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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
11/36

第10話 「迂回経路」

多少長めです。







 




 強かった午後の陽射しも、徐々に弱まりつつあった。

 もう少し経てば、コンクリートで固められた建造物群をじりじりときつける苛烈な太陽も力を失い、やがて世界は夕闇の中へと埋没していく事となる。

 だが、黒崎楓くろさきかえで宇賀達也うがたつやが徒歩にて移動中の現時刻では未だ太陽は健在であり、練馬区に開通している東西に広がる都道二十四号線と、南北を走る小泉学園通りが交わる喜多園交差点付近の風景を暑く、そして色鮮やかに照らしていた。



「……ひでえ」

「…………」


 眼前に広がる凄惨な光景を目の当たりにした達也が絶望の呟きを漏らす横で、楓は無言のまま周囲に神経を尖らせていた。

 全てが“死”に満ちていた。

 東京の幹線道路の一つである、都道二十四号線……通称『目白通り』には車があふれ返り、数珠つなぎとなっている車列は全て無人・・のまま放置されていた。


 両側の車線はおろか、路肩や歩道にまで乗り上げている無秩序な車両のせいで前進も後退も不可能という有様となった幹線道路は、最早単なる廃車置場の如き存在と化していた。

 そして永遠と続く放置車両の群れの周りには、おびただしい血溜まりと人体の一部分があちこちに散りばめられており、その横を無数の感染者ゾンビ達が覚束おぼつかない足取りで彷徨さまよい歩いている。

 そんな中、道路沿いに軒を連ねる店舗にあっては全てシャッターが下りているか、もしくはショーウインドウを粉々に割られて、店内が見るも無惨に荒らされた状態となっているものばかりであった。


流石さすがにこの道を通り抜けるのは自殺行為か。となると、少々遠回りになるが大通りを迂回して住宅密集区の路地を進むしか方法が無いな。確かその住宅街を東側に抜ければ、スーパーマーケット及び避難所の一つに指定されている中学校へ辿り着ける筈だ)


 達也と共に手近な物陰へと身を隠しつつ、付近の様子をうかがっていた楓は思考を巡らす。

 宇賀宅を出る前に、楓は達也のパソコンを借りて周辺の地理を頭に叩き込み、目的地までの経路についてはおおむね把握済みであった。とはいっても、都内の複雑に入り組んだ路地全てを覚える事は流石に楓も無理だった為、そこは達也が所持しているスマートフォンの地図マップアプリを頼りとするところであった。


 楓が黙ったまま自分のぐ傍でしゃがみ込んでいる達也の腕を軽く叩き、次いで指をさして「移動するぞ」という旨の合図を送る。

 すると達也もまた無言でうなづき、気配と足音を殺して進み始めた楓の後を静かに追う。

 大通りを避けて目的地に向かうには、来た道を多少逆戻りする必要があった。


 現在、楓と達也が目指している場所は二つ。

 すなわち、避難所となっている『区立北小泉中学校』及び、多くの飲料水や食料品等が保全されている中規模のスーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』である。

 避難所に向かうのは当初からの目的であったが、スーパーマーケットに関しては先ほど小休止を取った児童公園において、底を突いた食糧物資の補給が必要だ、という楓の提案によって向かう事となったのである。


 幅員ふくいんの狭い路地を、楓は達也と共に慎重な足取りで進む。

 そして交差点では必ず立ち止まり、建物の塀や壁に背中を預けて顔を出し、通りを徘徊する感染者ゾンビの存在を目視で確認してから、慌てず急がずに迅速な移動を行う。

 平時であれば容易に辿たどり着けるであろう道程は、今や一瞬の誤り(ミス)で死の谷へと真っ逆さまに落ちる、酷く危険な綱渡りと様変わりしていた。


(こんな状況で今も避難所の中学校が無事だとは到底思えんが、万が一という事もある。それに、安全が確保できる休息地点を探し出す前に日没を迎えれば、劣悪な周辺視野の下で移動を行わなければならない。そのような下策を採る前に、避難所にも近く物資の調達も可能なスーパーマーケットに向かうのは、そう悪い判断ではないと思うが……)


 そんな事を頭の片隅で考えながら民家が立ち並ぶ路地を抜けると、次いで楓は南北に伸びる大通り――小泉学園通りの歩道脇に設置されている自動販売機の陰へと、その小柄な体躯たいくを滑り込ませる。無論、達也もまた後に続いた。

 目的地に辿たどり着くには、目の前の大通りを横断し反対車線側へと渡り、更にその先にある狭小きょうしょうな住宅街の路地を抜けなければならない。

 だが、目前の大通りには途切れることなく放置車両で埋め尽くされており、しかもその車列をうように何体かの感染者ゾンビが、当てもなくフラフラと歩いていた。


(ちっ。避難民が乗り捨てた車が邪魔な上に、其処彼処そこかしこに化け物がうろついているオマケ付きか)


 自動販売機の側面にぴたりとからだをつけた楓は、ただよう濃厚な腐臭に眉をしかめながら顔を覗かせ、内心で舌打ちしつつも感染者ゾンビの動きの把握に努めていた。

 理性というものを完全に喪失そうしつしている感染者達の共通事項として、彼らは常に機敏に動いている訳ではない。普段は鈍重ともいえる速度での歩行か、もしくは全く身動きしないかのどちらかであった。

 但し、獲物にんげんを発見した瞬間、捕食者らは爆発的な瞬発力と永遠の持久力を発揮し、標的を見失わない限り決して追跡を中止することは無いのだ。


 他方、感染者の敵探知能力は驚異的な聴覚に依存している為、それを逆手に取り何らかの物を投擲とうてきすることで派手な音を発生させて、彼らの注意を逸らすという手段が有効であることを、楓は実体験の下で既に学習済みであった。

 その事から、今回もそれでいこうかと一瞬悩むが、しかし楓はすぐにその案を取り消す。

 何故ならば、どの場所にどれ程の数の感染者が潜んでいるかも判別出来ない中、下手に音で誘導しようものなら、高確率で不測の事態に陥るのが明白であったからだ。


(仕方がない。現状では、目前で徘徊している感染者の隙を狙って、何とか気付かれずに向こう側に渡るのが最善手か。幸いにも、有視界内の感染者は少数かつ配置の間隔も広い。であれば、物音を立てて敵の目を下手にあざむこうとするより、このまま静かに潜伏移動を行いこの場を切り抜ける方が無難だな。となると、問題は……)


 思いつつ楓が細い首を巡らし、問題の張本人である達也の顔を見る。

 もし達也が敵手回避の行動中に怖気おじけ付き、不用意に物音を立てるような失態ミスを演ずれば、その時点で生存率は絶望的となってしまう。


(まあ、もしそのような事態に陥った場合、さっさとこの男をおとりにして見捨ててしまえば、感染者の捕捉をかわすことも不可能ではないはずだ。いや、ならばいっその事、最初から宇賀を囮にすれば危険リスクをかなり減らせるのではないか?)


 美しい面差しの中に、冷酷な光をたたえた漆黒の双眼を達也へと向ける楓であったが、一方の達也といえば、近くにうろつく感染者ゾンビの存在に表情を強張らせながらも、楓と目が合うとぎこちない笑みを浮かべるのだった。

 真っ直ぐに楓のことを見詰める達也の視線はとても柔和で、言葉にせずとも全幅の信頼を少女に寄せているのは、その目が如実に物語っていた。


(ちっ、全くこの男は……。迂闊うかつに人を信用し過ぎだ、このれ者めが。前言撤回だ、とてもではないがこんな素人を囮に仕立てたところで、事が上手く運ぶとは到底思えん。そう考えると、結局はこいつの面倒を見ながら先に進む方がまだマシという訳か。ああクソッ、とことん手間の掛かる奴め…!)


 どうにも苛立たしい思いが腹腔から湧き上がり、思わず胸中でののしる楓であったが、その時、ふと脳裡のうりに先刻の記憶がよみがえる。

 児童公園で休憩を取っていた際、達也が己に向けて告げた言葉。


 ――俺、楓ちゃんが好きだ。


 だが楓は、未だにその言葉をし量ることが出来ずにいた。

 何故ならば、『研修所』に所属する冷徹な正義・・の執行者である“黒崎楓”には『好き』という言葉の意味は理解出来ても、その言葉に込められた感情や想念をみ取るだけの素養をいちじるしく欠いているが故に、達也の真摯しんしな想いは逆に困惑をもたらすだけに過ぎないからだ。

 しかし一方で、『好き』という言葉が楓の心の片隅にずっと引っ掛かっているのも、また紛れもない事実ではあった。


(クソッ、この馬鹿が意味不明な戯言ざれごとを抜かしたせいで、妙に調子が狂う。もういい、余計な思考は一切無しだ。今は目の前の事だけに集中しろ。取りえず宇賀の奴は、この身と離れさえしなければそう大きなヘマはしないはず。後は野となれ山となれ、だ)


 半ばやけっぱちな気持ちとなった楓は思考を一旦打ち切り、達也から視線を外して大通りの状況をうかがう。

 楓は通りの様子をつぶさに観察し、彷徨さまよい歩く感染者ゾンビの数・動き・相互の距離を読み、最適なルートとタイミングを導き出す。

 それから再度頭を巡らせて達也へと向き直った楓は、人差し指を自分に向けた後に通りの方を指差すと、次いで“姿勢を低く”という意味合いでてのひらを下に向けた状態で腕を動かし、無言のまま行動合図を送った。

 そして「理解したか」という楓の目配せに対し、達也がはっきりと頷くのを見届けると、楓は身を潜めていた自動販売機の側面から離れ、静かに大通りの方へと歩き出した。



 南北に走る幅員約八メートルの小泉学園通りには、無人となっている車両が飽和状態で遺留されていた。

 人一人がようやく通れるか通れないかぐらいの間隔で、車がびっしりと詰められている為、道路はほとんど切断されているような状況であった。

 そんな中、楓と達也は姿勢を低くしながら駆け足で遮蔽物しゃへいぶつとなっている放置車両へと近付き、そのまましゃがみ込んだ。


 長時間きつい陽射しにさらされた車道はねっとりとした熱気に満ち、加えて間近を歩く感染者ゾンビの存在による緊迫感とが合わさった事により、未成熟な楓の細い肢体を包むフリル付きミニワンピース型の濃紺色のメイド服は、全身から噴出す汗のせいですっかり濡れそぼってしまい、気持ち悪くその白い柔肌に張り付いていた。

 額から流れ落ちる汗を片手で拭いながら、楓は中腰の姿勢のまま首を伸ばして隠れている車の反対側を覗き、直近に敵影ゾンビが無いのを確認してから車列の隙間を抜ける。


 移動時において、先頭となっている楓は進行方向の前後左右及び、障害物の陰や死角となる場所にも視線を走らせて、必ず安全をチェックしてから少しずつ前進を続けた。

 そして楓の後に続く達也にあっては、主に後方の様子をうかが感染者ゾンビが自分達に気付き、追跡がないかの確認を担当していた。


 焦りから、どうしても急いで現在の場所から離れ先へと進みたくなるのは人情であるが、だからといってここで警戒を怠り反射的な行動を繰り返していると、容易に危機的状況に陥ってしまうのだ。

 それ故に、楓は五感を最大限に働かせると同時に、理性的判断を焦慮しょうりょに駆られて曇らせないよう、例え移動困難な場所にぶつかったとしても、慎重かつ緩やかな速度で回避行動を続けるのであった。


(……後もう少しで通りを抜けられそうだ。宇賀の奴も、今のところ問題はなさそうだし、ここまでは一先ず順調ではあるな。俺の心配が杞憂きゆうに過ぎなければそれに越したことはないが、だとすると、多少強引でも下手な迂回はせずに、このまま歩道まで突っ切った方が得策か)


 ようやく反対側の車道へと辿たどり着いた楓は、放置されている大型ワゴン車の右前輪タイヤに背をつけ、油断無く脅威の気配を探りながら考えを巡らす。そして達也もまた、楓の横に並んでしゃがみ込み、深い溜め息を口腔から静かに吐き出していた。

 幸いにも、現時点までは感染者ゾンビの魔手をどうにか無事に逃れてきた二人だったが、反対車線側の歩道が目睫もくしょうに迫ったことで、実は楓の判断に迷いが生じていた。

 というのも、抜き差しならぬ事情・・がじわじわと楓の総身を支配しつつあるからであった。


(確かに迂回する方が無難ではあるが、後もう少しで路地に入れる。接近する感染者に対しての注意さえ怠らなければ、最短距離のルートを選択しても別に支障はあるまい。……これ以上、悠長に行動していては少々厄介な事になりそうだからな)


 大胆に柳眉りゅうびを寄せ、悔しげに下唇を噛んだ楓がそんな決意を胸に秘め、ワゴン車の前方へと回り込むため立ち上がる。

 だが丁度車両のフロント部分に移動した時、折り悪く一体の感染者ゾンビが右手前から、二人が隠れている場所に向かって歩いて来るのを目撃した。

 しかし、どうやらこちらの姿を察知している訳ではないらしく、その歩みは酷く緩慢なものであった。また、他の感染者ゾンビが追随してくる様子も見受けられなかった。


(くっ、ちくしょうめ…!)


 最短ルートの行く手を感染者ゾンビに阻まれてしまったことで、進路変更を余儀なくされた楓がはらの底で思いつく限りの悪罵あくばを放ちながらも、持ち前の強靭な精神力を発揮して何とか平静を装う。

 そして楓は、背後にいる達也の方を振り返って退がるように合図を送り、今度は逆方向となるワゴン車の後部側へと移動を開始する。

 楓に残された時間の猶予ゆうよは、余り残されてはいなかった。


 運の悪い事に、ワゴン車後部のハッチバックドアにめり込むような形で軽乗用車が後ろから追突していた。そのせいで車列の隙間が無かったことから、楓と達也の二人は更に後方へと迂回せざるを得なかった。

 追突事故で破損している軽乗用車のフロントを通過し、そのままリアバンパーの所まで歩を進めた時、先程とはまた別の感染者ゾンビが前方から接近中であることを、先頭の楓が視認する。

 狭い車列の間をぎこちない足取りで歩く感染者が二体、別々な方向から少しずつ距離を狭めつつあった。


 前方に二体、後方から一体の捕食者らが、図らずも自分達を挟撃するような形でせまって来ている事に、楓は心臓がすくみ上がる思いを感じていた。

 すると後ろにいる達也もまたそれ(・・)に気付いたのか、ゴクリと喉仏を震わせて生唾を嚥下えんかした。

 只、不幸中の幸いというべきか、どの感染者ゾンビもまだ楓と達也の存在には気付いておらず、早急にこの場を離れれば危機を脱することが可能であった。

 だが、もし下手を打って彼らに捕捉されれば最後、瞬く間に全方位から群れが二人に殺到し、満足に逃げることすらかなわぬまま生き地獄を味わう羽目はめとなる。


 そんな一触即発の状況の最中、楓は忙しなくこうべを動かして、即座に回避ルートを模索する。

 眼前にある軽乗用車の後部と、その後ろに続いている普通貨物車の前部には僅かな隙間しか残されていない。つまり、小柄な体躯の楓であればギリギリで何とか通り抜けられるが、成人男性の標準的な体型である達也の場合はかなり厳しく、ややもすれば通過中に物音が発生してしまう危険性があった。


(いや、ここを通り抜けるべきだ…!)


 しかし楓は、即断即決する。

 現在の位置からでは、普通貨物車後部の荷台が邪魔をして車列に隙間が有るかも分からず、また其処そこが安全なのかも全く不明であった。そして何よりも、感染者が迫っている中で時間的余裕が有るとは、とても思えなかった。


 であれば、おのずと答えは導き出される。

 楓は躊躇ちゅうちょすることなく視界が開けている直近の隙間へとからだを滑り込ませると、窮屈な空間に神経をすり減らしつつも、どうにか車列を抜け出ることに成功した。

 問題は次であったが、楓が後方を振り返った時、達也は背負っていた小型のデイパックを下し、把持はじしている六角バールとデイパックの二つを器用に両手で掲げながら、横向きで微速移動していた。


 緊迫した状況の中、意外にも冷静に達也が咄嗟の機転を利かせたことに対して、楓が僅かに感心したその時、何の前触れもなしに軽乗用車が揺れ始めたと思いきや、いきなりバンッという音と共に後部窓ガラスの内側から顔面血だらけの若い女が姿を現した。

 口から正体不明の粘液を垂れ流しつつ、車の窓ガラスに顔を押し付けて驚愕する楓と達也をめ付けた感染者は、次いで弱々しくも一心不乱に車内を叩き始める。

 バン、バン、バン、バン、バン、バンバンバンバンバンバンバンバンバンバン―――という殴打の音は、生者の肉を渇望する薄気味悪いうめき声と共に鳴り止むことはなかった。


 するとその物音に触発されたのか、周囲から無数の唸り声が湧き起り始める。

 最早、形振なりふり構っていられなかった。

 急迫の事態を察した達也が車列の隙間から強引に脱する間に、楓は視覚・聴覚・臭覚といった感覚を総動員させて感染者ゾンビの存在を探知。そして間髪かんはつれずに、最速最短かつ最も安全と思われるルートの割り出しを同時に行う。


 『研修所』の執行者として、これまで数々の修羅場を潜り抜けて来た経験が、瞬時に危険回避の最適な経路を導き出した。

 そして、達也の手を取った楓が全速力で逃走するのと入れ違い様に、おびただしい数の感染者ゾンビが、騒音の発生源となる軽自動車の下へと群がっていた。

 かなり際どいタイミングではあったが、どうにか楓と達也の二人は捕食者の群れの捕捉を免れることに成功したのだった。


 こうして楓と達也は、辛くも大通りを無事に切り抜け、避難所とスーパーマーケットへと通じる住宅路地へと足を踏み入れるのであった――




 細い電柱に括り付けられている『この先いきどまり。車の通り抜けできません』と書かれた立て看板の横を、楓と達也の二人は足早に通り過ぎる。

 対向車とれ違いが出来ないほどの狭路きょうろの中を、徒歩で東へと向かっていた。

 そんな狭い住宅密集区の路地にも車が進入していたが、いずれも永久に解消されることのない渋滞の影響で、乗り捨てられたままとなっていた。


 幸いな事に、路上や道路に面する住宅敷地内、また放置車両内といった場所にも感染者ゾンビの姿は見えず、車と感染者に埋め尽くされた幹線道路に比べると、こちらの方が遥かに進みやすかった。

 だからといって、路地が安全かどうかはまた別問題であるので、先頭を歩く楓は引き続き神経を張り詰めて移動せねばならなかった。


 移動、確認、移動、確認、移動。

 不用意に音を立てぬよう、感染者ゾンビに見つからぬよう慎重な足運びを続ける。

 僅かな過失が死に直結するという極限状態の中を、楓は注意力が散漫にならぬよう適切な速度で前進していた。

 しばらくの間、順調に距離を稼いでいた二人であったが、黙々と達也の前を歩く楓の足が不意に止められた。


 突如停止した楓の様子に、達也はすぐに感染者ゾンビの存在を疑い、手に持ったバールを構えながらせわしなく視線を動かす。

 今二人がいる場所は、向かって左手側に舗装された月極有料駐車場と、右手側にブロック塀に囲われた一戸建て住宅の間となる単路上であった。

 この状況で感染者から身を隠すには、白線で仕切られている駐車スペースに残された車両の陰に飛び込むしかないのだが、しかし楓は一向に動こうとはしなかった。


 いや、微妙に動いてはいた。

 内股になりつつ、ワンピースのすそから伸びる色白のほっそりした両足をモジモジとこすり合わせていた。

 更にうつむき加減に顔を伏せた楓は、何かを必死にこらえているような仕草で、その小さな背中を小刻みに震わせていた。

 注意深く見回しても感染者の姿を発見出来なかった達也が、いぶかしげに眉根を寄せながら楓に目線を戻した際、ようやく少女の異変に気付いたのだった。


「大丈夫? 楓ちゃん。どこか具合でも悪いの?」


「……いえ、体調に問題はありません……」


 慌てて楓のそばへと駆け寄った達也が、顔を寄せながら小声で問い掛けると、か細い声量で楓が返答する。

 だが、口では「問題ない」とは言ってはいるものの、苦しげな表情を浮かべる楓の様子を目の当たりにした達也が、素直に引き下がるような真似などする訳がなかった。

 故に、達也は更に問いを重ねるのだった。


「そんな辛そうな顔しているのに、放って置くなんて俺は出来ないよ。一体どうしたの?」


「…………」


「楓ちゃん」


「………尿意が…」


 僅かに語気を強くした達也の呼び掛けに対し、おもてを上げた楓がき消えるくらいの小さな呟きにて応じる。


「にょうい? ああ、オシッコか。オシッコがしたいんだね、楓ちゃん」


「ぐ…。ええ、はい。情けない話で恐縮ですが、早急にトイレに行かなければ……」


「そうだね、オシッコが漏れちゃったら一大事だもんな。けど駄目だよ、ずっとオシッコを我慢していたら膀胱(ぼうこう)炎になる場合だってあるし、何よりオシッコは生理現象なんだからオシッコを恥ずかしく思うことはないし、オシッコがしたいのを隠す必要だってないんだよ。うん、それじゃあ楓ちゃんは今すぐオシッコがしたい、これで間違いないね?」


「……だから、そうだと私は先程から言っています。というか、やたらオシッコを連呼しないで下さい」


 どことなく顔面に喜色をにじませて喋る達也に、楓は辟易へきえきとする思いを禁じ得なかったが、事態は一刻の猶予も無かった。

 実は、大通りを埋め尽くしている車列を迂回している時から強い尿意を感じていた楓であったのだが、ここにきてとうとう我慢の限界を迎えてしまったのである。

 達也の自宅を脱出する前、つまり本日の早朝に宇賀宅で一度用を足した以降は、全く排泄に関する事柄を失念していたことが、このようなミスを招いてしまったのだった。


(くっ…、そもそもあの児童公園で用を済ませてさえいれば、こんな事態は避けられた筈なのに。全ての元凶はこの男だ。こいつが妙なことを口走るから気が散って、トイレの事を忘れてしまったのだからな…!)


 などと、八つ当たりもはなはだしい思考で達也を睨みつける楓であったが、迫り来る尿意の波は情け容赦なく少女の身を翻弄ほんろうした。

 平時であれば店舗や公衆トイレを探してそこに駆け込めばよいのだが、このゾンビ災害下ともうべき環境下では、そんな贅沢は許される訳がなかった。

 膨れ上がった下腹部が決壊寸前の危険信号を発する中、それならばせめて物陰でと、額や首筋に不快な汗をにじませた楓が周囲に素早く視線を走らせた刹那、突然達也が力強く楓の手を取って直近の月極有料駐車場の中へと引き込んだ。


 驚く楓に構わず、達也は何ら迷う素振りも見せずに小さな楓の手を引っ張ったまま、駐車場の中をずんずんと進む。

 そして、丁度道路と並行となっている駐車スペースに置きっ放しとなっている4ドアセダンの下に近付くと、半ば引きずられるよう形で誘導された楓に向かい、達也がやにわに言葉を発した。


「ここでして」


「……は?」


 思わずキョトンとする楓を無視して、達也は断固とした口調で言葉を続けた。


「ゾンビものの定番で、下手に物陰やお店のトイレに駆け込もうものなら、その時点で出待ちしているゾンビに襲われてバットエンドは避けられない。だからこそえて、ここはセオリーの真逆となる見通しの良い広場で堂々とオシッコをするんだ」


「…………」


「楓ちゃん、お願いだ。本や映画、ゲーム等のあらゆるジャンルからゾンビの行動パターンを学んだ俺の知識を信じてくれ。間違いなくこれが、安全にオシッコをする唯一の方法なんだ。勿論、女の子である楓ちゃんにきちんと配慮して、通りから覗かれないような場所……つまり車の陰を選んだよ」


 通りからは遮蔽物となっているセダンを指差しながら、達也がやけに自信満々な声音でくし立てる。

 一方の楓は、唖然あぜんとした面持ちで達也の言葉を聞いていたが、すぐに眉間にしわを寄せて考え込んだ。


(仕方がない……。訓練で野外での排泄は既に経験済みだ。流石にこんな街中で堂々としたことなど無いが、どのみち選り好み出来るような状況でもないしな)


 達也の理論というか説明には色々と怪しげな箇所が見え隠れしており、若干釈然としない部分も残されていたが、しかし同時に納得もせざるを得なかった。

 というのも、切迫する生理現象で判断を鈍らせ、窮地に陥るといった事も確かに無いとは言えないからであり、何よりも尿意をこれ以上我慢するのは確実に不可能であった為、楓は諦めにも似た気持ちで排尿を済ませるしかなかった。


「……分かりました。では、申し訳ありませんが周囲の見張りをお願いします」


「うん、任せて。ちゃんと見ているから(・・・・・・)


 精緻せいちに整った蠱惑(こわく)的な相貌をかすかに歪めつつ、楓が達也に向けて見張り役を頼んだ。

 すると達也が快く了承したので、楓はそそくさとセダンの陰へと移動する。

 恰好的には、丁度達也に背を向けるような形となっており、楓は急いでミニワンピースのスカート部分となるすそまくり上げて、布地の面積が異常に少ないひもショーツの結び目を解かずにそのまま脱いだ。


 そして、肌理(きめ)細やかな下半身の肌を露出した楓が、意を決して地面にしゃがみ込むと、瞬く間に排出が始まった。

 今まで我慢していた事あり、しずくは勢いよく、また長く続いた。

 ほっとしたのも束の間、ふと背中越しに視線を感じたような気がした楓は、何となくこうべを巡らせて後方を振り返った。

 すると、何故かじっと楓の様子を見詰めている達也と目が合う。


「なっ……」


 喫驚きっきょうした楓が、思わず喉元から引きった声を漏らすが、対する達也は清々しい笑顔で一つうなづくと、機敏な動作で周囲に目線を配らせてから、再び用を足している楓の方――き出しとなっているお尻――へと眼差しをえた。

 しかも、明らかに周囲の警戒よりも、楓のことを見ている時間の方が長かった。


 凄まじい羞恥に、楓は顔中を真っ赤に染めた。

 己が魂の深奥に存在する“少女”の悲鳴は、最早絶叫に近かった。

 ざわ…ざわ…と、尋常ならざる戦慄せんりつが楓を押し潰す。

 なぜ、どうして、という圧倒的疑念と圧倒的不可解さが、更に楓の思考を奪う。

 だが既に答えは出ていた。楓が気付かなかっただけ。


 ――ちゃんと見ているから(・・・・・・)


 この言葉こそ、まさに悪魔的言い回し、悪魔的方便に過ぎなかったのだ。

 何故なら、達也は別に楓のことを見ないという約束はしていないし、見張りもかなり微妙な感じだがちゃんとこなしており、嘘など一言もついていないのだから。

 故に、これは楓のミス。明らかな失策であった。

 そう…、これは達也の変態的本質を見誤った楓の敗北に他ならないのだ……!




「オシッコ終わったみたいだね、楓ちゃん。はい、これティッシュ。用を足した後はちゃんとふきふきして女の子のデリケートな部分を綺麗にしないとね。あ、もしきづらいのなら俺が手伝ってあげようか……って、あれ? 楓ちゃん、何で急にナイフを取り出すの? えっと、何だか目が凄く怖いよ楓ちゃん。ははは嫌だなあ、俺、楓ちゃんのこと好きだけど、今すっごく命の危険を感じるのは何故かなぁ。もちろん冗談だよね? あの…、無言でナイフを振りかざすのは怖すぎるから、是非とも止めて頂きたいのですが―――」



 この後、達也のそれはものの見事で完璧な土下座が彼の命を救ったというくだりは、まさしく蛇足というものであった。


 楓と達也が目指す避難所とスーパーマーケットは、もう間も無くの所にあった―――

















毎度の事ですが、遅くなりました申し訳ありません。

もう少し早めに書き上げたいのですが、今回は諸事情により執筆がなかなかはかどらず、結構日にちを開けてしまいました。

次話はもう少し早く投稿したいですね。わりとマジで。

後、関係ありませんが、トネガワ先生の大ファンです、自分。

では、次話もまた宜しくお願いします^^


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