感覚
8.感覚
美穂が来てから、時間の重みを感じる。毎日当たり前のように過ぎていた時間がこんなにも愛しく感じたことはあっただろうか。
美穂は毎日夕飯を作ってくれた。あり合わせや蔵人のおばさんが作ってくれるもので済ますことが多かったからカレーやハンバーグを久しぶりに食べた。こんな人と出会っていたら、俺はじいさんが死ぬ前に跡取りを見せてやれたかもしれない…ふと頭をよぎった思いを《兄妹》という文字がかき消していったようだった。俺は美穂への気持ちを必死に消そうとしていたのかもしれない。
月がきれいな夜だった。何年ぶりかに口にするアイスに美穂との会話が弾んでいた。すっぴんでも吸い込まれてしまいそうな美しい横顔は、月明かりに照らされて俺の視線を釘付けにしていた。きっと世の中には美しい人はごまんといる。でも美穂は俺にとって理想としていたものを全て持っているのかもしれない。そんな考えを、スマートフォンの効果音が遮った。
覗くつもりはなかったけど、反射的に見てしまった。美穂へのメッセージは男からのようだった。見てしまったメッセージと、途切れた会話の整理がつかないうちに美穂は今まで笑顔で話していたのとは打って変わって、重く、でもハッキリとした口調でその男性と付き合っていることを打ち明けた。そして相手は既婚者だということも…。
俺にはよくわからなかった。それは既婚者と付き合う美穂の気持ちではなく、俺自身が置かれている状況がそもそもよくわかっていなかった。ここで俺はどんな言葉をかけ、何をしてあげたらいいのだろう。美穂が無理矢理作った笑顔でなんとか笑える話にしようとしているのは、いくら恋愛経験のない俺でもすぐにわかった。月明かりのもと、沈黙がずっとずっと続くように感じた。
もっと話して。
ようやく俺から出た言葉がそれだった。
美穂がたくさん話して、気が済んだり楽になるならもっと話して。聞いてやることしか出来ないから。
半分、本音だった。でも正直なところ美穂の恋愛に興味があったから。後から思えばそれは、もう俺自身が美穂を妹として見れなくなっていたのかもしれない。
自分の気持ちに気づくと、あとはただ複雑でしかない。もし美穂が俺の実の妹ではなく、他人だったなら俺はすぐに気持ちを伝えていただろうか。美穂と離れた20年間、一体俺は何をしていたのだろう。
付き合っている彼の話を美穂はやっぱり笑い話のように話してくれた。言葉に詰まるわけでもなく、感情的になるわけでもなく、胸が張り裂けそうになる内容を無理して作っただろう明るい表情と声で淡々としてくれた。俺に話してくれたのは、ほんの一部だろうけど。
「わかんないけど、お兄ちゃんってなんでも話せる。私ね、生まれた時からお父さんっていないでしょ?後からお父さんになったお父さんは、なんてゆうかどうしてもお父さんって定着しなくて、それをお父さんも感じてたみたいで、なんか上手く接することが出来なかった。だからね、今でもママはママだけど、お父さんはパパって呼ばないんだ。昔から。」
アイスの棒を月にかざしながら、妹は続けた。
「だからね、なんてゆうか男の人と上手く話せなくて高校も大学も自ら選んで女子校にしたし…でもねお兄ちゃんはなんでも話せる。ずっと一緒にいたわけじゃないのにね。不思議。見て!月に棒が刺さるとお菓子みたい!」
美穂が急にこっちを向き笑いかけるから、俺はすごく泣きそうになった。すぐに手を握ったり抱きしめることができたら、俺の胸の苦しみは和らぐのかもしれない。でもきっとそれは2人の関係を壊してしまうだろう。今の俺と美穂は一番近いようで、ものすごく遠いのだろう。