出しであり、主因となるその死闘が楓の活力を根こそぎ奪い尽くしていた。

 本来であれば、すぐに休息と適切な治療が楓には必要であった。

 しかし残念ながら、今はそんな暇など無い。


 既に楓の身体は思うように動かず、頭も徐々に重くなり始めていた。

 とてもではないが、こんな状態では満足に闘うなど不可能であった。

 ましてや疲弊にむしばまれた楓の肉体は最早限界を迎えており、強敵を相手にした戦闘の継続は、まさしく自殺行為に等しかった。

 だがそれでも今は、命をしてるしかない。


(攻撃を捨てて、回避のみ全神経を集中させればまだいける。……もっとも、それだって長い時間は持ち堪えられんだろうがな……)


 思いながら楓がゆっくりと深呼吸を行い、荒い呼吸を整える。

 戦いのせいであちこちほつれ、り切れたメイド服から伸びる白く肉付きの薄い手足の震えを、精神を集中させる事で一時的に止める。

 危険を探知する直感を全開で働かせる為、意識を深く、己が身の深淵へと埋没させる。

 敵が動作を始めてから回避を実行するようでは、到底間に合わない。

 起こりを、踏み込みの位置を、重心の掛け方を、目線の運びを、敵を取り巻くありとあらゆる情報を必死で掻き集めて、事前に攻撃を察知するしか生き延びるすべは無い。


 ――集中、集中、集中、集中。

 先を読め、力みを捨てろ、速度に惑わされるな、位置取りを慎重に行え。

 ――集中、集中、集中、集中。

 居付くな、後ろに逃げるな、恐怖に心を凍てつかせるな、神経を究極まで尖らせて相手の攻撃をかわせ。

 黒崎楓は構えず、ナイフを把持したままだらりと両手を下げて自然体で待つ。

 一方、最強を自負する“男”の歩みは一向に止まらず、容易に間合いのふちを踏破する。


 刹那、時間が加速した。

 否。同じ時間、同じ空間の中で、対峙する両者の動きだけが高速化していた。

 空気が唸りを上げ、風が巻き起こる。

 それは、“男”が楓に肉薄すると同時に放った、滑るような足運びからの右下段廻し蹴り(ローキック)によるものであった。


 当たったら最後、筋肉と骨を丸ごと粉砕されるであろう規格外の威力を有するその右下段廻し蹴り(ローキック)を、危機感知した楓がバックステップにて紙一重でける。

 しかしそれも束の間、“男”は右の蹴足を引かずに地面へ降ろすと、今度は左膝を抱え上げて足先から腰までを一直線にして蹴り込む、左前蹴りを打ち放ってきた。


「ッ!」


 猛速で迫る左の前蹴り。

 だがそれも、楓は体を開きながら必死で横にさばいた。

 背筋に氷柱が突き刺さったような酷い寒気に、否応無しに肌が粟立つ。

 先読みと極限の集中による潜在能力の一時的発揮が功をそうし、回避は間一髪とはいえ何とか成功したが、もし当たればその時点で終わり。詰みとなる。

 “男”の打突に備わる威力、速度、精度、錬度は、どれもが身震いする程に凄まじく、例えかすっただけでも弱っている今の楓には致命となり得た。


 猛攻はまだ続く。止まらない。

 右に体捌きを行った楓に向かい、今度は“男”が打ちおろし気味の右正拳逆突き(ストレート)を放つ。

 “男”の絶死を運ぶ拳が、楓の顔面へ飛ぶ。 

 しかし楓は、疾風と化したそれを更にたいを左斜め後方に移動させつつ、同時に把持したナイフを咄嗟に振るい、弾くような形で拳を受け流す。


 絶妙のタイミングでナイフの刃が手首にぶつかり、ギンッという硬い音を立てながら“男”が打ち放った拳の軌道が僅かにれた。

 結果、楓は“男”の右正拳逆突き(ストレート)なすことに成功する。だが、柄を握る右手に伝わってくる衝撃は尋常ではなかった。

 つまり、それ程の破壊力を有しているという証拠に他ならず、中途半端な防ぎ方では容易く命を刈り取られてしまう。


 思わず手からナイフを取り落としそうになるが、再び柄を握り直す間も無く、楓は咄嗟に次撃を察知し備えねばならなかった。

 “男”が連続攻撃コンビネーションで、正拳突きからの左鉤突き(フック)を仕掛けてくる。

 ぶんっという風切り音と共に襲来するその左鉤突き(フック)を、楓は膝を柔らかく使って上体を深く沈め、髪の毛を数本散らせながらもギリギリでしのぐ。ダッキングという防御技術であった。


(くそっ、速過ぎる。これでは……!)


 凄まじい打撃の連続に、身の毛がよだつ思いを楓は抑え切れなかった。

 捌くにも往なすにも、そして全ての回避動作に伴う負荷が、楓の小さなからだに悲鳴を上げさせていた。

 更に“男”の皮膚組織は、未知のウイルスによる感染によって変貌・硬質化しており、軽く当てた程度ではナイフの刃が通らない強度を有していた。

 それ故、先程のようなナイフで防御を行い、刃先で敵の肉体に損傷ダメージを蓄積させるという戦術を取ることは不可能であった。


 姿勢を沈めた楓の頭部を狙って、“男”が左膝を見舞う。

 反射的に楓が後ろに飛び退き、すれすれでそれをかわす。

 冷たい戦慄せんりつが、楓の血液を沸騰ふっとうさせる。


(さっさと隙を見せろ、この化け物野郎……!)


 瞬く間に削られる体力に、楓は動揺を禁じ得なかった。

 明らかにジリ貧の状態が、楓の脳髄をいていた。

 そして、このまま続けば“男”の打撃が楓を捉えるのも時間の問題である上に、相対する存在が感染者ゾンビであるという事が、より精神的な負担をいていた。


 何故なら相手がどれほど異質・異端であろうとも、それが感染者ゾンビである以上、素手での接触は非常に危険リスクを伴うからだ。

 いや、そもそもの話、感染者ゾンビに対し近接戦闘を挑むこと自体が酷くナンセンスなのである。

 何故なら、弓や銃といった遠間からの射撃以外の戦いでは、感染した人間の噛み付きや引っ掻き等といった直接攻撃による経皮感染の危険リスクが圧倒的に高く、例え戦いそのものに勝利できたとしても、己が感染しては本末転倒もはなはだしいからだ。


 拳。

 再度ナイフを使って受け流す。

 蹴り。

 体を投げ出し、転がるように回避。

 手刀。

 肉体の限界を無視した体捌きで防御。

 肘。

 必死に間合いを離す。

 膝。

 死に物狂いで防ぎ、逃げる。


 ラッシュが止まらない。

 絨毯じゅうたん爆撃のような怒涛どとうの連撃が、休む間もなく楓に降り注ぐ。

 その上、それら全ての打突には凄まじく危険な破壊力が秘められており、卓越たくえつした技巧ぎこうから成る各動作には、隙というものが微塵みじんも無かった。


「――ぐ……ッ!」


 それは一瞬の出来事であった。

 とっくの昔に体力は限界を迎えているにも係わらず、それを気力で奮い立たせて無理矢理に動き続ける楓であったが、疲労と疲弊及び、骨折を免れたとはいえ体に刻まれたダメージの負担から、回避最中に突然膝の力が抜けてしまい、体勢を崩してしまったのだ。

 ほんの些細な失態ミス

 されどそれは、極限の中の死闘において、決して許されない失敗であった。


 打撃が来る、という危機感が楓に焦りをもたらす。

 だが次の瞬間、拳や蹴りとは違う、もっと恐ろしい何か(・・)の攻撃を楓が鋭敏な直感にて探知し、脳内に最大限の警報アラートとどろかせた。

 危険が空間を軋ませる中、楓は体中の神経が収縮するの感じながらも、全集中力を用いて緊急回避を実行する。


 ガチッ! という、おぞましい音が楓の鼓膜を震わせる。

 閃光じみた速度で襲い掛かるそれは、限界まで口が開かれき出しとなった歯であった。

 そして音の正体は、咬み付きが空振りに終わり、勢いよく閉じ合わされた歯が鳴らしたものだった。


(こいつ――!?)


 恐怖により、全身の毛穴からどっと冷汗が噴出す。

 これまでの練り上げられた空手技から一転したその猛獣じみた咬み付きは、完全に楓の虚を衝くものであった。

 ただし、これが故意なのか、それとも感染した者特有の攻撃衝動が無意識に取らせた行動であるのかは、楓には判別がつかなかった。

 もっとも、後ほんの少しでも横っ飛びに避けるのが遅ければ、楓は首筋を喰い破られて血飛沫ちしぶきを周囲に撒き散らす結末を迎えていただろう。


 “男”が口腔からグルルゥッと獣じみた唸り声を発しつつ、再び楓を咬み裂こうと前のめりとなった姿勢を即座に入れ替えようとする。

 しかし逆にそれがあだとなってしまい、“男”の挙動に大きな隙が生じていた。


 抜群の技倆ぎりょうと破壊力を誇る“男”の空手技は隙が皆無である反面、それが技術体系された動きであることから楓は先読み出来ていたが、対して動物的本能に則した咬み付き攻撃の場合は、奇襲という意味でも非常に読み辛く、極めて危険であった。

 こと白兵戦において咬み付きは有用な戦法であり、現に楓の身に危機的状況をもたらしたがその反面、モーションの大きさから一瞬の隙をも生み出していた。

 そしてそれは楓にとって、真に最後となる反撃を行う好機チャンスを同時に意味していた。


 そう、これこそまさに楓が待ち望んでいた乾坤一擲けんこんいってきの瞬間であり、生き残る為の最終手段に打って出る機会でもあった――


 瞬息、楓が両膝を軽く曲げた後、一気に跳躍する。

 空中技を放つのに、最適な間合いと間隙かんげきを確保できたが故の動きであった。

 地を蹴った楓の体が空中で独楽こまのように高速回転(スピン)し、右脚が大きな弧を描いて跳ね上がった。

 跳び後ろ廻し蹴り。回転の勢いを借りた楓の右踵が、頭部の急所である“男”のかすみ――こめかみを狙って放たれた。


 びゅんっと、空を切り裂くほどの凄まじい速度の蹴りであったが、しかしそれは不発に終わる。

 何故なら、大気の流動を知覚し、尚かつ超人的な反射神経を誇る“男”が上半身を反らして、飛んで来る廻し蹴りを鼻先でかわしたからであった。

 一瞬の隙を衝いた反撃カウンターであったのだが、“男”はそれを完全に見切って回避を成し遂げたのだった。

 だがそれに構うことなく、楓は更に動きを加速させる。


 刹那に【念動力】を発動。動作の補強を実行。

 それにより、更に身体の回転スピンが強化する。

 楓が素早くたいひねり、空中でそのまま左の廻し蹴りへと繋ぐ。

 右足による跳び後ろ廻し蹴りを放った後、楓自身がまさに旋風と化して左足の廻し蹴りを連続で放ったのだ。

 “男”の首を薙ぎ払うかの如く放たれた、飛燕ひえんの凄絶な二連脚であった。


 だが、どちらの蹴りも空を切る。

 当たらない。

 異能の身体操作を発動し更に間合いを深くした二撃目の空中蹴りすらも、範囲と軌道を正確に見切った“男”が僅かに後方に身を引き、楓の蹴撃をかわしたからである。

 それは、楓がどんなに精神集中や【念動力】を用いて運動機能の強化を図ったとしても、“男”との力量差の『壁』を決して打ち破れないという、非情な現実に相違なかった。


 その現実にかんがみれば、最早打つ手なし。完全に詰みだ。

 大技の二連撃を避けられた今、楓が取れる攻撃手段は残されていない。

 傍目はためから見れば、まさに終わりを予感させる瞬間であった。

 絶望的な結末。そして凄惨な災厄が、この場に居合わす生者全員に降り掛かるのは最早時間の問題であった。


 ――但しそれは、このまま終わればの話ではあるが。


 この機を楓はずっと狙い、待ち望んでいた。

 “男”の咬み付き攻撃の隙を衝き、楓が反撃カウンターで放った二連の跳び廻し蹴りは、全てはったり、虚勢ブラフに過ぎない。

 これ見よがしの曲芸じみたこの動きこそが、死闘に終局を告げる為の布石。

 只でさえ残り少ない体力を削りながらも、えて大仰おおぎょうな技を繰り出すことで、“男”に『防御』ではなく『回避』の心理を誘い出したのだ。

 つまりは、派手な蹴り技が目くらましと効果的な心理状態を同時に生み、敵を狙い通りに動かすことに成功したのである。


(ここだッ!!)


 胸中で楓がえる。

 瞬時に【念動力】を発動。

 わざと空を蹴り抜いて“男”に背を向けた状態から、一気に地上へと下降。

 狙う着地点は“男”の出足――つまり、前に出ている左脚だ。

 そして楓の四肢が、蛇のように“男”の太い足へ巻き付く。


 今度は“男”の方が、楓の奇襲によって虚を衝かれて対応が遅れた。

 その意識の空隙をうような形で、楓の身体が“男”の脚に巻き付いた状態にて、まるで車輪の如く前方へと回転運動する。

 【念動力】の助力を得た、相手を巻き込んでの壮絶な前方回転は、ロシアの格闘技であるサンボの技、回転ビクトル式膝十字固めの仕掛けに酷似したものであった。


 風車と化した楓の小柄な体躯が、最強の捕食者たる“男”の強靭な足を巻き込みながら、高速で前方向に転がる。

 片足を取られてバランスを崩した上に、更に楓の全体重と勢いを乗せた回転運動は、“男”を見事に前のめりの体勢で転倒させることに成功した。

 これが格闘技の試合であれば、相手がうつ伏せとなった状態から馬乗り(マウント)首絞め(チョーク)関節技サブミッションといった動きに入るのが常道であるのだが、今は勝ち負けを競う試合などではなく殺し合いに他ならない。


 それ故に、今楓が最優先で行わなければならないのは攻めではなく、密着した“男”からの咬み付きや寝技グラウンド状態での打撃を食らわないよう急いで脱出を図ると共に、精一杯声を張ることであった。

 敵の動きを一瞬だけ封じて隙を作り出すと、約束した相手に向けて。

 意見も聞かず、独断専行で戦い始めてしまったことに対しても、何の文句も言わず楓を心配してくれる人物に対して。



「―――達也・・ッッ!!!」



 後悔や謝罪、そして不思議な期待感が、楓に唯一の味方の名前・・を叫ばせていた。

 素人で凡人、会話をすれば奇妙なことを言ったり、幼い容姿の楓に欲情の目を向ける変態気質の若者――宇賀達也。

 それと同時に、己のことを好きだと高らかに宣言する、愚かなまで優しく、馬鹿みたいに誠実な男の名前・・を楓は無我夢中で呼んでいた。

 出会ったばかりのはずなのに、いつの間にか一緒に居るのがごく当たり前になりつつあり、それと共に、気持ちに何とも言えないようなむずかゆさや、ほのかな温もりを感じてしまう達也という名の存在に、楓は初めてすがった。


 最強を自負し、その通り凄絶な圧倒的力量を有する捕食者の“男”は、うつ伏せに倒れた状態から両手を床について速攻で起き上がろうとしていた。

 今はまだ四つん這いに近い体勢であるが、無論ここから完全に立ち上がるまでに所要する時間が文字通り一瞬でしかないのは、誰の目から見ても明らかだ。

 しかしそれでも、この状態はこれまでの戦いの中でかつてない程の大きな隙であり、楓と達也の抵抗する者達にとって最初で最後、そして最大の好機チャンスを今まさにもぎ取ったのである。



 そして死闘は、最後の局面を迎える―――


















前話で次は決着と書きましたが、紆余曲折を経た結果、めちゃくちゃ長くなったので死闘編を前・中・後の三つに分けました。

相変わらずの遅さで申し訳ありません。三月、四月はやれ異動だ新年度だと忙しくなってしまい、ついつい執筆も停滞しがちになってしまい、待って下さる読者様には本当に申し訳ございません。

せめて後編はなるべく早く書き上げて投稿したいと思いますので、楽しみに待って頂けると嬉しいです^^

今度こそ次話で決着がつきますので、何卒宜しくお願いします!

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