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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
10/36

第9.5話 「崩壊」

今回は幕間となります。

長い上に、後半グロあります。苦手な方はご注意を。








 




 時は僅かにさかのぼる――


 永田町二丁目首相官邸地下一階。

 官邸地階に設けられたオペレーション・ルームと呼称される危機管理センターにおいて、国家安全保障会議が招集されていた。

 内閣に設置されているこの国家安全保障会議は、文字通り国家の安全に直結する外交や国防の重要事項及び、重大緊急事態への対処を審議する場所である。


 会議の出席メンバーは、議長を務める内閣総理大臣の阿武伸光あぶのぶみつを始め、官房長官、外務大臣、防衛大臣、財務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣、総務大臣、国家公安委員長の主要九大臣の面々が円卓に座している。

 更に本件特殊事案に際して厚生労働大臣、法務大臣、警察庁長官、消防庁長官、自衛隊統合幕僚長と、事態対処専門委員会からは二人の内閣官房副長官を頭として、内閣危機管理監、国家安全保障局長、内閣情報官といった名だたる者達とそれに付随する関係者らが参集し、円卓後方にずらりと配されているテレビモニター付きの補助座席に、各々腰を掛けている。


 政府の危機管理の中枢となるセンター内は、木目のシックな壁に囲まれ、部屋の正面には情報表示設備である大型ディスプレイを見上げる形で、ドーナツ型の多目的会議テーブルが置かれている。

 そして地震や風水害などの災害発生時の情報は、正面壁にめ込まれているマルチモニター式の大型ディスプレイと、その左右を埋めている複数の小型サブモニターに、リアルタイムの映像が逐一表示される仕組みとなっていた。


 被災した地域の状況や、ヘリコプターなどから送信される諸情報を迅速に収集し、的確な有事対策を行う為に設置された部屋であり、中央円卓には後方の補助座席と同様に、小型のテレビモニターに加え、危機管理を担う各省庁を呼び出す為の電話が席数分用意されている。

 他方、円卓の専用座席となっている回転椅子や、各省庁の関係者らが腰を下ろしている補助座席の後ろで、国家安全保障局の官僚スタッフが資料を抱えながら、慌しく駆け回っていた。


 足音を吸収する厚手の絨毯じゅうたんと薄暗がりのセンター内には、静かな熱気と喧騒が渦巻いている。

 そんな中、災害情報を集約し、統制化に置いた阿武首相らがこの場所で対策事項に関する意思決定や、警察・自衛隊への出動命令、現地災害対策本部の設置及び指揮などの判断を下し、実行に移さねばならなかった。

 だが、国政を担う官僚達は皆一様にして苦虫を噛み潰したような顔をしており、まとう雰囲気も陰鬱(いんうつ)極まりなかった。



「…何故、こんな事になった……」


 総理の阿武伸光が、配布された書類に目を落としながらうめくように言った。

 今年で六十一歳となる阿武であったが、政治家としてはまだ中年の部類であり、消費税率の引き上げや、景気の低迷、不透明な雇用情勢といった逆風にさらされ支持率低迷に苦しんでいたが、少なくとも後五年は総裁の座を降りるつもりはなかった。

 しかし今は危急存亡の問題を抱え、温厚篤実な面貌に色濃い疲労をにじませながら、途方に暮れるしかすべがなかった。


「総理。目下、各関係機関を通じ総力を挙げて情報収集及び事態対処に臨んでおりますが、現場は極めて混乱しており、また現地調査隊からの報告も非常に錯綜さくそうしたものであることから、ここは拙速な判断は避け、慎重に事を進めるべきです」


 首相と同じ、震災時にはお馴染みとなった青色の作業着に身を包んでいる、白髪に縁なし眼鏡の杉村官房長官が助言する。

 すると、その助言を受けた阿武が、落ちくぼんだ目を書類から重鎮官房長官の顔へと向け、重い口を開く。


「慎重に? 官房長官、これまで我々は各国際空港における航空便の受け入れ制限と緊急検疫の実施、更には国内の長距離移動を自粛するよう国民に呼び掛けを行ってきた。そしてまた、発症した感染者を厳重に隔離、管理下に置き水際で感染爆発パンデミックを阻止してきた筈だ。完璧な対応とは確かに言えなかったが、それでも政府としての責任は慎重な判断の下、十分に果たしてきたつもりだ。だが、その結果がこれ(・・)だ」


 言いながら、阿武首相は正面の大型ディスプレイに流れている映像を指さす。

 現場からの中継が映し出されていた。

 地獄がそこにあった。



 東京都江東区新木場の江東航空センターを発した、東京消防庁航空隊の中型ヘリコプターおおたか(AS365N3型 ドーファンⅡ)が江東区を抜け、隅田川を沿うように墨田区・台東区・中央区を順繰りに飛行していた。

 防災ヘリコプターに搭載されているカメラの機能は、映像伝送システムとなっており、飛行中にカメラで撮影された映像は、そのままリアルタイムで危機管理センターの大型ディスプレイに送信される仕組みとなっていた。


 ヘリの高度が下がり、街並みの様子が鮮明に放映される。

 網の目のように複雑な形で交差している高速道路と一般道路上には車が溢れ、酷い渋滞となっていた。

 原因は、至る所で発生している交通事故であり、大破した事故車の中には炎がのぞき、黒煙を噴き上げているものまであった。

 そしてそれ以上の混乱が、逃げ惑い飽和状態となっている一般市民の間に荒れ狂っていた。


 車両の脇、歩道、車道、路地、駐車場、交差点といったあらゆる場所で人が倒れていたが、その一方で、狂ったように全力疾走している集団が目を引いた。

 集団は二種類に分かれていた。すなわち、逃げる者とそれを追う者である。

 全身を血塗れにした人間が、無差別に同じ人を襲撃していた。

 複数の追跡者らが逃げる一人の女性へと群がり、猛烈な勢いで人体の破壊……いや、捕食・・を行っていた。

 老若男女などまるで関係なく、人々は瞬く間に“死”へと引きずり込まれ、灰色のアスファルト路面はペンキをぶちまけた如く、赤黒い血に染められていた。


 だが恐るべきは、致命的なまでに喰い荒らされ損傷のいちじるしい犠牲者が、裂かれた腹腔から臓物をこぼれ落としつつ地面から起き上がり、再び活動を開始する点であった。

 無論、彼らは人間の動きを模してはいたが、既に生前の面影はなく、酸鼻極まる殺戮さつりくを無秩序に繰り返している人の姿は、明らかに常軌をいっしたものだった。

 そんな中、通報を受けて現場に到着した警察官や救急隊も、パトカーや救急車から降車した途端、瞬く間に死を運ぶ人波へ呑み込まれ、無惨にその姿を消した。



「関口大臣に聞きたい。中国から端を発した新型の病原体による症例の内、患者が精神錯乱に陥り、危険な暴徒と化すという報告は確かに受けていた。だがそれは一部の感染者の話であって、ましてや罹病りびょうした人間が全て、こんな出来の悪いホラー映画の怪物になるなんていう話はまるで聞いた事がない。最近マスコミが騒ぎ立てている相次ぐ殺傷事件も、実のところこれ(・・)が関係していたのではないか? もし、君が何か有益な情報を掴んでいるのなら、包み隠さず私に教えてくれ。この際、多少憶測の域を出なくても構わん」


 誰もが、ディスプレイに映し出されている阿鼻叫喚の地獄絵図に言葉を失っている中、青ざめた顔の阿武首相が鬱々とした声を絞り出し、痩せぎすの関口厚生労働大臣に問うた。

 すると関口厚生労働大臣が席を立ち、その神経質そうな表情を強張らせながら説明を始める。


「はい。会議の冒頭でお配りした資料に記載されている通り、今年の八月下旬に中国から世界中へと飛び火した激甚げきじんの新型感染症は、前駆症状として頭痛、喉の痛み、関節痛、全身の倦怠感、そして発熱といった症状が現れます。そして数日でウイルスは身体中へと広がり四十度近い高熱と共に、急性呼吸窮迫症候群(ARDS)、全身性炎症反応症候群(SIRS)、多臓器不全(MOF)などの極めて重篤じゅうとくな全身疾患を引き起こし、内臓器官及び全身がウイルスにむしばまれ、出血を伴いながら死亡する……ここまでは総理も既知きちの事柄であると存じます」


 確認するように一旦言葉を切った関口厚生労働大臣は、阿武首相が顎を引いて首肯するのを見届けると、更に話を続けた。


「これら一連の症状から考えられる病気は、強毒性の鳥インフルエンザ、H5N1型が最も考えられますが、総理も御存知の通り、H5N1亜型鳥インフルエンザによるトリからヒトへの感染事例は稀であり、更にヒトからヒトへの感染については、例外中の例外だと言われています。以上の事から、今回世界中で猛威を振るっている伝染病は、新型インフルエンザ、もしくはエボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、マールブルグ病、ラッサ熱などのウイルス性出血熱が遺伝子変異を起こした疾病しっぺいの可能性が高い、というのが現時点で表明されているWHOの公式見解あり、また感染者の暴徒化については、先の新種のウイルスが脳に入り込み、幻覚症状や意識障害が誘発された結果との事です」


「……御高説は有り難いがな、関口大臣。改めて説明されなくとも、それは関連資料を読めば分かることだし、結局ウイルスの特定には未だ至っていないという話だろう。大体、それでも我々は手探りの状態で不明熱(FUO)の対処に奔走ほんそうし、多数の犠牲を生みながらも最善と思われる強攻策を実行したのは周知の事実のはずだ。いいかね、私が君に尋ねているのはそんなWHOの研究結果ではなく、何故そんな重篤な感染患者が機敏に活動し、尚且つ暴徒というには生温い殺人集団と化している点ついてだ。それに襲われた者達も狂暴化するのは何故なのかを、余計な説明は抜きにして要点だけを述べたまえ」


 回りくどい厚生労働大臣の説明に対し、阿武首相は苛立ちを示すようにコツコツと指先で卓上を叩きながら言った。

 その関口厚生労働大臣は、額に大量の冷汗を浮かび上がらせると、困ったような表情でそばに控えている国立感染症研究所のウイルス第一部部長に目配せを送った。

 国立感染症研究所に所属する細面の東条部長は、そんな厚生労働大臣の姿にちらりと視線を投げた後、挙手しながら発言する。


「感染研の東条と申します。阿武首相のご質問に関しては、関口大臣に代わりまして私がお答えしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」


 東条部長の申し出に、阿武首相は発言者の方へと眼差しを向け、了承のうなずきと共に「では頼む」と短く答えた。

 そして、ほっとしたような表情で着席する関口厚生労働大臣と入れ替わりに席を立った東条部長が、口火を切った。


「まず先に結論を述べますと、現時点で感染者がことごとく集団暴徒化する理由については未だ明らかになっておりません。また、罹患りかんした者に襲われた人間が異常な速度で発病し新たな感染者を生み出す、といったヒト間感染の極めて重く深刻な症例についても詳しい臨床データが取れていない為、現時点においては的確な回答は出来かねます」


 臆面もなく『この件については何も分かっていません』と言いきった、日本の感染症研究の中核を担っている機関の責任者の言葉に、阿武首相の表情は一気に険しさを増す。

 だがウイルス第一部部長の東条は、叱責の言葉を発しようとした首相の機先を制し「ですが」と声を発すると、尚も説明を続けた。


「世界的な爆発感染パンデミックを引き起こした、未知の劇症型ウイルスによる伝染病は……ここでは仮に“初期型”と分類しますが、先ほど関口厚生労働大臣がおっしゃったように新型インフルエンザを始めとするウイルス性出血熱群の発症事例に極めて酷似したものでした。また、感染経路に関しても接触感染・空気感染・飛沫感染といった代表的なものであり、何より潜伏期間が最短で三日、最長で五日という事から、保菌者キャリアの無自覚な外出がより病気を広め、感染制御は非常に困難を極めました。その結果、都内だけで二千人近くの罹病者を出した『東京アウトブレイク』の事件は、皆様の記憶にも新しい出来事だと存じます」


 誰一人として声を発さぬ室内で、東条という名の研究者の声のみが響き続いた。


「そして“初期型”の伝染病は致死率九十パーセントを優に越え、生き残った数少ない患者も、脳にまで侵入したウイルスが重度の意識障害を引き起こし、極めて攻撃的な精神疾患の後遺症を残すという凄惨な有様でした。この病状だけを捉えれば、新種の日本脳炎や狂犬病などの方が性質は近いのかも知れませんが、問題は“後期型”についてです。ある時を境に、急速に新型ウイルスの伝染病の致死率は下がり、回復者の数は一気に増えました。一見喜ばしい話に聞こえますが、その実、病から助かったとしても深刻な精神疾患の障害は依然として顕在したまま、いやそればかりか、より人格が破壊され狂暴性が増した状態で肉体の運動機能だけが正常に戻るという、不可解な現象が立て続いたのです」


「……そんな報告、私は受けておらんぞ」


 呻くように言う阿武首相であったが、しかし東条部長の言葉は止まらない。


「ある患者の事例を一つ挙げますと、リンパ節で増殖し全身へと拡散した新種のウイルスは内臓器官のことごとくを壊死えしさせ心肺停止という状態にまで追い込むくせに、その一方で特定の脳組織や筋組織といった限定細胞に取り付き、不完全な活性化(・・・・・・・)を促すという信じ難い病理組織検査の結果が出たのです。これは正式な研究結果ではなく、あくまで私の個人的な見解となりますが、阿部首相が先程おっしゃっていた相次ぐ殺傷事件、そしてたった今起こっている暴動は全て新型ウイルスが関連していると思われます。何故ならウイルスという存在は……」


「おい、東条君。その辺で――」


 只ならぬ雰囲気の東条部長を危惧きぐした関口厚生労働大臣が遮ろうとするが、それを無視して、国立感染症研究所に籍を置く有能な研究者は一気にくし立てる。


「全ての生物がそうであるように、ウイルスもまた自身が滅びるのを回避しようと足掻あがきます。無論、ウイルスそのものに知能がある訳ではありませんが、ぐに淘汰とうたされぬよう人間とは比較にならない程の異常な速度で世代交代を繰り返し、環境に適応しようと進化……つまり突然変異を続けます。凶悪なウイルスは瞬く間に宿主を殺してしまうから、増殖という本来の目的を達成するには極めて不合理なのです。そこで新しいウイルスは自身がより長く存在する為に、生かさず殺さず宿主に対する有用な変化を促した結果が、感染者の凶暴化――否、怪物モンスター化なのではと、私は推論します。またその変異に伴い、感染手段も経皮感染や血液感染といった直接的なものへと移り変わり、罹患者の精神と肉体にも劇的な変化や影響を及ぼしているのでしょう」


 東条部長の声は、そこで一旦途切れる。

 誰しもが唖然とし、場は重苦しい沈黙に支配された。

 ただ、ディスプレイから伝えられる音響のみが、淡々と室内にこだましていた。

 すると、ほんの僅かな間を置いてから、東条部長がこれまでとは打って変わり、酷く憂鬱ゆううつな表情で暗い声を小さく吐き出した。


「この新型ウイルスに関する伝染病については、不謹慎だとは思いつつも私は祈らずにはいられないのです。どうか今回の事件が何処どこかの国の秘密機関や、何処かの狂った科学者による人為的操作が引き起こした感染爆発パンデミックであって欲しい、と。真実が人間の仕業であるというのならば、我々はこんな狂った事態を引き起こした張本人を恨み、また人のごう故に仕方がないと、自らをなぐさめることも出来ましょう。だがもし……、もし一連の出来事が自然現象でしかないとすれば、それこそまるで神が人間を滅ぼそうと―――」


「そこまでだ、東条部長。有益な情報の提示に感謝する」


 断固とした口調の阿武首相の声が、虚ろに呟く東条部長の言葉を断ち切った。

 そして、国の最高責任者の厳しい眼差しを受けた国立感染症研究所のウイルス第一部部長は、憔悴しょうすいした様子で口をつぐみ、静かに着席した。


「諸君、現時点をって、自衛隊法第八十三条の災害派遣から防疫体制の速やかな強化、同法第七十八条を適用し自衛隊全部隊の治安出動待機命令を発令する。稲森防衛大臣、神村統合幕僚長、自衛隊の出動態勢はどうか?」


 眉間に深いしわを刻んだ最高指揮監督権者である阿武首相が、円卓の上に両手をついて立ち上がり、自衛隊全体を総督する女性防衛大臣の稲森と、陸海空における三隊の作戦運用を総統括する統合幕僚監部の頂点、つまり制服組の総大将となる神村統合幕僚長に向かって問い掛けた。


「総理。先の新型伝染病……東条博士のお言葉を借り、この場では『初期新型ウイルス』と仮称しますが、既に総合対策として防衛省管轄である生物兵器対処委員会を設置し、警察・消防を始めとする関係省庁との緊密な連携を図り、事態に対処しております。また、陸自の中央即応集団(CRF)からは中央特殊武器防護隊及び対特殊武器衛生隊に加え、東部方面隊第一師団の第一特殊武器防護隊、第十二旅団の第十二化学防護隊などの部隊についても現在運用中であり、出動した各部隊は都内の隔離関連施設における感染防護措置等の任務に従事しております」


 今年で五十七歳を迎えながらも未だその美貌を崩していない、眼鏡がトレードマークの稲森防衛大臣がよどみなく答える。

 そして阿武首相が頷くのを確認してから、稲森防衛相は視線を自衛隊の総司令官である強面こわもてとがっしりとした体躯たいくの神村統合幕僚長へと向けた。

 その目配せを受けた神村統幕長が片手を挙げて立ち上がり、重厚な声音で言う。

 寄る年波により五分刈りの頭髪には白いものが混じっているが、それでも不屈の精神と鋭い眼差しは、ただ其処そこに居るだけで周りを圧倒する存在感をかもしていた。


「国内における陸海空の全部隊については、現段階において最高レベルの警戒待機命令である第三種勤務態勢へと移行済みであり、状況に対する即時出動が可能な状態となっております。更に予備自衛官、即応予備自衛官についても招集を行っており、それらについては有事に対する支援部隊として運用します。また、現在発生中である都内での大規模な暴動につきましては、練馬駐屯地の第一師団第一普通科連隊を始め、中央即応集団(CRF)隷下(れいか)となる習志野駐屯地の第一空挺団及び特殊作戦群、木更津駐屯地の第一ヘリコプター団、宇都宮駐屯地の中央即応連隊を可及的速やかに危険区域へと投入し、迅速かつ敢然かんぜんたる対応にて事態の収拾に当たるのが最善と考えます」


「分かった。具体的な自衛隊の部隊展開については、その方針で問題ないと思う。それと滝澤長官、警察の治安維持活動の方は現在どのような状況になっている?」


 防衛大臣と統合幕僚長の説明を聞いた阿武首相が了承の言葉を述べると、今度は白髪を綺麗に撫で付けている滝澤警察庁長官の方へと首を巡らした後、尋ねた。


「はっ、警視庁を始めとする全ての都道府県警察において、各本部長を長とする新型感染症事案に対する警備対策委員会の体制は既に確立済みとなっています。また現在、急訴事案となる都内での広域暴動につきましては特別緊急配備が発令中であり、警視庁の第一から第九の全機動隊、そして第六機特殊部隊SAT並びに特科車両隊は出動を終えています。加えて非常参集の下、警備部を主軸とする地域・刑事・交通などの課員で臨時編成された特別機動隊を各所の治安警備の任に当たらせている状況ではありますが、依然として情勢は厳しく、本件対応中の警察官らに甚大じんだいな被害が出ております。その為、治安維持体制の崩壊を防ぐべく、関東管区機動隊にも至急の応援要請を行いました」


 立ち上がり説明を行う滝澤警察庁長官の顔色は酷く、不測の事態の連続により精神の磨耗が限界に達しているのは一目瞭然(りょうぜん)であった。

 何故なら、今こうしている間にも通報を受けた警察官や消防・救急隊員らは、混乱の極みにある現場に赴き、誰が暴徒で誰が要救助者なのかも判断を下せぬまま次々と殉職しているからであり、その無念は計り知れなかった。


「よし、私からの結論だ。目下、東京都内の各所で発生している深刻な暴動の鎮圧及び、本件と同種の被害を他地域に拡大・拡散させない為に、自衛隊の中央即応集団並びに東部方面隊第一師団には治安出動を命じ、他の部隊には有事に備え即動待機命令を発令する。警察と自衛隊の各治安維持部隊と消防隊は、未曾有みぞうのウイルス災害ともいうべき当該難局の事案に対し、各機関相互における緊密な連携の下で総力を結集し、最大限の努力をって事態の収拾に当たって頂きたい」


 警察庁長官から現状を聞いた阿武首相は、決意を秘めた瞳で場にいる全員の顔を見回した後、即断の言葉を放った。

 穏やかだが強い意志が込められた最高指揮監督権者の相貌を、危機管理センター内に集った面々は固唾を飲んで見守っていた。そんな中、小太りの広瀬法務大臣がおずおずと口を開く。


「総理。今回の治安出動に関しての法的解釈ついては、『間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもっては、治安を維持することが出来ないと認められる場合』に該当。そして出動を命じられた自衛官の武器の使用に関しては、警察官職務執行法の規定に準じた自衛隊法第八十九条及び第九十条を適用……つまり、当該部隊指揮官の命令もしくは、刑法に定める正当防衛・緊急避難の場合に加え、多衆集合して暴行、脅迫もしくはその明白な危険があり、武器を使用する他にこれを鎮圧し、又は防止する適当な手段がない場合、の法規定を適用するという認識で宜しいでしょうか」


「それで問題ない。またそれに加え、これ以上の感染と被害の拡大を防ぐ為に、警察と自衛隊による都心部の封鎖も検討しなければならないだろう。併せて有事法制関連法の一つ、国民保護法の規定に基づく住民の保護、避難、誘導を適切に行う必要がある」


 法務大臣の確認に、阿武首相が思慮深くゆっくりとうなずき、言った。

 すると入れ替わりに、古川総務大臣が慌てた様子で言葉を発する。


「お待ち下さい。内閣総理大臣の命令による治安出動の場合、切迫時には国会の承認を得ずに出動を命ずることは確かに可能ですが、ただちに国会の審議を受ける必要があり、もし承認を受けられない場合には自衛隊の撤収を命じなければなりません。自衛隊を用いての暴動鎮圧に加え、更に都心の封鎖となれば、都知事と野党から猛反発をくらうのは必至。民主主義を否定する軍国主義の再来だというそしりを受けぬ為に、強硬な即断は避け、もっと党内で慎重に憲法論議と方策を検討した上で、野党に対する万全の準備を整えてから国会に付議するべきかと……」


「その間に何人死ぬ?」


 総務大臣の言葉に、阿武首相が刃の如く鋭い眼差しで問い掛ける。


「……は?」


「我々が安全な場所で党の主義主張をまとめたり、与野党が永遠と憲法解釈を巡る議論を続けている間に、現場に赴く警察官・自衛官・消防隊・救急隊らや、何の罪もない一般市民達がどれほど犠牲になると思っている。いやそれ以前に、未知の劇症型ウイルスに関する本件事案に関しては、下手に対応が遅れると国の存亡にすら係わるというのが、君にはまだ理解出来んのかね?」


「い、いや。そうではなく……しかし………」


 凄まじく重い声音で語る阿武首相の雰囲気に呑まれ、古川総務大臣はしどろもどろに言葉を濁した後、やがて口をつぐんだ。


「藤崎外務大臣。安保条約に基づく在日米軍に対する協力要請と、自衛隊を治安出動させたことによる中国政府の反発についても、そちらの方で対応を進めてくれたまえ。もっとも、両大国とも我が国以上に自国内が混乱の極みにある状態で、そんな余裕など全くないとは思うがな……」


 分かりました、と述べる外務大臣の声を聞きながらも、阿武首相は湧き上がる胸騒ぎをどうしても抑えることが出来なかった。

 そして事態は、英断ともいえる日本国首相の決意を嘲笑あざわらうかのような最悪のシナリオに向かって突き進む事となり、死と崩壊に彩られた腐乱の祝福・・が、生者と死者を瞬く間に包み込んでいく。



 それは、黒崎楓が施設で目覚めた丁度一週間前、九月十五日の出来事であった―――





 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 時間の感覚が狂っていた。

 今何時で今何日なのか、全く分からなかった。

 ただ、自宅で寝込んでいた時、外の騒がしさに何度か目を覚ました記憶はあった。


 ――あの夜、仕事帰りに奇妙な中年サラリーマンから左手を噛み付かれた俺は、その後体調不良によりずっと会社を休んでいた。

 頭が重い、吐き気がする、全身が酷くだるい。

 猛烈な眠気が襲い、また俺は眠る。


 どれだけの時間が経過していたのか。

 一日か、一週間か、それとも一ヶ月か、まるで不明だった。

 体調は更に悪化し、酷い熱と喉の痛み、鼻血、関節のあちこちが痛いなどの症状がずっと俺を苦しめていた。

 病院に行きたくても、立ち上がることすら出来なかった。

 そして噛まれた左手は一向に治らず、出血を伴う鈍い痛みとかゆみが同居し、それが更に俺を不快にさせた。


 記憶が途切れる。

 寝る、起きる、寝る、起きる、寝る、起きる。

 仕事のことや、自分の体が今どうなっているのかも、次第にどうでもよくなった。

 とにかく、何かを考えるのが凄く面倒臭かったし、億劫おっくうでもあった。

 だから、布団の中で何も考えずに眠り、目を覚ますを繰り返していた。



 そんなある日、唐突とうとつに具合が良くなった。

 いや具合が良いどころか、異常な程に絶好調だった。

 気分は生まれて初めて感じる程に爽快感に満ちており、そして同時に何故か俺は、とある事実について確信を抱いていた。

 だから今の俺の心には、何の不安も、何の迷いも、何の恐れもなかった。

 それから俺は、すぐにそれ(・・)を確かめようと思い、勢いよく布団から起き上がり簡単に身支度を整えた後、足取りも軽く外へと出掛けた。


 外はとてもにぎやかだった。

 自宅アパートの玄関扉を開けた外の光景は随分と騒がしいもので、まさに混乱状態という表現がぴったり当てはまった。

 何せあの夜のように、俺の左手に噛み付いてきた中年サラリーマンと同じような類いの化け物(・・・)が、逃げ惑う沢山の人間を襲い、喰っているのだから。


 それを見て、俺は何故かわらいの衝動が込み上げてきた。

 泣き喚く幼い子供が、猛スピードで駆け寄って来た大人に押し倒されたと思うと、その子は未熟な腹を裂かれて生きながら内蔵を貪り喰われていた。

 他人を押し退けて逃げようとしている若い男性会社員が、複数の男女に追跡されやがて捕まり、生きたまま肉という肉を喰い散らかされていた。

 悲鳴を上げて逃げる中年女性を逃すまいと、全力疾走していた二人の高校生風の男子学生が同時に飛び掛り、捕らえた獲物を押さえつけながら、その旺盛な食欲を遺憾いかんなく発揮していた。


 それは何て滑稽こっけいで、何とも素敵な光景であろうか。

 つまらない日常は終わりを告げ、極めて刺激的な日々が産声を上げたのだ。

 俺は無造作に路上へと歩み出る。

 付近を埋め尽くす程の化け物の群れは、しかし俺には全く興味を示さない。

 だが、それについて俺は全く驚かない。むしろそれは予想していた通りだったからだ。


 少々つまらないとは思ったが、しかし逆にゆっくりと腕試し(・・・)をするには丁度良かった。

 その時、俺の目の前で若くて綺麗なOLを捕食しようとしている、みすぼらしい恰好をした中年オヤジの化け物がいた。

 口角を笑みに吊り上げながら、俺は大きく踏み込み、躊躇ちゅうちょなく右の正拳突きを化け物となったオヤジの顔面へと放つ。

 ぐしゃっという音と共に、相手の化け物オヤジは顔面を陥没させながら吹っ飛んでいった。


 そして地面へと転がされ、まだしぶとく起き上がろうとしているオヤジに向かって、俺は追い打ちを掛ける。

 近寄った俺は、倒れているオヤジの陥没した顔面を狙い、高く上げたその足を一気に地面へと力を込めて落下させた。

 ゴシャッという派手な音は、俺の足で踏み潰され際に生じたオヤジの頭部の破砕音であり、アスファルト路面には薄汚く潰れ飛散した肉の物体だけが残されていた。

 その時、俺は眼前の無様なしかばねを見詰めながら、完璧に理解し、完全に確信した。


 ――俺は、“最強”になれたのだ、と。


 全身にみなぎる力が、俺の気分を高揚こうようさせた。

 躍動やくどうする筋肉の認識が、俺の心を恍惚こうこつとさせた。

 幼い頃より身に刻み込まれた空手技は、その全てが必殺の威力を宿していた。

 長年の願望が図らずも成就された瞬間に、俺は歓喜に身を打ち震わせた。


 深い満足感を覚えながら、助けたOLの方へとふと視線を向けると、何故か俺の目は女の肉体に釘付けとなってしまった。

 恐怖に引きった、その美しい顔。

 ブラウスの上からでも分かる、豊かで艶やかなその肢体。

 柔らかな弾力に満ちた、その乳房。

 しっかりと引き締まった、その尻肉。


 ――空腹が、俺の脳をいた。


 得体の知れない飢餓感が、理性を瞬く間に駆逐くちくする。

 途端、意識が薄れる。

 次いで、記憶が曖昧になる。

 つんざくような、甲高い悲鳴と絶叫が聞こえたような気がした。


 美味い、美味い、美味い、うまい、うまい、うまイうマイウマイ。

 いい匂い、血の匂い、肉の味、臓物の食感。

 輝かしい“生”を、思う存分堪能する。

 美味しい悲しい美味しい嬉しい美味しい楽しい美味しいだから肉をもっと肉を食べたい食べたいもっともっともっと足りない足りないすぐに不味くなるからもっと新鮮な肉を襲って食べて俺は最強だから強いからもっともっと肉を肉を肉を食べたい食べたい食べたいもっともっともっともっと柔らかくて温かくて美味しい肉を肉をいくら食べて食べてもぜんぜん足りないからもっと欲しいほしいほしい肉を新鮮なお前の肉を……………。





 そして男は、いびつな記憶と共に、自宅のアパートにて再び目を覚ます―――

















遅くなりました。

ウイルスの話を書いていたら、風邪を引きました。

皆様も、健康には是非とも留意してお過ごし下さいませ^^

次話は物語を進めますので、何卒よろしくお願いします~

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