海辺へ
耳の内側から聞こえてくる小さな拍手の音が、私を呼んでいた。
くらやみの海は途方もない不安と、その先に見えない、どこにもない未来を映し出しているようにも思えた。
私は不安定に揺れる小舟の上でふりかえる。
星の砂を散りばめたように静かに光る浜辺の上で、その人はもともと鋭い目つきをよりいっそうきつくして、怒った表情を浮かべていた。
「この世界には絶対に言ってはいけない言葉があるわ」
意志の強いその美しい顔立ちは、険しさを隠さないまま言った。
私は黙って頷いた。
「その考えに取りつかれていたって、こんなの悲しいに決まっているじゃない」
その人は容赦なく私を非難した。
小さく揺れる舟は私をあやすように穏やかに、不安そうに私の顔を覗き込んでいた。
「明日の朝は、きっとすてきな太陽が昇るのね」
私は皮肉にもそう言い放った。
その言葉を聞いた瞬間、その人は唇をきゅっと強く結んで私を睨んだ。
瞳には今にも落ちそうな涙が揺れている。
「明日なんて……」
その人は言い終える前に、すぐに俯いてしまい、それ以上は何も続けなかった。
「どうにもならないこともたくさんある」
俯いたままその人はつぶやいた。
「それでも、あの時の海はきれいだった」
私はつぶやいた。
その人は、気が付いたように顔をあげ、私を見ていた。
「私が埋められたのは、水路のほとり」
波打ち際を見つめながら私は言った。
この人の不安や憤りを海へ一緒にかえすみたいに。
「だから、思う存分泣けるでしょう」
優しい波の音に乗せて、私は浜辺に立つ悲しそうな人にそう言葉をかける。
その瞳はすがるように行き場をなくしていて、この人をそんな顔にさせてしまうなんて、と罪悪感をおぼえた。
優しい罪悪感さえもさらったまま、風が二人の体を揺らした。風はまっすぐにくらやみの海へと飲み込まれてゆく。
私の体は優しく招き寄せられて海へと傾く。
まっくらな海を、まっすぐに見つめる。
空は黒く染まり、沼にも似た海はそれでもたしかにさざ波の音をたてながら私を呼んでいた。
揺れる舟の上で、私は歓喜する針金虫の気配を感じる。
「行ってしまうのですか」
もう一度ふりかえると、浜辺の上には優しい表情のあの人がいる。
「はい」
私は確かに頷いた。
悲しそうな表情を浮かべながらも、舟のへりを持つ目の前の人は、言葉を選びながら視線をめぐらせた。
「明日の朝はきっと美しいのでしょうね」
困ったように言った。
静かに私は頷いた。
明日はきっと美しい。
白々しく太陽が昇り、またたくさんの明日が始まっていく。
そこに私はいないだろう。
それだけがほんとうのことだった。
「また二人で、歩いて行けると思っていたんですけれど」
残念そうに、控えめにその人は言った。
「私はアイダ、おぼれてふびん」
いたずらっぽく私は囁いて、くるりとその人のほうを振り返る。
おどける私を見て、ちょっと怒ったような顔をしていた。
私は申し訳なさそうな顔をして、それでも胸のうちのはっきりとした決意は揺るがず、そのまま微笑んだ。
「でもね、それでもね、私、良かったと思うんです」
よくわからないけれど、と、ぼんやりした言葉を必死につむぐ。
もうこれが最後だと分かっているから、きちんとした言葉を届けたかった。
しかし思い浮かぶ言葉ははっきりとしたものではなく、きっと、口にしたらこの海のさざ波に消されてしまうくらいか細いもののように思えた。
「……だって、こんなに海がきれいなんだもの」
暗いまどろみを見せるその海は、確かな強さを持って私の前に広がっている。
空はまっくらなのに、海には星のような、小さな光がきらきらと反射していた。宝石を落とし込んだようにも見える。
いつの間にか、そのきらめきを縫うように、波紋を作りながら無数の黒い影が海を渡っていた。
黒い影は背中を曲げてのそのそと、私が見つめる先へと歩いていく。
「私もあの人たちのようになるのだわ」
私は呟いた。
「え?」
私の背後に佇む優しいその人は、私の言葉の意味が分からずに聞き返してきた。
「……いいえ」
私はこれ以上言葉をつむぐことをやめた。
私の見ている世界と、この人が見ている世界は圧倒的に違うのだ。そんな寂しさが胸にこみあげてきて、これ以上何も言えなかった。
黒い人影は、丸まった背中をのろのろ揺らしながら、迷わず向こう側へと歩いていく。
この人には見えないのだ。
この恐ろしくて優しい、くらやみの人たちのことなんて。
思えば、針金虫に寄生されている私は、もうあの黒い人たちと同じだったのかもしれない。
人間の真似事をしていただけなのかもしれない。
なにか、ほんの奇跡みたいなものがあって、この人たちと出会えただけなのかもしれない。
だから、そろそろ針金虫を還さなければならない。
私もあの黒い人影にならなければならない。
「私、嘘つきだわ」
「……そうですね」
「こんな自分嫌いよ」
「……そうですか」
小さな拍手は星のきらめきと一緒に微笑んでいる。
針金虫だって、水の気配に歓喜している。
黒い人影は、くらやみの海に飲み込まれていく。
その先に、何があるのか分からないのに、迷いなどないように進んでいる。
「針金虫を還さなきゃ」
「そうなんですか」
「私の心を還してあげなきゃ……」
「そうですね」
その人は何か迷ったように、舟から手を離して私に片手を差し出した。
私はその手を、冷たい心で眺めたまま、握り返すことはしなかった。
「……私、優しくなんかない。ほんとに嘘つきだわ」
「……そんなこと、言わないでくださいよ」
苦笑しながら手をおろし、ほんとうに優しいその人は舟をゆっくりと押した。
私を乗せた舟はゆっくりと動き出し、黒い人影の脇を通り抜けて進んでいく。
私はまっすぐに海の向こう側を見つめる。
くらやみの空に星などない。
それでも海は何かを反射したようにきらめいている。
そのきらめきがやがて、ちらちらと炎になり、海は火に包まれていく。
針金虫が痛いくらいに喜びにのたうつのが分かる。
確かなくらやみと、きらきらと怪しく燃える水面を、そらさずに見つめ返し私の舟は進んでいく。
私がいなくなったあとの朝は、きっと美しい。
その確信だけを胸に、私は振り返らずにその先を、ただひたすら見つめていた。
太陽が真上にあった。
日差しはやけに強く、湿気を含んだ景色がじりじりと揺れている。
日の光は苦手だった。
二本にのびているその鉄の道は、ただまっすぐに続いていた。
電車に乗らなければならない。
その考えだけに取りつかれて、私は駅のホームへと来ていた。
電車に乗って、隣の街へ行かなければならない。
それが母親の望みだった。
母親は美しくまっすぐな声色で私に未来のことを語っていた。
そのまっすぐで確かな強い声が、まるで神様からのお告げのように私には思えていた。
だから私は駅にいる。
ここで、電車に乗って、隣の街に出ていかなければならない。
その考えだけが、私をここへ呼んだのだ。
昼間の駅のホームは利用者も少ないのだが、しかし少し離れたところで一人、同じように電車を待っている人がいる。
その人が、怖かった。
何をされたわけでも、何かをされそうなわけでもない。
ただ、そこにいるだけで怖かった。
どこか遠くへ行くようなおしゃれな服で着飾った女性。
日差しの強さに目を細めながら、向かいのホームを見つめていた。
「……」
私はちらりと女性を見た後、すぐに視線を落とした。
かぶっている帽子をさらに目深にかぶりなおす。
視界がすっかり狭くなり、私の足元しか見えなくなった。
情報量の少なくなった視界のせいで、女性がこちらを見ているのではないか、という疑念にかられた。
しかしそれを確認するためにもう一度顔をあげるような勇気もなく、私は黙ってこんなちっぽけな恐怖に耐えていた。
やたらと細い足首と、やたらと遠いような地面。胴が長くなったような感覚もある。地面が遠くて、ふわふわした。
鳥の鳴き声が耳を裂いて、反射的に顔を上げた。
声の主は落ちるように線路へと降り立った。向かいの線路の枕木にとまり、何かを小突いている。
私はそれをぼんやりと眺めていた。すると、駅のホームにアナウンスが流れる。
心臓がつかまれたようにぎゅっと痛くなる。
こうして、私は隣町に行くために電車を待つ。
これで一体、何度目だろう。
遠くから線路上を走る電車の音が聞こえる。ブレーキをかけた、鉄と鉄がいがみ合う音がする。その音ががんがんと頭に侵入してきて、頭をぐちゃぐちゃにしてくるようで、吐き気を覚えた。
目の前に、四角い鉄の塊が現れる。その塊は大きく息を吐いて、口を開いた。
一人の男の人が俯いたまま電車から降りてくる。私はその人の道を妨げないように、横に避けた。
そして、私は黒い人影に目を奪われる。
大きく口を開けた鉄の塊。その窓から見える向かいのホーム。
そこに、黒い、ほんとうに真っ黒な人の形をした、何かを見た。
黒い影は向かいのホームに飾られた、一つの絵を見ている。
落書きをされて、何が描いてあるのかさえ分からなくなった、ぐちゃぐちゃの絵を見ていた。なんのこともない、いたずらによって何が描かれているかもわからなくなってしまった絵だ。
それだけのことに、目を奪われた。
体がふわふわして、頭がぐるぐるしていて、立っているのさえ困難になった。
電車が何か言って、また息を吐いて口を閉じた。
やがてゆっくりと電車は動き出し、駅には静けさが戻る。
頭の中にいる、一筋の虫がざわめくのを感じていた。
私は唇をきゅっと結んで、俯き、すぐに構内へと続く階段へ向かった。
真っ黒な人たちは、まだ向かいのホームに佇んでいた。
あの黒い影と、意味の分からない恐ろしい絵から逃げるように、私は階段を早足に降りていた。
暗い地下の石造りの通路では、湿った匂いと水の気配が少しした。
それに喜びを感じたように、私の脳みそに寄生した針金虫がのたうっている。
「……」
私は震える体を抱いて、その場に立ち止まっていた。
針金虫が優しく私の脳の中でぐるぐるとまわっている。
妙な冷気が体中にまとわりついているような錯覚を覚えた。
電車には乗れない。
私は思った。
この街から出て行けない。
それだけが確かなことだった。
遠くから枕木を踏む音がゆっくりと聞こえてきた。
静かな振動が地下全体に伝わり、湿気の多い通路に、一つの水滴が落ちた。
ぽつん、と短い音をたてたその水は、私の耳に異様にはっきりと届いてきた。
海へ行かなきゃ。
その考えだけが、一番冴えたやり方のように思えた。
たまらない程の辛さを胸に抱えた私は、海へ行くことだけが、自分の救いであるような気がした。
一歩踏み出そうとしたとき、
「大丈夫ですか?」
後ろから声をかけられた。
私は振り返った。
そこには優しそうな顔立ちをした、白衣を着た見知らぬ男の人が立っていた。
白衣を着ている人なんてそうそう見ないので、私は少しぎょっとした。
男の人は私の顔を心配そうにのぞき込んでいる。
「え、あ」
頭がうまく動かずに、どもってしまった。
「だ、大丈夫です」
何とか返事をする。
「顔色がとても悪いですよ。どこか座る場所を……」
「あの、ほんとうに、良いんです。すみません」
私は一言謝り、逃げるようにその場から立ち去った。
針金虫は、またどこかへ隠れてしまった。
針金虫に誘われるまま、私はただ歩いていた。
これが私の習慣になっていた。
家にいたくない、というわがままと、外で日を浴びると、少しだけ針金虫が安らぐような気がするので、私はこうして散歩をしている。
そしていつか、いつの間にか、あの駅のホームへと自然と足が向き、知らぬうちに電車に乗れてると良い、なんて、そんな甘い考えを持っているのだ。
やたらと暗い雰囲気をたたえた商店街を、私は歩いている。
小さい頃はそれでも少しは活気があったのだけど、今ではシャッターが閉まっているお店の方が多い。
人通りも少ない。
けれどその先に駅があるので、商店街には無関心に歩いている人の姿はあった。
私は帽子を目深にかぶり、その人たちと目が合わないように、足元を見ながら歩いていた。
春が過ぎて、夏の気配の前の、湿気が多くなってくるこの陽気は、体が重くなってくる。
針金虫が水の気配に喜ぶこの瞬間が、とてつもなく辛い。
「……針金虫なんて、ほんとうはいないのよ」
私は、どこかで誰かに言われたような、残酷な言葉を復唱した。
「すみません」
すると、突然誰かに呼び止められた。
「……」
私はびっくりしすぎて返事をすることもできず、顔を上げて声のした方へ振り返る。
「驚かせてしまってすみません」
私を呼び止めた人と目が合うと、私がずいぶん驚いた顔をしていたようで、その人は謝った。
「いいえ……」
私はそういって、また俯いた。
知らない人だ。
知らない人はどうしても怖い。
針金虫さえ、小さく縮こまっている。
「先日、駅にいた人ですよね?」
「え……はい」
緊張のあまり、どもってしまう。
「体調はもう大丈夫ですか?」
「え?」
私はまた顔を上げてその人の顔をよく見る。
優しそうな顔立ちと、穏やかな瞳をたたえて私を見つめていた。なにより、白衣。目の前の男の人は白衣を着ていた。
駅の地下で会った人だ。
私はやっと先日のことと繋がり、少しだけ緊張を緩めた。
「あ、はい……大丈夫です……」
あの衝動的な辛さや痛みは、今はもうどこにもない。
しかし、私の脳みそに巣食う針金虫はまだここにいる。
この虫がいる限り、私は一生大丈夫にはなれない。
私は嘘つきだ。
背中を、冷たい自分がつついたような気配がした。
「良かった。ほんとうに辛そうにしていたので」
「あの、何か御用ですか」
「急にすみませんね。わたしは隣町から来たのですが、人を治す仕事をしている者です」
「はあ……」
「この街には、どうやら不思議な病気があるみたいでしてね。風土病、みたいなものですか」
「……」
針金虫が脳みその隅っこで縮こまっているのが分かった。
この子が怯えている。
いや、怯えているのは私なのかも知れなかった。
「それについて、知っていることはありませんか」
「……」
私はその人をぼんやりと見つめていた。
優しそうな顔立ちのその先に、黒い人影が見える。
その人影は、静かな商店街によく似合うように、まるで彷徨っているかのようだった。
「……いいえ、知りません。すみません」
「いやいや、謝らなくて結構ですよ。ハリガネムシって、どこかで呼ばれているっていうのは確かなんですけれど……この街でさえ認知度は低いようですね」
「……」
それ以上何も話さない私を確認して、その人は、それでは、と会釈をして駅の方へと去って行った。
私、嘘つきだわ。
心の中で悪態をついて、これ以上あの人と関わりたくなくて、来た道を戻るはめになってしまった。
針金虫が、恐る恐るこちらの顔色をうかがっている。
人影は、こちらを見て、指をさして肩を震わせていた。
そのくらやみの底のような顔が、にんまりと笑っているように見えた。
灰色の象たちが、空を覆い尽くしていた。
太陽の光は地上にか細く降り注いでいる。
こういう天気の時は、針金虫が喜んでいる。
それと比例するように、私の体は重くなってくる。
私は家から近くにある、バラ園へと来ていた。
夏を控えたこの季節ではバラも見頃だが、この天気のために来場者は少ないようだった。
私はどんよりとした雰囲気のバラ園を静かに進んでいく。
どこかふてくされたようにくすんだ色のバラたちが空を仰いでいる。
私の針金虫のように、雨を待っているようだ。
「こんにちは」
「……」
私はそうあいさつをされて振り返ったが、頭の回転も鈍く、驚く前にその人を認識した。
また、あの駅の人だ。
人を治す仕事をしている、と言っていた男の人。
優しい顔立ちはそのままで、今まで二度会ったときとは違って、今は心配そうな顔をしていない。
とても嬉しそうな顔をしていた。
「たびたび会いますね」
「そうですね」
私はのろのろと返した。
「人の多いところは苦手ですか」
「……」
「せっかくなら、晴れの日に見に来るところじゃないですか」
「日差しが強いの、いやなので」
「それもそうですね」
男の人は肩をすくめて言った。
私の感じの悪い返しに、困った様子もなく男の人は私の傍らに咲く黄色いバラを見た。
「……ごめんなさい」
罪悪感に耐えられず、私はすぐに謝った。
なんて卑しい子だろうか。
自分を罵倒する。
「いいえ。構いませんよ」
「……人を治す仕事をしている、と言っていましたよね」
「そうですよ」
男の人はやわらかく言った。
「針金虫……本当にある病気だと思っていますか?」
「ええ。わたしはほかの街で、ハリガネムシに寄生されたことがある、と言っている子に会ったことがあります」
「……針金虫に寄生されたら、この街から出られなくなるそうです」
「そのようですね。その子はきっと、治った、のだと思いますよ」
「治すことができるんですか」
「その子の言葉がほんとうならね」
「……」
「針金虫になる、というのではないそうですね。寄生される、ものだそうです」
男の人は言った。
「寄生されてしまったら、どこからか知らない辛さが押し寄せてきて、それから逃げるために、海に飛び込んでしまうそうです」
「……こわい、病気ですね」
戸惑いながら、私は言った。
男の人はそうです、と大真面目な顔をして頷いた。
その態度に、私はまた恥ずかしい気持ちになる。
私は嘘つきだわ。
心の中でちくりと、自分を刺した。
けれど、この人には私の針金虫を見られたくないという気持ちの方が強かった。
空虚な自尊心が私をそうさせた。
「ここでは水難事故が多いとか」
「その針金虫のせいだって、言うんですか?」
「それはわかりません」
「あの、ほんとうに、お医者さんなんですか?」
私はあまりの適当さに、思わず追及してしまった。
男の人は驚いた顔をして、身振り手振りをつけて必死に抗議した。
「もちろん、わたしは人を治す人間ですよ。わたしのことは先生と呼んでください。確かに、そうは見えないかもしれないですけれど……」
彼の必死さに、私はおかしくなって微笑んだ。
「ふふ、そうですか、では先生と呼ばせてもらいます」
「では、わたしは貴方のことをなんて呼びましょう」
先生は私の様子を見て、どこか安堵したような表情を浮かべた。
「私は……パレットです。パレットと呼んでください」
私は教室での愛称を先生に伝えた。
「パレットさん……すてきな呼び方ですね」
先生はそう微笑んだ。
「教室で、みんながそう呼ぶんです」
「教室?」
「絵の、教室です」
「へえ、それでは、パレットさんは絵が描けるんですね。すごいじゃないですか」
「そんな……すごいことなんてないです」
私は少し恥ずかしくなって、足元に咲く色とりどりのバラを見つめた。
すると、その間を優しい風が通っていった。
先生の足元にもそのやわらかな風が笑いながら駆け抜けていく。
私と先生はしばらく二人で見つめ合い、やがて何も言わずに歩き出した。
「これから雨が続くようですね」
先生が灰色の空を見上げながら言った。
「そのようですね」
「太陽はあまり得意じゃないそうですけど、やっぱり、少しは晴れて欲しいと思いますよね?」
「まあ……少しは」
「また晴れた日に、このバラ園に来たいものです」
「来年に、なっちゃうんじゃないですか」
先生の言った通り、これからは雨続きになってしまう。この雨雲たちがいなくなるころには、気温はすっかり上がってしまってこのバラたちも枯れていることだろう。
先生は少し残念そうにしながら、けれどやはり嬉しそうに微笑んだ。
「では来年、また見に来ましょうか」
そう呟いた。
ふいに先生は立ち止まり、赤色のバラを見つめた。
私もその隣に立って、目の前に咲くバラを見つめる。
バラは私と目を合わせずに、ただじっと地面を見つめていた。
来年。
そんな単語を頭の中で転がしながら。
来年には、私はこの街から出て行けているのだろうか。
この街から出られる、という希望を思い浮かべる。それはとても曖昧なもので、今の私には到底信じられるものではなかった。
「気のせいなのかもしれません」
「え?」
バラは俯いていた。
ただひたすら、自分が立っている地面を見つめていた。
何かをひたむきに信じているように。いつか光がさす瞬間を待っているかのように。
「針金虫なんて、気のせいなのかもしれません」
「気のせいなんてことがあるんですか」
先生は静かに言っているようだった。
表情は分からない。
私はバラから目をそらさなかった。
バラが見つめる地面には、一体どんな希望があるんだろうか。
私の足元には、海のさざ波が打ち寄せているような気がした。
どこからか、海が私を呼んでいる気がした。
ちがう。
針金虫を、海へ還さなきゃいけなかったんだ。
「ほんとうは辛さも何もないんだと思います。気のせい、って言われたら、きっとほんとうに気のせいなんです」
針金虫が起き上がり、頭上に広がる灰色の雲を眺めている。
この虫は雨を待っている。
水の気配は安らぐのだ。
海に似ていて、安らぐのだ。
少し前に言われたことを思い出す。
私の辛さはきっと気のせいなのだと思った。
ほかの人に認められないのなら、無いのと同じだと思い知ったのだ。
寂しい気持ちがふいにわきあがってくる。
あのときの汚い笑い声が、耳の奥で暴れていた。
「辛い気持ちはいつだってほんとうですよ」
先生の声は、ひどくはっきりと私の耳に届いた。
すっと、あの笑い声たちが水しぶきをあげるようにきらめいて消えた。
私はいつの間にか、先生を真正面から見つめていた。
先生も、私から目をそらさなかった。
「そんなに悲しそうな顔をしている人に、わたしは気のせいだ、なんて言えないです」
先生は優しく、何かが胸にささっているかのように眉を下げて、苦しそうに言った。
私と似ている痛みを今、先生が感じているのかも知れない、と一瞬でも思えたことに、私は驚いた。
そう認識した瞬間、その優しい感情は花のように散ってしまったけれど。
その記憶だけは、確かにほんとうに、私の心に残っていたのだった。
来年。
先生の言葉を思い返す。
来年なんて途方もないものだと思った。けれど、明日の朝、こんな気持ちで太陽を迎えられたら素敵だと思った。
まぶたを優しくなでるあの暖かな光。窓から差し込む白い色と、新しくなった空気を吸い込んで微笑む自分を思い浮かべる。
そんな明日を信じたいと、私は思った。
穏やかな心地で、色とりどりのバラに囲まれた場所で、私は静かに微笑んだ。
朝の光がちらちらと部屋に差し込んできた。
空気は夜の吐息を残したまま冷たく、まだ誰の温かさにも侵されていない。
どこか神聖さを含んだこの気温も、これからどんどん短くなっていくのだろう。
久しぶりに絵を描きたい気分だった。
部屋にある絵の具を見る。ちょうど赤がないようだった。
「……取りに行かなきゃ」
教室への道のりはそれほど遠くはない。
けれど、遠い。
私にとっては果てしない道のように思えた。それはきっと、海よりも遠い。
それでも絵が描きたかった。
ただ、頭の中にある先生と見たバラを、そのままで美しく、色とりどりの絵の具を使って描きたいと思ったのだ。
私は着替えをし、最後にきちんと帽子をかぶる。
先生の顔が少しだけ浮かぶ。
辛さの上に、何か優しい気持ちが広がっていくのを感じる。
ああいう人もいるのだ。
ここではない、ほかの街では、ああいう人もいるのだ。
朝の光は確かに私の足元を照らしている。
こんなに早朝から部屋を出るのは何年ぶりだろうか。
胸の内に熱い希望がちらちらと燃えるのを感じた。
私は床にちりばめられた光を蹴るように、部屋から出て行った。
玄関の扉を開くと、月の気配を置いてきたようなひんやりとした空気が私を出迎えた。
太陽はまだ真正面にある。
「どこに行くの」
ふいに声をかけられて、私の目に映るすべてのものが他人ごとのように目をそらしたような気がした。
夜の冷たさが私の体にまとわりつく。
振り返ると、母親が玄関に立っていた。
物音を聞いて起きてきたのだろう。
「……教室に」
なんとか答えると、お母さんは怪訝そうな顔をした。
「こんな朝早くから教室はやってないでしょう」
「絵の具をとりにいくの」
「授業は受けないの」
「……」
私は受ける、とも、受けない、とも答えなかった。
はっきりと言う事が出来なかった。何を言っても怒られるような気がした。
自分が幼稚園児にでもなったように思えて、惨めな気持ちが広がっていく。
「口に出して言わなきゃ、何も伝わらないんだからね」
お母さんは優しく、しかし確かな冷たさを持ったまま言って、玄関を閉めた。
私は目をぎゅっとつむって、喉の奥から這い上がる何かを必死で飲み込んだ。
太陽は真正面にあって、私を見つめてあざわらっている。
お母さんの言葉は強く私の耳に残り、その言葉は世界の真実のようにはっきりとしたものだった。
お母さんの言うすべての言葉は、世界の真実だと、信じている自分もいた。
私の辛さや悲しみは、あの人は理解してくれない。
それは、無いことと同じなんじゃないか?
冷たい疑問がまた帰ってきた。
そんなことはない。
思いながら、私は逃げるように冷たい空気を振り払い、教室へと急いだ。
歩いていたはずだった。
ずいぶん長い間、歩いていたような感覚があった。
しかし、自分がぽつりと足を止めてあたりを見回すと、そこは公園だった。
家と教室の通り道にある公園は、閑散としていて、誰一人として利用していなかった。
こんなにも歩いたはずなのに、体はやけに疲れているのに、やっとここにたどり着いたようだった。
いよいよ自分はだめになったのかも知れない。
そんな考えがふと脳裏をかすめながら、私はベンチへと歩いていく。
「こんにちは、パレットさん」
声をかけられ振り返れば、そこには先生が優しい微笑みを浮かべて立っていた。
いつもの白衣姿で、穏やかな雰囲気を乱すこともなくそこにいた。
私は言い知れぬ安堵感を覚えた。
ざわざわと忍び寄っている絶望感が、静かな波のようにひいていくのが分かる。
この人はすごい人だ。
確かなこの感情だけを感じながら、私は先生に会釈をした。
「今日はここまで散歩ですか」
「……」
私はふいに自分が恥ずかしくなって、口を閉ざした。
本当の目的はここではないのに、私はどうしてここにいるんだろう。
そんな疑問を、先生に突き付けられたような気がした。
口に出さなければ何も伝わらない。
いつものように言われる母親の言葉が、また頭の中で反響する。
私だってそう思ってる。
それが世界の真実のような気もしている。
だけど、私の唇はちゃんと動いてくれないのだ。
「良い天気ですね」
先生は空を見上げた。
穏やかな日差しに照らされながら微笑む先生。その景色は、とても美しいものだと思った。
先生がいる世界はとても美しい。
それは疑いようのないもののように思えた。
だけど、私の世界はきっと違う。
私は足元を見た。
相変わらず胴は長いままだ。
地面が遠い。
それでも、私の足からは確かなくらやみが伸びている。
針金虫がふいに騒ぎ出した。
何かに呼ばれたように、私は顔をあげる。
先生は心配そうに私を見つめていた。
そしてその先にも、私を見つめる黒い影。
真っ黒な、影がいた。
「どうかしましたか?」
固まったままの私を見て、先生が私が見つめている方向を振り返る。
しかしそこには何も見当たらなかったようで、また不思議そうな顔をしてこちらを向いた。
先生には見えないのだ。
だから、私と先生の世界は違う。
言いえぬ寂しさを感じながら、私は微笑んだ。
「今、教室へ向かう途中だったんです」
静かな寂しさがしみわたり、それは海の波のように広がり、私の心は静かになる。
穏やかな心が帰ってきて、私はやっと、先生に言った。
先生はそれを聞いた途端、とても嬉しそうな顔をした。
「そうですか。それはよいことなんでしょうね」
「でも、すぐに帰ります。画材を取りに行くだけなので」
「では、絵でも描くんですか」
「……はい」
「良いことだと思いますよ。パレットさんなら、きっとすてきな絵が描けるでしょう」
先生は優しく微笑んだ。
私の背中をそっと押してくれるような言葉だった。
ひどく優しくて、私はその言葉に少しだけ浮足立つ。
けれど、ほんの少し、地面が近くなったような気がした。
「先生」
私は言った。
「一緒に教室に行ってくれませんか」
先生は優しく微笑んで、確かに頷いてくれた。
先生と一緒に歩いていると、教室へはあっという間に着いた。
久しぶりに歩いたその道は、きらきらと何かが反射していて、美しいと思えた。
こんな気分をそのまま絵にしたい。
そう願うくらい、先生の隣は心地よく、私は不思議な気持ちになった。
「もう生徒がいるんですね」
「授業はまだ始まる時間じゃないんですけどね」
住宅街から少し外れたこの教室は田畑に囲まれていて、人がいなければひどく静かだ。
今は教室の中から誰かの笑い声が聞こえてくる。
私はその笑い声に委縮した。
聞きなれた声。
私は扉を開けるのを躊躇う。
帰ろうかとも思った。
けれど、隣に先生がいる以上、このまま帰ることもできそうになかった。
臆病でも、見栄っ張りの私が顔を出す。
「どうも、みなさん早いですね」
視界が暗くなった。
顔を上げると、私の目の前には暗い白が見えた。
白衣だ。
「ちょっと教室を見せてもらってもいいですか」
静かになった教室で、優しそうな声色で先生は言った。
教室の人たちは不審そうに空気をひそめて黙っている。
私は怪しまれている先生を弁解するように、その背後からひょこっと顔を出す。
「あれ、パレットじゃん」
「パレットの知り合い?」
「知ってる、最近こっちに来た先生でしょ?」
私の知り合いだと納得した瞬間、張り詰めた糸が切れたように、とんとん拍子で話が進んでいく。
その流れを止める勇気もなく、納得してくれた教室の人へ、苦笑を返す。
先生はでは、と私に目配せをしてくれた。
この人は優しい人だ。
記憶の中でくらやみに包まれていたこの教室が、今は何故かはっきりと見える。
油絵の具の匂い。木炭の優しい気配。交差して立っているイーゼル。
はじめてこの教室に来た時のことを思い出す。
自分は絵が描けることを知ったときのことも、思い出す。
「パレット、授業受けるの」
教室の女の子が私に問いかけた。
私はこの勇気をそのまま持って、なんとか答える。
「絵の具を取りに来ただけ」
「ふーん」
特に気にしている様子はないようだった。
それでもいいと思えた。
ここに来れただけでも、私にはじゅうぶんな自信になっていた。
絵の具が入っている引き出しを見る。
色とりどりのラベルを眺めながら、きらきらした自分の絵を考える。
頭の中に広がるぐにゃぐにゃとした色とりどりの世界は、今にも私の中から飛び出して行ってしまいそうだった。
それを追いかけるように、私は引き出しを眺めていた。
その中から赤をひとつ取り出す。
「この絵、素敵ですね」
ふいに、先生の声が飛び込んできた。
私ははっとして振り返る。
先生は壁に飾られた、生徒の過去の作品を眺めているようだった。
私はすぐにその壁の絵の中から、自分の絵を探した。
先生に自分の絵を見られるのは恥ずかしい。
かっと顔が熱くなって、私は自分の絵を探す。
すると、あるひとつの絵で目がとまる。
それは自分の絵ではない。
私がここに通っていたころには一度も見たことのなかった絵だ。
一度も見たことのない絵なのに、懐かしさや安心感がこみ上げてくる。
それは踏切の絵だった。
商店街の坂道をくだった先にある、踏切の絵だった。
草木が添えられていて、枕木と鋭い石が敷き詰められた絵。
そこに、黒い影が、ぽつりぽつりと立っていた。
背中を曲げたように佇むその黒い影を、私は知っていた。
「黒い影……」
呟いたのは先生だった。
私は一歩後ずさる。
引き出しに背中がぶつかり、がしゃん、と音をたてた。
くぐもったように私の耳には届いた。
「その人、最近海に飛び込んじゃったんだって」
「黒い影が見えるんだって」
「頭おかしいんだよ」
「あんまり喋らないから怖くてさ」
「気持ち悪いからその絵、外そうと思ったんだけど」
「センセー、人が良いから」
口々に飛び出す言葉が、教室に反響していた。
私は俯いて、両手で持った赤い絵の具を眺めていた。
頭がおかしいなんて、わかってる。
ぼんやりと思った。
視界に入る赤色だけが、やけにぎらぎらと瞬いていた。
うまく呼吸ができずに、私は肩を震わせた。
この人たちの世界と、私の世界は違うんだ。
そのことだけがこの世の真実のように思えた。
私はひんやりとした引き出しから背中を離し、俯いたまま小走りに扉へと向かった。
冷たい生徒たちの、汚い笑い声が、耳に纏わりついたまま離れることはなかった。
暑さも本格的になってきたころ、私は先生と一緒に花鳥園へと来ていた。
教室に行った日から、ずいぶんと時間がたっていた。
私はあれから暫く、外に出ることができなくなった。
外には、たくさんの黒い影が蔓延っているような気がして、外に出られなかった。
あの黒い影に誘われて、あの絵を描いた人のように私も、海へ行くのではないか、と思ったからだ。
恐怖心はないのだが、それがだめなことだと、私には判断できた。
しかし、そんな私もふいに窓から外を見たとき、コントラストの強さにはしゃいだのだ。
この季節の変わり方が、私は好きだった。
子供のように外を飛び出して散歩をしていると、偶然先生に出会い、そうして今、ここにいる。
「暫く見かけていなかったので、心配していたんですよ」
先生は私にそう言ってくれた。
私は返事をすることもせず、肩をすくめて微笑んだ。
蔦の天井をくぐりながら、私と先生は並んで歩く。
その先では、鳥たちの声が待ちきれないように私の耳に飛び込んでくる。
「パレットさんって、案外なんでも好きですよね」
先生が私に言った。
「そうですか?」
「動物も好きなんですね。何に対しても怖気づかないその心は、とてもすてきだと思いますよ」
先生はそう言って、私ににっこりと微笑んだ。
目の前に一輪の花がぱっと咲いたように、私には思えた。
この人の言葉はまるで花のようだ。
でも、私は怖気づかないのではない。
冷たい心で、私はその一輪の花を眺める。
脳みその奥底で何かがはしゃぎまわっていて、私の心はどうにも落ち着かないでいた。
「怖いものなんて何もないんですよ。すごいでしょう」
冷たい心で悪態をつく自分とは裏腹に、にっこり笑って返した。
外の強い日差しはこの施設にも入り込んできて、緑の葉をぎらぎらときらめかせていた。
ぱちぱちと怪しく光っている木々に目を細めながら、先生を見つめる。
先生は自信にあふれた私の返答に驚いたような顔をして、そして優しげに微笑んだ。
「この先には小さな鳥がたくさんいるみたいですね」
「早く行きましょうよ、先生」
私は落ち着きのなさを隠すこともせず、先生を急かした。
その私の態度に先生は戸惑いつつも、それでも私に黙ってついてきてくれていた。
本当はこんな落ち着きのない自分がたまらなく嫌いだった。
けれど歯止めがきかず、頭の中の思考は整理されないまま、先生を急かして歩いた。
先生からもらった一輪の花のまわりに、黒い蔦が絡みついていくようだった。
決して綺麗ではないそれは、怪しく花を着飾りはじめる。
「パレットさん、今日は雰囲気が違いますね」
先生は言った。
「雰囲気? 私はいつだってこうですよ
私はいたずらっぽく笑って返した。
本当は知っている。こんな自分、どこにもいない。
私は思った。
地に足のつかない感覚が確かにあった。これは私ではないという確信もあった。
少し遠い何処かで自分を眺めているような感覚だった。
「ほら、先生。オレンジ色の鳥です」
高い天井にそって、明るいオレンジの鳥が横切っていく。
私は迷いなく腕を伸ばし、それを指さした。
先生は微笑んでいた。
「少し元気になったみたいですね」
先生は言った。
「私はいつだって元気ですよ、おかしいことを言う先生ですね」
私はからかうように笑って返した。
先生は私の返事に一瞬だけ表情を固めたが、やがていつもの優しいほほえみに戻る。
少しだけ恥ずかしいような気分になって、私は帽子を目深にかぶろうと腕をあげた。
が、その手は空しく空を切る。
私は一瞬不思議に思うが、そうか、と一人納得する。
どうやら私は帽子をかぶってくるのを忘れたらしい。
あまりにもきれいな景色に心躍って、常にかぶっていた帽子を忘れるだなんて。
帽子がなくては外にも出られないほど大事なものだと思っていたのに、今はたいしたものじゃない、と思えるようになっていた。
その心の変化に安心はしなかった。
あるのは、足元に忍び寄る波の気配。
それは、ほんの少しの恐ろしさを運んでくる。
「突然うまく心が動かなくなるのですから、突然よくなるものなのかもしれませんね」
不思議な動作をしていた私を気にしたようもなく、先生は呟いた。
「それって、私が針金虫に寄生されてる、ってはなし?」
「そうとは言っていませんよ」
「先生、針金虫を信じているの?」
「え?」
「針金虫なんていないでしょう。みんな言うんだから」
私は言った。
遠くの何処かで眺めている私が、泣きそうな顔をしているのを確かに感じながら。
先生も傷付いたような顔をした。
私はそれを笑って、なかったことのように振る舞った。
大きな噴水が、室内にはあった。
水しぶきをあげて勢いよく飛び出してくる。私は淀んだ水を眺めていた。
噴水は大きな悲鳴をあげて、水を吐き出している。
「教室なんて、やめちゃおうかなあ」
私は呟いた。
悲鳴はどんどん大きくなって私の耳に届いてくる。
とてもやかましく聞こえてきて、私の頭の中をぐちゃぐちゃとかき乱している。
「辛いのなら、やめてもいいと思いますよ」
「でも、お母さんがだめって言うんですよ」
「そうですか……それはなんででしょうね」
「知らない。でも、お母さんがだめっていうなら、続けなきゃ……」
「……」
先生はそれ以上何も言わなかった。
私もそのまま口を閉じて、黒い水を吐き出し続ける噴水を見つめていた。
「教室に行かなきゃ」
私は言った。
「教室に行って、みんなと一緒に絵を描いて、それから、それから、電車に乗って、この街を出ていかなきゃ」
「それは何故ですか?」
先生は聞いた。
私は先生のほうを見た。
先生はどこか不安げな顔をしていた。
そんな先生を安心させようと、私はにっこりと笑って返した。
「お母さんが、そうしたほうがいい、って言うから」
いつの間にか噴水の音が遠くなり、すすり泣きのようなものになっていた。
どこかで眺めている私も、ついに泣いてしまったんだろうか。
頭の端で考えていると、突然、私たちの目の前をあのオレンジ色の鳥たちが横切った。
音もなく横切っていった鳥は、オレンジ色に燃える星のようだった。
私と先生は目を丸くして、やがてお互いに目を合わせた。
「驚きましたね」
「びっくりした」
私たちは同時に言った。
そして、同じように笑った。
「先生、向こうに大きな鳥がいるみたいですよ」
私は順路の先を指し示す。
先生は行きましょうか、と歩き出した。
私も先生の隣に並ぶ。
「教室に行けるのも、電車に乗るのも、きっと近い未来の話ですね」
「そうなると、素敵ですね」
「パレットさんはきっとこのまま、元気になっていきますよ」
先生は言った。
しかし私は頷かなかった。
遠くで私が言った。
ちがう。
一言だけ、耳元で囁いた。
私も同じように思えた。
そんなこと、あるはずない。
針金虫が頭の中で暴れまわっている。
噴水の水に誘われて。
鳥の声に招かれて。
私は寄生されている。
だから、この街からは出られない。
私はその冷たい心を遠くへおいていったまま、先生の隣で無邪気に笑った。
花鳥園から出てくると、先に出ていた先生が私を手招きした。
「向こうに公園があるそうですよ。少し休みませんか」
私はにっこりと笑って頷いた。
公園は花鳥園と同じ高さの丘にあり、小さなベンチが二つあるだけの、ほんとうに小さな公園だった。
私は一つのベンチに近づき、その先に広がる街を見下ろした。
私が暮らしているこの街は、ただ横たわっているだけのものに見えた。
動きはしない。
私の街は動きはしない。
それなのに、あちこちの建物は揺らいだり、ぱちぱちと光っているように見えた。
私の見ている世界はおかしいんだ。
気付いたとたん、ふとした寂しさを覚えた。
「さっきまで元気だったのに、どうかしましたか」
先生が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「……」
私はゆらゆらと揺れる景色と心に戸惑いを覚える。
先生は私の言葉を静かに待ってくれていた。
先生がくれた一輪の花は、まだ枯れずにそっと私の胸に咲いている。
大丈夫なような気がした。
私は口を開く。
「教室に通っていたころ」
ゆっくりと、喋り始めた。
先生は口を閉ざしたまま、私の瞳を見ていた。
今の自分は、どんなに不安そうな表情をしているだろうか。
「私、あまり、みんなと仲良くはないけれど、うまくやれていたと思っていたんです」
私は言う。
教室に通っていたころの自分を思い出す。
私の記憶の中に、油絵の具や木炭のにおいはしない。
あるのは、晒されているという羞恥だった。
誰かが指をさしているような予感。
絵を描くのは好きなのに、紙に置く色すべてが間違っているような感覚。
正しいことが、よくわからなかった。
あの時、手を挙げなければ。
「私、あまりおしゃべりするのが得意ではなくて、真っ白い紙と遊んでいる方が、気楽だったんです。でも、描いた絵は、先生も、お母さんだって、喜んで、褒めてくれたんです。だから、これだけは、きちんとやろう、と思って」
頭に浮かんでくる単語を、ひたすら選んで捨て、また選ぶ。
私の言葉はよくわからない、と誰かが言っていた。
先生からもらった花が、少しずつ色あせていくような気配がする。
涙で滲んでいるようにも思えた。
それでも私は言葉を選んだ。
先生が、まだ私の目を見てくれているからだ。
「駅のホームに、絵を飾るっていうのが、何年か一度にやっていたことなんです。丁度切り替えで、みんなで、話し合っていたんです。駅のホームに、誰の絵を置くか」
私はぐらぐらと不安定なところに立っているかのような気分になった。
今にも崩れてしまいそうな自分の体を、自分の足が支えていた。
頼りない自分の足首が見える。
その足首が、あのときの自分の姿に似ていると思った。
みんなが自分の席に座っている。気怠そうに、おしゃべりをしながら、自分の席に座っている。教壇に立つ先生の言葉を、誰が聞いているわけでもない空間が広がっている。私はそこでも俯いて、座っていたのだ。
「みんな嫌がっていました。興味が無い人が、大半だったんですけど。あの場所に絵を置いたって、どうせ落書きされて終わりだから、って。描いたって、無駄だって」
誰かの汚い笑い声が聞こえてくる。
その声がとても腹立たしく思えている自分もいた。
淀んだ空気が、止まったままの時間が、とても気持ち悪いと思った。
「嫌な時間でした。私にも、たぶんみんなにとっても。誰かが手を挙げなきゃ、動かない空気とか。でも、手を挙げる人は誰もいなかったんです。冷たい時間でした」
誰もが座っているはずなのに、まるで、誰かに押されているかのような気分にもなっていた。
崖の上に立たされているかのような。ぎゅうぎゅうに押されて、あと一歩で、谷底に落ちていくような。
誰かが落ちるのを待っているみんなが、途端に怖くなった。
血の気がひいていく自分がいた。
自分の背中を押されているような気がした。
耐えられないと思ったのだ。
ほんとうに、この恐怖心だけが世界の真実だというような錯覚さえ覚えた。
「だから私、手を挙げたんです」
谷底に落ちていく瞬間、みんなが私を見ていた。
教室で座っているみんなが、私を見ていた。
その表情は黒々としてよく思い出せない。
そのあとの拍手が、私の耳にけたたましく届いた。
「手を挙げたのは、私なんです」
私は言った。
拍手の音が遠ざかっていく。
駅のホームに私の絵が飾られる。
私はそれだけが得意だった。
「そのあと、みんなは笑っていました。楽しそうに絵を描いていました。私は良かった、と思ったんです。心の底から思ったんです」
自分が置いたはずのない色が、少しずつ自分の絵に上乗せされていくのを、私は眺めていた。
自分の心が食い物にされている。
そう思った。
自分はこんなにも汚い絵を晒しているのに、どうしてみんなは楽しそうに絵を描いているんだろうと静かに思いを巡らせた。
「お母さんも喜んでいました。私の絵が、みんなに見てもらえる、って。喜んでくれました。これが私の得意なことだから、お母さん、たくさん喜んでくれたんです」
お母さんは微笑んでくれていた。
ほんとうに喜んでくれているようだった。
私は後ろめたい気持ちでいた。
罪深い気持ちもあった。
だからあのとき、母親に懺悔をした。
少しだけ嫌だったと言った。
母親はすぐに返した。
嫌だなんてこと、あるはずないでしょう。
その言葉だけが私の頭に残っている。
境界線が見えた。母親と自分の間に、線が見えた。
それは針金虫のようにも見えた。
世界が違うんだろうと、そのときはじめて気づいたのだ。
今まで生きてきた中で、一番最初がそれだった。
私は口を閉ざした。
先生からもらった花は枯れてしまった。
それなのに先生は私を見てくれていた。
まだ私を見てくれている。
崖に落ちた私を見ていた。
あの人たちとはちがう表情で。
私は耐えられそうにない辛さをぐっとこらえて唇を噛んだ。
お腹の底から湧き上がってくる黒々とした感情が、そのまま喉を通って、この人にぶつけてやりたい気持ちになった。
世界が違う。
あなたが見ている世界と、私が見ている世界は違う。
こんなにも辛いのに、どうして誰もそれを知らないのか。
理不尽な感情が頭の中で、お腹のなかでのたうって、そのどうしようもない波にさらわれてしまいそうになる。
この世界には、絶対に言っちゃいけない言葉がある。
遠くで私が言った。
しかしその言葉さえも押しのけて、私は先生を見据えた。
先生は私の表情を見て、目を丸くしていた。
私は今、どんなに攻撃的な顔をしているのだろうか。
そして口を開いた、その瞬間。
一羽の真っ白な鳥が、大きく羽音を聞かせて飛び立った。
弾かれたように私と先生は空を見た。
軌跡を残しそうな真っ白な鳥は、そのまままっすぐに青く澄んだ空へと向かう。穏やかな日差しを受け、光を反射させるその美しい背中が、青い空へと溶けていく。
私はいつの間にか口を閉じていた。
先生も、その鳥を見ているようで、何も言わなかった。
しばらくその鳥が飛び立った先を二人で眺めていた。
先生は何も言わなかった。
私はさっきまで抱えていた黒々とした感情が、跡形もなくなくなっていることに気付く。
あの白い軌跡に乗って、空へと帰っていったように。
「先生、見てください」
私は言った。
何もなくなった心で、ひどく穏やかな心で言った。
「私が死んだら、あの鳥のように天に昇っていくんですよ」
空っぽになってしまった、空洞の私が言うその言葉は、自分でさえもひどく空しいもののように聞こえた。
「……」
先生は私を見ているようだった。
私は何も疑う事なんてないように、あの鳥が消えていった、濁りのない空を見つめていた。
「パレットさん」
先生はゆっくりと私を呼んだ。
私もそれに合わせるように、ゆっくりと先生の方を見た。
先生はとても悲しそうな顔をしていた。
その表情を、空虚な私が見つめていた。
「そんな寂しいことは、二度と言わないでくださいね」
先生は優しく私を叱咤した。
私は口を閉ざした。
この世界には、絶対に言っちゃいけない言葉がある。
私が無気力に投げかけた言葉を、私が反芻する。
まとわりつくようなあたたかな風が、私と先生の間を通り抜ける。
線引きをされたように、私と先生の世界が切り離された気がした。
その見えない境界線が現れた瞬間、先生が遠くにいるような気分になった。
「ええ」
私はうなずいた。
「もう、二度と言いませんよ」
私は優しく先生に言った。
それでも、先生の表情は晴れることはなかった。
容赦のない日差しが降り注いでいた。
アスファルトさえもぐつぐつと溶かしてしまいそうな熱に頭を悩ませながら、私は歩いていた。
やけに色の強い景色にくらくらしていたが、私は図書館にでも行こうかと歩を進めていく。
今日は母が一日中家にいるようなので、居場所がなくて、逃げるように外に出てきたのだ。
教室に行くとも嘘は言えずに、こっそりと出ていく自分が、まるで泥棒にでもなったかのようだ。
ぐちゃぐちゃとした景色とこの心は、何かに似ている、とふと思った。
見たことのある景色だと思った。だが、これがどこで見た景色なのかは思い出せなかった。
いたたまれない気持ちのまま、この体なんてさっさと溶けてなくなればいいのに、と乱暴に思いながら、揺れる道を見つめた。
帽子をかぶっているから視界が悪い。
そのせいで、私は人が近づいていることに、その人が目の前に来るまで気付かなかった。
通行人は数人いるようで、足首までがぞろぞろ見えた。
その先で、蜃気楼が私を見て笑っていた。
「パレットじゃん」
女の子の声がした。
聞き覚えのある声だ。
私はおそるおそる顔をあげた。
そこには教室で良く見た顔があった。
教室でもいつも一緒にいるその三人組は、じんわりと汗を浮かばせながら、私を見ていた。
その顔は心なしか笑っているように見えた。けれどその笑い方も、なんとなく不自然な印象を覚えた。
三人は私を見、お互いの顔を見合った。
また、私の方を向く。
「ちょうどいいところに会った」
「パレットさん、今暇?」
「今日は暑いね」
三人は口々に言った。
こんなにも大人数を相手にできるほど、私の頭は冷静ではなかった。
「あ、うん……」
三人の別の言葉にどう返せばいいか分からずに、誰に何を返すでもない返事をした。
「そっか、ちょうどよかった」
「こんなに暑いと参っちゃうもんね」
「この前、パレット教室来てくれたよね?」
三人はまた口々に言った。
「先生から買い出しを頼まれててさ」
「ねえちょっと、パレットさん混乱しちゃうよ」
一人が言うと、もう二人はそっか、と笑った。
「先生から買い出しを頼まれててね」
二人を止めた女の子が、私に言う。
「引き受けちゃったんだけど、私たち、この後すぐに用事があってね」
女の子は言った。
じりじりと真上で照り付ける太陽がうっとうしく思えた。
それでも、私は目をそらしたら失礼だと思って、その三人を見ていた。
「それで、パレットさん、買い出しを頼まれてくれないかな?」
「……」
女の子は優しく言った。
けれど私の心はどこか傷付いたように凍って、そのまま動かなくなった。
表情も固まった。
こんな時に、嫌な顔一つできない自分が嫌になった。
「えっと……」
何か言い訳を考えたが、何も思い付きはしなかった。
太陽の光がたまらなく暑い。
今はただ、それだけがやけに気になった。
「この前、教室来てくれたよね」
女の子は言った。誰が言っているのか、もう私には分からなくなっていた。
息苦しさを抱えたまま、私の表情は動かない。
「まだ教室、やめてないんだよね」
「また来るの待ってるからさ」
「パレットの絵、すごくきれいだから、また見たいな」
「あの駅の絵みたいなの、また描いてよ」
「私もあの絵、好きだしさ」
三人は言う。
そして私ははっとした。
このぐちゃぐちゃとした感情が、どこかで見覚えがあると思ったのだ。
あの駅の絵が、あんなにも汚い絵が、この感情によく似ているのだ。
私はやっと気が付いて、足元がぐらぐらと不安定になるのを確かに感じた。
三人のいやらしい口元だけが私には見えた。
少しずつ視界が暗くなっていく。
私は帽子で三人の顔を隠しながら、どうしたらいいのか分からなくなっていた。
その先に頭が働かず、どうしよう、という言葉だけが反響していた。
ぐらぐらと地面が揺れていて、蜃気楼はいつの間にか私に追いついていた。
「少し道を尋ねたいんですけど」
真っ直ぐな声が、私と三人の間に割って入った。
三人は笑った顔を凍りつけたまま、声の方を向いた。
のそのそと、私もそちらを見た。
そこには同年代くらいの、大人びた雰囲気の女の子が立っていた。
長身の女の子はじりじりと照り付ける太陽の中で、しっかりと日焼け対策をしたような、長袖の上着を羽織っていた。背中には大きな荷物を背負っていた。意志の強そうな眉と、その下のつり目が、私と三人とを、品定めするみたいに見ていた。
「海の近くの宿泊施設を探してるんですけど、一向に海にたどり着かなくて。どっち行けばいいですか」
つっけんどんな質問の仕方だと思った。
その冷たい言い方に、少しだけこの場で淀んでいた空気が動き出したような気がした。
「海ならこっちの方向で合ってますよ」
優しい声をした女の子が、自分たちが来た方向を振り返って指さした。
「歩いていけば、標識があると思いますけど」
「そうですか。ありがとうございます」
つり目の女の子は言った。
しかし、動きはしなかった。
「やっぱり不安なので、道案内してくれませんか」
女の子は言った。
三人が怖気づくのがこちらにも伝わってきた。
それにつり目の女の子も気付いたようで、ふん、と鼻で笑って手を振った。
「いいですよ、用事があるんでしょ。そっちの子に頼みたいんですけど」
と、私に手招きした。
私も私で怖気づいてしまって、何も返事ができなかった。
「でも、買い出しが」
「そんなの自分たちでやりなよ」
冷水でもかけるように、女の子はぴしゃりといった。
その言葉の真っ直ぐさに気圧されて、三人は口を閉じてしまった。
つり目の女の子は私を見据えた。
私もその女の子を見つめ返した。
女の子は少し微笑んでいるように見えた。さきほどの冷たい返事とは想像もつかないような、優しそうな微笑だった。
「……案内します」
私は小さな声で言った。
「お願いします」
女の子にはちゃんと届いてくれたようで、女の子もしっかりと頷いてくれた。
「それじゃ、この子借ります」
つり目の女の子は背負っている荷物を音をたてて背負い直し、ずかずかと三人の間を通って歩き出した。
私は三人を避けて、すれ違いざまに軽い会釈をして通り過ぎる。
そして、目の前にある大きな荷物を背負った女の子を追いかけた。
「あの、ありがとうございます」
私は勇気をふりしぼって言った。
なんとなく、この人が私を助けてくれたように思えたからだ。
隣に並んでその人の顔を窺うと、思いがけず目を丸くした。
その人の表情はとても険しいものだった。
怒っているようだった。
「あんたね、あんぐらい、適当に言い訳つけて断ればいいのよ」
女の子はつん、と冷たい調子で言った。
私ははっと傷付いた。
「……」
彼女の冷たい言葉に、何も返事ができなくなる。
「……」
自然と俯いてしまい、私は地面を見つめた。
太陽の光が帽子で遮られて、視界が暗い。
「ああいうの見てると腹が立つわ」
女の子ははっきりと言った。
その言葉に、私の心は動かなくなった。
足が止まりそうになるのを必死で我慢した。
「別に、あたしに関係無いことだから、腹立てる必要もないんだろうけど」
女の子は立ち止まった。
私も合わせて立ち止まる。
まだ海は見えないのに、どうしてだろうと、私は彼女の顔を見上げた。
女の子は私をまっすぐに見た。
私も女の子を見つめ返した。
「あたし嘘ついたの」
女の子は罪悪感など微塵も感じさせない、きっぱりとした口調で言い放った。
そしてすぐさま、にっこりと微笑む。
「ほんとはあたし、前までここに住んでたの。だから、迷子なんて嘘。道案内も必要ないわ」
その笑顔は、太陽のようだと思った。
けれど、先ほどうらめしいほど容赦なく照り付けていた太陽とは違って、胸の中が温かくなるような、優しい魅力を持っていた。
私は心の中で凍えていた何かが急に溶け出すのを感じた。
「隣町で楽団に入っててね。ここで定期演奏会やるんだ。宣伝も兼ねて里帰りしてきた感じ。しばらくここにいるから、また会ったらよろしくね」
そういいながら、女の子は私にチラシを渡してくれた。
「さっきの女の子たち、あんたのことパレットって呼んでたね」
「教室での……愛称みたいなもので……」
「へえ。じゃあ、あたしはアコーディオンになるのかな」
「アコーディオン……」
アコーディオンは背中に背負っているものを音をたてて背負いなおした。
「なかなか重いけどね。ま、それ以上に、愛着あるんだけどさ」
「楽器が演奏できる、って、すごいことだと思います」
私がそう素直に言うと、アコーディオンは目を丸くした。そしてすぐに、にっこりと微笑む。
「絵を描けることだってすごいことだわ。あたしにはできないもの。そういえば、あんたの絵ってさ……」
アコーディオンは言いかけて、すぐに表情をなくして口をつぐんだ。
私は首をかしげて、アコーディオンの言葉を待った。
「自分を守ってやれるの、って、自分だけだと思う」
アコーディオンが小さく言った。
私にはその言葉は確かに耳に届いた。
突然背中からナイフを突きつけられたような気分だった。
視界の太陽が急に陰りを見せて、世界が暗くなっていく。
しかし目の前のアコーディオンはどこまでも美しく輝いているように見えた。こんなにも凍えて、不安定な世界なのに、目の前にいる女の子は怖気づくこともせず、しっかりと立っている。
周囲は暗くなっていく一方のようで、まるで、アコーディオンがまぶしくて見えなくなっていくようにも思えた。
私は目を細めてアコーディオンを見つめた。
ぴんと背筋を伸ばして佇む彼女の姿に、目を奪われた。
美しいと思った。
「それじゃ、ま、また会えたら」
アコーディオンはす、とてのひらを見せて私に言った。
私はだんだん自信なく顔を俯かせて、それに応えることはしなかった。
アコーディオンは気にした様子もなく、私に背を向けて歩き出した。
彼女の行く先には、太陽のきらめきを反射させた美しい海が広がっている。
私の世界とは違うのだ。
私の海は、もっとくらくて、一度波に足をとられたら、もう二度と帰ってこれない。
でも、そんな海に焦がれている自分が確かにいるのだ。
彼女の世界とは違う。
私はいつの間にか消えた太陽に体温を奪われながら冷たく思った。
彼女の世界はどこまでも美しい。
誰かに似ている、と、やはり思った。
あの強さや、芯のある声色が、誰かに似ていると思って、そして、それがとてつもなく恐ろしいと思った。
聞きなれない楽器の音が、ふいに耳に届いてきた。
線路伝いに歩いている途中で、私は足を止めた。
どこからか聞こえてくるそのやわらかく重い音色は、私の手をそっと掴んで引き寄せた。
広い芝生がある公園にたどり着くと、そこに音の主が凛とした態度で立っていた。
「こんにちは、パレット」
大きな鍵盤をお腹に抱えた長身の女の子は、私に気付いて手を止めた。
「こんにちは」
私はおそるおそる返事をした。
その怯え具合に、アコーディオンはまぶしい笑顔で笑い飛ばす。
「なんにも怖いことなんてないわよ」
アコーディオンは言いながら、鍵盤の紐をくぐってそのままおろした。
私はその動作をじっと見つめる。
「物珍しいでしょ。あんまり、実物を見ることもないでしょ」
「……不思議な楽器ですね。とても素敵」
赤色の鍵盤は光を反射しながらきらきらと光っていた。アコーディオンが持っていることで、とても素敵なもののように思えた。
「あんた、って清々しいくらい素直なのね」
「えっ」
急にそんな言葉をかけられて、私は身をひいた。
目の前に花がぱっと開く。
先生にもらった花のように、よく似ていて、とてもかわいらしい花のように見えた。
「先生も言ってたわ。あんたが隣にいると、いろんなものが面白く見えるって」
「先生?」
「そう。心を治す先生。あたし、あの先生と知り合いなんだ」
「そうだったんですか。奇遇ですね」
「ほんと、びっくりしちゃった」
言って、アコーディオンがにっこり笑う。私もつられて少し笑った。
「暑くていやになっちゃうわ」
アコーディオンは言いながら、ぱたぱたと顔を手で仰いだ。
私はアコーディオンのその動作を眺める。
「あんたは日焼け対策しないのね」
アコーディオンは不審げに見つめる私に呆れたようにそう答える。
彼女は薄手だが、長袖の上着をしっかり羽織っている。風があるので、長袖でも過ごしやすいだろう。
自分としては、日焼けなど気にしないというか、視野に入っていなかった。
アコーディオンの女性らしさが胸にささる。
「先生はあんたのこと、気にかけてたわよ」
「……そうですか」
最後に先生と交わした言葉を思い出す。
行き場のない寂しさが広がってくるが、先生の言葉を少しも理解できていないわけではない。
先生の寂しさだってわかっている。
だからいっそう、辛いのだ。
「よそから来た人はみんな優しいですね」
私は広がっていく罪悪感や辛さを振り払うように、そうつぶやいた。
アコーディオンはその言葉に目を丸くして驚いた。
「何言ってんの。あんただって。あたしはどうだか知らないけど」
彼女の言葉がまっすぐに心に届く。
「まあ、先生はね。あんたの方が優しいと思うけど」
ちがう。私は優しいんじゃない。
ふるえる指をまっすぐに伸ばして座っている、あのときの自分が脳裏に浮かぶ。
あんなのただの恥さらしだ。
馬鹿みたい。
「自分を守れないほど優しいじゃない。馬鹿みたい」
私は、はっと顔をあげてアコーディオンを見た。
アコーディオンも私を見つめていた。
この人の心はなんてまっすぐに届くんだろうか。
私は思う。
だからこの街を出て行けたんだ。
そして寂しくなった。
私にはできないことをできるのは、この人が針金虫に寄生されていないからだろうか。
どこかに取り残された感覚が足元から這い上がってくる。
ふいに、視界の端に黒いものが見えた。
その方向を見ると、少し離れたところに植えられた、背の低い木の横に、黒い影が立っていた。
木陰で休んでいるようにも見えた。
木陰に溶け込むことさえも恐れずに、はっきりとそこにいる黒い影は、ゆらゆらと風に揺れている。
「黒い影は、一体どこに行きたくて、迷子になってしまったのかしらね」
それを言ったのはアコーディオンだった。
針金虫に寄生された人にしか黒い影は見えないはずだ。
この人にも黒い影が見えるのだろうか。
「黒い影を知ってるの?」
私は思わず聞いていた。
「噂よ。先生だって言ってたでしょ」
その素っ気ない返答に、私は口を閉じる。
太陽が静かに光を地上に落とし、木陰に立っている黒い影にちらちらと木漏れ日が降り注ぐ。
芝生の緑が反射して、まぶしい光が世界をきらめかせている。
この人は、信じてくれるのだろうか。
そんな期待が、あの花のように、すくすくと育っていく。
温かい気持ちが心に広がっていくのを感じた。
「良い日和ですね」
夏も終わりへと向かっていて、少しずつ太陽の光も穏やかになりはじめたころ、先生に誘われて、私は丘の上へと歩いていた。
私たちの前には、四、五人の子供たちと、教室の生徒、それに先生が歩いている。
それぞれの手には大きな画板を持っていて、それを振り回してふざけあったりしている子供もいる。
日中でも過ごしやすい季節になったので、写生会を開くことになったのだ。
教室に行けないままでいた私にはその会の話は来なかったのだが、先生がそれをどこかで聞いてきたようで、私を誘ってくれたのだ。
「教室の生徒として、ではなくて、ただ参加する気持ちで来たらどうですか」
先生の丁寧で優しい誘いを断ることもできず、私は重い体をのそのそ動かして家を出てきた。
右手に持つ画板がやたら重く感じた。
「涼しくなってきましたけど、やっぱり動いていると暑いですね」
先生が隣で苦笑した。
私は帽子を目深にかぶり、その返答もせずに足だけを動かしていた。
丘の上につくと、低い木が並んでいる広い公園についた。
ふいに、アコーディオンと出会ったあの公園を思い出す。
あの暑い夏も終わろうとしているが、あの日咲いた花は、まだ私の心の中で、私に微笑みかけてくれている。
少しだけ勇気がもらえたのだ。
だから、こうして私はここにいるんだ。
胸に広がる温かさに、少しだけ微笑みながら、私は写生会の説明を聞いている子供たちを遠くから見守る。
説明をし終えると、一斉に子供たちが散らばっていく。
私は街を見下ろしている低木の根元に座った。
私も同じように、静かに街を見下ろした。
何かを描く気には全くなれなかった。
ましてや、誰かに見られているというこの場所で、自分が絵を描くだなんて、とてもできないと思った。
どうしてこんなところに来てしまったのだろうか、と思った。
そのとき、背後から声をかけられた。
「お姉ちゃんは何を描くの?」
のろのろと振り返ると、そこには二人の子供が私を見ていた。
私は芝生に座っていて、二人の子供は私のすぐ後ろに立っていた。そこで、やっと目線が同じくらいになっていた。
「え……」
私は喉の奥がきゅっと閉まるのをしっかりと感じた。
うまく声が出ない。
さ、と血の気がひいていくのもわかる。
子供でさえも怖かった。
私は帽子のつばで二人の顔を隠し、俯きがちに何を言おうか、ぐるぐると頭を抱える。
「お姉ちゃんしゃべれないの?」
「お姉ちゃんは絵は描かないの?」
子供たちが口々に何か言っている。
私にはその意味が分からなかった。ただ、心臓に直接、鋭い針をちくちくと刺されているような気分になった。
「そんなに質問したら、お姉さんが困ってしまいますよ」
助け舟を出してくれたのは、様子を見に来た先生だった。
私は申し訳なくて顔をあげられずに固まっていた。
「ほら、向こうにお花が咲いていますよ。それを描いてみてはどうですか」
先生は二人の子供の背中をそっと押して、私から二人を遠ざける。
「ちょっと一緒に行ってきますね」
先生は小さく言って、私のもとから離れていった。
私は感謝の言葉も、謝罪の言葉も言えずに、小さく会釈をして先生の白い背中を見つめた。
どうしてうまくできないんだろう。
一人になって、少しだけ寒い芝生の上で考える。
先生は、私のことを気にかけているから、ここに一緒に来てくれたのだろうか。
アコーディオンが言ってくれたことを思い浮かべながら、そんなことを思う。
そう思った瞬間、かっと恥ずかしい気持ちがわきあがってきた。
そんなこと、あるはずない。
先生は、物珍しいことを言っている私に少しだけ興味があるだけなんだ。
街を見下ろしながら、寂しい気持ちが広がっていく。
アコーディオンはあんな風に言ってくれたけど、私はそんなに価値のある人間じゃない。
ほんとうは、自分は人間じゃないのかもしれない。
針金虫に寄生されていて、黒い影が見えて、私は、ほんとうは何なのだろうか。
膝に乗せた真っ白な紙を見つめ、また寂しい気持ちがわっと広がっていく。
さっきまで地上を照らしていた太陽が、雲に隠れている。
街が急に暗くなる。
丘の上も、凍えたように温かさを失っていく。
黒い影が、目の前に現れた。
私ははっと目を奪われる。
心臓をつかまれたような気がして、足元にいる黒い影に目が釘付けになる。
すると、すぐ後ろから大きな重低音が聞こえてきた。
「わっ」
私は驚いて声をあげた。
「はは、驚いた?」
振り返ると、そこにはあの赤い大きな鍵盤をお腹に抱えたアコーディオンが立っていた。
目を細めて私が驚いた姿に喜んでいる。
あの黒い影は、アコーディオンの影だったのだ。
「アコーディオン……」
私はほっと胸をなでおろして、すぐにむっとした表情をした。
「あんたでもそんな顔、してくれるんだね」
アコーディオンは言いながら、ずい、と私の顔を覗き込む。
「な、なんですか」
「なんだ、なんにも描けてないじゃない」
アコーディオンはそっけなく言って、すぐに身をひいた。
私は真っ白のままの紙を見られて、また顔を熱くさせた。
「すぐに描けるものじゃないので」
私は負けじとアコーディオンに背を向けて、そっけなく返した。
「ふーん。じゃあ、描けたら見せてね」
「えっ」
私はふいを突かれて声を上げるだけで、そんなの無理、と頭に浮かべるだけで、言葉にすることはできなかった。
振り返ったときにはアコーディオンは子供たちの方へ歩いて行っていた。
「そんなの……」
私は誰もいなくなった場所にそうつぶやいて、その言葉は空しくも風にさらわれて消えてしまった。
少しだけ強い風が私の髪をなでた。
その風は同じように、この丘の上にいる人たちの頭を撫でて空に飛び立っていく。
アコーディオンは、芝生の上に腹ばいになって絵を描いている子供に声をかけていた。
子供がはしゃいだように起き上がり、その赤い鍵盤を指さす。
するとアコーディオンが、優しい微笑みを浮かべて鍵盤の横に添えた手を左右に動かし、もう一方の手で鍵盤を滑らかになぞっていく。
私の場所でも、その穏やかで上品な音色が届いてきた。
いつの間にか方々に散らばっていた子供たちが、自分の絵を放ってアコーディオンの周りに集まっていた。
その横で、白衣をなびかせた先生が優しい表情で、アコーディオンと子供たちを見つめていた。
アコーディオンと先生の目が合い、お互いににっこりと笑う。
私はその瞬間、世界から切り離されたような気がした。
さっきまで、アコーディオンと同じ世界にいた気がした。
しかし、今はあの子供たちのいる場所と、私の場所は遠く離れてしまって、私は向こう側へはいけない気がした。
ふいに、風の音が海のさざ波を運んできたような気がした。
ふっと寂しさが戻ってくる。
俯いて、自分の手元にある真っ白な紙を見る。
するとそこには影が落ちていた。
人型のような影が、真ん中にぽつりとあった。
「……」
私はそれを見つめる。
光の落ちないこの木の下で、私の体が少しずつ冷たくなっていくのを感じる。
黒い影はただただ黒く、どちらを向いているのかも分からない。
けれど、目が合っているような気がした。
もう一度、あの遠くの世界を振り返る。
暖かな日に照らされた、アコーディオンのもつ鍵盤がきらきらと光っている。
私はそのまぶしさに目がくらんで、その黒い影だけを見つめていた。
海へ行かなきゃ。
針金虫が動いていた。
海へ行って、この子達を還さなきゃ……
私はその考えに取りつかれて、頭の中でのたうつ針金虫に眩暈を覚えた。
アコーディオンは私のことを分かってくれるような気がしたのだ。
あのときもらった花が、光をなくしてしおれていく。
どこか似ているような気がした。
そして、あの美しいほどまっすぐな瞳に憧れてもいた。
うまくやれるアコーディオンに、たまらないほどの嫉妬が広がっていく。
うまくできない自分が嫌いだ。
私は思う。
視界が滲んでいく。
黒い影がゆらゆらと揺らめいている。
あんなにもまぶしいものを見せられて、目がくらんでしまったみたい。
どうしようもない絶望が押し寄せてくるようだった。
自分でさえもよく分からない、処理しきれないほどの絶望が全身を伝い、頭をぐちゃぐちゃにさせた。頭がひどく痛くて、自分が何を見ているのかも分からない。
胸いっぱいに広がる不甲斐なさや申し訳なさにつぶされそうになり、背を丸めてうずくまる。
もう何も見えないように力いっぱい顔を手で隠した。
手が震え、唇も震え、ただ小さな嗚咽が漏れていく。
真っ暗な世界の中で、私は一人だ。
それだけが確かなことだった。
怖い。
ただそう思った。
どこかに連れてかれそうで、どこにも行けなくて、早く海に還さなきゃいけない、という使命感だけが頭に住み着いている。
自分の意志とは無関係に震える肩を、誰かがふいに掴んだ。
私ははっと顔をあげる。
そこには、まっすぐな瞳で、心配そうに私の顔を覗き込むアコーディオンがいた。
私は真っ赤に泣きはらした目で、アコーディオンを見つめていた。
太陽の光がまぶしい。
そのまぶしさに、また涙がにじんだ。
「どうしたの、パレット」
心の底から驚いたような声で、アコーディオンは私に言った。
けれど私の体は震えて、どうしようもない絶望に唇を縫われて、何も返せなかった。
ただ頬が熱くて、アコーディオンが掴んでくれている肩から伝わる痛みに戸惑い、頭から冷たい水をかけられたようにただ何も考えられずにいた。
「わからない……」
私は震える声で言った。
「なに? どうしたの」
アコーディオンに私の声が届いていない。
世界が違うからだろうか。
あんなにも温かい世界にいたのだから、アコーディオンの手はこんなにも温かいのだろうか。
「わからない……」
どうしようもない絶望が渦巻いて、私の瞳から涙があふれてゆく。
それを止めることもできず、ただ私は泣いた。
アコーディオンが緊迫した表情で見ている向こう側で、先生がどこかへ行く。
あんなにも温かい世界を見せられて、私はもうどこへも行けない気がした。
どこへも行けないのに、自分がどこにいるかも分からなかった。
「わからない……」
「わからない……」
私は何度も言った。
アコーディオンが何か言っている。
それさえもよくわからない。
私の視界はどうすることもできないほど滲んで、また私はうずくまった。
どれほどたったのかもわからなかった。
いつの間にかアコーディオンが私の背中をさすって、ただ隣にいてくれている気配だけがした。
「……」
「……」
アコーディオンはもう何も聞かなかった。
私も、顔を伏せたまま、ただ泣いているだけだった。
「すみません、すみません……」
聞きなれた声がした。
私の体温がさっとどこかへ消えてゆく。
お母さんだ。
冷たい氷が突き刺さったように、さっと血の気がひいていく。
「本当に、この子ったら……」
お母さんが何か申し訳なさそうに言って、私を呼んだ。
私はおそるおそる顔をあげた。
困り果てたように眉をさげて、お母さんが目の前に立っていた。
お母さんの背後から陽がさしていて、お母さんの表情は暗く影を落とし込んでいる。
私は唇をきゅっと結んだ。
「本当にすみません。せっかく誘ってくださったのに、こんな形になってしまって……」
お母さんが先生に頭を下げた。
アコーディオンが立ち上がり、お母さんに軽く会釈した。
「いいえ。なんにも迷惑なんてかけていませんよ」
アコーディオンが背筋をまっすぐにして、お母さんに言った。
私は、そのアコーディオンの姿に目を奪われた。
そして、申し訳ない気持ちが胸いっぱいに広がる。
また私の視界が滲みはじめ、私は顔を伏せる。
「あなたも、何かみなさんに……」
お母さんが私の腕をつかんだ。
私は無理やり立たされた。
「あの」
アコーディオンがどこかむきになったように強く、何か言いかけた。
「あのね、針金虫なんて言って、本当は、怠けているだけなんでしょう」
お母さんが言った。
アコーディオンが口をつぐんだ。
私は、もう何度も聞いたその言葉に、ただ視界が暗くなった。
そのときばっかり、ちゃんと、針金虫が動き始める。
本当にいるのに。
私は思う。
けれど思っても、口には出てこなかった。
「すみません、この子、嘘ばっかりで」
「もう一度言ってみなさいよ」
お母さんの言葉を、ただまっすぐで鋭い言葉が止める。
私ははっと顔をあげた。
アコーディオンは、正義感にも、誠実さにも似た真っ直ぐな瞳で、お母さんを見ていた。
お母さんが驚いた顔をして、口を小さく開けて黙った。
「なんで苦しいのかも分かってあげられてないくせに、好き勝手言わないでよ」
アコーディオンがまくしたてる。
「あんたも!」
キッ、とアコーディオンは私を見た。
その瞳は明らかに私をにらんでいた。
この人は怒ってるんだ。
私は静かに思った。
「あんたも、嫌なら言ってみなさいよ。自分を守るために、母親にもでもあいつらにでも、噛みついてやりなさいよ!」
アコーディオンは私の肩を掴んだ。
先ほどの、心配そうに優しくあやすような手ではなく、ただ一点の怒りをこめて。
私はそのアコーディオンの怒りを一身に受けて、またはらはらと涙を流した。
この人は怒ってくれている。
そして同時に、一輪の花が咲くのを見た。
この人は、真剣に私のことを見てくれている。
そのまっすぐな愛に、私は涙を流した。
胸の中にただ温かさだけが広がっていく。
自分を守るために、誰かに噛みつくことを許してくれるのだ。
この人は。
「アコーディオンさん、落ち着いて」
先生が私とアコーディオンの間に割って入る。
私の肩をつかんでいるアコーディオンの手を引きはがそうと、先生が手を伸ばした。
「先生だって!」
アコーディオンはわめき散らした。
「先生だって、この子の本当の気持ちを理解してやろうとも思ってないくせに! 愛してやる気がないなら、パレットに近づかないでよ!」
アコーディオンはそう言って先生の手を振り払った。
私は、痛いくらいのアコーディオンの愛に、ただ唇を噛みしめて泣いていた。
母親に連れられて、私は家に帰ってきた。
自分の家なのにどこかよそよそしく、私は落ち着きなくどこに行けばいいのか戸惑っていた。
お母さんが居間の自分の席に座り、私を手招いた。
私は促されるまま、お母さんの正面に座った。
「ちゃんと聞くから」
お母さんは小さく言った。
「ちゃんと聞くから、言って」
その音色はとても優しく、傷にふれるように怯えていた。
私は申し訳ない気持ちになり、ふっと寂しさを感じた。
自分の母親が、こんな風に自分に気を遣う日が来るなんて。
私は、どうしてうまくできないんだろう。
「自分でも、よくわからない」
あのときからずっとぐるぐると回っている言葉を、ただ言った。
「自分でもよくわからないの……」
あてのない言葉は、音にした瞬間、泡になって消えていくようだった。
ただ、頭の中にはっきりとあるのは、世界には、絶対に言っちゃいけない言葉がある、ということ。
けれど、今言わなければならないような気がした。
私はまっすぐにお母さんを見た。
お母さんも私を見ていた。
お互いの目が合う。
お母さんの顔を、久しぶりに見たような気がした。
自分の母親は、記憶にあるよりもひどく弱々しい眉をしていた。いつものあのまっすぐで鋭く強い言葉が、こんな人の口から出ていただなんて、と、思った。
私は、この人になら言えるような気がした。
「私ね」
言いかけて、
「針金虫はね」
お母さんが遮った。
私はゆっくりと口を閉じた。
「お母さんにもよくわからないけれど……本当に、だめな母親でごめんなさいね」
お母さんは静かに謝罪をした。
その言葉に、また世界が切り離された気がした。
だめな母親から生まれたから、私はだめなんだろうか。
私は思う。
だめだと思わせてしまう、私が本当はだめなんだろうか。
あなたからもらった体を、大切にできない自分がだめなんだろうか。
遠く離れていく小さな母親を、やけに穏やかな気持ちで見た。
お母さんがどんどん小さくなっていく。
「でも、きっと先生は良い人だから、あの先生に、しっかりついていってね」
そして私ははっとする。
「……」
お母さんは、私を救ってはくれやしないのだ。
その事実だけが、私にははっきりと分かった。
私の神様はもう、私のことを救ってはくれやしないのだ。神様じゃない。この人は人だ。ただの人間だ。ただの女の人だ。
私は次々と出てくる思考を止められずにいた。ただぐちゃぐちゃとしてくる脳みそが気持ち悪かった。
ただの女の人だ。男女の話なんかしていないのに。なんて卑しいんだろう。
私は思った。
こんなこと、母親に思ってはいけないのに。
自分の心がひどく醜いもののように思えた。
「……だいじょうぶ」
私は言った。
アコーディオンがくれた花が視界の端に落ちている。花びらをまき散らして落ちている。
私はさみしい心で思った。
この花を捨てたのは私だ。アコーディオンが必死に押し付けてくれたこの花を、ぐしゃぐしゃにしてしまったのは、私の臆病さや不甲斐なさだ。
重い唇のせいで、アコーディオンからもらった花を守ってやることもできなかった。
あの時まっすぐに伸ばした腕が思い浮かぶ。
あの時だって、私は自分の意志で、自分の心をくしゃくしゃにしてしまったのだ。
自分で針金虫を招いたのだ。
「私はもう大丈夫だよ」
私は言った。
本当は、あなたに助けてもらいたかった。
その言葉だけを深く心に押し込めて、もうお母さんを困らせないように、私は微笑んだ。
「もういいから……」
私は呟いて、静かに席を立つ。
お母さんはそれでも不安げな表情をしていた。
「ねえ」
お母さんが私を呼び止めた。
部屋の境で足を止める。
「言葉にしなきゃ、何も伝わらないのよ」
お母さんは言った。
知ってる。
私は冷たく思った。
なんて残酷な言葉だろう。
私は思いながら、その言葉を胸につきさしたまま、部屋を出ていった。
頬にあたる風が冷たいことが、はっきりとわかった。
私はどこかへ向かっていた。
ただ胸の奥から脈打つ何かが、全身に駆け巡っていき、そのどうしようもない鼓動に突き動かされるまま、私は歩いていた。
走っていたのかもしれなかった。
自分がどこへ向かっているのかもわからず、私はしゃくりあげる喉を鳴らしながら針金虫が喜びのたうつのだけを感じていた。
視界がやけにぱちぱちと光っている。
なのにぼんやりと滲んでいるようで、そこで自分が泣いていることに気付いた。
鼻につく潮のにおいが私を導いている。
針金虫だけが行き先を知っていた。
広くどこまでも見渡せる場所につくと、私は一心不乱に突き進んでいく。
泡がはじけるような音が遠のいては近づき、近づいたら遠のいていく。
太陽がまぶしかった。
この光に私の体は溶けて行ってしまうような気がした。
きらきらと光を反射させた水が私の足元で笑っている。
優しい波が私の足を撫でた。
よくよく見ると水は黒々としていて、とても恐ろしいものに見えた。
けれど、私を優しく手招く力が歩みを止めさせない。
膝まで水が浸かると、私の身体が寒さに震えた。
跳ね返る波が目に入り、顔にかかり、足は重さにからめとられて私は膝を折った。
地面に手をつくと、その地面さえもやわらかく私を引き寄せる。
息が詰まって胸が苦しくて、私は泣いた。
力強い波だけが、私を正しい道へと手招いてくれていた。
ここにずっと来たかった。
不思議と広がる胸の安心感に、また立ち上がる。
すると、ふいに腕をめいっぱい引っ張られて、私は驚いて振り返った。
波が跳ね返り、光を反射させて舞い散る。
そこにはアコーディオンがいた。
すべての音も波も寒さも、すべてがすべて止まったような瞬間だった。
目に焼き付いている太陽が消え、アコーディオンの驚いたような表情をオレンジ色が照らしている。
アコーディオンの手が、私の腕を力いっぱい握って離さなかった。
「なにしてるの」
その声はやけにゆっくりと聞こえた。
私の鼓動は早鐘のように鳴り、胸の中の熱い鼓動だけが私の意識をはっきりとさせた。
「私……」
唇を動かした瞬間、自分が海にいることに気付いた。
そして、自分がどこに向かおうとしているのかも、やっと理解した。
「私、なんで……」
その瞬間、ぼろぼろと涙が溢れてきた。
次々と頬を伝って波に落ちて溶けていく。
私はアコーディオンの腕を必死にふりほどこうとした。
「わからない、わからない!」
私はわめいた。
しかしアコーディオンの手は離れなかった。
どれだけ必死に振りほどこうとしても、アコーディオンは痛いほど、痛みが消えるほどにまで、強く強く私の腕を離さなかった。
「パレット!」
勢いよく彼女は私の腕をひき、私はバランスを崩してよろけた。
その両肩をつかみ、アコーディオンがまっすぐに私と顔を合わせた。
私の瞳は彼女の瞳にとらわれて、離せなくなった。
「パレット、どうしてこんなこと」
アコーディオンは言った。
その瞳は怒っているようにも見えた。
燃えるような怒りと、戸惑いと、不安と、たくさんの悲しみが垣間見えた。
「私……」
針金虫が暴れまわって、思考がうまくまとまらなかった。
けれど、正常な判断も、絶対に言っちゃいけない言葉も何もかもを忘れて、私は涙を流しながら言った。
「分からないの。自分がどこにいるのか。だって、そんなもの、無いっていうんだもの。針金虫なんていないって。でも、こんなにも辛いのに。こんなにも辛いのに、いないなんて言われたら、じゃあ、この痛みはどこに返せばいいの? 針金虫は、私は、どこに行けばいいの?」
涙と同じようにぼろぼろと溢れてくる言葉が、ただ唇から零れ落ちていく。
「こんなにも辛い。海に還したい。この針金虫を海に還さなきゃいけないの……でも、でも、私……明日を望むことだってやめたくない……! 願うことも、祈ることだってやめたくない……!」
私はそう言って、アコーディオンの腕にすがった。
アコーディオンはそれ以上何も言わずに、私をしっかりと支えてくれていた。
震えが止まらない。
自分がしようとしていたことの恐ろしさに、やっと気づいて、さっと血の気がひいていく。
けれど、アコーディオンの手から伝わる体温が、とても温かくて、ただ嬉しかった。
背中にあたる沈みゆく太陽の光が、ささやかに私を温めていて、ただ嬉しかった。
私は生きている。
その事実に、私は涙をこぼした。
「陽が沈んでいくわね」
アコーディオンがやっと口を開いて言った。
私は静かに頷いた。
さざ波の音を聞きながら、私とアコーディオンは砂浜で並んで座っていた。
二人ともびしょ濡れで、少しずつ消えていく太陽をただ眺めていた。
オレンジ色の太陽が海を照らしていた。
白く青く、緑やオレンジ色にもなってきらめいている海が大きな声をあげて鳴いている。
海風が私たちの体温をさらっていく。
「重いわ」
アコーディオンが言った。
そして彼女は上に着ている服をせっせと脱ぎ始めた。
「何してるの」
私はぎょっとして尋ねた。
「重くてかなわないわ。こんなもの」
言いながら、下着姿になったアコーディオンが服を丸めて膝に乗せる。
「ちょ、ちょっと、いくら人がいなくても……」
私は言いかけて、アコーディオンの腕に目がとまる。
私が強く握っていたせいか、太陽のせいか、赤くなったアコーディオンの白い肌に、無数の線がひかれていた。
はっとして、口をつぐんだ。
「半袖が着られない理由よ」
アコーディオンは穏やかに言った。
「……そんな」
「嘘ついてはいないわよ。本当のことを言わなかっただけ」
悪びれた様子もなく、アコーディオンは言った。
けれど責める理由もなく、私はなるべくじろじろ見ないように、また海へと視線を戻した。
「この世界には、絶対に言っちゃいけない言葉がある」
言ったのはアコーディオンだった。
その言葉に、私はアコーディオンの横顔をみた。
夕日に照らされた彼女の顔は、やはり強くまっすぐで、美しい顔立ちをしていた。
そして視線を落とし、また彼女の腕を見る。
不自然な無数の線も、私と同じようにオレンジ色に照らされて、水滴と一緒にきらきらと光って見えた。
「あたしにも針金虫が住み着いていた」
アコーディオンは言った。
「自分は自分で、確かにここで苦しんでいたの。だから、ここに戻ってくるのが嫌だった。また、あの弱かったころの自分が戻ってきちゃうんじゃないか、って思って。でも、パレットに会えて、パレットの辛さを、針金虫を、気のせいじゃないって言える。確かに、ちゃんと言える。それは、自分がここで苦しんできたからだわ」
さざ波が優しく歌っている。
潮風が私たちの体温を奪う。
胸に、温かい気持ちが広がっていく。
「報われたの。あなたに会えて。パレットに会えてよかった。あの時のあたしに、会えてよかった」
私は胸の中の温かさを逃がさないように、そっとアコーディオンの手をとった。
「辛い記憶も辛さを感じる心も、自分を自分たらしめる理由になるんだわ。だから、受け止めてあげればいい。叩かれたら、守ってあげればいい」
アコーディオンが私の手を握り返してきた。
その手は震えているようで、でも力強く引き寄せられるようだった。
「あたしの痛みはあたしのものだわ。誰にも渡したりしない。ここで泣いたことも、ぜんぶあたしの記憶なんだわ。今、ここでパレットに会えた。それは、あたしがここで泣いたからよ。どんなに辛くたって大丈夫。明日は来る。どんな形でも、明日は来るんだから」
それは、私に言い聞かせているようで、まだ弱い自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
アコーディオンの言葉がじんわりと胸に届く。
太陽が少しずつ姿を消していく。
「あれ、何かしら」
アコーディオンが服を置き去りにして、ふいに立ち上がる。
「あれって?」
そのまま繋いだアコーディオンの手にひかれて、私も立ち上がった。
「あそこに何か光ってるものがあるわ」
繋いでいない方の手で、遠くの波打ち際を指さす。
よくよく見ると、確かに、何かが光を反射していた。
「何だと思う?」
「えっ」
ふいに聞かれて、私は怖気づいた。
間違ったことを言ってしまったら恥ずかしい。
私の唇はまた重くなった。
「なんでもいいから。笑ったりしないから」
アコーディオンが急かした。
手から伝わるぬくもりが、私の胸の内を優しくほどく。
「うーん……ヒトデ?」
「えっ、なんでヒトデ?」
アコーディオンは私の返答に面食らって、そして笑った。
「あっ、笑わないって言ったのに」
「だって、ヒトデって、貝殻じゃないんだ?」
「ヒトデだと思ったんだもの」
私はむきになって反論した。
アコーディオンが快活そうに笑う。
そして、ごめんごめん、と手を振って謝った。
「パレットがそう思ったのなら、ほんとうにヒトデだわ。見に行ってみましょ」
「えっ」
アコーディオンが私の手をひいて走り出した。
「待って、待ってよ」
私は砂浜に足をとられながら、アコーディオンに手をひかれるままに走った。
アコーディオンの白い背中を、沈みかけの太陽が照らしている。
波打ち際で光る泡が足をくすぐり、水しぶきを上げて私たちの世界をきらめかせた。
今、私は確かにアコーディオンと同じ世界にいる。
それを確かに感じながら、私は一生懸命アコーディオンについていく。
「あれ」
アコーディオンが立ち止まる。
私たちの足元に落ちているのは貝殻だった。
まぎれもない貝殻だった。
アコーディオンは私から手を離し、貝殻を拾い上げる。
ほんの少しの寂しさを感じたが、今の私はもう大丈夫だった。
けれど、アコーディオンはその貝殻を景気よく太陽へと投げ飛ばした。
貝殻はこの世界で一番強い光を受け、影をすっと伸ばして宙へと浮いた。青い波をその滑らかな表面に映しこみながら、綺麗な放物線を描いて、やがて飛沫を散らして海へと消えた。
私はアコーディオンの容赦ない行動に、目を丸くした。
「今のはヒトデだったわ」
アコーディオンが言った。
「いや、貝……」
「ヒトデだったわよ」
むきになったように、アコーディオンは私の言葉を遮った。
「パレットがそう思ったんだもの。ヒトデだったの。それがほんとうのことなの」
アコーディオンは子供みたいに言った。
私はその言葉に胸が熱くなり、また視界が滲む。
けれど涙は流さなかった。
もう泣く必要はないと思った。
「あんたの見ている世界が、すごく綺麗だと思ったの」
アコーディオンはふいに言った。
「え?」
「駅前の絵、あれ、あんたが描いたんでしょ」
私はあの落書きまみれの絵を思い出した。
また不安が胸を騒がせたが、すぐにその不安は波にさらわれて消えていった。
「ひどい落書きね。消すのにずいぶん時間がかかっちゃったわ」
その言葉にはっとして、私はアコーディオンを見つめた。
「消せてよかったわ。ほんとうにきれいだと思った。この人の生きている世界は、なんて美しいんだろう、って」
私だって。
私は思った。
アコーディオンはなんて美しい人なんだろうと、思ったんだ。
なんてまっすぐに世界を見ているんだろう、って思ったんだ。
「天使が描いた絵だと思ったわ。でも、ほんとうは、こんなに臆病で優しい人が描いたものだったなんてね」
私だって、神様みたいだと思ったもの。
私も負けじと思う。
でも、本当は違うんだものね。
お母さんは神様じゃない。ただの女の人。
お母さんと同じくらい強くてまっすぐなアコーディオンだって。
彼女の白い手を優しくとる。
「私がいなくなったあとのことを、ずいぶん長く考えていたの」
私は言った。
手を挙げた日から、ずっと。
「私がいなくなったあと、世界はまた朝日を迎えてまわっていく。たくさんの人がその光に目をさまして、またいつものように今日を生き始める」
穏やかな心地だった。
「私がいなくなったあとの朝日はとても白々しくて、私のことなんて知らない風に、また世界がまわっていくの。寂しい気持ちを抱えながら起きる人もいるのかしら、悲しい気持ちを抱えながら起きる人もいるのかしら、って、思いながら」
あの絵を描いていた。
静かに、美しい世界を思い浮かべて。
私がいなくなったあとの朝も、美しいと良い。
知らない顔で朝日がのぼると良い。また、今日がはじまると良い。
そんな願いを込めながら、私はただ夢中で絵を描いていたのだ。
「楽しかったわ」
私は言った。
アコーディオンに。
「私も、アコーディオンに会えてよかった」
私は言った。
「これからだって楽しいわよ」
アコーディオンは、寂しそうに目をふせ、やがて、私と同じように微笑んだ。
寂し気な気持ちを運ぶ、少し肌寒い風が私たちの間を通る。
私は先生と一緒に丘の上へと来ていた。
今日は二人きりだった。
私が先生を誘って、もう一度ここに来たいと言ったのだ。
先生はあの日のことがあってから私に会っていなかったから、ぱっと顔を明るくさせて頷いてくれた。
アコーディオンは、あの海での出来事を先生に言ってはいないようだった。
別に言っても良いと私は思った。
すべてを許せる気がしたのだ。
あのときのアコーディオンのように、すべてが報われる日が来るのだから。
私は最後の願いを胸に、先生と隣に並ぶ。
「あのとき、アコーディオンさんに言われたことを、わたしもよく考えていました」
先生が言った。
私は丘から見える街を見下ろしたまま聞いた。
「本当の気持ちで、わたしはパレットさんを見つめていなかったんですね」
先生は穏やかに言った。
けれどその中にも少しだけ不安や寂しさが垣間見えて、私もふっと寂しくなった。
季節が移り替わろうとしている。緑の木々は少しずつ色あせて、花は散って冬が来る。
茶色に枯れた葉がはらはらと足元に落ちる。
どうにかこの季節まで巡ってきたのだ。
私は思った。
やわらかな日差しが街を見渡している。
「風が冷たいですね」
「はい。やっと冬が来るんですね」
「寒いのは苦手ですか?」
「いいえ……」
私は目を伏せた。
これからこの街はどんどん寒くなっていくだろう。
そこに私がいることが、想像できなかった。
私がいなくなったあと、この街は寒くなっていく。
それだけは、私は確かに知っていた。
足元にある自分の影が黒々としている。自分の影ははっきりと私にくっついている。
先生の足元にある、先生の影も見る。
はっきりと黒い。
この人と同じように自分には影がある。
それがたまらなく不思議に思えた。
「夏は苦手なんですよね。日差しが強いのが」
先生は私が言っていたことを覚えていてくれたようだ。
しかし私は首を振った。
「いいえ。夏も好きです。あのコントラストが強くなって、頭が痛くなるほどの日差しも、大好きです」
私は微笑んで言った。
今まで何度も経験した、あの頭が狂うほどの暑さを思い出す。
それから、どこからともなくやってくる桃色の花びらのこととか、進むたびに耳に届く枯葉の踏みしめたときの音とか。
そんなものを、私は思い浮かべながら、胸に広がるほっと優しい気持ちに目をつむった。
街の気配がする。いろんな人が朗らかに笑っている声が聞こえる。
「この優しい日差しだって、もちろん」
目を開けると、いつもの街が見える。
もうすべてを許せる気がした。
アコーディオンが言っていたことを思い出す。
ここで経験したすべての思い出が、私を私たらしめる記憶になる。
勇気をもらえたのだ。
アコーディオンからもらった花を、私は大切に守りたいと思った。
先生は優しい微笑みで私を見つめてくれていた。
「パレットさんはきっと、すぐにこの街を出て行けますよ」
先生は言った。
ふいに太陽に雲がかかり、街全体が一瞬にして暗くなった。
世界がいっきに冷たくなって、私たちがいるこの丘も、凍えたように静かになった。
世界には、絶対に言っちゃいけない言葉がある。
私は冷たい心で思った。
そして、冷たく鋭い風が丘を駆け上ってきた。
風に押されて、私の身体はよろめいてしまう。
反射的に目をつむる。
すると、肩に暖かなぬくもりを感じた。
目を開けて見上げると、先生はそっと私を抱き寄せて支えてくれていた。
先生の傍から伝わるぬくもりが、この世界を温めてくれた。
いつの間にか太陽が顔を出して、先ほどのことがなかったように、また平等に世界にやわらかな日差しを配りはじめている。
私の心は凍えたままだ。
私は冷たく思った。
「先生、私、生きていこうと思います。先生の隣で」
私は言った。
冷たい心のままに言った。
街を見下ろしたまま。
先生は私の方を見ているようだった。
一羽の真っ白な鳥が、大きく翼の音を鳴らして丘から飛び立った。
私はその鳥を真っ直ぐに見つめる。
先生は私を見ているようだった。
白い鳥のその背中にやわらかな日差しがあたり、反射した。
羽を動かすたびに光を散らすその鳥は、やがて小さくなってゆっくりと青に溶けていった。
あのとき、確かに私とアコーディオンは同じ方向を見ていた。
あのまばゆいほどの太陽の光を見つめていた。
先生とはできない。
先生は、一緒に生きていくことをしてくれやしない。
それだけが確かに分かって、私は寂しさを感じた。
その寂しさでさえも、自分が自分である理由になった。
それだけのことで、優しい気持ちになれた。
すべてを許せる気がした。
もういいのだ。
優しい気持ちが心に広がる。そっと息をひそめる寂しさの吐息だって聞こえる。
針金虫がそっと息をつく。
私がいなくなったあとの朝は、美しいと良い。
また、明日が来ると良い。
私はそう明日を願いながら、先生と目を合わせて、同じように微笑んだ。
優しいぬくもりが、そっと瞼を撫でた。
目を開けて息を吐くと、凍えていた空気が少しだけ震えた。
体を起き上がらせて、静かに窓から外を見た。
白々しいまでの太陽が、この世界を暖め始めたころだった。
海は穏やかに光を反射し、きらきらと光って佇んでいる。
静かで、新しい朝がまたやってきた。
その寂しさに耐えられなくて、また視界が滲んだ。
あたしはベッドから離れ、部屋に置いてある赤い鍵盤を抱えて外へ出た。
頬に突き刺さる冷たい空気が、熱くなった瞳を冷やした。
海のさざ波は穏やかで、小さな拍手のようにぱちぱちと耳に届く。
確かな重みを感じながら、あたしはお腹に抱えた鍵盤を小さく鳴らす。
ほんの少しだけ鳴らしたその音は、泡のように消えてなくなった。
大きく息をはいて、太陽をまっすぐに見つめる。
白々しい。なんて冷たい朝だろう。
まぶしさに目を細める。
そして、なんて美しい朝だろう。
思った。
あの子が描いて、願った朝だ。
確かな寂しさを心に携えながら、あたしは鍵盤に空気を送る。
厳かな音がお腹から伝わって、あたしは目を閉じた。
また世界がまわっていく。
その残酷なほんとうのことに、たくさんの悲しみをたたえながら、音を奏でる。
海は静かに手招きしながら、光は手を振り彼女の門出を祝っていた。
第32回太宰治賞に応募した作品でした。