一話:『過去』
館を離れ、馬車の不規則な揺れに身体を任せながら、執事と御嬢様は都へ向かう。
二頭の馬に引かれる馬車は、客席にあたる部分が箱の形を成している。出入口の他、座席の両側に外の様子を伺える小窓が付いており、二人はひと一人が座れる位の間を残し、互いに座ったまま外の景色を眺めていた。
ガタン、と一際大きめの振動が馬車を揺らし、執事――ルリはふと、会話が無いことに気が付いて、隣にいる御嬢様――リルフィアに視線を向けた。
リルフィアはルリの視線に気が付くことなく、ただ漠然と、横に流れていく世界を見つめている。
物思いに耽っているわけではないだろう。彼女は、そんな類いの人間ではない。ただぼうっとしているだけに決まっている――そう考えつつも、彼女の横顔に見とれている自分に苦笑いするルリ。
腰まで伸びた金の髪。
透き通ったその奥に、確固とした光が宿るエメラルドの瞳。
きらびやかな服に負けない、下手な服なら彼女に呑み込まれてしまうであろうその美貌。
「アルメルド家……か」
リルフィアには聴こえないように、小さく呟いた。既に、ルリの視線は窓の外に向いている。
――アルメルド家。
一時期、王都でも噂になった、変わり種の上流貴族。
十数年前までは貴族でも何でもない、単なる一個人だった、リリナ=アルメルド。彼女は王都付きの魔導師であり、取り分け彼女は戦闘に特化した魔導師として、当時の『戦争』に関しては重宝されていた。
そして、その『戦争』こそが、リリナを上流貴族へと押し上げた最たる要因でもある。
教科書にも載っているその戦争の名は『獣人大戦』。文字通り、獣人と人間の戦争だ。『獣』の字を獣人に当て、『人』の字を人間に当てているこの名は、今でも殆どの獣人から忌避されている。
それは何故か。
答えは単純。当時の人間は、獣人属を『ヒト』として見ていなかったからである。
獣人から『獣』の一文字を取った訳ではなく、獣人はヒトならざるもの、すなわち『ケモノ』でしかない。そう言った意味合いで、『獣人大戦』の名が付けられているのだ。
結果として、大戦は人間の勝利によって幕を閉じている。そこで大きな戦果を挙げた大魔導師として、リリナ=アルメルドは上流貴族の仲間入りを果たしたと言うわけだ。
ただ――リリナが挙げた具体的な戦果は、どの資料を紐解いても出てこない。ただ結果として彼女の名が上げられているだけで、過程がすっぽりと抜けてしまっているのだ。
これは彼女が意図的に情報を操作しているのか、もしくは、何かしらの強大な力が働いた上で、このような虫食いの情報になってしまっているのか。それがわかるのは、恐らくは当事者だけだ。
取り敢えず間違いないのは、リリナは紛れもない大魔導師であることと、大戦後から過酷な立場に立たされている獣人――ルリを、執事として雇っていること。
今は取り敢えず、それだけで充分だ。ルリはそう結論付けて、思考を打ち切り流れる世界にぼんやりと意識を投げ出した。
「…………」
チラリ、とリルフィアがルリに視線を向ける。ルリは外の景色を眺めていた。尻尾があったら、きっとふわりふわりと揺れているに違いない。リルフィアはそんなことを考えながら、横目で彼の顔を眺め始める。
切れ長の瞳。無表情の時のルリは、まるで作り物のような印象を見る者に与える。
表情が、感情が乏しい訳ではない。事実、ルリはリルフィアに対しておよそ執事とは思えない行動を多く取り、その度にカラカラと笑う。
今日だってそう。起きないからといって、容赦無く拳骨を落とすような執事はなかなかいまい。目覚めたリルフィアを見るその顔は、してやったりの笑い顔。怒るリルフィアをからかい気味にかわす彼の表情は豊かで、それでいてとても楽しげで――だからこそ、無機質な表情が、嫌と言うほどに際立って見えてしまう。
――笑っている時は艶やかな黒髪が、不意に光を反射しなくなる。
触れればヒビが入ってしまいそうな程に、無表情な彼は高質化してしまう。
「ルリ」
「はい?」
「……なんでもない」
声を掛ければ、黒髪はまた艶々と光を反射する。返事を返したルリは、リルフィアの返答に首を傾げつつも、また窓の外に目を向けた。また、無機質な人形に戻ってしまう。
ふう、と息を吐いたリルフィアは、自身も窓の外に目を向けて、ルリとの出逢いを頭に思い浮かべる。
リルフィアが母親――リリナと王都に訪れたその日は、彼女がこの世に生を受けた、記念すべき一日だった。
例年通りなら、活発な彼女はあれも欲しいこれも欲しい、欲しい欲しいのオンパレード。流石にリリナも苦笑いが絶えない一日になってしまうが、その年だけは違った。
本来なら、いてもたってもいられないリルフィアに連れられて、リリナなりエルドなり、メイドであるはずのエリカですら引っ張る勢いで王都に行く筈だった。
しかし、その年はある事件のせいでリルフィアが塞ぎこんでしまっていて、見ていられなくなったリリナが無理矢理に王都に連れ出していたのだ。
リリナは考えうる限りの場所にリルフィアを連れていき、なんとか元気を出してもらおうと何時もとは逆の立場で奮闘するも、肝心のリルフィアは「いらない」の一点張り。
日が傾くまでリリナの奮闘は続くが、それも虚しく時間だけが過ぎてしまったことに気が付いたリリナは、自分でも珍しいと思う溜め息をついた。
半ば諦めかけたリリナは、せめて最後に美味しいものでも食べて帰ろう、と王都の中心部に足を向けて、
目の前で転んだ『獣人属』に、細い眼を見開いて驚いていた。
痩せ細った身体。力の無い四肢。
泥にまみれた黒髪に紛れ、ふたつの耳が怯えたように倒れている。
目の前の獣人属が、何者かに追われていることに、リリナはすぐに気が付いた。大戦後の獣人属の扱いは、大抵がふたつにひとつ。死ぬか、奴隷となるかのどちらかだ。
中には自分のように奴隷と称して獣人属を保護している物好きもいるが、彼は正真正銘の奴隷だろう。リリナはそう考えて、少し迷う。
ここで彼を助けることは出来る。が、娘が不安定な今、同じく不安定な彼を館に受け入れることは、果たして……。
と、そこで。
「……ルリ」
ぽつりと呟かれた言葉に、リリナは再度目を見開いた。
繋がれていた手が、その日で一番強く握られる。
そして、彼女は言った。
「お母様……欲しい」
「は…………」
漏れた笑いは、正しく自嘲。
幼き頃の自分を、思わず顔を覆って笑ってしまう。
――最悪だ。何もかも。
何を思って、彼を『ルリ』と呼んだのか。
何を考えて、彼を『欲しい』と言ったのか。
どちらも自分で自分を蔑むには充分な理由。
最近ようやく、敬語を強要させることで壁を造り出したと言うのに、やっぱり、結局は変わらない。
何をどう言い訳したところで、結局はただの自己満足だ。自らを正しいと思い込むための逃げ道を作っているだけ。
「……ルリ」
こちらも、本人には聴こえないように、弱々しく呟いた。
リルフィアが何を思って彼に接しているのか。それを知られれば、きっと嫌われてしまうと彼女は唇を噛み締める。
いつかは知られてしまうだろう。それが彼女自身の口から語られるなら、それがきっとベストな結末だ。幸せか不幸かは、残念ながら選べはしないのだけれども。
気分は晴れない。しかし、リルフィアはその上で、漏れそうな溜め息を呑み込んだ。
今日はルリの為に外に出たんだから――そう自分に言い聞かせ、我が儘な自分を心の底で踏みつけて。
王都にはまだ着かない。
それぞれの想いを抱く二人を乗せて、馬車はゆっくりと進んでいく。
「からかわないでください、リリナ様」
「あら、本当のことじゃない」
ツンツンと頬をつつかれながら、少しむくれた表情で、メイド――エリカは、自らの主人の指を押し戻す。
背中の翼を小さく動かした彼女は、コホンと小さく咳払い。それが照れ隠しであることはばれていて、しかし主人であるリリナはあえてそれを言及しない。ただ、ニヤニヤと彼女を眺めているだけだ。
そんなリリナの視線から逃れるように、エリカは、身を捩りながら口を開く。
「確かに、ルリにはよく私の『歌』を聴かせます。ですが、それはリリナ様が命じたことではありませんか」
「あらぁ、私は貴女に、『彼の心を癒してあげて』とは言ったけど、歌ってあげなさい、とまでは言ってないわよぉ?」
リリナの言葉に、うっ、と口を紡ぐエリカ。
「で、ですが。私がヒトの心を癒すとなると」
「『歌』しかない? けど変ねえ。ハーピィは、気に入った者の前にしかその姿を現さない。更には、信頼しきった相手の前でしか、その足を地につけない。そこから『歌』を聴かせる相手となれば……」
矢継ぎ早に放たれるリリナの攻撃に、エリカは最早唸るしかない。
確かに、ハーピィは警戒心が他の獣人に比べて異様に高い。空中では無敵を誇る代わりに、地上での機動力は皆無に等しいハーピィは、それこそ信用に足る唯一無二の存在の前でしか、その足を地につけたりはしない。
そして、ハーピィがその存在を本当に信頼しきったその時は、証として自らの歌声をその者に聴かせるという。その歌声は聴く者を例外無く虜にしてしまう程に美しく、またハーピィの歌を聴いた者は、一生を幸運に包まれて生きていけるとも言われている。
が、そんなものは単なる迷信であり、ハーピィの歌を聴いたからといって幸せになどなったりはしない。この中で正しい情報は、信頼しきった相手に歌を聴かせ、その歌声が美しいという二つだ。最後のひとつは人間が勝手につけた尾ひれである。
ここで大事になってくるのが、『信頼しきった相手にしか歌を聴かせない』と言うこと。
「私でも、エリカの『歌』は聴いたことないのよねぇ」
「う、ぅ」
痛いところを突かれ、エリカは、身を引いて小さくなる。
エリカはリリナに対して、確かに忠誠を誓っている。それは偽りなき事実であり、二人も互いにそれを解り合っている。
が、そんなリリナ相手でも、エリカはその歌声を聴かせたことはない。命令されれば彼女は歌うであろうが、こと自発的にとなると、エリカは絶対に歌わないだろう。
なら何故、エリカはルリに対して歌うのか。
「……アイツを癒すには、『歌』しかないと思ったんです。決して他意はありません」
ぽつりと呟かれた言葉に、エリカに向けられていたニヤニヤとした笑みが、ふと優しげなものに変わる。
それに気付いてかはわからないが、エリカは小さく息を吐いて。
「私は、知らなかった」
ハーピィは、基本的に群れずに単独で行動している。それだけなら、ワーキャットのような自由人と同じだが、ハーピィはそれらとはまた違う理由で単独を好む。
例を出すならば、ワーキャットは単独で行動することを好みはするが、その過程で仲間に会えば普通に喜び歓迎する。
しかしハーピィはそれすらも好まない。自分が認めた相手以外とは極力接点を持とうとはしない。中には、親の他にヒトを知らないまま寿命を迎えてしまう個体もいる程だ。
それ故に、ハーピィという獣人は世間情勢というものに疎い。今、世間で何が起こっているのか――それを知る術も無ければ、元から知るつもりもないのがハーピィという存在なのだ。
エリカもそんなハーピィの一人であり、たとえ世間知らずであろうが大して気にもしていなかった。
「私は知らなかった。同じ獣人でありながら、ハーピィであるというだけで迫害から逃れられていたということを」
しかし、リリナに仕えるようになってから、エリカはそんな自分がいかに愚かだったのかに気が付いた。
大戦後、獣人が迫害の対象にされていることは知っていた。しかし、その度合いは彼女の想像を遥かに上回っていたのである。
獣人であるというだけで、王都では斬首の刑に晒されることもある。恐ろしいのは、人間がそれを当たり前のこととして受け入れていたことだ。
――一体、私と彼等では何が違うというのか。ハーピィも獣人には違いないはずなのに。
人間は、獣人に石を投げ付けたその手で、私の翼に触れていく。それが、たまらなく悍ましい――。
「ルリと私は、何も変わらない。だというのに、私はハーピィだというだけで迫害を逃れ、ルリは獣人だというだけで、あんな……」
身体に走った震えを堪えるように、エリカは片腕を抱いた。
初めて館に来た時のルリの姿。もう何年も前の話だというのに、エリカはその彼の姿を鮮明に思い返すことが出来る。
それだけ、当時のルリの姿は鮮烈で、凄惨だった。
「リリナ様に命じられ、私はなるべくアイツの傍にいるようにしました。……何をしても、反応は薄いものでしたが」
荒んでいたのは見た目だけではない。内面も、当然のことながら荒れ果てていたに違いない。
当時のことを思い返しながら、エリカはそんなことを考える。
折れた歯が生え揃うまで、結局意志疎通は叶わなかった。
歯が生え揃ったとしても、視線が交わることは決してなかった。
耳を引っ張ろうが、尻尾を踏もうが、最悪思い切りひっぱたいたって、何の反応も示さない。
早い話、ルリの心は、既に擦りきれていたのだ。
「人形です。硝子の瞳に糸の髪、冷たい肌は作り物のようでした」
一体何がどうなれば、ここまで生気を無くしてしまえるのか。想像もつかなければ、どうしていいかもわからない。
しかし、ほうっておけば何も食べないものだから放置も出来ない。
それこそ、最初は仕方がなく、といった気持ちで、ルリの身の回りの世話をしていたのだ。
「最低限の生理活動こそするものの、それ以外は、まるで生きるのを止めたかのように何もしない。話し掛けても返事は返ってこないし、そのくせこちらから目を覗きこんで見れば顔を逸らすし……正直、お手上げでした」
でも、と。
困ったような笑顔を浮かべたエリカは、少し笑いつ主人に視線を向ける。
「迂闊にも、聴かれちゃったんです」
「聴かれたって……歌を?」
「えぇ。本当に、迂闊でした」
リリナが驚いたのを見て、エリカは眉尻を下げて笑う。
ハーピィは、総じて生物の気配に敏感であり、生まれつき自らの気配を消す類いの魔術を習得している。それはエリカも例外ではなく、中でも彼女は『音』に関する魔術を高い水準で備えている。
自分の行動によって生じる音だけを消すぐらいなら、意識する必要もない。彼女はそれを応用して、時折一人で歌を歌っていることがある。自分の声が周りに届かないようにして。尚且つ、声が届く範囲には、誰もいないことを条件に。
「もしかしたら、疲れていたのかもしれません。遠方の気配だけを探り、目の届く範囲の警戒を怠った」
或いは、それでもエリカの『網』をくぐり抜けてしまう程に、ルリの命は小さく縮こまっていたのかもしれない。
「後は、簡単に予想がつきませんか?」
「聴かれたのねぇ」
少しだけ真面目な顔のリリナが、けれどとても愉快そうに即答する。エリカもまた、笑って頷いた。
「他のハーピィが聞いたら、腰抜かすわねぇ」
クスクスと笑いつつ、リリナは向かいに座り、今まで無言を貫いていた夫に視線を向ける。エルドもまた、そんなリリナに苦笑いで返した。
苦笑いもわかる、とエリカは小さく頭を垂れる。それだけ、自分のしでかしたことはハーピィとしてあり得ないことなのだから。
「でも」
「?」
不意に声を発したのはエルド。彼は紅茶を口に含むと、一息ついて深く椅子に腰掛ける。
そして、立ったままのメイドに笑いかけながら、
「後悔なんてしてないんだろう? なら、それでいいじゃないか」
「そうねぇ。いかにハーピィといえど、こうして館に居ればヒトと関わることを避けられない。ひとりくらい、気を許せる相手がいてもいいんじゃないかしら?」
首を傾げつつ言うリリナ。からかう口調ではなく、ただ純粋にこちらを労ってくれている。
それをわかっているエリカは、メイド服の裾を小さくつまみ、優雅に一礼してから背中を向けた。
二人は止めない。彼女が、何をしにいくのかわかっているからだ。
残された二人は、意味ありげに暫く見つめあった後に、どちらからともなく口を開く。
「難儀ねぇ」
「お前がそれを言うか」
「そっくりそのまま御返しするわぁ」
音無く歩いていくエリカ。ハーピィとしての習性か、無闇な音は極力立てないように行動するのが、彼女にとっての常識になっている。
「迂闊……だったんだよね。本当に」
小さく呟く。
しかし、その声に悲壮感は無い。むしろ、口元が緩んでいる当たり、明るいものすら感じられる。
確かに、歌を聴かれたその瞬間は、背筋が凍ったような感覚に襲われていた。
長らく感じていなかった、野生の本能からの危機感。
瞳孔が縦に開き、翼が勢いよく開かれ、何があっても即応出来る体勢――すなわち、空中へとその身を踊らせる。
が、そのまた次の瞬間、エリカはその警戒を上回る驚きを受けた。
「……キレイ」
今の今まで、何をしようが反応をしなかった相手が、こちらを見上げて、尚且つ、確かに声を発したのだ。
地に降りるのも忘れ、瞳孔が開いたまま目の前の少年を見つめる。
虚ろな瞳には微かに光が入り込み、飾り物でしかなかった耳と尾が、確かにゆっくりと動いている。
ただ、それだけ。だというのに、エリカは確かに、心に沸き上がる何かを感じずにはいられなかった。
――何が、彼の心を動かした?
既に答えは出ている問いを、もう一度自らに問い掛ける。
そして、それを確かめる為に、エリカは胸に手を当てて、もう一度――
「どうかしてるなぁ」
とある部屋。ベッドに座り込んだエリカは、天井を仰ぎながら呟いた。
有り得ない。今の自分を客観的に表現するなら、その一言が妥当だろう。エリカはその自分で下した評価を甘んじて受け入れて、大きく息を吸い込んで、
「――――」
どこか遠く、透き通るような声。
百人居たなら、百人そのまま聞き惚れる。歌ではない、ただ高音を数秒響かせただけなのに、エリカの声はただそれだけで美しい。
「幸せものめ」
クスリと笑うエリカ。
今はいない、この部屋を使う青年に向けて声を投げ掛ける。
彼女はこれから、ただ待ち続ける。
帰ってきた青年に、自分の歌を聴かせる為に。