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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
15/36

第14話 「死闘・前編」

 




 気分が高揚こうようしていた。

 期待感が心を弾ませていた。

 それはある意味で、欲情にも似た心焦がれる感情のかたまりであった。


 たった今、腰元に帯びた鞘からナイフを抜き放った少女を目の当たりにしながら、俺はこれから訪れるであろうその時(・・・)を想い、心が悦びに満ちあふれていくのを感じていた。

 最初に狩った男みたく、俺から必死に逃れようと走る哀れな獲物を易々と捕まえた後、生きたまま存分に肉体を破壊し貪り喰う行為は、とても愉しい。

 絶望に彩られた獲物の断末魔が、俺の喜びと欲求を大いに満たしてくれるが、その反面、手応えの無さに多少の物足りなさはあった。

 だがそれに比べて、今目の前にいる少女は文句なしに最上級の獲物だ。


 肩口で綺麗に整えられている、美しいその黒髪も。

 切れ長でぱっちりとしたアーモンド型のまぶたから覗く、意志の強さを宿したその漆黒の瞳も。

 幼いが、鼻筋の通った小作りなその美しい顔立ちも。

 透明感のある白肌で構成された、その未熟で華奢きゃしゃな肢体も。

 そして、その小さなからだを包んでいる、殺伐としたこの空間には場違いであるものの、しかし少女には良く似合っている濃紺のメイド服も。

 それら全てが美しく、そして気高い。


 しかしそれ以上に俺を大いに驚かせ、同時に予期せぬ悦びをも与えてくれたのは、少女が有する高度な身体能力と判断能力だ。

 後もう少し、少女の接近に俺が気付くのを遅れていれば、尋常ではない速度で投げつけられたドライバーを避けるのは不可能だった。

 加えて、顔面に迫ったドライバーを何とかかわした直後、本気ではなかったものの即反撃に移った俺の右足刀蹴りと左鉤突き(フック)を、少女は確かに両方とも回避したのだ。

 しかも極めつけは、少女が信じ難い速度と威力を有するカウンターの胴回し回転蹴りを、俺に仕掛けるというオマケ付きで、だ。


 これが悦ばずにいられようか。

 未成熟ながらも見た目麗しい少女が、怯まずそして躊躇ちゅうちょすることなく、持ち得る全ての能力を最大限に発揮して俺を殺そうとしているのだ。

 その優秀な決断力と行動力は、まさに称賛に値する。

 大人しそうな外見とは途轍とてつもなく掛け離れた実力もまた、より少女の存在を魅力的に際立たせている。

 率直に言うと、俺は出会ったばかりの少女に愛おしさすら感じていた。


 ――アア、サイコウダ。


 ならばこそ、ある時を境に“最強”となったこの俺が、最大の敬意と最高の愛情を示して少女を徹底的に蹂躙じゅうりんし、その存在全てを根こそぎ喰らい尽くしてやろう。

 すっきりとした輪郭に整っているその綺麗な顔を、苦痛と絶望に歪ませてあげよう。

 きめ細かく、新雪のような色白の素肌に歯を突き立て、その甘そうな柔肉と温かな臓腑ぞうふを思う存分に味わわせて頂こう。

 そのささやかに膨らんだ乳房を、その小振りで形の良い魅力的な尻を、抜けるように白く、そして美しく形作られたスレンダーな首筋や手足といったその身の全てを、丹念に丁寧に一欠けらも残さずに食してやるのだ。


 ――オマエヲ、ムサボリクッテヤル。


 例え少女が、どれ程の高い格闘能力を有していたとしても。

 例え少女が、あらゆる武器や手段を尽くしたとしても。

 例え少女が、刺し違えてでも俺を殺そうと覚悟を決めたとしても。

 様々な動作の際に生じる大気の流れや大地の震動といった、およそ常人には知覚不能な自然現象を察知する異能に加え、高度に発達し鋭敏化した五感と超人的な運動機能を発現させた俺に勝つことなど、絶対に無理なのだ。


 ――オレハサイキョウデ、ダレニモマケナイ。


 さあ、俺をとことん愉しませてくれ。

 必死に足掻き、生き延びようと知恵と勇気を振り絞ってくれ。

 オレの“最強”を肯定するために、オマエの“強さ”を否定させてくれ。

 狂おしい程に高まるオレの感情を、オマエが全力で受け止めてくれ。

 食べたい、喰いたい、お前の全部を壊したい。

 タベタイ、クイタイ、オマエノゼンブヲオカシタイ。


 ――ゼッタイニ、ノガサナイ。


 もう、ガマンの限界だ。

 殺すコロさないで頬をくいちぎって頚動脈をかみちぎって血をのんで頭をわって脳みそをかきだしてすすってお腹をさいて内蔵をかきだして丸のみして手足をもいで肉をねこそぎしゃぶりつくして痛めつけてくって優しくたべてこわしてくっテたベてクッテたべてくってタベテこわしてぴゅーとふきだす血をごくごく飲んでバラバラにして遊んで犯してたべてたべてくってくってたべてたべてくってくってタベテタベテタベテクッテタベテクッテクッテクッテ、おまえをオマエをオまえヲおおまえぇえをぉをを。

 ぶち殺して喰い尽してやる。



 では、狩りの再開といこう―――





 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





(クソッ、こいつは一体何だ!?)


 焦燥する心中にて悪態をつきながらも、黒崎楓くろさきかえでは脚の可動域を上げる為、鞘から抜き出したサバイバルナイフでミニワンピースのすそ部分に切れ込みを入れていた。

 そして楓は、はち切れんばかりとなっているTシャツから覗く、圧倒的な量感の筋肉が映える容貌魁偉ようぼうかいいの捕食者たる“男”から間合いを取り、相手を注視したままの状態にてナイフを器用に使い、スカートとなる場所にチャイナドレスのようなスリットを完成させる。

 酷い緊張が楓をむしばみ、総身に冷や汗をにじませていた。



 楓と宇賀達也うがたつやの二人は、人間を襲って食べるという、まさに悪夢を具現化させたような感染者ゾンビおびただしく跋扈ばっこする危険な外をどうにか切り抜けて、ようやくスーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』へと辿り付いた。

 しかしほっとしたのも束の間、くだんの店舗の売り場内において、楓と達也よりも先に避難していたと思われる生存者の男性が、感染者らしき“男”に襲撃され喰われているという事態を目撃する羽目はめとなった。


 その時、只ならぬ雰囲気をまとう捕食者の“男”に対し僅かな忌避感を抱いた楓であったが、諸々の事情を考慮した結果、楓は現場からの離脱より眼前の“脅威”を排除することを決めたのであった。

 決断するや否や、楓は相手の虚をいて狙撃を行った。自身の腰に巻きつけた工具用ポーチに在中しているプラスドライバーに【念動力】を付加し、それを投擲とうてきしたのである。


 だが、結果は失敗。

 しかもそればかりか、瞬時に楓の存在に気付き肉薄してきた感染者の“男”から、蹴りと拳打フックの反撃を受けたのである。

 その反撃に関しては辛うじて避けることに成功したのだが、しかし一瞬の攻防の中でカウンターを取ろうとした楓の攻撃は、難なく“男”にかわされてしまう結果となった。

 それら事実に対して楓は、焦りながらも即座に“男”から何とか距離を置くことに成功し、驚愕と戦慄の眼差しを異端極まる相手となった“男”へと向けていた。



 敵対する脅威の感染者ゾンビである“男”の挙動に注意しながらも、楓はちらっと横目で達也の方を盗み見た。

 すると、商品陳列棚の陰から身を乗り出して、今にも楓の下に駆け出さんとしている達也の姿が見え、その顔に色濃く不安と焦燥が表れているのが見て取れた。


(ちっ、これ以上モタつくような醜態しゅうたいさらせば、間違いなく宇賀の奴が飛び出してくるだろう。だが、もしそのような事態に陥れば、今より更に状況が悪化するのは明白だ。先程の奇襲が失敗に終わったのはかなり厳しいが、後は力攻めで押し切るしか手段はあるまい。問題は脆弱ぜいじゃくなこのからだが、無茶な駆動と【念動力】の酷使に耐え切れるかどうかだが……)


 懸念けねんが頭をもたげるが、しかしそれは楓を見下ろすようにそびえ立つ“男”が、ゆらりと動き始めたことで終止符を打たれた。

 圧倒的な質感を誇る“男”の体躯たいくから、喜悦を内包する妖気じみた陽炎が立ち揺らめいているのを楓は幻視する。

 それに加え、どす黒く変色し尚かつ細いのような筋が面貌全域に張り巡らされている“男”の口角が、獰猛どうもうに吊り上がっているのを目の当たりにしたことで、楓はそれまで漠然と抱いていた疑念の正体を突き止めたのだった。


(こいつ……今の状況をたのしんでいる、のか? もしかすると意識や思考のようなものが、この“男”には未だ残っているのかも知れん。しかしそうだとすれば、想像以上に厄介な相手だぞ、これは)


 仮に、全ての状況を明確に理解した上でこのような凶行に及んでいるのであれば、それはつまり、超人的な身体技能を有した上に自らの『意思』を持った感染者ゾンビとの死闘に、楓が挑むという事実に他ならない。

 たった数打の攻防戦であったが、それでも楓は“敵”の技倆ぎりょうに対して戦慄を禁じ得なかった。

 楓の姿を真っ直ぐに捉えている禍々(まがまが)しきくれないの双眼が、悠然とした足取りと共に迫る。


(だが、やるしかない……!)


 楓の額には、汗の粒が既に幾つも浮き出ていた。

 右の順手に持ったナイフを突き出すような形で、やや右半身となりながら腰を沈めて重心を落としている楓に向かって、捕食者の“男”は無造作に距離を潰していく。

 間合いが詰る。

 “男”が何の警戒心も無く歩き、やがてナイフを把持している楓の間境まざかいへと踏み込んできた。


 仕掛けの境界線というべき間境を相手が越えた時、即ちそれは、己が技の理合の範疇はんちゅうとなる。

 故に、楓の小柄な体躯が発条(ばね)仕掛けの如く、瞬発する。

 相手とのリーチ差は如何いかんともし難がったが、それでも把持する刃物ナイフがその劣勢を僅かにでも挽回ばんかい出来ると踏んだ、楓の突貫であった。


 前傾姿勢で“男”の懐へと飛び込みながら楓は、同時に精神集中も行う。

 身体の隅々まで意識を冴え渡らせ、アドレナリンなどの脳内物質の分泌を促し全ての活性化を強くイメージする。

 【念動力】の行使とはまた違う、かつて己という存在が『研修所』の執行者であった“黒崎諒くろさきりょう”の時に会得していた、精神集中・・・・による肉体活性法・・・・・

 だがこれは、自分の意思によって潜在的能力を一時的に発揮、運動機能の向上が望めるも、引き換えに肉体に掛かる負荷が莫大な為、一種の博打的要素が強い上に、“楓”の肉体では持久力がはなはだしく脆弱である事から、“黒崎楓”はこれまでそれ(・・)を使用するのを控えてきた。

 ましてや【念動力】も併用するとなると、戦闘継続時間は恐ろしく限られてくる。


 しかしそれらを踏まえても、楓はそれらを断行せざるを得なかった。いや、正確に言うとそこまで追い込まれていたのだった。

 たった数合、されど楓はその僅かな攻防戦の中で、眼前の“男”が己よりも強者であることを正確に見抜いていた。

 であれば、出し惜しみする理由など皆無。最初はなっから全身全霊で挑むより他に、活路は見出せない。


「ふっ!」


 楓が鋭く呼気を発しつつ、右足を一気に踏み込む。次いで低い姿勢から、右手に持ったナイフを足元――右膝を狙って一閃させた。

 相手の動きを封じる為の斬撃。

 全ての動作の基点となる膝を狙うのは、格闘戦における定石である。

 意識の集中化による身体機能の底上げから発現される疾風じみた突進と、そこから繰り出された楓の一文字の横薙ぎは、まさに凄絶の一言に尽きた。

 だが刃が、狙った膝へ到達する前に、


「ッ!?」


 刹那、圧倒的な危険信号が楓の総身に警告を発した。

 瞬時に【念動力】を発動し、常識では決して不可能な身体作業で緊急回避に入る。

 不意に悠然と動いていた“男”の脚がブレるのを知覚した瞬間、それが楓の頭部に向かって飛んできた。

 右の前蹴り。膝を即座に抱え上げるや否や、続いて靴の爪先で鋭く蹴ってきたのである。


 しかし楓は、カウンターで放たれたそれを、どうにかギリギリで避けた。

 異常に鋭い“男”の前蹴りを、楓は【念動力】を発動して攻撃中であった動作をタイムラグ無しで強引にキャンセルし、からだを左真横へと跳躍させたのである。

 ぞっとする思いを抱えながら、楓は相手の攻撃にナイフを合わせるような仕掛けが、やはり不可能である事も同時に理解せざるを得なかった。

 何故なら、“男”の動きの起こり(・・・)及び軌道が反則チート的なまでにはやく鋭いことから、楓の反応速度がそれに追いつけないからである。


(――だが、それでもッ!)


 楓は止まらない。いや、止まれない。

 理由は単純明快。躊躇ためらい、動きを止めれば、その時は瞬く間に死の運命が己を吞み込むからだ。

 “男”の前蹴りをかわした直後、楓は【念動力】で姿勢制御を継続しつつ、空中で素早くからだひねって左の上段廻し蹴り(ハイキック)を放つ。

 無論、念動の付加したことによる【衝撃波】をまとった反撃の蹴りだ。


「しっ!」


 左の蹴り足がしなやかに伸び、旋風の如きはやさで脅威の捕食者である“男”の右側頭部へと迫る。

 絶妙なタイミングで放たれた楓の壮絶な上段(まわ)し蹴りは、未だ動作後の硬直が解けていない“男”には防ぐことが出来ないはずであった。

 衝撃。

 次いで異様な手応え。

 通常の人間もしくは感染者ゾンビの人体強度ならば、筋肉が陥没し骨がひしゃげるだけの威力を秘める【衝撃波】を伴った打撃がまともに入れば、間違いなく無事でいられる訳がない。


(なっ……!?)


 だからこそ、楓は驚愕する。

 硬直中の体勢から瞬時に動いた“男”が、楓の廻し蹴りから頭部をかばうように折り畳んだ右腕を上げて防御ブロックしている事に。

 そして、小爆発にも等しい【衝撃波】をはらんだ楓の蹴りが炸裂しても尚、“男”の異形たる肉体が損壊していない事に。

 だがそれでも“男”の巨躯きょくは、防御ブロックした右腕にみしぃっというきしみの音を立てさせながら僅かにかしいだ。

 体勢を崩した敵の姿を視認した楓が、更に追撃をと直ちに思考した瞬間、


 ――楓の脳裡のうりが、濃密な『死』を感知した。


 研ぎ澄まされた楓の感覚が、“男”が取ろうとしている次の動作を先読みし、即座に防衛行動へと移るよう命ずる。

 相手の筋肉の動きから、攻撃の種別を判別。

 相手の重心の掛け方から、軌道の方向性を予測。

 そして楓は、敵が左の正拳逆突き(ストレート)を放とうしているのだと、絶望の中で知覚した。


「っ、くッ――!」


 楓の両足は、未だ宙を浮いたまま着地していない。

 故に、不自由な姿勢では体(さば)きによる回避及び、位置取りの関係で【念動力】の行使による緊急回避すらも不可能だった。

 結論。敵が打ち放つ凶暴な左拳の射程圏内から、身をかわすべは無し。

 であれば、残る手段は只一つのみ。つまり、防御ガードするしかないという事だ。

 但し、それを防ぎ切れる依然に、防御ガードが間に合うのかどうかも怪しかった。


 ぼっ、という風切り音。

 それはまさに神速と呼ぶに相応しい、猛烈な左正拳逆突き(ストレート)であった。

 凄まじい威圧感を誇る、“男”の太くたくましい豪腕に加え、腰の回転並びに体重を乗せたキレの有る打突を、もしまともに受ければ致命傷は避けられない。

 そして小柄かつ華奢な体躯の楓では、仮に完璧に防御ガードが間に合ったとしても、圧倒的威力の突き(パンチ)の前では守りごとぶち抜かれて、紙屑同然に潰されるのがオチだ。

 故に楓は、【念動力】を用いて一か八かの賭けに出る。


 瞬時にイメージを構築。

 強く、濃く、印象深く、灼熱と化した思考回路を楓は更に加速させる。

 その結果、敵を破壊・押し潰す【衝撃波】とは真逆となる、敵の攻撃を遮断する【盾】をという障壁・・を具現させるに至った。

 つまり、【念動力】という超常現象が空気中の分子レベルにまで干渉を行うことで、楓の身体を保護する為の小規模フィールドが【盾】として構築されたのだ。

 突如出現したそれ(・・)が、対峙する二人の間を隔てる。


 剛槍を彷彿ほうふつさせる重量感と破壊力を有した必砕の左正拳逆突き(ストレート)が、うなりを立てて楓へとはしる。

 しかしその前には、物理的運動を阻害する常識を逸脱した結界バリア状の【盾】が、楓を守護する為に展開されていた。

 歪んだ空気の塊のようなものが、“男”の左拳の進路を妨害。速度並びに威力を殺す。

 だが、動きを完全に止める程の強度は【盾】には無く、その結果【盾】はもろくも弾けてしまう。そして……、


「――づッ!」


 嗚咽おえつじみた声を漏らす楓の腹部には、男の拳がめり込んでいた。

 それと同時に、楓の視界に映る景色が真後ろへと流れる。

 およ強靭きょうじんとは言い難い細く小さい楓のからだが、風にあおられた枯葉のように後方へと吹っ飛ばされていた。

 それでも楓は、周囲から音が消失し、意識が遠のきそうになりつつも無我夢中で姿勢制御を行い、四肢でもって床へと着地することに成功した。


「ぅ……ぶ、げぇ…あ……」


 地面にうずくまるような姿勢のまま、楓は口腔から胃液を散らす。

 咄嗟とっさに発生させた【盾】のおかげでクリーンヒットは免れたにせよ、しかし“男”の強烈な左拳の打撃は、楓に確実なダメージを与えていた。

 それに加え、【念動力】の酷使及び精神集中による運動機能の強制的底上げは、心身共に深刻な弊害をもたらし始めてもいた。

 限界は、既に目の前まで迫っていた。


(動け、動け、動け……っ!)


 視野が明滅を繰り返す。

 ぜえぜえと、肩で荒い呼吸を繰り返す。

 楓の短身痩躯を支える四肢には、限界を示す、小刻みな震えが間断無く生じていた。

 それでも停滞は即死を招くといやでも理解している楓は、えそうになる気持ちを必死にじ伏せ、無理矢理にでも戦闘を継続しようとするが、意思に反して身体が言うことを聞かない。


 焦りが、疲弊が、絶望が、諦念が、次々と楓の心をむしばむ。

 だが、その時――


「楓ちゃん、危ないっ!!」


 頭上から破滅を伴う何か(・・)が振り下ろされるのと、背後から悲痛に満ちた達也の叫び声が飛んできたのは、まさに同時であった。

 刹那、これまで全く動こうとしなかった楓の躰が、達也の声によって呪縛が解けたかのように、瞬速で稼働を再開した。


「――くッ!」


 “男”が少女の頭を潰そうと、床を割る勢いで大きく足を踏み付けるのを転がるようにして回避した楓は、苦しげな声を上げつつも起死回生の手段を画策し始める。

 ダメージを負った状態の中、更に回復のいとますら与えられぬ苦境に立たされる楓であったが、“男”の攻撃の間隙をいて反撃の流れを瞬時に編み上げた。

 そして、相手からやや距離を取った位置を狙い、楓は前方回転の要領で起き上がる。その時には、全ての計算を終えていた。


 油断か、はたまた余裕の表れか。

 絶対強者たる“男”の所作はあくまでも泰然としており、楓の動きを封じるような素振りは見せなかった。

 また、達也の存在に関しても“男”は、注意を向ける様子は全くなかった。


(その自信が命取りだ。この化け物野郎っ!!)


 体勢を整えるや否や、ダンッという力強い踏み込みで“男”との間合いを潰し、楓は弓のように引き絞った身体から連続攻撃コンビネーションを放つ。

 同時に精神を極限まで尖鋭化させ、意識を埋没させながら身体能力を引き上げる。

 そして集中は成り、全神経と肉体は眼前の敵を駆逐する為だけに極まる。

 長い攻防は不可能。であればこそ、三つの読みに楓は全力を注ぐのであった。


 一撃目――大きく踏み出し、更に左真半身からの【衝撃波】をまとった左開掌打ち。

 水月みぞおちを狙ったこの打撃。

 仮にそれが素手ではなくナイフであったならば、“男”は固めた前腕で防御ブロックするのではなく、受け流していたのは確実であった。


 続く二撃目――強力な【衝撃波】の威力は防御ブロックした腕を突き抜け、“男”の身体にまで浸透する。一瞬、“男”の動きが止まる。

 その隙を逃さず、楓は右に把持したナイフで攻撃――と見せかけて、更に相手の懐深くまで入り込み、一気に跳躍。下方から顎をかち上げる左の飛び膝蹴りを見舞う。

 虚と実を巧妙に織り交ぜつつ、更に死角からの攻撃に対し“男”は、上半身をけ反らすような形……つまりスウェーバックにて回避を行った。

 集中法で底上げした身体能力を最大限に活用した、楓のその凄まじい真空飛び膝蹴りすらも、“男”は避けることに成功。


 そして最後の三撃目――跳躍した空中で、楓は【念動力】による姿勢制御を実行。

 続いてその位置から、スウェーで僅かに体勢を崩した“男”の顔面――死に至る人体の急所である眉間を狙い、身体ごとぶつかるような勢いでナイフの刺突を行う。

 刺突に付加されるのは、【念動力】及び限界以上に引き出された膂力りょりょくと速力の、異端なる二種類の『力』。

 これが、正真正銘であり、楓が本当に狙い済ましていた近接攻撃。

 これが、全ての布石を経て辿たどり着いた、二度目は無い、持てる限りの力を尽くした必殺の一撃。


 紫電と化したナイフの刃が、最強の捕食者を自負する“男”へと迫る。

 速度も威力も、両者共に申し分なし。

 楓の読みが、卓越した予測能力が、ようやく敵を必殺圏内に捉えたのだ。



 やがて刃は、異形の面相に驚愕をにじませている“男”へと吸い込まれていき―――














遅くなりました、本当に申し訳ありません。

私事や仕事のことで色々とあったので、執筆が遅れてしまいました。

また3月は、仕事上で忙しくなってしまうので、只でさえ遅い更新速度がまた下がると思います。

楽しみに待っていて下さる方には、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。

今後も不定期とは思いますが、執筆は続けていきますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

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