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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
1/36

第1話 「目覚め」

ゾンビものがどうしても書きたくなったので、始めてしまいました。

グロい描写が多々あるので、苦手な方はご注意をお願いします。

※10月13日、加筆修正を行いました。







 




 俺は今眠っている。


 何故か、俺は今自分が長い眠りについている事を理解していた。

 その理由を考えた時、ズキズキとする鈍痛が俺の頭を蝕んだ。

 そんな痛みの中、俺の思考は過去の出来事に思いを馳せる。


 物心ついた時にはもう、既に俺は『研修所』と呼ばれる施設に居た。

 其処での生活で、俺は様々な“教育”を受けた。


 ――そう、正義の味方としての“教育”だった。


 政治家、資産家、宗教家、ヤクザといった職種には“悪人”が多くおり、それを倒す為に俺は日々特殊な訓練を受けていた。

 徒手での格闘に始まり、銃器や刃物を用いた訓練。そして、手強い“悪人”を打倒する為に必要な様々な知識を、幼い頃から徹底的に叩き込まれた。

『研修所』から外出が許されるのは、二、三ヶ月に一度の割合で、その時は教育係の大人達と一緒に、遊園地や動物園に連れて行って貰えたのが、数少ない当時の俺の楽しい記憶だった。


 辛くないと言えば嘘になる。

 只、俺と同じような境遇と年齢の子供が何人も居て、彼らと友達となれたこと。

 そして何より、皆から先生と呼ばれる天涯孤独の身である俺にとって親代わりの人となる方から、各種訓練や施設内で行われる大会において優秀な成績を収めた時に褒められるのが嬉しくて、俺はこれまでずっと頑張ることが出来た。


 十歳の時、任務で初めて“悪人”を殺した時も。

 十二歳の時、俺と同じ訓練生と、試験の中で殺し合った時も。

 十六歳の時、難しい仕事を命じられ、次々と仲間が死んでいく中、たった一人俺だけが生き残り、任務を完遂できた時も。


 全ては、愛しい先生がとびきりの笑顔で俺を抱き締めてくれるから、俺は正義の味方を張り続けることが出来た。

 そう、あの時までは―――


 この辺りから、記憶が曖昧になる。

 二十歳となった俺は、いつもの命令通り、救世を謳ったとある過激な宗教家の教祖に対し、正義を執行しようとした。

 しかし端的に言えば、俺はその任務に失敗したのだ。

 決して油断した訳では無い。只、些細な判断ミスから俺はその教祖を仕留め損ない、尚且つ信徒達から凄まじい逆襲を受けた。


 事前の情報で知ってはいたが、過激で知られるその宗教法人は、ヤクザと深い繋がりがあり、護衛の任に当たっている信徒には手強い者が多かった。

 だが『研修所』における正義の執行者の中でも、格闘術と銃剣術では誰にも遅れを取ったことの無い俺は、仲間のサポートも有り、無事に包囲網を潜り抜けることが出来た。


 ――無事に?

 ああ、頭が痛い。

 よく思い出せない。

 そうだ。確かに迫り来る大勢の信徒を撃退し、俺は何とか安全地帯まで逃げおおせたのだ。

 そしてその時に、俺の携帯電話に先生から着信があって、その指示に従った筈……。


 だが、その指示の内容が思い出せない。

 先生は俺に何と言っていた?

 変だ。この俺が先生から言われたことを思い出せないなんて。

 くそっ、頭が割れるように痛い。

 でも、少しだけ記憶が蘇ってきた。


 様々な医療機器に加え、用途の不明な奇妙な機械が揃っている場所だ。

 これは『研修所』とは違う、何処か別な施設なのは間違いない。

 そこで、俺は清潔なベッドに横たわっている少女を見詰めながら何かを喋って。

 そして隣に立っている先生が、何かを説明した後、俺に命令して。

 けど俺は確か…、そう自分でも驚くべきことに確か、その時初めて先生の命令に逆らってしまったんだ。


 その後……その後、どうした――?

 ああ、駄目だ。

 記憶が酷くあやふやだ。

 頭痛がいよいよ酷くなってきた。

 しかし同時に、目覚めが近いことも感覚で理解していた。


 ――そして俺は、長い眠りから覚醒した。





 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 異様な静けさが室内を満たす中、少女は目を覚ました。

 見知らぬ白い天井と、殺風景な白一色に統一された八畳ほどの室内は、実に様々な医療機器が揃えられていたが、無人であった。

 鈍痛が頭に響く中、少女はゆっくりと視線を巡らし、現状を確認する。


 まず己が、生体情報モニター付きのベッド上に寝ているのが分かった。

 続けて目線を動かすと、ベッド脇には小さなサイドテーブルが有り、更にその周辺を医療機器と思しき機械が少女を取り巻いていた。

 また点滴用のチューブが伸び腕に針が刺してあったが、点滴ボトルの中は既に空だった。


(夢を見ていたのか、俺は……)


 思考を開始すると同時に、何か酷い違和感を少女は覚えた。

 ベッドで仰向けになったまま、少女は自分の両腕をゆっくりと眼前まで持ち上げ、そしてそれをまじまじと見詰めた。

 色白の、とても細く華奢きゃしゃな腕だった。

 また己の記憶にある手よりも酷く頼りなさげな、幼く小さな両手であった。


(なん、だ…これは……?)


 記憶の中では、自分の腕はもっと筋肉質で太く、また両手も今のように艶やかでなだらかラインを描くようなものではなく、過酷な修練によりもっとごつごつとしたものに違いなかった筈だ。


(これではまるで幼い少女の手じゃないか。俺は二十歳の男で、しかも『研修所』の中でも最精鋭を自負出来るくらい、徹底的に鍛え抜いた筈じゃないか。こんな……こん、な―――?)


 そこまで考えて、少女は自身の記憶に齟齬そごが生じ始めるのを抑制することが出来なかった。

 理由は不明だが、何故か急激に己の存在そのものが不確かなものに感じられ、自分が何者なのか全く分からなくなってしまう。


(俺は男で間違いない筈だ。…いや、しかし、始めから女であったような気もする……。何故だ、何故こうも自分の存在が曖昧になる…?)


 愕然がくぜんとしながらも、まるで鉛を飲み込んでしまったように重くなった上半身を無理矢理ベッドから引きがすと、少女は掛け布団となっているシーツの下の自分が裸であることに初めて気付いた。

 総身を支配するのは、作り物めいた完璧な程までに美しい曲線を描いた女性の裸体。

 しかし淡い肌色に包まれた肢体はまだ幼く、その証拠に、女性を象徴する乳房ちぶさかすかに膨らんでいる程度で、下向きに三角となっている下半身を覗くと、産毛すら生えていない始末であった。


「…俺は、一体何なんだ……?」


 呆然と紡がれた声音すらも、鈴の音を彷彿ほうふつさせる可愛らしいものであることが、更に少女を混乱の極みへと誘った。


(くそっ、自信を持て。俺は『研修所』所属の執行者で、男なのは間違いない筈だ。しかし今は少女の身。状況が全く不明ではあるが、きっと先生なら原因を知っているに違いない…!)


 覚醒と同時に認知する破目に陥った、己が身に降り掛かった不可解な現実を処理し切れない少女であったが、今は何とかそれを押さえ込み、状況の整理に努める。

 ともかく、夢で見た最後の記憶を手繰ると、先生が現状に関与しているのは間違いないと確信し、少女は先生の姿を求めて視線を忙しなく動かし始めた。

 ふと目を転じると、ベッド脇に据え置かれたサイドテーブルの上には小型の時計が置かれており、時刻は午前十時三十分、日付は九月二十二日と表示されていた。


(それにしても、ここは一体何処なんだ?)


 考え込みながら、素肌に貼付されている生体情報モニター用の電極や点滴針をぎこちない動作で取り外した少女は、次いでベッドから降りてリノリウムの床に素足を着けた。

 少女の最後の記憶は、八月の上旬で途切れている。

 つまりは約一ヶ月の間、少女は世間と隔絶されていたことを意味していた。


「まあ何にしても、素っ裸で探し回るのはちょっとな……」


 そんな独り言を呟きながら、窓のブラインドが下されているせいで薄暗くなっている室内を軽く見渡すと、壁際に配されたラックにガウン型の患者衣が置かれていることに気付き、迷わずにそれを手に取り肌へと通す。

 華奢で小柄な体躯の寸法に合わせた可愛らしい薄桃色の患者衣は少女にぴったりであったのだが、しかし結局下着を発見することが出来なかったせいで、妙に下半身が寒々しかった。


 ともあれ、曲りなりにも一応衣類を身に着けた少女は、軽い溜め息を吐きながら鈍重な躰を動かして、窓際へと歩み寄った。

 自分が男であるという認識と、現実は少女の体であることに強い違和感を抱えつつも、今はその事実から無理矢理目を背け、目前にぶら下がるブラインドの紐を引っ張る。

 ブラインドが上がり、窓の曇り硝子越しに太陽が覗き見えた瞬間、少女は背後に寒気を感じ、慌てて背後を振り返り室内を見渡した。


(誰もいない確かだ。それに、室内のドアもちゃんと閉まっている。何だ、何でこんなにもいやな予感がする…?)


 残暑というには、随分と熱気が充満した部屋に只独り少女は佇みながら、手の甲で額に滲んだ汗を拭う。

 厭な感じに危機感を募らせつつも、まずは現在地の確認を優先させた少女は再び窓際の方へと顔を戻し、一気に窓枠を掴んで開け放った。


 少女の視線の先に見えたのは、豪壮な邸宅や超高層マンションが建ち並ぶ、都心からやや外れた閑静な住宅街であった。

 どうやら現在居るこの施設は六階建ての建物であり、更になだらかに続く坂道の頂上付近に建造されているらしいことが窓外の景観によって判別できた。


 だがその刹那、うだるような暑さと共に、吐き気をもよおす腐敗臭が少女の鼻腔を刺激した。

 何だこの酷い臭気は!

 堪らず表情を歪めて手の平で口と鼻を覆った少女であったが、しかし彼女の記憶の中では、ある意味嗅ぎ慣れている臭いであることにも気が付いていた。


(鼻が曲がりそうになる程の、この強烈な臭い。これは間違いなく、大型動物の腐敗臭だ。何故こんな住宅地でこんなにも濃密な腐臭が漂っているんだ!?)


 悪臭に眉根を盛大にしかめながらも、六階の部屋から眼下の街並みの方へと視線を巡らせるが、人影は全く発見出来なかった。

 午前の強い陽光が、人工物や自然を分け隔てなく照らしつける。

 目を凝らすと電線にカラスが数え切れない程止まっており、不気味な鳴き声の合唱が少女の耳朶じだを打った。


(この風景に見覚えはない…。俺はどこかに移送されたのか? だとしても、人里離れた場所に隔離されている訳じゃあるまいし、何故こんなにも静かなんだ……?)


 物音一つしない、不気味な程に静まり返った街に茫漠ぼうばくたる視線を投げながら、焦燥しょうそうに駆られた思考を行う。

 車両の走行はおろか、路上を歩む人の姿すら皆無であった。だが一方で、街の至る所から火の粉と黒煙が立ち上り、まるで荒廃(はなは)だしい紛争地帯へと迷い込んでしまったような錯覚に、少女は陥ってしまった。


(この場所から見える家並みや標識、看板から判別すれば、ここが日本であるのは疑う余地もない。であれば、何故火災が発生している筈なのに、救急車や消防車、警察車両などのサイレンが何も聞こえてこない?)


 電線を我が物顔で占領していたカラスの群れが、凶々しいき声を次々と発しながら黒衣の塊と化して一斉に飛び去った。

 その様子を見ながら少女は、おびただしい血と無数の死臭に彩られた終末の光景を、今まさに目の当たりにしたのではないか、という疑念に囚われていた。

 万象の全てが不吉なものに感じられ、少女はそれを断ち切るように窓を勢いよく閉めた後、窓際からゆっくりと後退あとずさる。


 動悸が激しい。

 少女は、小刻みに震える両手を驚愕の眼差しで見詰めていた。


(恐怖を感じて、いる…? 正義の執行者たるこの俺が? 馬鹿な、修羅場など数え切れぬほど経験した俺が恐怖にすくみ上がるなど、絶対に有り得ない。――まさか、この感情は少女の身体と何か関連があるのか……?)


 幼少の頃より、『研修所』で厳しい訓練を受けてきた記憶を有する少女は、例え死地であろうと任務中に恐怖を感じた事など一切なかった。

 逆にいえば、恐怖に囚われた者が過酷な任務を達成するなど不可能であり、そのような弱者は確実に命を落とすのは明白であるからだ。

 それ故、少女は人生初ともいえる恐怖という名の強い衝動を感じ、狼狽ろうばいする心理状態を抑制することが出来なかった。


「……くそっ」


 幼い少女に相応しくない悪罵あくばを口から一つ吐き出しながら、思わずすくみ上がって座り込みそうになる身体を強引に動かし、部屋の出口へと向かう。

 連続する不可解な事象のせいで思考はとうの昔に機能不全に陥っていたが、それでも停滞は最悪の状況を招くだろうことを、少女は本能と培った経験で感じ取っていた。

 故に歩く。事態の解明と、己が生存を最優先とする為に。




 確認するとドアに施錠はされておらず、少女は容易に室外に出ることが出来た。

 停電しているせいか、医療病棟の通路にも似た施設の中は、日中にも係わらず全てが薄暗かった。

 磨き上げられた床、白く長い廊下は病院や研究所を連想させた。

 壁には等間隔で木造製のドアや、セキュリティが掛かっている重厚な金属製のドアが規則正しく配置されていた。


 少女は裸足のままであったが、長年の訓練で身に付けた静かな足運びにて、施設内の探索を開始する。

 そして直ぐに気付いたのは、施設の内部はどこもかしこも雑然としている事であった。

 まるで嵐が通り過ぎた後のように、廊下やリノリウムの床には無秩序に物が散乱しており、少女はそれらを器用に避けながら探索を続けた。


 しかし数多くの放置された物品とは相反して、未だ少女は人影を発見することが出来なかった。

 不気味さを孕んだ沈黙が建物全体を包む中、少女は施錠のされていない部屋を一つ一つ丹念に調べ、何か現状の手掛かりに繋がるような書類や物等を確認して回ったが、結局徒労に終わる事となった。


 そんな中、少女は姿見の鏡を発見し覗き込むと、そこに映し出されていたのは年齢十二、三歳くらいの、未成熟ながらも不自然な程に容姿が整った女子であった。

 肩口で綺麗に整えられた艶のある黒髪と、美少女と評するには余りにも完璧過ぎる面貌は逆に無機質な印象すら覚えてしまい、生きた人間というよりかはむしろ絵画や彫像を彷彿とさせるものだった。


(こうやって改めて自己の容姿を鏡で見てみると、何とも不思議な感じがする。鏡に映り込んだ少女は間違いなく自身なのに、それが他人とも思える一方で、当たり前のように今の容姿を受け入れている自分もいる……)


 矛盾する思考に戸惑う少女であったが、それも束の間の出来事で、ともすれば聞き逃しそうな程の小さな衣擦きぬずれの音を察知したことで、一気に総身を緊張がき抜けた。


(職員か!? いや、しかしこれは――)


 姿見の鏡がある部屋から足音を殺しつつそっと抜け出し、急いで廊下に放置された荷物が満載された台車の後ろに少女が隠れる。

 そして物音がした方向に意識を集中し、物陰から息をひそめて様子をうかがった。

 不意に血と糞尿が入り混じった強い悪臭が鼻をき、思わず嘔吐えずきそうなるのをどうにか堪える。


 少女の警戒心がこれ以上ないくらいに高まる中、交差する廊下の先から壁に寄り掛かるようにして歩み出たのは、双眸の下から上顎の辺りまで皮膚と肉が醜く抉られた、スーツ姿の人間であった。

 顔面の欠損はいちじるしいものの、中肉中背の中年男性と思しきその人物は、唸るような低い声をヘドロのような血液と共に口腔から垂れ流ししつつ、何かを探し求めるように廊下を緩慢な動作で徘徊し始めた。


あれ(・・)は、一体何だっ?!)


 どう贔屓目ひいきめに見ても、普通の人間には見えなかった。

 明らかに様子のおかしい男性の挙動を、少女は屈み込んだまま注視する。

 否応なしに心臓の鼓動が高まると共に、口内に溜まった生唾をごくりと嚥下えんかする。

 ほんの一瞬、眼前を覚束おぼつかない足取りでうろつく男性に接触してみようかと少女は考えるものの、首を振って有り得ないと即座にその思考を否定した。


(目の前のあいつ(・・・)は何かヤバい。不用意に近付くのは確実に自殺行為だ。俺の直感がそう告げている。それにもし襲われた場合、こんな貧弱な少女の躰では例え相手がど素人だとしても、銃やナイフが無い限り満足な戦闘など不可能だ)


 もしかすると、奇怪なこの状況の手掛かりをスーツの中年男性が有しているかも知れない事から、一度接触を試みてみたい誘惑に少女は駆られてしまうが、如何せん不測の事態に対する自身の能力に自信が持てなかった為、今回は断念せざるを得なかった。

 そうとなれば、目前でうろうろするスーツの男性から上手く発見されずに、この場を離れるべきであるのだが、問題はこれから何処を目指せば良いかであった。


(ここが何処なのか分からないが、取り敢えずこの建物から一旦離れて『研修所』を目指すべきだな。外の状況は不明だが、きっと『研修所』に行けば何らかの手掛かりが得られるだろうし、ひょっとすると先生に会えるかも知れない)


 迷うことなく方針を決め、行動を始める。

 少なくともこれ以上この場に留まっていても、状況の進展は望めそうにないし、何より少女には武器と情報が必要だった。

 そして『研修所』には、その両方が揃っている。

 内閣官房に設置されている内閣情報調査室や、自衛隊における情報本部統合情報部、また警察の公安部局といった諸組織とは一線を画した、日本国内での秘匿中の秘匿とされる情報の暗部を担う機関が『研修所』であった。


 何とか『研修所』まで辿り着くことさえ出来れば、あらゆる状況に対処出来るだけの武器と情報が間違いなく手に入る。

 但し大きな問題も残されており、それは自分の姿が成人男性であった以前とは全くの別人である少女へと変化してしまった事だ。とはいえ、そこは出たとこ勝負するしかなく、一縷の希望に賭けて挑戦するしか他なかった。



 緊張により身体が強張りそうなるのを何とか堪え、少女はそろりそろりと忍び足にて薄気味悪い呻き声を垂れ流し続けるスーツの男を回避する。

 停電によりエレベーターは使用不可であるのは既に確認済みであるので、少女は階段を使って一階まで下りることを選択し、動いた。

 気配を消し、遮蔽物を利用して進みながら階段の場所を確認すると、やや暫くした後、少女はスーツの男に気付かれることなく、ようやく階下へと続く階段へと辿り着いた。

 ふぅっと思わず安堵の吐息を漏らしつつ、一階を目指し、少女は慎重に足を階段へと踏み出した。


 六階から二階までの道のりは順調であった。

 しかし一階へと下りる階段の踊り場に、伏したまま動かない人間が三体転がっているのを発見した時、少女の背筋に悪寒が走り抜けた。

 少女は足を止めて、迷う。即ち一か八かこのまま強引に突き進むか、それとも二階のロビーの方へと進路を変更し、別な方法で外に出るか。


(二階程度の高さなら、どうにか安全に外に出られる場所があるかも知れない。ここは無理に進むより、回り道を選ぶ方が確実か――)


 そんな事を考えながら、少女が歩みの方向を変えた時、迂闊うかつにも足下の注意が疎かとなっていた。

 つまり、誰かが倒したゴミ箱の中身が床一面に散乱していたのに加え、偶然の悪戯か、そのゴミというのが運悪くジュースの空き缶であったのだ。


 無造作に転がっていた空き缶の一つを、少女がつま先で蹴り飛ばしてしまう。

 その勢い自体は決して大したものではなかったのだが、しかし空き缶は階段をものの見事に転がり落ちていった。

 痛い程の静寂を切り裂いて、壁や床にぶつかった空き缶の乾いた衝突音が、建物内部に反響する。


「…あ……」


 悔悟が少女の額に汗の珠を結ばせ、酷く掠れた声が喉元を割って漏れ出た。

 物音によって覚醒したのか、これまで階段の踊り場で微動だにせず倒れ伏していた者達が、一斉に動き始める。

 更には、階上や階下といった建物内のありとあらゆる場所から、獣じみた低い唸り声が無数に湧き起った。


 形容を絶した猛烈な害意を肌で感じ、少女は総毛立った。

 舌の根が強張り、四肢の震えが止まらない。

 眼下の三人はそれぞれ年齢も性別もバラバラであったが、只一つの共通点としてその者達の顔と上半身は全て血塗れで真っ赤だった。

 三人はそれぞれ激しく首を左右に振りたくって辺りを見回すと、直ぐに少女の姿を認めた。


 そして次の瞬間、凄まじい唸り声を発して三人は一気に跳ね起きた。

 血も凍るようなその凄惨な光景が、少女の網膜に焼き付く。

 各人著しい損傷を顔面に負っており、その傷口から赤い粘液をだらだら撒き散らしながらも、果てのない狂気と悪意を秘めた白濁の双眼にて獲物である少女を見据えていた。


 間も置かずその三人が異常な速度で階段を駆け上がり、少女が居る場所へと殺到する。

 一方の少女は立ち竦んだまま、硬直していた。

 刹那、時間が異常にゆっくりと流れ始めた。

 常識的に考えれば、只の少女がこの状況を切り抜けるのは正しく絶望的であろう。

 だが、彼女は只の少女――否、普通の人間・・ではなかった。


 思考と意識が瞬時に切り替わり、感覚も異常な程に鋭敏になる。

 思考は、眼前の“敵”を排除する方法を導き出し。

 意識は、自己の深淵に埋没し、ある《力》を作動させる。


 下唇が抉れ、歯が剝き出しとなった二十歳代の若い男が、柔らかな少女の喉元を食い破ろうと口腔を開けて肉薄したその時、少女の姿が一瞬ぶれた。

 その時少女は、右足を半歩進ませながら、小さな拳を縦にして突き出していた。

 するりとその拳が若い男の顔面へと吸い込まれた瞬間、常識を完全に逸脱いつだつした物理衝撃が突如として巻き起こった。

 少女が放った縦拳の先にある若い男の顔が陥没するや否や、彼は身体ごとそのまま真後ろへと吹っ飛んでいき、壁へ衝突した。


 続く二人目は、ワイシャツ姿の職員と思しき三十歳代の女性であった。

 少女が居る場所までその女性が階段を駆け上がった時には、既にその少女の躰は背中から高速で回転していた。

 ひゅんっと、少女の細い左脚が内側へと僅かに曲がりつつ弧を描き、三十代の女性の首筋へとめり込む。

 刹那、放たれた蹴足に再び奇怪な力場が発生し、女性の首が酷く歪にへし折れると同時に、その勢いのまま先の若い男と同様、壁まで弾き飛ばされ衝突する。


 そして三体目、小太りの四十歳代の男性は上手く少女の隙を衝いて飛び掛り、床に押し倒すことに成功する。

 かっと目を見開き、卵の黄身のような白目がぎょろっと少女の相貌を捉えると、その四十代の男性は怒りと喜びが入り混じったような獣の咆哮を発し、口と鼻からどす黒い血を滴らせたまま、少女の美しい頬を噛み千切ろうと顔を寄せた。

 だがその時、少女の華奢な両手が男性の顔面を挟み込むように添え置かると、三度不可解な現象が発現する。

 添えられた少女の両手が時計回りに回転。すると男性の首もまた同時にゴキッ、バキッと頚椎が派手に粉砕される音を撒き散らしながら奇妙によじれ、ほぼ頭部が一周した時には、男性の活動は完全に停止していた。



 馬乗りの状態で、ぐにゃりと力の抜けた小太りの男性の下敷きとなっていた少女は、渾身の力を振り絞って何とか下から抜け出した後、無我夢中で三人から距離を取る。

 今の戦いで、少女の着る薄桃色の患者衣は酷い悪臭のするどす黒い粘液がべったりとこびり付き、乱れた着衣とも相まって、無惨な恰好となっていた。


 小刻みな痙攣を繰り返しながら、床に横たわる三人の姿を見下ろす少女は、階段の手すりに体重を預けたまま、激しく喘いでいた。

 そして、滝のように流れ落ちる汗も拭う余裕すらない程に、少女は茫然自失の状態に陥っていた。


(な、何だ。今俺は、()()()()()()……!?)


 無意識の動きというには、あまりにも奇怪な現象であった。

 確かに格闘術の動きは、訓練で培ったものに相違はない。

 だがどんな体術を駆使しようとも、小柄な少女と大の大人との体格では決定的な体重ウェイト差があり、力負けするのは覆しようのない現実があった。


 しかし一瞬の攻防の中、少女は常識では有り得ない《力》を発動し、文字通りの死闘を制したのであった。

 少女の脳裡に、ある言葉が当然のように湧き出てくる。

 それは成人男性だった頃の、『研修所』の執行者として働いていた時の記憶には無いものであったが、少女の姿に変貌を遂げた今の自分おいては、随分馴染み深い記憶といえた。


 ―――【念動力】―――


 そんな荒唐無稽な単語が思い浮かぶも、次の瞬間には、身の毛もよだつような吼え声と共に迫り来る新たな脅威を感じ取り、少女は疑念を打ち消して一気に階段を駆け下りる。



 地獄は、まだ始まったばかりであった―――














ここまでお読み下さってありがとうございます。

作者のもこもっこと申します。

遅筆ではありますが、自分なりのゾンビものを全力で執筆していきたいと思っています。

何卒宜しくお願いします^^

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