4:標になった彼
くすくすと笑い合う声がどんどん遠ざかっていく。何らかの理由で二人が戻って来ることも考え、声が消えてからもエルモドは暫くその姿勢を崩すことはなかった。しかし彼の心配は杞憂に終わり、静寂が再度破られることはなかった。
エルモドは詰めていた息を吐き出すと、闖入者の拘束をゆっくりと解いた。
「突然、失礼しました。あの二人に見つかりたくはなかったので」
外れていた“田舎者の間抜け貴族”の仮面を被り直し、彼はへにゃりと笑いかける。
闖入者は幼い少女だった。夜会に来ている以上、彼女は立派に成人した女性なのだろうが、その纏う雰囲気はとても幼い。きょとんとした表情で彼を見上げる姿は、正に子供そのものだ。
「あ、いえ。私も見つかりたくなかったので、丁度良かったです」
ありがとうございますと頭を下げられ、エルモドは苦笑した。
彼に邪な気持ちがあったわけではないが、あの状況はそういう意図があったと取られてもおかしくない。捕らえたのが女性だと分かった時点で、彼も張り手の一つぐらい覚悟していたのだが、まさかお礼を言われるとは思わなかった。
――真っ白なんだな。
それは彼がとうの昔に失ったもの。疑うことを知らず、また誰かを騙すなんて考えもしない純粋さ。きっと家族に愛され、大切に育てられてきたのだろう。
恥ずかしげに俯く姿は庇護欲を誘い、何か助けなければならない気にさせる。ある意味、これが彼女の武器かもしれない。そう、エルモドは思った。
「ところでつかぬことを伺いますが……」
「?」
「ここ、どこでしょう?」
「………………は?」
固まるエルモドに、その少女は今の状況とここまで迷い込んだ経緯とをたどたどしく説明した。夜会に飽き飽きして中庭に出てきたこと、薔薇に見惚れていたらいつの間にか奥まで来てしまったこと、そして帰り道がわからないこと。
「よ、宜しければ、お屋敷への道を教えていただけません……?」
暗がりでもわかる程顔を真っ赤にし、少女は潤んだ瞳で彼を見上げる。これがレオナや他の女だったら、男の気を惹こうとする計算高い女だと切り捨てていたのだろう。しかし眼前の少女にそんな気配は微塵もなく、そんな疑いを持つことこそ恥ずべきことに思えた。
「私で宜しければ、ご一緒させていただきますよ」
途端、少女の顔がぱあっと輝いた。一点の曇りもない純粋な笑みに、エルモドは自分の醜い部分を糾弾されているような錯覚を覚える。
「ありがとうございます!」
――今更、だな。
自分の汚れ具合に、そしてそれを一瞬でも恥じた自分に、エルモドはこっそり嘲笑った。
可もなく不可もない平凡な田舎の領主の息子。そんな彼を諸手で歓迎してくれる程、貴族社会は甘くない。作り笑いを覚え、腹を探り合い、自分の欲を覆い隠す。全ての貴族がそんな人間というわけではないが、“貴族”という特権にしがみつくような魍魎どもは大体そんな人間だった。
だからエルモドは、この世界に身を置くと決めた時、人を無条件で信じるのをやめた。初対面の人間とは距離を置き、まずはその人物を詳しく調べる。家柄や家族構成は勿論、愛人関係から経済状況まで。調べられることはとことん調べた。
故に今の“彼”ができたわけだが、それが良かったのか悪かったのか、エルモドは未だわからないでいる。
「あ、ここまで来れば大丈夫です」
少女が声を上げたのは、広間の演奏が微かに聴こえ始めた所だった。備えられたランプも大分増え、互いの顔立ちもはっきりと見えるまでになっていた。
「そうですか。僕はもう少し庭をぶらつこうと思うのですが……」
「私は広間に戻ります。早く戻らないと心配されると思うので。大変お世話になりました」
深々とお辞儀をした後、少女は足早に去って行く。結い上げられたブロンドが視界から消えると、彼もゆっくりと歩き出した。
一陣の風のようだった。突然現れたと思えば、あっという間に彼の横をすり抜けて行った。残ったのは庭に満ちる薔薇の匂いだけ。
彼女を心配する人とは誰だろう。やはり婚約者だろうか。政略結婚なら、赤ん坊の頃から相手が決まっているということもある。
――まあ、俺には関係ないけどな。
彼の――情報屋“シルヴィオ”の情報網に引っ掛からないような少女なのだから、きっと嫁ぎ先も大した所ではないのだろう。少なくとも彼が気にするような家ではない。ならば彼女とは、二度と会うこともないだろう。表の“彼”は、存在感の薄い凡庸な人物なのだから。
ふと、自分があそこに居合わせたことを、彼女に口止めし忘れたことに気付いた。しかしすぐに、まあ良いかと思い直す。
あの様子では、彼女がわざわざ言い触らすということもなさそうだし、そもそも彼の名前を彼女は知らない。あの密会が浮気現場で、しかも傍らにいたのが寝取られた男だと、彼女が気付くわけもない。それにあんな密会だって、この魔窟にいればこの先何度も遭遇するだろう。そうすれば今日のこともその中に埋もれて忘れる筈だ。
しかし、その数十分後。そう楽観視した自分を、彼は激しく後悔することになる。
「エルモド!」
再びレオナと合流して、広間をゆっくりと歩いていた時。エルモドは聞き覚えのある声に呼び止められた。
「久しぶりだな。お前が夜会に来るなんて、どういう風の吹き回しだ?」
声の主は、エルモドの学友であった。そして彼の裏の顔も知っている、数少ない人物の一人でもある。
「やあ、久しぶり。いや、本音を言うと、レオナを連れ出したりしたくはないんだけどね。閉じ込め過ぎて嫌われたくもないから。ウィルモンド伯の会なら立派な人物ばかりだし、少しは安心できるだろう?」
「まあ、エルモドったら!」
わざとらしく頬を染めるレオナに、エルモドは心の内で失笑した。見遣れば彼の友も呆れたと言わんばかりの笑みを浮かべている。傍から見れば、惚気るカップルに中てられたようにしか見えないが、エルモドは友人がそんな考えなんてないことを承知している。芝居が二人とも上手いな、といったところか。
「あ、そうだ。今日は俺にも連れがいるんだ。――おい、リディ」
――え?
彼に呼ばれて、豊かな金髪を結い上げた少女が振り返る。目の錯覚か、それとも場の雰囲気の違いか。先程よりも大人っぽく、若干“女”の色気を纏った彼女は、訝しげにパートナーの顔を見た後、エルモドに目を移し、――硬直する。
そう、その少女は、中庭で迷子になるという奇跡を起こし、真っ赤になりながら道案内を頼んできた、あの少女だった。
――あの子の相手がこいつ……?
貼り付けた微笑の裏で、エルモドは一人凍りつく。
「紹介するよ、俺の妹のリディアだ。リディ、こいつは学院の同級で、エルモドって言うんだ」
「…………」
「……リディ?」
振り向いたまま動かない妹をメイラーが心配そうに覗きこむ。その動きで、止まっていたエルモドの脳が一気に回転を始めた。
「はじめまして、エンディコット令嬢。エルモド・ルヴィーラ=アークフォールドと言います。お見知り置きください」
「え……、え、あ。は、はじめまして!リディア・カレン=エンディコットです」
幸いなことに、エンディコットの令嬢は愚鈍な人間ではなかった。エルモドの言葉に籠めた意味をきちんと理解し、慌ててつつも完璧な礼と挨拶を返してくれた。
ただ、不自然な間だけは隠しようがなかった。勘の鋭いメイラーは勿論、知略には疎い筈のレオナですら眉を顰めた。
「おや、我が婚約者殿は、同性すら虜にしてしまうらしい。僕は女性にまで嫉妬しないと駄目かな」
エルモドはリディアの可笑しな振る舞いの原因を、全てレオナに押し付けてしまうことにした。幸いなことに、レオナは彼にぴったりと張り付いていて、リディアがどちらを凝視していたのか判別はつかない。それに目立ちたがり屋の彼女は、異性であれ同性であれ、自らに注目が集まることを喜ぶ性質だった。
案の定、レオナは彼の言葉に機嫌を良くし、高慢とも言える口調でリディアに挨拶をした。
「そんなことないわ。エルモドだって素敵よ。――はじめまして、エンディコット子爵令嬢。私はこの人の婚約者でレオナと言います」
「……レオナ、さん、ですか。…………はじめまして、リディアと申します。ごめんなさい、あまりにもお美しいので見惚れてしまいました」
当然とばかりに微笑むレオナを、エルモドは穏やかに――しかし内では冷ややかに見下ろした。
「そうだわ。エンディコット令嬢はダンスはお得意?」
――ダンス?
突然振られた話題に、指名されたリディアは勿論、エルモドもメイラーも首を傾げた。しかしそんな周囲の戸惑いも気にならないのか、レオナは酔いの見える瞳を更に細めた。
「いえ……、あまり」
「あら、そうなの。だったら、ねえ、エルモド。貴方、教えて差し上げたら?貴方の教え方、とても上手ですもの。――メイラー様、その間、私のお相手お願いできます?」
――そういうことか。
捕食者の目でメイラーを見詰めるレオナを、エルモドは心の中で突き放す。
メイラーは身分こそ低いが、頭脳、容姿ともに優れた男だ。癖のある金髪もやや下がり気味の目も、欠点どころか、彼の穏やかな人柄を強調するチャームポイントになっている。皆が振り返る程の美形、とまでは言えないが、美形好きのレオナが侍らせたくなるような好男子であった。
ただ、婚約者であるエルモドの眼前で他の男を誘うなど、今夜のレオナはかなり酔っているらしかった。もしかすると、何をしても“愚鈍な婚約者”は気付かないと侮っているのかもしれない。
しかし、この提案はエルモドにとっても好都合であった。
「いや……、それはエルモドに悪いので……」
メイラーはあからさまな嫌悪感を見せ、しかし口調だけは丁寧にレオナの提案を断ろうとした。そこに、エルモドは言葉を被せる。
「良いんじゃないか。メイラーだったら、僕も安心してレオナを預けられるよ」
「エルモド!」
泡を食っている学友を無視して、エルモドは迷子少女――リディアに向き直った。
「宜しければ、一曲お付き合い願えますか?」