三話:『フルート』
「ルリちゃん、お茶お願い」
「用意してあるよ……と、どうぞ」
「ありがとう」
用意しておいた紅茶を注ぎ、リリナお気に入りのティーカップをテーブルに置く。
湯気と共に立ち上る香りに鼻を擽られ、リリナは手元の本を閉じて紅茶を口にした。ストレートな味は舌から喉へと滑り抜け、リリナは残る香りに陶然とする。
「やっぱり、ルリちゃんの淹れるお茶は美味しいわぁ」
一口目の後に必ず言う言葉に、ルリは口許を気持ち緩ませた。
リリナに褒められれば素直に嬉しいし、リリナは褒められたルリが見せる笑顔が好きだ。この小さな好循環が、二人の関係を良好に導いていた。
紅茶を置いたリリナは、エリカの焼いたクッキーをひとつ口に入れると、ルリに隣に座るように勧めた。一度は断ったルリだが、二度三度と勧められて結局着席。やたらと嬉しそうなリリナの視線に、ルリは耳をペタリと倒していた。
「ところで、あの子は?」
「ルーなら今、エリカに仕事を叩き込まされている最中だろ」
「あらまぁ。可哀想に」
「可哀想って……」
いや、まぁそうだけど。ルリはそう続けて、今は見えない二人の姿を思い浮かべる。
エリカは仕事に関して並々ならぬこだわりを持っている。それは、リリナとエルドへの忠誠心がそのまま現れている結果だ。使用人としての完成度なら、エリカはルリの遥か上を行っている。それでいてあの見た目、そして種族的にも目を引くハーピィと言う存在。非の打ち所が無いとはこのことだ。
……最も、ルリからしてみればそんなことは二の次以下の問題で。そんな彼だからこそ、エリカはルリに唄を歌うのだが。
「ルーちゃんは、家事とか得意なの?」
「元が俺と同じ奴隷だからな。でも、俺と違って根が素直だし、直ぐに覚えると思う」
「ルリちゃんも充分素直よぉ」
「俺が素直なら、人間は皆素直になるけども」
ルリは自嘲するようにそう呟くと、自分の紅茶を口に含んだ。砂糖もミルクも入れていない。文字通りストレートな香りが、ルリの鼻を麻痺させる程に強く支配した。
そして、ルリは口を開く。
「聞きたいこと、あるんだろ」
「えぇ」
当然だ、と言わんばかりに即答したリリナに、ルリは少しだけ背筋が冷えたのを感じた。
それは正しく獣の本能。獣人として生まれ、奴隷として育ち、野良で磨かれたルリの本能は他を軽く凌駕する。
それだけ、ルリの隣にいる彼女は規格外。変わらぬ笑顔は仮面のひとつ。その下の素顔は、見てはいけない禁書と同じ類いのものだ。
ただ、それでも――ルリは、リリナを信頼していた。だから、ルリは何も偽らない。
「……本当に、勘がいいのね」
「生憎、修羅場ばかり潜ってきたもので」
「知ってるわ」
軽く息を吐いたリリナは、ルリの様子を見て軽く微笑んだ。先程までのふわふわとした笑みではなく、芯が一本通った、凛とした笑み。
ルリがリリナに信頼を置いているなら、リリナはルリに深い愛情を寄せている。二枚組の仮面を容易く見破り、怯えながらも彼は離れていかない。そんなルリがリリナにはひどく滑稽で、また非常に好意的に映ったのだ。
「大丈夫よ。言いたくないことは言わなくて」
「分かってる。でも、聞かれれば、俺は答える」
俯いたまま、ルリは固い声でそう返した。
――私がこうなるとすぐこれだ。
若干、不貞腐れたようにそう思うリリナではあったが、ここでこだわっていては話が全く進まなくなる。
仕方ないと結論付けたリリナは、ルリに質問を投げ掛けた。
「じゃあ、聞くわ。まずは、ルーちゃんのこと。話せる範囲だけでいいから、ルリちゃんとルーちゃんの関係を教えてちょうだい」
「……ん」
コクりと頷いたルリは、それから周りを見渡して、誰もいないことを確認した。リリナがあらかじめ人避けの魔術を敷いている為に、部屋の周りに人気は皆無。それを感じ取ったルリは、俯き気味の顔を上げて口を開く。
「ルーと俺は、奴隷小屋で出会ったんだ」
初対面は鮮烈だった。
ルリが奴隷として扱われ始めて、一年が経とうとしていた頃だ。
死んだように眠るだけの、藁だけが敷かれた石の部屋。
報酬とは名ばかりの、気休めの食料を消費したルリは、いつものように夢の中へと逃げ込もうとしていた。
と、そこで何か騒がしい音がルリの耳に入る。同時に、身体を小さく縮こませて、耳をぱたりと倒す。ボサボサの尻尾を股の下から身体の前へと通し、小さく小さく丸くなった。
そんなルリの耳に飛び込んできた音は、男の笑い声。そして、身体に当たる軽い衝撃だ。
最初は男が憂さ晴らしに殴りにきたのかと思って、ルリは更にその身を小さくした。
しかし、次なる衝撃はこなかった。いつまで立っても、こなかった。
暫く目をつぶったまま身体を固まらせていたが、ふとした時に、身体に何かが乗っかっていることに気が付いた。けれども、簡単に目は開けない。
――男が、怯える自分を見て楽しんでいるのではないか。目を開いた瞬間、目の前に男の顔面があるのではないか。
そう考えると、瞼はまるで何かで接着されたかのように開かなかった。
えもいわれぬ圧迫感。恐怖で顎が震え、歯がカチカチと鳴り始める。
身体が冷えていく。寒くないのに、冷えていく。それらは全て錯覚だ。
しかし、その錯覚が、ルリにまたひとつ気付かせた。
――暖かい。
上に乗る何かが、暖かいのだ。冷えた身体が熱を求めたが故の錯覚か、いいや違う、確かに暖かい。
混乱する頭で自問自答を繰り返すも、結局は同じ答えに辿り着く。
そうなると不思議なもので、ルリは次第にその暖かい何かに安心感を覚えていく。ただ暖かいだけなのに、ルリの心から混乱と恐怖は去っていく。
気が付けば、瞼はもう接着されていない。
自然に開くことが出来た瞼、その向こうにあったのは、
「…………え」
――見知らぬ、裸の女の子だった。
「それが、ルーちゃんなのね」
「そう。もっとも……その時はアイツに名前なんてなかったんだけど」
ルリの言葉に、リリナがピクリと眉を動かした。が、すぐに納得する。身寄りの無い獣人なら、名前なんてある方が珍しい。
「じゃあ、今の『ルー』って名前は、ルリちゃんが付けたのかしら」
「合ってるけど、少し外れ。俺がアイツに付けた名前はルーじゃない。アイツの名前は『フルート』。ルーは、俺が呼びやすいからそう呼んでいるだけ」
「『フルート』……? それって、確か」
何処かで聞いたことがある。リリナはそう考えて、すぐにその答えに辿り着いた。
ルリは、リリナが気付いたことに頷くと、遠くで響く音に視線を向ける。そして、どこか懐かしむような遠い目で言った。
「『フルート』は、俺の名前だったんだ。俺がアイツと離れ離れになる時……俺が、貴女に拾われた日かな。俺は、アイツに名前をあげたんだ」
奴隷の身では、何か形ある物をあげることなんて出来なかった。だから、せめてもの贈り物として、ルリはかつての名前を贈ったのだ。
「だから、ルーちゃんは貴方のことを……」
「ああ。アイツの中じゃあ、俺はまだ『フルート』のままなんだろうさ」
――生憎、今の俺はルリだがね。
心の中で呟いたルリは、少し温くなった紅茶を飲み干した。
リリナは喋らない。口を開けば、ルリに何かを聞いてしまいそうだったからだ。
正直、まだまだルーに関して聞きたいことがある。しかし、ルリの表情を見る限りでは、今聞いた以上の内容は、まだ聞くには早いと彼女は判断していた。
また、遠くで何やら騒がしい音が響く。エリカがルーに悪戦苦闘しているのか、ルーがただ単純にやらかしているだけなのか。
どちらにせよ、リリナにとっては微笑ましいだけの話だ。
「ルリちゃん。お代わりお願いねぇ」
おっとりとした口調に戻った彼女。
今は取り合えず、ルリの紅茶を楽しむことにしよう。そう思って、彼女は隣の使用人にそう言うのだった。