夜泣き鳥と薔薇の紋章
緑と花の甘い香りを含んだ風が、籠を片手に薬草を摘むサルアの髪をなびかせながら通り過ぎて行く。
小高い丘の上に立っているサルアは、薬草を摘む手を止め、風を生み出したものを仰ぎ見た。それはサルアに陰影を作り、光の筋を落とす葉屋根の向こう、青く澄んだ空と筋状に流れる雲の下。ふとすれば光に紛れ、見失ってしまう。
さらに大きな風が巻き起こり、サルアの足をふらつかせ、巨大な影が通り過ぎた。
摘み取った薬草が籠から飛ばされ、足元の草の上に散らばってしまった。
サルアは、通り過ぎた主の、小さくなってしまった黒い影から視線を戻し、落ちた薬草を拾い集めにかかった。
サルアの体には、緑色の薬が塗り付けてある。足元に生えている匂い草を潰して作った、鼻につんとくる匂いのするものだ。この匂いがサルアを危険から守っている。それは代々、薬草摘みの女の間で使用されている、過去の知恵というものだった。
籠の中に落ちてしまった薬草を拾い集めるサルアの頬に、何かがぽつんと落ちて来た。軽い衝撃が頬に加わり、何かと思って指先を這わせれば、ぬるりとした感触があった。指を視線の先に持って来たところで、目の前に落下するものがあった。
鼓動が跳ね上がると同時に、籠を落とし、尻もちをついた。
声が出ない。喉に詰まった息がヒュッと音を上げる。
サルアの前に落ちて来たものは、紺色の袖を付けた肘から下、指先までで、左手の親指には、家紋の入った指輪が嵌められていた。
指輪の紋章は、夜鳴き鳥と薔薇の花。それはリラト=ファタ、リラト国の東に位置するファタ領の領主を意味していた。
サルアは、腰に付けていた前掛けを外し、青白く変色している腕に向かい、祈りを捧げるように、額に右手の指先を当て、目を閉じ、安らかな眠りを祈ると、そっと腕を取り上げ、外した前掛けで丁寧に包み、籠の上に置いた。
空を見上げれば、無数の黒い点が、優雅な軌跡を描きながら飛んでいることがわかる。それらが人の脅威になる生物だと知っていた。その脅威から身を守るためのすべは、薬草摘みの女の秘密として伝わっているものだ。秘密を守り抜いているからこそ、サルアのいるこの丘に群生する、匂い草を独占することができた。
サルアは、今日の収穫となるはずだった匂い草を諦め、布にくるめられた腕だけを乗せた籠を取り上げ、ため息をひとつ落とし、村へ戻る道へ向かい、足を進めた。
◇
拾って来た腕は、やはり高貴な方のものであろうと、薬草摘み仲間に言われた。
「やっかいなものを拾って来て、どうするつもり? ヘタをしたら、高価な指輪を盗んで来たって怪しまれるわ」
薬草摘みの長であるキーリアが言う。
サルアは、キーリアに見せた腕を、丁寧に包み直すと、どうしたものかと考えていた。
「肌の色を落としておいで。それでお前はここから出て行くんだ。ろくに仕事もできない半端者なんか、うちにはいらないよ。そのやっかいなものを持って出て行ってくれ」
キーリアは、サルアの籠を蹴り飛ばすと、背を向けて去って行く。サルアを取り囲み、ヒソヒソ話をしながら横目で見守っていた薬草摘み仲間3人も、キーリアには逆らえないというように、キーリアの後を追って行った。
籠から落ちて飛んで行ってしまった腕に近づき、地面に膝をついて拾いあげたサルアは、視線の先にある木の向こう側で、隠れながら状況を見守っていた、サルアと同時に薬草摘みとなった、同い年のティラムを見つけた。
ティラムは、サルアの視線を受け止める前に顔を背け、そわそわとした態度を見せている。
「あ、あのさ、……そんなの捨ててしまえば? その辺りに埋めてしまえば良いよ。……それでさ、キ、キーリアに、許してってお願いしたら良いよ。……だって、さ、うちたち、ここを離れたら、生きて行くところ、なくなっちゃう。サルア、うち、怖いよ。サルア、いなくなったら、うち、怖くてあんなところ、行けない」
ぶるぶると震えながら、両手を交差し肩を掴むティラムは、15歳にしては幼く見える。背が低いせいかもしれない。おどおどとした話し方のせいかもしれなかった。
サルアは、ティラムを怯えさせないように、拾った腕を籠の上に乗せると、ゆっくりティラムへと近づいて行った。
「大丈夫、ティラム。あたしがいなくたって、キーリアが守ってくれる。知っているでしょう? 薬草摘みの女たちは、絶対に襲われることはない。代々の教えを守っていれば、大丈夫」
「……で、でも、サルアは? ひ、ひみつを守れないと、し、しぬんでしょ? そんなの、む、むりだよ。下の世界は怖いって、キーリアだって近づこうとしないよ? それなのに、ひ、ひとりで、……サルア」
胸に飛びついて来た小さな体を受け止め、背中を撫でてやる。
「ありがとう、ティラム。でも、あたしにはこの人が帰りたいって言っているように聞こえるの。あたしのところにお願いに来たのよ。だから、行く。秘密は口にしない。絶対に。この地にお世話になったこと、忘れない。ティラムのことも、忘れない。だからもう行って? 捨てられたあたしと一緒にいたら、ティラムまで睨まれちゃう」
そうサルアが言うと、ティラムは怯えたように体を離し、サルアを名残惜しそうに見つめ、瞳を揺らしながらも覚悟を決めたのか、村の奥へと走って行った。
その背中を眺めていたサルアは、ひとつ息をつくと立ち上がり、籠の上に乗せておいた腕を取り上げ、旅立つ準備をする為、お世話になっていた家へと向かった。