一線
9.一線
翌日から美穂と俺は何事もなかったかのようにまた日々を過ごした。相変わらず美穂とのことを考えると、やっぱり胸が引き裂かれそうになった。でも、きっと俺と美穂は兄妹という関係のそれ以上でもそれ以下でもないし、何よりも美穂がそんなことを望んでいるはずがない、と気持ちを押し殺して過ごしていた。
「何日も会社にいないのに、私のことなんか誰も気にしてないんだろうなー。」
美穂が冗談っぽく笑いながら言った。翌日も翌々日も美穂は買い物に行ったり、映画を見たりして過ごしているようだ。掃除らしい掃除をしていなかった家も何日かかけてすごくきれいにしてくれた。
「私が帰っても、きちんと掃除くらいしてね。」
夕飯の際にビシッと厳しいことを言われてしまった。美穂が口にした《帰る》と言う言葉に、俺は動悸がしたように軽い吐き気すら感じた。きちんと掃除をしないと言えば、美穂はここに残ってくれるだろうか。そんなくだらない考えすら頭に浮かんだ。
夜になっても過ごしやすい日だった。お風呂あがりのスエットにTシャツ姿の美穂は毎日欠かさずやっているというヨガをテレビを見ながら器用にこなしていた。小さい頃の妹との思い出はほとんどない。ただ家から自転車ですぐの海岸に妹とじいさんと行ったっけ。あの頃、まだ自転車に乗れなかった妹は俺の後ろに乗せて行った。
…美穂、海、見に行かない?
唐突すぎる質問だった。何にも考えないで口をついて出た。
「いまぁ?真っ暗で何も見えないんじゃない?」
笑いながら答える美穂に、俺はすぐ近くだし今日は月明かりが明るいからなんてもっともらしいことを言って連れ出した。酒蔵に誰のものかもわからない自転車がある。
「二人乗り?お巡りさんに怒られちゃうよ。」
なんて笑いながら美穂は後ろに乗ってきた。背中越しに感じる人の温もりに、俺は叫び出しそうだ。苦しいくらいの鼓動が美穂に聞こえてしまわぬように、俺は力一杯ペダルをこいだ。
「私、覚えてるよ。お兄ちゃんの後ろにこうやって乗ってどっか行ったこと。」
行き先は覚えていなくても、美穂は覚えていてくれた。
「なつかしい感じ…」
美穂がそっと背中にしがみつくから、俺は頭が真っ白になった。ほんのり香る石鹸かシャンプーの香りに、何も考えられずただ無言で走り続けるしかなかった。
海は静かだった。砂浜がひんやり冷たく、空と海が繋がっているように見えた。海辺を少し歩き、コンクリートの階段に2人で腰を下ろした。ひんやりとして少し寒いくらいだ。寒くない?なんて美穂に聞いてやる余裕もないほど、俺の頭と心は溢れそうな気持ちが埋め尽くしていた。
「暗い海もなんかいいね。」
海の先を見つめながら美穂が言った。はたから見たら俺らは恋人のように見えるのだろうか。そんなことを考えたら、俺はもっと泣きたくなって美穂の横顔を見つめていた。
まつ毛、もとからそんなに長いの?
前々から気になっていた質問をこんな時にしてしまった。確かに妹は化粧をしていなくても人形のように長く、上向きのまつ毛だった。
「あ、これマツエクつけてるの。知ってる?偽物のまつ毛を専用の接着剤で1本ずつ自分のまつ毛につけるの。あ、もちろん自分ではできないよ!やってもらうんだけど…」
今時の若い子はそんなことをしているのかと、自分は世の中をなんにも知らないのだと痛感させられてしまった。偽物のまつ毛と接着剤という単語がどうしても工作のように感じて、美穂のまつ毛をじっと観察してしまう。
「ほら…ここまでが自分のまつ毛で…ここからが偽物で…」
なるべくまばたきをしないようにして、まつ毛を見せようとしてくれる。俺はじっと目を凝らし《偽物》のまつ毛に注目した。その時、ふと美穂がこちらを向いて至近距離で目が合ってしまった。吸い込まれそうな目に俺の心臓は破裂寸前だった。
ほんの数秒だったのかもしれない。頭の中は何かを考えようと必死だったのかもしれない。お互い目を反らすこともせず、ただ見つめ合っていた。美穂がまばたきなのか、そっと目を閉じたかと思うと…俺の唇に美穂の唇が重なった。本当に一瞬だったかもしれない。俺の鼓動は絶頂のように高鳴り、うるさいくらいだ。
「…ごめん!私なにしてるんだろ!ホントごめん…」
パッと顔を反らした美穂を前に、俺はなんにも考えられなかった。無意識のうちに美穂の二の腕を掴み、今度は俺から唇を重ねた。美穂とキスをしているという実感よりも、まだ不安と鼓動と愛しさがごちゃまぜになっていた。一度離れてもう一度、美穂の顔を見る。お互いなんにも話さなくても、なにか言いたいのはわかっていた。そんな言葉より先にもう一度、唇を重ねた。美穂の温もりや感触を確かめながら今度は長く、何度も何度も唇を重ねた。