第13話 「遭遇戦」
やはり長くなってしまいました。
グロあります、苦手な方はご注意を。
スーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』の売り場へと足を踏み入れた、区立北小泉中学校の女子生徒――高城花音と、彼女の担任教師であり強引かつ支配的な愛情を花音に告げる男――坂本修一は、商品が陳列されている棚の間を歩きながら、店内の様子を隈なく見て回っていた。
だが、店内に設置された陳列棚に並んでいる商品は、どれも無秩序に乱された状態のまま放置され、更に洗浄ワックス掛けされた光沢のある床の上にも、棚からこぼれ落ちた商品が多数散乱しているような有様であった。
「……お店の中、大分散らかっているね」
それらの商品を踏まないように気をつけて歩きながら、花音が前を歩く坂本教諭に声を掛ける。
すると坂本は、歩みを止めずに前を向いたまま返事をした。
「ああ。見た限り、相当慌てて店じまいをしたって感じだな。それでも、あれだけの騒動の中で店が全く荒らされていないのだから、上出来さ。何せここの店長は、外の騒ぎや防災無線から咄嗟に機転を利かせて臨時休業し、店内の客を追い出した後、従業員に命じて店舗の完全施錠を行い、当時の混乱を無事に乗り切った……って、本人がよく他の奴に自慢していたようだが、どうやら噂は本当だったみたいだな」
「ふーん……」
「長い停電の影響で、殆どの生鮮食品や冷蔵冷凍食品なんかは傷んで駄目だろうが、他の商品については大体問題ないさ。これで当面の生活に困る事はないだろうから、後はのんびり救助を待てば良い。それもこれも全部、俺があの店長から鍵を手に入れたおかげなんだぞ。有り難く思えよ、花音?」
「う、ん。先生には感謝してる……」
弾んだ声を発する坂本教諭の言葉を受けた花音だったが、彼女はどうにも歯切れの悪い答えを返すだけで精一杯の心境であった。
というのも、坂本の陰惨で一方的な愛情と劣情が、まだ十五年という未熟な年齢の花音を苦しめているのに加え、前途に対し何ら希望を見出すことが出来ないが故だった。
そして何よりも、坂本が言う“救助”など、果たして本当に来るのだろうか……という不安と疑念が、より一層花音の心を重たくしていた。
スーパーマーケット一階に所在する売り場内を巡り、一通り安全の確認や商品の状態を点検し終えた花音と坂本教諭は、次いで陳列棚から好みの食品や飲料水を手に取り、早速口に運んでいた。
現在二人は、店舗西側に設営されているテナントベーカリーショップ外の壁際に配されたベンチに並んで座り、休憩がてらに午後四時近くの遅い昼食をとっていた。
ちなみに、花音はチョコレート味のカロリーメイトとペットボトルの紅茶を、坂本は缶ビールにイカの乾物やバター風味のピーナッツなどの酒の肴という組み合わせであった。
「そんなに美味しい? お酒って」
固形のバランス栄養食品をもそもそと食べている花音が、350ミリの缶ビールを美味そうに呷っている坂本へ尋ねた。
すると、あっという間に缶を一本空けた坂本が、ベンチの上に置いてあった二本目の缶に手を伸ばしてプルタブを引きつつ、上機嫌に答えた。
「ああ。空きっ腹のせいもあるが、まさに極上級の美味さってやつさ。今まで碌なモンを口にしていなかったから、こんな安物の缶ビールと肴でも、今の世の中じゃ最高の贅沢品であるのは間違いない。しかも、こうして安全な場所で何の気兼ねなく酔っ払う事が出来るんだから、俺は幸せ者だよ」
「幸せ者、なのかな?」
「当たり前だろ。外をうろつく化け物どもが店に侵入して来る心配はないし、食べ物や飲み物なんかの生活必需品はたっぷりここに有る。それに加え、世の中がこんな滅茶苦茶になった今、くだらんモラルや法律を気にする必要が無くなったんだから、いくらでも好き勝手に振舞える。だから、お前も酒を飲みたきゃ気にせずどんどん飲め。甘いサワー系なんてどうだ?」
二本目も殆どひと息で飲み切り、小さなげっぷを漏らしながら坂本が言う。
その言葉の中に担任教師としての責任感や威厳などは、最早欠片も残されていなかった。
「……ううん、わたしはいいや」
それに対し、花音がその綺麗に整った顔をほんの一瞬だけ顰めるもすぐに表情を元に戻し、更に口元を笑みへと形作って否定の言辞を述べる。
言葉と共に振られた首が、花音のポニーテールに纏められた後ろ髪を左右に揺らしていた。
「そうか、真面目だな花音は」
ちらりと花音に目をくれた坂本が笑みの形に唇を歪ませながら言い、一本目と同様に飲み終えた缶ビールを足下の床に置く。
そして、三本目となる缶ビールを手に取った時、坂本はふと天井へと視線を向けて思い出したように言葉を継いだ。
「こいつはうっかりしていた。そういや、確か店の二階は事務所や従業員の控え室が有るんだったな。取り敢えず、この最後の一本を飲み終わったらそこを見に行こう。何せ、暫くの間はこのスーパーで暮らさなきゃならんのだから、きちんと安全かどうかを点検しないとな」
「うん。でもここに来た時、二階のドアはちゃんと閉まっているのを、わたし見たよ」
「そうだな、それは俺も確認している。パッと見、ドアの破損もない様だったから別に大丈夫だとは思うが、何せ俺と花音が一緒に寝る場所だからな。俺達が安心して愛を育めるよう、特に二階は念入りな調査が必要だろうよ」
「先生とわたしが、寝る……場所?」
坂本の言葉に、花音が呆然とした呟きを漏らす。
双眸にチロチロと粘つくような黒い焔を燈した坂本教諭の視線は、己が受け持つクラスでも美少女に類され、これまでずっと目を付けていた女生徒である花音の血の気を無くした貌に注がれていた。
「ああ、愛し合っている二人が一緒に寝るのはごく自然な話だろ。それにさっきはあんな場所だったせいで、色々と中途半端に終わっちまったからな。二階に休憩室や仮眠室があれば、そこで俺の真剣な気持ってやつをお前にしっかりと教えてやるよ。花音は勿論、俺を喜んで受け入れてくれるよな?」
「わ……わたし、は……」
「何、ちゃんと優しくしてやるから、そんなに心配しなくていいぞ。花音はそういった事は初めてだろ? まあ最初は少し痛いかも知れんが大丈夫、すぐに気持ち良くしてやるよ。それこそ病み付きになるぐらいに、な。だから、お前はただ俺に身を委ねていれば良いんだ。全部、俺が忘れさせてやる」
「…………」
「それとも花音。お前は、俺を拒絶するのか?」
口元に薄笑いをへばり付けてはいたが、花音の瞳を覗き込む坂本の眼差しは妄執に染まりきっており、言葉は酷薄に彩られていた。
そんな坂本の声に、ハッと気付いた花音が慌てて声を発する。
「う、ううん、そんな事ない! わたし、先生とのエ、エッチは嫌じゃない……よ」
ともすれば凍りつきそうになる表情筋を無理矢理に動かして、追従笑いを形作る。
嫌悪に粟立つ肌が花音の心情を如実に示していたが、吐き出される言葉は死にたくないが故の、保身本能を優先させた無惨な答えであった。
その一方で坂本は、花音の言葉に満足げな笑みを浮かべると、
「たっぷり可愛がってやるからな」
熱っぽい息遣いと共に言い、手に持っていた三本目の缶ビールのプルタブを引いた。
缶の蓋が開くプシュッという小気味よい音が耳朶に触れるのを感じながら、坂本のすぐ隣に座る花音は、干乾びた気持ちを抱え、顔を俯かせる。花音にとって坂本は、どうしようもなく恐ろしい存在であり逆らうのは不可能だった。
視点を床に落とす花音の胸中には、なんで……という暗鬱な思いだけが巡っていたが、しかしそんな思いも、突如断ち切られる事となる。
何故なら、坂本が中身の入っている缶ビールをいきなり取り落とし、派手に液体を床へと撒き散らしたからであり。
また、異変に驚いた花音が視線を上げた時、忽然と姿を現した見知らぬ誰かが、自分達が座るベンチからやや距離を置いた場所で静かに立っている事に気が付いたからである。
花音と坂本は、驚愕で声を失っていた。
それは、自分達を凝視しているその見知らぬ誰かが、人間とは一線を隠す極めて危険な“存在”であることを、直感で悟ったが故の絶句であった。
二人の眼前にいる“存在”は、堂々たる体躯の持ち主であった。
身長一八〇センチ半ばを越える高い背丈に加え、筋肉で固められた太い腕や幅広の肩、そして躍動する分厚い大胸筋が薄汚れたTシャツの生地を膨張させている。
一見して頑強な肉体だと分かるその者は、何の変哲もない短い黒髪の下にあるやや平たい鼻梁と、今どきには珍しくどこか無骨な雰囲気を宿した顔立ちが特徴となっている、二十代前半と思しき男性であった。
逞しい太腿を包む擦り切れたジーンズに、ロゴ入りのTシャツという出で立ちは、至って普通の若者の姿である。
但し、着衣から伸びた露出している上半身の肌は、その全てが異常に過ぎた。
まず、顔面や首筋、両腕や両手首といった部位の皮膚上には、大小の紐を何本も束ねたかのような管が幾重にも纏わり付き、それは筋肉質の四肢をより一層太く盛り上がらせていた。
更に、肌の色は全体的にどす黒く染まっているが、その症状は細胞の壊死による腐敗の進行というよりも、未知の何かに侵蝕されて細胞機能に劇的な変異が生じたが故の弊害だと思われた。
「か、感染者……なのか?」
余りにも突発的な出来事に対し、未だ脳が情報を処理しきれていない状態の中で、坂本が引き攣った疑問の声を喉から圧し出した。
無論、坂本の目から見て視界に映じている“存在”が、凡そまともな人間でないことは一目瞭然である。
だがしかし、普通の感染者とは大きく異なった外見もさる事ながら、それ以上に総身から発散させている雰囲気が著しく異なっていた為に、彼は大きな戸惑いを覚えていた。
その戸惑いとは、即ち『知性』の有無であった。
通常であれば、獲物を発見した感染者は間髪を容れずに、おぞましい唸り声を上げて形振り構わずに襲い掛かって来るものである。
獲物や周囲の様子を考慮するような『知性』の発露など、間違いなく皆無であった。
ましてや、まるで己や花音のことを見定めるような目線を向ける行為などは、決して有り得ないのだ。
それだけに、これまでの経験則から外れた常識外の出来事が、より坂本に混乱を与えているのだった。
そしてもう一つの疑問、何故このタイミングで……、という思いもあった。
もしかすると店舗の二階に潜んでいたところに、生者である己らの気配を敏感に察知して降りて来たのかも知れないが、その場合、少なくともバックヤードや売り場内を見歩いている時に出現する方がごく自然であった。
それらを思うと、今の状況は余りにも不自然であり不可解でもあった。
様々な疑問や焦りが、坂本の脳裡を凄まじい勢いで過ぎる。
だがその思考も、ひっそりと佇み沈黙を保っていた闖入者たるその“存在”が二人の居る方へと歩を進めた瞬間、全て霧散した。
「ひっ……!」
坂本の隣で、恐怖に慄いた花音が短い悲鳴を上げる。
その声を耳にした坂本は、「チッ!」と盛大に舌打ちしつつベンチの脇に立て掛けていた木刀を手に取り、次いで弾かれるように立ち上がった。
剣道の有段者である坂本が背中に厭な汗を滴らせながらも、流れるような仕草で正眼に木刀を構えた。
一方、その動きを見た異端なるその“存在”は坂本を標的と見定めたのか、悠然とした足取りで遅滞なく間合いを詰めて来る。
木刀を把持した自身の力量に疑いはなかったが、それでも意思を悉く喪失した白濁の双眼ではなく、底知れぬ禍々しさを帯びた真紅の眸と、迫力ある体躯から放たれている威圧感を伴った鬼気を宿す“存在”の前に立った坂本は、酷い心許なさを感じていた。
そして同時に坂本は、今更ながらようやく明確に理解することが出来た。
最早打ち込みが可能な距離まで迫って来ているその“存在”は、外に蔓延っている化け物と同類か、それ以上の危険な“敵”であるとの認識であった。
「しゃッ!」
体中の血が冷えるのを感じながらも、坂本は鋭い気合を迸らせて脅威となる“敵”を迎え撃った。
木刀を大きく振りかぶり、右足を大きく踏み込む。
瞬息、“敵”の頭めがけて木刀が振り下された。
渾身の正面打ちであった。
相手は坂本より上背があるとはいえ、両腕を伸ばし、手の内を十分に利かせた面打ちならば、容易く頭を叩き割るぐらいの威力は有していた。
だが“敵”は無造作に歩み寄るだけで、後退も、左右に捌こうともしない。
所詮は虚仮威しか、と坂本がほくそ笑んだ刹那、木刀は見事に“敵”の頭部へと吸い込まれていった。
鈍い衝撃が、木刀から手首に伝わる。
坂本は眼前で起こった光景を、信じられない思いで呆然と見詰めていた。
素早い踏み込みに加え、刃筋が活きたキレのある正面打ちは咄嗟の行動であったのにも係わらず、素晴らしい手応えを坂本は感じていた。
並の人間なら――否、どんな屈強な者でもまともに入れば、確実に打ち倒す程の凄まじい打ち込みであったが、しかしそれは狙い定めた頭部に到達するどころか、その寸前で防がれる結果に終わっていた。
即ち、あっさりと“敵”に木刀を掴まれたのである。
信じ難かった。有り得なかった。
十全に勢いが乗った木刀の打ち下しを見切り、しかもそれを素手で掴もうとするなど完全に狂気の沙汰であるし、それ以前に剣道の段持ちである坂本の面打ちは、素人が闇雲に振り回すような手緩いものではないのだ。
それだけに、下手に受け止めれば骨折などの怪我は免れない筈であるが、相手にそんな様子は微塵も見受けられなかった。
いや、そもそも感染者にそんな真似が出来るなど、坂本にとっては完全に理解の範疇を超えた出来事であった。
戦慄が坂本の背筋を貫き、時間に僅かな空白が生じた時、“敵”は実に何気ない所作で掴み取っていた木刀を握り潰した。尋常な握力ではなかった。
ベキバキッという乾いた音を立てながら、唯一の武器である木刀が粉砕される様子を、坂本は驚愕と絶望の表情で見ていた。
樫の木刀を折り、砕いている圧倒的な力量を有する存在の“敵”が、深淵の紅い眸をぎらつかせて坂本へと眼差しを据えていた。
そして坂本は、人間離れした面相の中に浮かぶ二つの眼の中に映える酷薄無惨な色を知覚し、ぞっと総毛立った。
理屈よりも先に、本能がそれを瞬時に理解してしまう。
否応なしに、自分という矮小な存在が、獲物を狩る捕食獣の如き相手の生贄であるという事実を。
最早、限界であった。
坂本は迷わず選択する。
端的に述べるならば、それは本性という人間の原形質を剝き出しにした、己のみを救おうとする無慈悲な行動に他ならなかった。
「……えっ?」
掠れ消えそうな驚きの声は、花音が発したものであった。
一瞬何が自分の身に起きたのか、花音には理解することが出来なかった。
ただ彼女が気付いた時には、脅威の化け物たる“男”が立っている前の床に、己が引き倒されているという現実のみであった。
見下ろす“男”の朱に底光りする双眸に射抜かれ、身体が完全に硬直してしまっている花音は、徐々に今し方あった出来事について記憶を再生させていた。
それは、化け物の“男”に立ち向かうもこれは敵わぬとみた坂本が、いきなり“男”に背を向け、ベンチから立ち上がって事の成り行きを見守っていた花音の方に向かい駆け出してきたのである。
走り寄って来た坂本が花音の腕を掴んだ当初、彼女は坂本が自分を連れて逃げようとしているのだと思い込んでいた。
花音に対するこれまでの坂本の偏愛、執着ぶりに鑑みれば、それは無理もないことであった。
だがそれは違った。
坂本は自身が生き延びる為に花音の腕を強引に引っ張り、化け物の“男”が立っている場所の方へと引き倒したのだ。
つまり坂本は、花音を置き去りにするどころか、身代わりとして利用したのである。
自分だけが助かる為の、狡猾で残酷な仕打ちであった。
そして今花音は、坂本の攻撃など歯牙にも掛けぬ不気味な迫力を宿す、極めて特異な感染者と思しき“男”を見上げながら、死の恐怖に打ちのめされていた。
カチカチと歯の根に音を刻みながら、花音は恐慌に全身を震わせていた。
命乞いの言葉や悲鳴を上げることはおろか、自分を見捨てた坂本のことを醜怪だと思う余裕すらなく、重い痺れが心を蝕んでいた。
すると、蛇に睨まれた蛙の如く硬直したままとなっている花音の目前で、やにわに“男”が動いた。
その瞬間、花音は反射的に頭を抱え、更にぎゅっときつく瞼を閉じる。それは身に迫る絶望からの現実逃避でしかなかった。
弱肉強食の理そのままに、本来であれば憐れな少女は捕食される運命から逃れることは、決して叶わぬ筈であった。
だが次に起こった出来事は、花音はおろか坂本でさえ想像すらしなかったものだった。
「ギャアアァアアァアアアァアアァッッッ!!!」
耳を塞ぎたくなる程の凄まじい絶叫に花音が面を上げて目を見張った時、そこに絶対強者たる化け物の“男”の姿は無く、更に声は背中の方から届いていたことから慌てて首を巡らした。
そして花音は見た、見てしまった。
地獄絵図というものが具現化された、酸鼻極まるその光景を。
“男”は、いつでも捕食できる花音は一旦保留にして、まずは逃げ出した獲物の方を優先的に狩ることを決めたのだった。
故に“男”は、未知のウイルスにより変異・活性化したその爆発的な瞬発力によって坂本を追跡し、瞬く間に目標を捕らえることに成功する。
必死の形相で逃げる坂本を背後から強襲すると、その凄まじい膂力にて獲物の後頭部を鷲掴みにしたまま強引に腕を振るい、一気に地面へと投げ飛ばした。
坂本は受身も取れずに、床へ叩きつけられた。
更に“男”は、坂本が起き上がるのを待った後、今度は強烈な下段廻し蹴りを放って、ふらついている坂本の膝関節を靭帯もろとも粉砕したのである。
花音が聞いた絶叫は、足を叩き潰された際に坂本が放ったものだったのだ。
しかしそれがほんの始まりに過ぎなかった事を、花音はすぐに思い知る。
強いショックのせいで腰が抜けてしまい未だ立ち上がることが出来ない花音は、一生網膜に焼き付いて消えないであろうその光景を目撃してしまう。
即ち、化け物の“男”の手によって、坂本が生きたまま少しずつ、そしてより苦痛を与える為に、敢えて時間を掛けるような解体が行われていく様であった。
坂本の両手の五指が、“男”によってへし折られ、噛み千切られる。
坂本の左右の腕が、“男”によって関節の軟骨や腱を引き千切られ、もぎ取られる。
坂本の腹部が、“男”によって引き裂かれ、蠕動運動する腸が引きずり出されて喰い千切られる。
坂本の眼球や鼻や耳が、“男”によって抉られ、噛み砕かれ、次々と欠損部を増していく。
――辺り一面は血の海と化していた。
坂本の断末魔の絶叫と、花音の甲走った悲鳴。
そして、異端極まる捕食者たる“男”の嗤い声。
二つの叫喚と一つの哄笑、それら全部がグチャグチャに綯い交ぜとなり、店舗の売り場内を席巻していた――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――商品陳列棚の陰に身を潜めている黒崎楓と宇賀達也は、固唾を呑んで眼前で繰り広げられているおぞましい光景を見詰めていた。
「か、楓ちゃん。男の人が、ゾンビに殺られているよ……!」
「……ええ、見れば分かります」
店の売り場において、現在進行形で生存者の男性が八つ裂きにされているのを目の当たりにした達也が、酷く青ざめた顔で呻くように言うと、それに対し楓は凍りの美貌を保ったまま冷静沈着な声にて応じた。
楓と達也は、『グレートバリュー練馬小泉店』に設置されている外階段を上がって二階から店舗内へと入る事に成功したのであった。
そして二階にある事務所や、従業員用の休憩室や更衣室などの安全確認をし終えた丁度その時、階下から男の絶叫が響いてくるのを耳にした二人は、すぐさま一階へと降り店舗のバックヤードを抜けて、叫び声の発生源である売り場へと足を踏み入れたのである。
しかしある程度は予想済みであったとはいえ、状況はまさに一刻の猶予もない事態となっていた。
(襲われている男が既に手遅れであるのは確実だが、もう一人の学生らしき女はまだ無事、といったところか)
楓が素早く視線を動かし、状況の把握に努める。
とはいっても、楓に人助けの意思は毛頭なかったので、感染者に襲撃されている生存者の安否など二の次であり、本命は敵となる存在について注意深く観察する事であった。
(複数の感染者が売り場に潜んでいるなら撤退を念頭に置くべきなのだが、見たところ奴は単体で人間を襲っている。……不意を衝けば感染者の一人ぐらい何とかなる、か?)
最早虫の息と化している生存者の男性に馬乗りとなり、その肉体を好き勝手に解体している感染者の動向を注視しながら、楓は僅かに決断に迷っていた。
通常感染者は獲物を見つけた場合、それが複数であれば間違いなく群れを成して襲い掛かって来るのだが、目の前に居るのはどうみても単独だ。
つまりは、この店舗内にうろついている感染者は一体のみという事である。
それならばいけると思う反面、楓の視野に映る感染者の風貌や雰囲気に若干の違和感がある事が、心の片隅にずっと引っ掛かっていた。
それ故に、決断に躊躇していた楓であったが、己を取り巻くあらゆる現状を天秤に掛けた結果、やがて一つの答えを迷いの中から導き出す。
(いずれにしても、“敵”がこちらを認識する前に速攻で斃せば事は済む……!)
即ち、化け物たる“男”の排除であった。
「楓ちゃん?」
「宇賀さんは、この場から動かないで下さい。私があの感染者を始末します」
達也の心配そうな呼び掛けに対し、楓は断定的かつ早口で答えるや否や、返事も待たずに陳列棚の陰から飛び出した。
驚きの表情を浮かべる達也を尻目に、楓は全速力で走り感染者との距離を一気に詰める。
楓と感染者との相対距離は、目測で一〇メートルにも満たないものであった。
駆けながら楓は、腰に巻きつけている工具用ポーチから素早く一本のプラスドライバーを抜き出し、一瞬で狙いをつけた後、投擲を行う。
刹那、それら挙動と同時に【念動力】を発動。飛翔物に対する速度及び着弾点に、付加と補正を施す。
この時点でようやく捕食者である“男”が楓の接近に気付き、人体の破壊の真っ最中であったが急遽中止し、怖気の走るその異相を上げた。
(遅いッ!)
確かな手応えを感じた楓の視線の先には、【念動力】によって加速されたプラスドライバーが、閃きと化して“男”の眉間へと到達する。
不意を衝き、相手の反応をも上回った近距離での狙撃は、間違いなく忌むべき感染者の“男”を貫く筈であった。
――その時、楓の脳内に警報が大音量で鳴り響いた。
疑問も思考も全て置き去りにして、楓は脊髄反射にて発動させた【念動力】による身体操作を行い、危機回避に移る。
直進方向から、弾けるように真横へと跳躍を行っていた。
その途端、楓の躰の横を烈風が掠めていった。
それが、一瞬にして肉薄してきた相手の右足刀蹴りだと知覚するのと、楓が地面に着地するのがほぼ同時であった。
(反撃!? あのタイミングで避けた、だと? な――)
なぜ、という驚愕の疑問は形にすらならなかった。
再び何かが、風を巻いて楓の側面から迫ってきたからである。
感染者の“男”が、凄まじい左鉤突きを放ったのだった。
しかし、その狂暴無比な拳が少女の頭部を打ち砕く直前、楓は後方に飛び退がってギリギリで躱しながら、同時に反撃の態勢へと動いていた。
【念動力】の助力を得て、楓は軽やかな跳躍を行う。
強く地を蹴り、一気に相手の頭上まで舞った瞬間、続けざまに楓が全身を空中で縦方向にぎゅるっと一回転させた。
颶風の如き前方宙返りから、楓の右脚が縦に大きく弧を描いて放たれた。
変則の胴廻し回転蹴りであった。
疾風迅雷の回転力を得た上に、楓の念動力による【衝撃波】を伴った右踵が標的となる“男”の無防備な頭上へと、壮絶な勢いで打ち下される。
これも、本来では決して避けられる筈がなかった。
だが、蹴りは虚空を抉るのみに終わってしまう。
超反応というべき体捌きにて、強大な捕食者たる“男”は楓の攻撃を躱していた。
着地と同時に転げ回るような無様な動きで、どうにか間合いを取ることに成功した楓は、傲然と立つ“男”のその姿を、戦慄の眼差しで見上げるのであった―――
お待たせして申し訳ございません。
短め、短めと思いつつも、今回はどうしてもここまで書き上げたかったので、長くなってしまいました。
でも基本は、短めで早い投稿を心掛けますので、何卒宜しくお願いします。
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