旅路1
山を登る。
サルアの横に連れだって歩いているのは、グイド。
軍服を脱ぎ、猟師のような、薄い茶色の服を着て、足は山登りに向いている、ひざ下丈のブーツを穿き、背には荷物を詰め込んだ背負える形の布袋、肩には銃身の長い銃を一挺、掛けている。
サルアは、洗濯されたいつもの服。いつもと違うのは、服から石鹸の良い香りがしていることだ。磨かれた体も同じ。少しだけ変わった気がするのは、たかがそれだけの違いのせい。あとは隣にグイドが歩いていることくらい。
この登山の名目は、命令違反を犯した架空の兵を追う為だと、グイドは言った。グイドと同じ気持ちで、グイドと共にこの作戦に加担した兵たちは、グイドの残して行っている目印を頼りに、後から追って来る。それが何人いるのかは知らない。ただ、そういう約束をして来たのだと、グイドは語った。
サルアにとって、この山は故郷に等しい。しかし、それは山を幾つも越した先の、深い部分のみで、人里に近い場所は、まだ知らない場所だった。
「ごめんね」
唐突にグイドが呟いた。
サルアの身長は、グイドの肩辺りまでしかない。グイドは平均的な身長だから、サルアが低い。23歳と15歳。年齢の差があるのかもしれないが、サルアはもう成長が止まっていた。肌に塗る薬のせいか、満足な食事を取っていなかったせいか、それはサルアにもわからなかった。
「なに?」
サルアが不思議そうに見上げると、グイドは悲しげに笑った。
「君の都合も考えずに僕の事情に巻き込んでしまって、本当にすまないと思ってる」
そういうことかと頷いたサルアは、それから首を振って見せた。
「ううん」
そう言ったサルアは、息を飲むように黙り込み、覚悟を決め、グイドを見上げた。
「あたしも望んでいたから」
「え?」
不思議そうな視線がサルアを見返した。
サルアは、グイドの視線を受け、なんとなく視線を逸らす。
「あたし、あの腕を見つけた時、何かに呼ばれているように思った。ずっと、あたしは変わらないと思っていたから……ううん、変われないと思っていたの。変わりたいと思っていたの」
言葉を変化させながら、心の中に波紋が広がる。自分の行動の理由を何一つわからず、ただそうしたいからと村を離れた。そういう行動の奥深くに、変わりたいと思っている自分がいたのだと初めて気づいた。
「見て」
サルアは足を止め、グイドを見上げながら、大きく口を開いた。
グイドは、サルアに言われるまま、サルアを見下ろしたが、すぐに視線を外し、恥ずかしそうに顔を腕で隠した。
「女の子がそんなこと、しない方が良いよ」
グイドの視線が泳いでいる。
「見て」
サルアはグイドの態度などお構いなしに、もう一度、口を開いて見せた。
グイドは諦めたのか、サルアの見せたがる口の中を覗き込んだ。
「見えた?」
サルアの指先が、歯の奥を示し、グイドはそこに、銀色の玉が埋め込まれていることを知った。
「何かのまじない?」
まるで楽しい山歩きのように、グイドは鼻歌でも歌いだしそうな態度で足を進める。サルアもグイドについて行きながら、口の中にあるものの意味を伝えた。
「毒だよ。あたしが秘密を洩らした時、玉が潰れて毒が回るの。一瞬で終わる猛毒だって。だからあたしは何も言えない。でもね、グイドが薬師なら、薬師の知る範囲のことは教えられるよ」
グイドは考えるように空を仰いだ。
空は青く澄んでいて、丸く白い雲がぽっかりと浮かんでいる。とても温かな日差しの中、のどかな雰囲気さえ醸し出している。けれどこれは危険な任務だった。思わず忘れてしまうくらい、グイドにはのんきな態度しかない。
「薬師かぁ。それはどうやったらなれるの?」
疑問を表情に乗せ、グイドはサルアを見下ろした。
サルアは道の端に座り込み、グイドの足を止めさせ、グイドを見ることもなく手招きをすると、近寄って来たグイドに、小さな白い花の付いた草を指した。
「これ、潰して捏ねると火傷の薬になるの」
サルアはその草を摘み、指先で捏ね、緑色の塊にすると、立ち上がってグイドと向き合った。
グイドは、何の疑問も持たない態度でサルアの行動を見守ると、サルアの潰した草の塊を受け取った。
サルアは笑う。
「交換」
サルアは、草の塊を持っていた手とは反対の手を、手のひらを上にして差し出すと、小首を傾げた。
グイドはポケットの中を探り、中にあった砂糖菓子を取り出し、サルアの手の平に乗せた。
「お菓子だよ。口に入れて舐めると、甘くておいしいよ」
うん、と頷いたサルアは、ポンッと丸い塊を口に放り入れると、舌の上で転がし、その甘さに驚き、次第に表情をほころばせていた。
「それで、これにはどういう意味があるんだい?」
嬉しそうなサルアの顔を見たグイドは、子どもらしい表情を見せたサルアに満足し、歩みを再開した。サルアもグイドの横に並び、歩き始めている。
「薬と交換。それが薬師のお仕事です」
グイドは、なるほどと、吹き出して笑った。
「もしかして、これで僕も薬師になれたのかな?」
笑いながらサルアを見下ろせば、サルアも笑って頷いた。
「うん、なれたよ」
「簡単なんだね」
「うん」
そう言って笑ったサルアだったが、すぐに表情を翳らせて行く。
グイドは、そうだったと自嘲した。これは楽しい山登りではない。山に登れば危険が伴う。しかも今回は“竜の巣”を目指しているのだ。
グイドは、竜という生物を見たことがなかった。噂は幾度となく聞いている。しかし、竜を間近にして、生きて戻って来たものなど誰一人としていない。それほど危険な生物であることだけが、グイドにわかっていることだった。
「グイドが、鳥を滅ぼしに行くって言うのなら、あたしはここにいなかった。グイドは大切な人を探しに行く。だからあたしは一緒に行く」
「うん」
サルアの拙い言葉を、グイドは頷きながら聞く。
「鳥がいるから、あの場所に人がいない。人がいないから、あたしはたくさんの薬草を摘むことができる。あたしにとって鳥は大切なの。いなくなったら、あたしは生きて行けない。本当はグイドだけ。他の人はいらない。だってあたしは守れないから……」
祈るような眼差しで、サルアはグイドを見上げた。
グイドは頷く。サルアにとって、この行動は、自身をも危険に晒し、死を招くかもしれない秘密を明かしてしまうかもしれない、危険の狭間にいる。それでもサルアはグイドを、後から追って来る兵を心配している。それは自身を守る為の気持ちがほとんどだったのかもしれないが、グイドにはそれが優しさに映った。
「僕のいる領には、3つの軍があるんだ、知っているかい?」
静かなグイドの声に、サルアは小さく首を振った。
山から下りたことのないサルアには、国がどんな形なのか、いくつの領があるのかも知らない。だから領の中の細かなものも知る機会は薬師の語る言葉の中だけで、どうせ山を下りることなどないと思っていたサルアは、注意深く聞くこともなかった。ただ、ファタ領の紋章だけは覚えていた。紋章の柄が、とても美しい鳥と花だったからだ。
「正確には、3つの軍と、そこに関わらない一般兵にわかれる。僕は紫、長男、ヴォルパド様が将を務める軍にいる。赤が二男のジェルド様で、白が三男のセシル様。ファタ領主の息子のお三方が将を務めている」
「……ジェルド。あの腕の人」
サルアが呟けば、グイドはうんと頷いた。
「ヴォルパド様はとても厳しい方で、それは軍の統制にも表れていてね、その日に与えられた日程を熟せなければ、日が沈んでも、朝日が昇っても許してもらえない。次の日には、次の日の日程がある。山積みになった日程を熟すことだけで毎日が過ぎて行くんだ。反対にセシル様はのんびりした方でね、軍のことは部下に任せっきりで、訓練をしている姿もあまり見ないくらいなんだ。ジェルド様はとても効率が良い。人を動かす才があるのか、不平不満を聞くことも少ないし、何よりも笑っているんだ。笑って楽しそうにしている。そういうのを見ると、僕もジェルド様の下に就きたかったって思うのだけど、そういう顔を見せると、ヴォルパド様は罰を与える。独房に7日閉じ込められ、ろくな食事も取らせてもらえなかったり、鞭で何百回も打たれたりするんだ」
グイドは小さな笑みを見せた。
「でも軍にいられるだけでね、生きて行くには十分すぎるくらいの給金が貰える。誰の下で務めていても、それはかわらない。僕が我慢すれば、家族に贅沢をさせてあげられる。そういうのを考えていれば、軍に置いてもらえているだけで幸せだと思うんだ。心配そうな顔なんてしなくて良いよ」
グイドは見上げて来るサルアの髪を撫でてなだめた。
本当のところ、サルアには良くわかっていなかった。それぞれの軍にそれぞれの色があり、グイドが苦労して来たことはわかる。お金がなければ生きて行けないのは、サルアの村でも同じだった。ただ、我慢してまで耐えることの意味は良くわからない。サルアとは違い、グイドには選択の余地があったと思えるからだ。
「国から“竜の巣”遠征の話が下ったのは、まだ3月前のことだよ。遠征の指揮官にジェルド様が選ばれて、その部隊の編成もジェルド様に任せられていてね、どの軍からでも選ぶことが許されていたんだ。でもね、いくら自分のいる軍に不満があったとしても、自分から“竜の巣”行きを選ぶ者は少なかったんだ。当然だよね、だって行ったら戻って来られないってことがわかっているから。でもね、僕は志願したんだ。こんな機会はそう何度も与えられない。竜なんて見たこともないし、もちろん怖いって気持ちはあったよ。でも、僕はジェルド様の下に就きたかった。どうしても」
空を見上げるグイドの瞳には、強い意志の輝きが見えた。
「でもね、僕は遠征に入れてもらえなかった」
悲しげに笑ったグイドは、サルアを見下ろした。
「だから僕はここにいる。皮肉なことに、遠征に入れてもらえなかったからこそ、今こうしてジェルド様を探しに行ける」
「……でも」
言葉を紡ごうとしたサルアは、それから先の言葉を無くしたように口を閉ざした。
「うん、ほんの小さな希望かもしれない。生きていないかもしれない。でも、僕も、後から来る人たちも、みんなジェルド様の無事を願ってる。小さな願いが大きな願いに変わり、奇跡が起こせるかもしれないって、本気で思っているんだ」
「奇跡?」
サルアは小首を傾げ、グイドを見る。
「うん、奇跡だよ。竜を相手にしたら、生き残るなんて奇跡だろ? でも僕は本気だよ。ジェルド様のいないファタ領の未来なんて、恐ろしくて想像もしたくもない。ずっと打ち消しながら、この3月を生きて来た。少しずつ崩れ、欠けて行く何かをね、確実に感じていたんだ。僕はジェルド様のいるファタ領を望んでいる。もしかしたら、国を変えてくれるんじゃないかって、夢をみているくらいだからね」
「……よく、わからない」
「うん、ごめんね、結局、何が言いたかったかというと、僕たちは、僕たちの想いを優先させてここにいる。だからサルアが気に病むことなんて何一つないよ。サルアは、サルアの思う通り、進んで行ってくれたら良いんだ。できないことは、できないってそう言って? 大丈夫だから」