第11話 「狩人」
ほんの少し長めです。
ちょっと幕間みたいな構成となっています。
空腹で目が覚めた。
すると、毎日見上げている薄汚れた天井の壁紙が視界に入ってくる。
そして同時に、窓を覆う薄いカーテンから漏れ出す陽光によって、見慣れた自分の部屋が薄ぼんやりと浮かび上がっていた。
身体の節々に若干のぎこちなさを感じつつも、俺は万年床となっている布団からのそのそと抜け出し、寝室から居間と台所が一体となっている部屋まで歩いて行く。
床が板張りとなっているリビング・ダイニングの部屋は、ずっと掃除をしていないせいで汚れ、至る所にゴミが散乱していたが全く気にならなかった。
それよりも腹が減っていてどうしようなかった俺は、他には目もくれずに冷蔵庫まで歩くと、一気に扉を開けた。
だが冷蔵庫の中にはめぼしい食べ物は何も無く、しかも電源が落ちているせいで、仮に食料品が入っていたとしても室内に充満する暑さと湿気で、全て腐ってしまうのは間違いなかった。
思い通りにいかない歯痒さから、思わず苛立ちをぶつけるような形で冷蔵庫の扉を乱暴に閉めてしまったが、実はその時、俺の心の中には拭い去れない気持ちが衝動となって駆け抜けていた。
そう、冷蔵庫などに俺が求める食べ物は無いから探しに行け、という奇妙に確信めいた思考だった。
湧き起るその思考に、全く疑問は感じなかった。
だから俺は、その食べ物を探しに外へ出掛けることに決める。
外出用の着替えも、現金の入った財布も用意する必要はなかった。
――何故だ?
常識的な疑問が、ほんの一瞬だけ頭を過ぎるものの、それも直ぐに霞のように淡く消え去っていく。
だが瞬時に代わりの思いが浮かび上がり、俺は「ああそうか」と納得する。
俺の欲しい食べ物は、お金で買えるモノではないのだから財布はいらないし、着替えも起きた時には既に済ませているのだから、元々何も用意する必要はなかったのだ。
だから既に出掛ける準備は万全。
であれば、空腹を満たす為に早速出掛けるとしよう。
いつの間に靴を履いたのか全く記憶になかったが、別にどうでもよい事なので気にせず、そのまま玄関ドアを開けて外に出る。
外は曇り一つのない快晴だ。
身体の方も起きた時のぎこちなさは一切無くなり、すこぶる調子が良い。
高揚する気分のままに、鼻歌混じりで自宅アパート二階の吹きさらし廊下を歩いていた俺は、何気なく外の様子へと視線を向ける。
すると、廊下に設置されている落下防止用の手すり越しに見える付近の道路には、無数の人間達が無言で蠢いていた。
ある者は、全身血だらけのままフラフラと彷徨い歩き。
ある者は、手足を失い路上を這いずりながら耳障りな呻き声を上げ。
ある者は、裂かれた腹から内蔵を露出させたまま、炎天下の道路で全く身動ぎせずに突っ立っていた。
俺の存在を無視しているそれらを目にしながら、俺はふと思い出す。
いつかの夜、俺は奇怪な中年サラリーマンに突然襲われ、その際に左手を噛まれてしまったのだ。
その後、酷く具合が悪くなった俺は会社を休んで寝たきりとなっていたのだが、ある日を境に急に体調が回復したのである。しかも更に不可解な事に、異常なまでの力が全身に漲っているというオマケ付きで、だ。
幼い頃に望み、大人になって諦めてしまった“最強”の力が、奇跡にも等しい偶然の出来事によって俺の身へと宿ったのだが、それと引き換えに日本社会は……いや、世界そのものが崩壊の憂き目に遭っていた。
そう。世界は、目の前に存在する有象無象の化け物達によって、悉く貪り壊されたのだ。
その事実を思うと、不意に腹の底から嗤いが込み上げてくる。
世界が滅茶苦茶になって残念だとは、悲しいとは、怖ろしいとは全く思わない。
いや寧ろ、くだらない詰らない糞みたいな日常が粉々に砕け散ってくれた事の喜びの感情の方が、遥かに勝っていた。
だから俺は感謝の意味を籠めて、通りに馬鹿みたいに突っ立っている年寄りの化け物の顔面を、正拳突きで粉砕してやった。
呆気なく吹っ飛んでいく化け物を見ながら、俺の気分はどんどん盛り上がっていく。
鼻歌混じりで、今度は俺の前を横切ろうとした中年ババアの化け物の頭部を目掛けて上段の蹴りを放ち、首の骨を圧し折りつつその勢いのまま、近くの壁へと叩きつける。
そしてついでとばかりに、俺に背を向けてしゃがみ込み、何かを一心不乱に食べ続けているガキの頭に踵落としを浴びせ、遊び半分で頭蓋骨を陥没させてやる。
知らずに、俺は声に出して嗤っていた。
弱いし、脆いし、何てこの化け物共は潰しやすいのだろう。
いや、違うか。俺が強すぎて奴らが弱く感じるのだ。
全て一撃必殺。俺の空手、マジ最強。
とはいえ、どんなに俺が暴れ回ったとしてもこいつ等が余りに無抵抗なせいで、あっという間に興醒めしてしまうのはいつもの事だ。
――あれ、いつもの事?
ちょっと待て、俺はこの前いつ外に出た?
そもそも、今日は何月何日なんだ?
思い出せない、記憶が酷く曖昧だ。
必死に記憶を手繰り寄せようとした時、突如として生命力に満ち溢れる“生きた人間”の姿が脳裡を占めた。
そうだ、早く食べる肉を探さなきゃ。
こんなゴミ共を壊して遊んでも、何の意味もない。
どこに行けば、美味しい肉は手に入る?
最近は、滅多に新鮮な生肉を見掛けなくなった。
思い出すと、余計に腹が減ってくる。
願わくは、必死に抵抗してくれる獲物が良い。
その方がより長く狩りを愉しめるし、何より俺はそんな活きの良い獲物を圧倒的な力で蹂躙して、生かしたまま最高の鮮度で至高の味を思う存分堪能することが出来るのだ。
己の力が通じなくて、俺から逃れる事も叶わなくて、泣き叫んで必死に助けを乞うたとしても無駄で、自分が徐々に食われていくのを目の当たりにしなければならない。
そんな無力感に苛まされ、絶望の表情に彩られた獲物の姿を見るのは、俺の本能と快楽を満たす極上の行為に他ならない。
不意に、頭の片隅のどこかで疑問が芽生えようとする。
――オレハ、クルッタノカ?
だがその思考はすぐに、絶え間ない飢餓の濁流に呑み込まれてしまう。
――アア、ハラガヘッタ……。
例え俺が狂っていたとしても、それ以上に世界が狂い、万物そのものが狂っているのならば。
――ムシロ、コレガタダシイ。
だから俺の足は、自然と近所のスーパーマーケットの方へと向けられていた。
その理由は至って単純だった。
生き残りの人間が、俺と同じ様に食べ物を調達しに来ているかも知れないからだ。
本日の特価商品が、新鮮な人肉であることを俺は切に願う。
そんな理由から、俺は休日によく利用していた『グレートバリュー練馬小泉店』という名前のスーパーへと赴くのだった―――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
練馬区立北小泉中学校3年C組に在籍する女子生徒――高城花音は、スーパーマーケット裏側に設けられている荷物搬入場所のすぐ横、従業員専用出入口の扉が開いたのを見て、ようやくこれまでの耐え難い窒息感から解放された思いだった。
店舗正面の出入口や荷物搬入口を始め、他の通用門などは全て防犯シャッター及び施錠がきちんとされており、外部からの侵入はほぼ不可能な状態となっていたが、勿論例外も有った。
つまり、今花音の目の前にいる男――彼女の担任教師である坂本修一が使用した、店舗の鍵さえ所有していれば労せずとも内部に入ることは可能であった。
坂本の後に続いて、花音が忙しなく頭を動かして恐る恐る店のバックヤード内に足を踏み入れると、それを見届けた彼女の担任教師がそっと従業員専用出入口の扉を閉めた後、施錠を行った。
「よし、これで一安心だ。高城、大丈夫か?」
「うん、わたしは平気。それよりも、先生の方がずっと大変だったでしょ。疲れてない?」
「まあ確かに、学校を脱出してから間一髪の連続だったから流石に疲れちゃいるけど、ここなら食べ物や飲み物が十分に有るだろうし、何よりも安全に休めるだろうから何も問題ないさ」
「……そうだね」
スリムな長身に加え、眉目秀麗なその甘い顔立ちが女子生徒を骨抜きにする、現在二十八歳の人気数学教師の坂本が、僅かに疲労感を滲ませた静かな口調で花音に向かって喋る。
それに対し、長い黒髪を後ろでポニーテールに纏めている、綺麗に整った目鼻立ちと頬から細い顎にかけてのラインにあどけなさを残した小顔の美少女、花音が元気を失った声で応じた。
「高城。気にするなというのは流石に無理だとは思うが、あの混乱からここまで辿り着く事が出来ただけでも俺達は幸運だったんだ。お前が友達の安否を心配する気持ちは当然だし、俺だってクラスの担任として非常に残念だと思っているよ。けどこうなってしまった以上、後は皆が上手く学校から脱出できたことを祈るしかない」
「うん…、分かっている。それにしても先生、よくこのお店の鍵なんて持っていたね。ここの店員さんもウチの学校に避難していたのは知っていたけど、いつの間にその人から鍵を受け取ったの?」
「ん? ああ、ゴタゴタ続きで高城には事情を話していなかったか。この『グレートバリュー練馬小泉店』の店長さんとは、生徒の万引きとかの件で色々とお世話になった経緯もあって以前から顔見知りでね。お前が言ったとおり、今回たまたま学校に避難していた店長さんを見つけて、その時に彼から店の鍵を譲り受けたんだよ」
「店長さんが、直接先生に鍵を?」
「ま、実際は彼からきちんと承諾を得て鍵を貰った訳じゃないけどな。いずれにしろ、彼が自分の店に戻る機会は永久に訪れないだろうし、あのまま彼が店の鍵を持っていたとしても、それこそ完全に宝の持ち腐れってやつさ。だとすれば、俺がこの鍵を使って店の商品を有効活用するのは決して悪い話じゃない。そうだろう、高城?」
「………うん」
坂本の言葉に、花音がほんの少しだけ表情を曇らせながら返事をする。
側壁の棚や、壁際に寄せられたカートに積み重なっている段ボール箱やコンテナが並ぶ雑然とした店舗の薄暗いバックヤード内を、坂本教諭と彼の教え子である花音が足早に進んでいた。
二人が目指すのは商品が陳列されている売り場であり、坂本はスラックスに半袖ワイシャツとネクタイの教員として相応しい姿であったが、右手に把持した木刀がこの異常事態を如実に物語っていた。
一方の花音は、区立北小泉中学校の指定夏服、襟元の水色リボンが特徴の白を基調とした半袖セーラーブラウスに、黒色のプリーツスカートという出で立ちであった。
「美羽、大丈夫かな……」
歩きながら親友の名前をぽつりと言葉を零す花音の頭を過ぎるのは、この近辺の基幹避難所として指定された在学中の中学校に訪れた、悪夢そのものの出来事であった。
平和な日々の中、いつも通りに登校し、いつも通りの退屈な授業を受け、いつも通りである高校受験の為の塾通いに半ばウンザリとした思いを抱えつつも、親友の美羽やクラスの友人達とそれなりに楽しく過ごしてきた花音の学校生活は、何の前触れも無しに突如として終焉を迎えた。
感染者の襲撃、無数の怒号、校内に響き渡る緊急放送、学校に殺到する大人達。
気だるい午後の授業中にいきなり発生した未曾有の災厄は、花音や彼女の親友である美羽を含む全職員・全生徒らを巻き込んで、一切の理解や覚悟といった心の準備を与えること無く、己が運命の選択を強制した。
即ち、感染者に貪り喰われて自分も生者を捕食する化け物となるか、もしくは救助を当てにして、学校に立てこもったまま絶望的な避難生活を送るか、の壮絶な二者択一であった。
生存率は極めて低かった。
まだ動きが鈍重な感染者であったのならば、例え大群で押し寄せて来たとしても、危機的状況に対する認識力・判断力・行動力に優れた人物ならば抵抗や回避も決して不可能な話ではなかった。
だが、常軌を逸した身体能力を発揮する捕食者が凄まじい速度で、しかも群れを成して突然学校に雪崩れ込んで来た場合はどうか。
最早、運のみが頼りであった。
そんな中、花音と美羽、そして彼女らの担任である坂本教諭は、大変幸運だったといえよう。
しかしその他大勢の教員・生徒、そして近隣から何とか危難を逃れて学校へとやって来た多くの大人達は、全く運から見放されていた。
また、その時に流されていた区役所の防災無線、サイレンの吹鳴、広報車などの地域住民に向けた避難勧告が、より一層混乱に拍車を掛けたのは正に皮肉な事実であった。
ともあれ、災害時には基幹避難所として指定されている区立北小泉中学校の所に、避難指示の広報よって学校を目指してやって来た避難者と、それを追尾する感染者の群れが二者入り乱れて殺到する。
結果、筆舌に尽くし難い惨事と混乱が校内に巻き起こり、瞬く間に避難所としての機能を失った中学校は、生者においてはコンクリート製の巨大な棺と化し、死者にとってはほんの僅かな間とはいえ、永遠の飢餓を満たせる最高の狩場と化した。
辛うじて難を逃れた花音と美羽、そして坂本教諭と他の一握りの生存者らは、夥しい犠牲者を出しながらも、どうにか一致団結して間に合わせの材料で急造のバリケードを構築し、学校内に閉じこもって避難生活に入る。
だがそれも長くは続かなかった。
元々、集団で籠城するには必要な食糧及びその他諸々の条件が著しく欠けていた為、大挙した感染者にバリケードを破られなくても救助の手が差し伸べられなければ、遅かれ早かれ内部崩壊していたのは明らかであった。
他方、坂本教諭に連れられた花音は、感染者の襲撃から紙一重の差で逃れることに成功し現在に至るのだが、その混乱の際に親友の美羽と逸れてしまう。
いや、正確にいえば親友だけではない。美羽と共に居たもう一人とも、花音は離ればなれになってしまったのである。
そう。今年で十五歳を迎えた思春期の真っ只中となる花音にとって、無事かどうか定かではない両親や美羽とは違う、特別な意味での大切な人物。
思い出すだけで、胸が締め付けられるような切ない感情が溢れ出し、同時に恋という名の淡い気持ちが花音の心に温もりを与えていた。
どんなに辛い時でも屈託の無い笑顔で、自分や美羽のことを励ましてくれた同級生の男の子の事を花音は思い出していた。
そして口にこそ出していなかったが、美羽も自分と同じく彼に恋をしているのは態度で丸分かりであった。
だからこそ花音は、彼と離れたくなかったのだ。
しかし現実は、花音は自分の担任である坂本と行動を共にしており、親友であり恋敵でもある美羽は彼と一緒に学校を逃れていた。
――なんで、わたしは先生と一緒じゃなくちゃいけないの?
――どうして、美羽は彼と一緒なの?
無論、花音はその理由を既に知っていたが、心の方はそれを認めるのを強く拒んでいた。
だからこそ、様々な感情が綯い交ぜとなった衝動となり、彼の名をその可憐な唇から紡ぎ出す結果となってしまった。
「――駿矢、君」
花音がその名前を呟いた瞬間、前を歩いていた坂本教諭の歩みが突然止まった。
それを見た花音がはっとし、顔を蒼ざめさせて己の過ちに気がつくも、その時には既に手遅れであった。
「……高城。まだ、あいつの事を気にしているのか?」
振り返りながら陰鬱な声を発する坂本の表情は、醜く歪んでいた。
「う、ううん、違うの。美羽と駿矢君と一緒だから、それで――」
その歪みの正体が、嫉妬と偏愛である事を厭というほど身に沁みている花音が慌てて言い訳を試みるも、頬に軽い衝撃とパンッという乾いた音によって中断を余儀なくされた。
坂本の平手打ちを頬に受けたと花音が気付いた時には、雄のエゴを露にした担任教師の両腕が少女のたおやかな肩に回されていた。
呆然とする花音を抱き締めながら、坂本が思い詰めたような声を発する。
「高城、お前は何度俺に同じ事を言わせれば気が済むんだ。いいか、浅野駿矢はお前ではなく望月美羽を選んで逃げたんだよ。浅野のガキはお前を好きだった訳じゃない。浅野は望月の奴が好きで、いつも望月と一緒に居たお前はついでに優しくされていただけさ。だから、お前がどんなに浅野のガキのことが好きでも、所詮それは片想いでしかないんだよ」
「わ…、わたし……は……」
「大体あんなガキに、お前を守ることなんか出来やしない。いいか、お前を守れるのは俺だけだ。花音、俺はお前を愛しているんだよ。だからお前も俺を愛せ。その瞳も、その唇も、その躰も全部俺に捧げて尽くせば、全力で守り抜いてやる。それとも外に放り出されて、化け物の餌食になりたいか? そんなの嫌だろ? 死にたくないだろ? だったら今この場で言え。俺のことが好きです、俺を愛しています、と」
それは、呪詛にも等しい言葉の羅列であった。
坂本が垂れ流す身勝手な言葉を、花音は否定したかった。
教師という仮面を脱ぎ捨てて、毒虫の如き本性を曝け出した男の薄汚れた想いを、花音は真っ向から拒絶したかった。
だが喉元を割って転び出た言葉は――
「わたしは、坂本先生のことが好き。わたしは、坂本先生のことを愛しています」
本当の気持ちを裏切った、利己的な告白であった。
何故なら、花音は怖かったから、恐ろしかったから、感染者に喰われたくなかったから、無惨な形で死にたくなかったから、何よりも生きていたかったから自らの保身を優先した。
故に無力な十五歳の少女は、その身と心を犠牲にして偽りの愛を坂本教諭に与え、命を永らえる道を選択する。
未だ青々しく未熟な部分を残すとはいえ、同世代の中でも身長の高い花音は、無論その肢体もしっかりと発育しており、女性としての魅力を十二分に持ち合わせていた。
特に、セーラーブラウスの胸部を押し上げる二つの膨らみは、男の獣欲をそそる程にみっちりと豊満に盛り上がっている。
それだけに坂本の支配欲と性欲は、最早我慢の限界に達していた。
「いい子だ…。俺がお前を守ってやるからな……」
粘つく視線と身勝手極まる台詞を花音に向けながら、坂本は僅かに少女から身を離した。
すると今度は、坂本が花音のマシュマロのような感触を有する大きな双丘へと手を伸ばし、好き放題に弄り始めるのであった。
一方の花音は、嫌悪感しか催さないその愛撫に対して眉間に皺を刻み、ぎゅっと双眸を閉じていた。
そして猥褻な欲望を完全に露呈した坂本は、無遠慮に花音の唇を奪うとそのまま少女の歯を割って舌を口腔内へと侵入させる。
だが心を凍りつかせた花音は、虚ろな状態のまま坂本からの最低行為を受け入れていた。
ただ、頑なに閉じた両瞼の隙間からは、ちぐはぐとなったその心情を吐露するかのように、大粒の涙がポロポロと止めどなく零れ落ちるのだった―――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺が『グレートバリュー練馬小泉店』へと辿り着いた時、意外にもスーパーマーケットの外周をうろつく化け物の数は少なかった。
何となく知識というか感覚的には、ホームセンターやショッピングモールなどの大型店舗を目指してやって来る生存者が誘蛾灯の役割を果たし、それに導かれた化け物が群れを成して店を取り囲んでいるというイメージが強い。
だが実際には、スーパーの正面に設けられた五十台くらいの車が駐車可能な平面駐車場には、疎らにしか化け物は存在していなかった。
もしかすると、災害時には避難所として使用される近隣の中学校の方に化け物が集中しているかも知れなかったが、返って今の状況の方が俺にとって好都合だった為、深く考えるのは止めた。
取り敢えず俺は、目に付く化け物らを片っ端から行動不能にしていく作業に入る。
理由は単純。俺が折角このスーパーマーケットを愉しい狩場にしようと考えているのに、騒ぎを感知したこの出来損ない共が中途半端に乱入でもしてきたら、それそこ全てが台無しになってしまうからだ。
邪魔はさせない、獲物は全て俺のものだ。
とはいっても、化け物共を一体一体完璧に潰す必要は無い。
俊敏な動作の土台となる足を、俺の強烈なローキックによって砕くだけで事は済む。
そうすれば、憐れな化け物達は碌な身動きも出来ずに、地面を這いずるだけのイモ虫でしかないからだ。
尤も、奴らが機敏に動き回っているとなると、流石の俺もローキックで足を砕くなんていう芸当は難しかっただろうが、相手が無防備に棒立ちのまま突っ立っていれば話は別だ。
砕く、折る、破壊する、圧し折ってやる。
瞬く間に、俺はスーパーマーケットの周りを彷徨い歩いている連中を片付けた。
疲れはまるで感じなかった。
そして、たったの一蹴で対象を容易く破壊できた事実に俺は深い満足感を覚えつつ、目的地である店舗の様子を改めてしっかりと見回した。
『グレートバリュー練馬小泉店』の建物は二階建ての構造となっており、売り場や調理場と倉庫等は一階で、確か二階の方は従業員専用の休憩所や更衣室、事務所といった配置になっている筈だった。
多少不確かな記憶とはいえ、それが特別大きな問題に発展することは無いので、俺は早速店舗の正面出入口を塞いでいるパイプシャッターや脇の通用口、裏側の搬入口といった場所にきちんと鍵が掛かっているかを点検した。
そして、全ての施錠設備が良好状態であり、更に外から覗き見た限りでは店内も荒らされていない事を確認すると、俺は意気揚々と建物の外階段を駆け上がった。
そして外階段を上りきった俺の目の前には、事務所に通じるスチール製の安っぽい片開きドアがあった。
すると俺は、躊躇せずに嵌め殺しとなっているドアの窓に向かって鉄の拳で叩き込み、文字通り拳大の風穴を開けることに成功する。
更に、差し入れたままの状態となっている腕を使い、ドアノブの鍵を開けて中へと入る。
その時、俺にとっては幸運で、店内にいる人間にとっては不運だったのは、外部からの侵入者を音で知らせる警報装置が、長らく続いている停電の影響で作動しなかった事だ。
まあ仮に警報装置が作動し、店内にアラームが鳴り響いたところで、中の獲物を誰一人として逃す気など微塵もないが。
口端が自然と吊り上るのを意識しながらも、俺は念のために一応ドアを閉めてから鍵を掛け直した。
ドアのガラスは一部分割れてはいるが、単細胞の化け物共では隙間から手を入れて開錠するなどの芸当は、到底不可能であるから特に支障はないだろう。
さて、後問題が有るとすれば、今のガラスが割れた音によって店内に居座っている人間が異変を察知したか否か、だ。
とはいえ、現時点で特に何の反応も無いところをみれば、恐らくは獲物は一階の売り場に居るか、もしくはこの店舗には誰も居ないかのどちらかだ。
二階の通路を歩きながら、俺は丁寧に事務所や従業員用の控え室など覗き、人間の存在の有無をきちんとチェックしていく。
だが、実のところ何故か俺は、獲物が今この店舗に居ることを確信していた。
それも二階ではなく、一階の売り場の方に間違いなく居るだろう……という直感だった。
だから、二階のフロアを全て確認し終えて一階へと通じる階段を下り、更に照明が落ちて薄暗いバックヤードを進む俺の足取りは、最早駆け足同然の速度だった。
それはまるで、素敵なプレゼントが扉の向こうに用意されているようなワクワク感に近かった。
バックヤードと売り場を隔てる、ステンレス製の開閉扉を押し開けて中に入る。
視線をあちこちに動かし、売り場を歩きながら獲物の存在を探す。
不意に話し声が聞こえてきた。
何の緊張感もないその声を聞き、俺の心は躍り狂う。
ああ、なんて無邪気で迂闊な御馳走なのだろうと、俺の足は浮き足立つ。
まだ愚かな獲物は、俺の存在に気付かない。
歩く、近付く、居た。
学校の教師然とした恰好の成人男性が、一人。
女子高生か女子中学生の制服を着た少女が、一人。
ようやく二人が、俺の存在に気付く。
だが遅い。全く遅すぎて、嗤いさえ込み上げてくる。
恐怖と驚愕と絶望が入り混じった表情を、男と少女はそれぞれ浮かべていた。
最高だ。その慄きに満ちた貌こそが、新鮮な血肉の極上のスパイスとして俺により一層の喜びを与えてくれる。
さあ、では狩りを始めようか――――
お待たせして申し訳ありません。
文字数の関係で、今回は楓ちゃんと達也君は登場させられませんでした。
次話ではちゃんと活躍(?)しますので、何卒よろしくお願いします。
という訳で、次話は気合を入れて執筆しますので、是非読んで下されば嬉しいです^^
こ、今度こそ早く書き上げるぞ!(汗)