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新たな世界

 サルアの住んでいる、薬草摘みの女たちが暮らしている村は、リラト国の東国境がある、グルクラナと呼ばれる山脈の奥深くにあった。


 そこはどの国にも属さず、時折、立ち寄る行商人に薬草を売ることで生業を立てている村で、現在は10人の女が暮らしている。そのうちの一人がサルアで、サルアは、赤子のころ行商人に拾われ、村に売られたと同時に薬草摘みの仲間になった。薬草摘みは女の仕事だった。危険とされる鳥が女に甘いとされている為と、鳥除けの薬を使用できるのが女だけだということ、それから、昔から女が生業を立てていた伝統も関わっている。


 サルアは、下界を知らない。


 時折、訪れる行商人の世話をする際に、ほんの少しだけ聞くことができるだけで、あの指輪を見て、リラト=ファタ=サーイムだとわかったのも、以前訪れた行商人が、同じ紋章の付いた契約札を持っていて、サーイム家の使いだと名乗ったからだった。同時にその場所が、この山を下り、国境門を潜った先の、すぐにある領の領主のところから来たと、聞いてもいないのに、遠くて疲れたと愚痴を聞かせたせいでもあった。


 服は2着しか持っていない。下着は毎日取り換えるけれど、それも3つ揃えあるだけで、村に戻ればすぐに洗い、下着一つで眠りにつく毎日を送っていた。


 薬草摘みの時間は、日差しの強い日中と決まっている。それ以外の時間は、畑を耕し、生活範囲の草むしりをし、目上の女の世話をした。日々の生活は、キーリアの許しで動いている。取った薬草は、キーリアのものだったし、売って得た金もキーリアのものだ。サルアたちは、拾い、育て、仲間に加えてくれた恩を返す為に働いている。それが薬草摘みたちの生き方だった。


 靴など持たないサルアは、裸足で山肌を踏み、ごつごつとした岩にしがみつきながら、崖を下って行く。道など知らない。とにかく山を下れば国境壁があるのだと聞いた。それだけを頼りに山を下っている。


 夜になれば、太い枝を張る木に登り、高い場所で夜を明かした。時折、暗闇の中に光る目を見つけ、緊張を強いられる。この山には、狼と熊がいる。そのどちらも、動き回っている時は、腹を空かせていることが多く、木の上ならば危険も減るのだが、それでも熊などは、執拗に木をゆする場合もあるのだと、キーリアの教えの中にあった。


 木の上で眠る日を3度繰り返したのちの昼、やっと眼下に街が広がり見えた。

 サルアは、果てしなく続く国境壁の中にある、点点とした民家や、街道の張り巡らされた線、輝く湖など、初めてみるものばかりに目を丸くし、同時に未知のものに対する怯えも感じていた。


 怯えなど感じている暇はないのだと、サルアは、肩掛けの中に入れてある腕の存在に意識を向けた。心なしか匂って来ている。山の中は気温が低い。サルアはもう慣れてしまっているので、さほど難を感じなかったのだが、切り離された腕の保存には適していたようで、これまでは匂いなど感じなかった。しかし、山を下り、地上に近づくにつれ、腐る速度が早まっているようだった。


 あと何度日を数えれば、あの境界を越えられるのか。

 サルアは、肩掛けの中にある、腕の重みを感じながら足を進めた。





 門まで辿り着くのに、村から日が七度落ち、昇った。


 腕は、布の肩掛けから汁がこぼれるほどに腐ってしまった。

 サルアからは、独特の生臭い匂いが立ち、道行く人がサルアを横目で見ながら避けて行く。


 サルアは、地上でもっともみすぼらしい生物であるらしかった。


 何度も何度も洗い、擦り切れて色褪せた、薄茶色の飾りもない、ひざ丈の長衣。靴もなく、裸足で歩き、肩掛けからは臭い汁がポタポタと道を濡らしている。緑掛かった黒髪は、一度も手入れしたことがない、自切りした、先の揃わないくせ毛。肌は、日頃塗っていた薬のせいで、青白く変色してしまっている。そのため、病気でもないのに顔色が悪く見え、より気味悪さを醸し出しているらしい。それに加え、肌に染みた鳥除けの匂い。それらが加味し、サルアは、人々の醜聞の的になっていた。


 よく、わからなかった。

 醜聞の対象であることは、村でもそうだったから、周りの雰囲気だけでわかった。けれど、この状況にどう対応すれば良いのかについては皆目見当がつかなかった。


 とぼとぼと道の真ん中を歩くサルアの前に、白い大きな馬が止まり、砂塵をまき上がらせた。


「止まれ! 女」


 馬上から声が降って来る。

 サルアは始め、土埃を上げながら、地面を蹴る馬の足ばかりを見ていたが、嘶きを上げて前足を振り上げられた途端に尻もちをつき、そうしてやっと馬上の男が怒りを見せてサルアを見下ろしていることがわかった。


「ご、ごめんなさい」


 サルアは、馬の通る道を邪魔してしまったのかと思い、立ち上がって道を譲ろうとした。その前に、後方から走って来た馬が立ちはだかる。サルアは肩掛けの紐を掴み、立ち尽くした。


「逃げるな、女。その荷は何だ、見せてみろ」


 大きな白い馬に乗った男が叫んだ。それと同時に、サルアの目前を遮った馬から男が飛び降り、サルアの前に立った。


「ダ、ダメです。これはダメ。大切なものなんです」


 抱え持った肩掛けから、臭い汁が落ち続けている。布には茶色い染みが出来ていて、サルアの服にも同じ染みを付けていた。


「死臭がします、何を持っているんだ」


 サルアの肩ひもを掴み、引き寄せた男は、乱暴にサルアの肩から抜き去り、紐で縛っている口元を開き、中から布で包んだものを引き出した。


 サルアは男の表情を見ていた。地面に置いた包みを開き、匂いに顔を顰め、中のものが何であるかを確かめた男が、手を引き、のけ反るようにしたのを見た。


「……人の腕です」


 手で口を覆い、布から半分出た茶色い汁を出した黒い塊と白いものが、袖に包まれていたことでそう察したのだろう。それはもう原型を留めてはいなかった。


「女、なぜこんなものを運ぶ」


 馬上の男がサルアをねめつけ、罵倒を浴びせた。


 サルアは恐れに体を震わせ、目の前に置かれている腕を見下ろしている。顔を上げることが出来なかった。こんなものと言われた。こんなものとされてしまうとは思ってもいなかったのだ。これは高貴な方の腕。故郷に戻りたいと、そう告げていると考え、ここまで運んで来た。それが普通ではないことを、彼らの言葉、態度から初めて知ることとなっていた。


「誰の腕なんだ?」


 サルアの前に膝を折っている男が、サルアの俯けた顔を覗き込むようにして、言葉を掛けて来た。

 サルアは少しだけ顔を上げ、男がこちらを見ていることを確認すると、目の前の腕に手を伸ばし、布で隠れている指部分を示すように、そっと布を寛げた。


「こ、これは……」


 サルアの示したいものを、目ざとく見つけた男は、驚きの声を上げ、じっくりとそれを確認する。


「なんだ、何があった」


 馬上の男がイライラとした声を上げる。


「なるほど、良くわかった」


 サルアを前にした男は、包みの上の腕に祈りの姿を取って目を瞑ると、腐りきった指先から指輪を抜き取り、腕を大切そうに包み直していた。


 すっと立ち上がった男は、馬上の男の方へ歩み寄り、抜き取った指輪を渡す。指輪を受け取った男は、指輪の紋章を見て目を見開いていた。


「……こ、これは」


 男は隠しから布を取り出し、指輪を丁寧に包むと、隠しの中へと戻し、馬頭を国境壁の方へ返した。


「早急に引き返す。お前はその女を捕えて参れ」


 馬が嘶いたかと思えば、急激に走り始め、すぐに遠くへと去って行ってしまった。

 サルアは良くわからないまま座り尽くし、目の前の男の方へ視線を戻せば、丁寧に包み直した腕を、肩掛けの中にしまい込み、サルアの方へ手渡して来るところだった。


「驚かせてしまって、ごめんね」


 男は、肩掛けを身に着けたサルアの手を引き、立たせると、胸に手を当て、丁寧に頭を下げて来た。

 サルアはただ、その姿を見上げている。瞳には疑問しかなかった。


「これは僕にとっても大切なものだよ。良く届けてくれたね。でも、疑いが掛かっている。それが晴れるまで、拘束しなければならない。わかってくれるかな? ごめんね、小隊長の命令は絶対だから」


 男は、腰の脇に付けていた鞄から縄を取り出し、サルアの両手を腹の前で括り付けると、馬の方へ連れて行き、馬の背に、腹を下にして荷物のように抱え乗せると、馬上に乗り、サルアを抱え上げ、男の膝の前に座らせた。


「僕の方へ寄りかかってくれて良いよ。落ちないように気を付けるから、行くよ」


 サルアの体の両脇に、馬の口に食ませた綱がある。それを引き寄せると、馬は嘶きを上げて歩き始め、徐々に速度を上げて行った。


 風景が流れて行く。風が頬を打つ。腹の前で括られている両手首が、馬の振動により擦れ、次第に痛みを与えていたが、そんなサルアを男は大事そうに抱えていてくれる。だから我慢しようと思った。


「僕はリラト=ファタ=メーノ、第二小隊所属、グイド・ユネ。23歳。君は?」


 風に逆らうように聞こえて来る声に耳を傾けたサルアは、自分の名前を告げることに躊躇し、それでも告げられる名は一つしかないのだと思い直し、告げた。


「サルア……15」


 サルアは確かに声にした。しかし、グイド・ユネと自分の名を告げた男の反応が得られず、もう一度、同じことを繰り返した。


「……ごめん、聞こえているよ。でも、それって名なの? その言葉は、僕の住むところでは“山の魔物”っていう意味になるから、名に用いることはないんだよ。君のところでは違うのかな」


 サルアはコクリと頷いた。


「サルア、山の怪物。あたしの名」


 魔物ではなく、怪物であると、昔キーリアに教えられていた。緑に染まった肌をして、ひっそりと危険な場所に生息する者たちが人である筈がないと、下界とはかけ離れた存在であると示すような名を付ける風習がある。キーリアもティラムも、今はもう存在しないとされる、魔物の名を用いていた。


「なぜそんな名を? ……いや、言いたくなければ良いんだ。しかし、その名では取り調べの際に支障を来すかもしれない。そうだな……」


 考え込んだグイドは、閃いたとばかりに大きく手綱を打った。


「ルーアはどうだい? 元の名から一字抜いただけでとても綺麗な名になるよ。本当はルーア・ローゼで“薔薇の花冠”という意味になって、ルーアだけでは意味を成さないんだけど、それでも女の子らしい可愛い名になるよ、どうだい?」


 グイドは得意げに、明るい声でそう告げ、サルアの返事を待っている。


「……ルーア」


 それはループという言葉に通じる。ループとは、処刑の時に用いる道具の別名でもあったし、人が命を繋ぐ様を意味する場合もあった。生と死。それらを意味する言葉を名とするのは、生きてもいなければ、死んでもいないサルアに、とても見合った名だと思えた。


「気に入った。ルーアにする」


「うん、良かった。じゃあ、ルーア、僕は君のことを何一つ知らないけれど、君が運んでくれたこの腕は、僕にとって、とても大切な人のものなんだ。だから、お礼に、僕は君の助けになるように動くよ」


 たぶん、サルアはグイドにとって異端の者であったのだと思う。異臭を放っているのは包みの中身ばかりではなく、サルア自身もそうであるからだ。薄汚い格好をした女を、顔を顰めず、遠ざけず、しっかりと身の前に乗せ、守っていてくれる。それはサルアにとって奇跡に近い状況なのだろうと思った。


 それでもサルアの心の中には孤独が巣食う。


 孤独が求めるものは、人のぬくもりではなく、魔物の囁きで、それをサルアという名が後押ししていた。


 名を変えれば、少しは人に近づけるのだろうか。


 サルアの心の中に、感じたことも無い温かなものが芽生え始めていた。

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