2:希望を持たない彼
このお話は、奇数話がヒロイン視点、偶数話がヒーロー視点となります。
その晩、ウィルモンド伯爵邸は着飾った男女で溢れていた。
広間では楽隊の演奏が響き、それに合わせて十数人の男女が優雅に舞う。中庭で満開になっている薔薇は、ランプの灯りに照らされ浮かび上がり、人々の目を楽しませていた。広間に配置された料理は、味覚は勿論のこと、視覚的にも人々を満足させ、あちこちに飾られた花や美術品とともに会に彩りを添えていた。
規模だけを見ればそれ程大きなものとは言えなかったが、質では王家や公爵家のものにも引けを取らず、招かれた客は口々にその素晴らしさを褒め称えた。笑顔溢れる穏やかな時間が、そこには流れていた。
エルモド・ルヴィーラ=アークフォールドも、そんな時間を共有する一人だった。
モスグリーンのフロックを身に纏い、パートナーとして婚約者を伴うその姿は、極々一般的な貴族の姿だった。まあ、洗練された美女の相手にしてはやや野暮ったく、二人並ぶとアンバランスな印象ではあったが。
しかし、そんな事を気にする者はここにはいなかった。その証拠に、今も彼らはオーガスタ侯爵夫妻とにこやかに歓談していた。機知に富んだオーガスタ侯爵の話は皆を楽しませ、会話に遅れがちなエルモドを上手く話の中に連れ戻す。
「――そう言えば、アークフォールド子爵。中庭の薔薇はご覧になりましたか?」
「いえ、まだです」
「それは勿体ない。是非ご覧になってくると良い。――特に、東の薔薇が見事ですよ」
そう言って笑う侯爵は、とても四十代の人間とは思えなかった。見ようによっては二十代にも見えるその容姿とその気さくな人柄故、長年の友人同士が話しているようである。
「では、後で行ってみます。侯爵がお勧めなさる程の薔薇だ。きっと立派な薔薇なんでしょうね」
丁度その時、楽隊の演奏がクライマックスを向かえた。広間の窓を震わせる程の音色が響き、そして訪れた静寂。その演奏の素晴らしさに、広間の客達は思わず手を叩き、指揮者が一礼してそれに応えた。
次の曲は前のものに比べると、ややアップテンポなものだった。エルモドの記憶が正しければ、情熱的な恋模様をモチーフにした曲である筈だ。
「ねえ、エルモド。一曲踊らない?」
エルモドの婚約者であるレオナは彼の腕に手を伸ばし、しなだれかかるようにその身を近付けた。その身に満ちる例えようのない色気は、エルモドだけでなく周囲の男達をも絡め取ろうとする。
爵位がもう少し高ければ王家に輿入れすることも可能だったろうと、周囲が残念がる男爵家秘蔵の美姫。どんな男の目も奪って離さない彼女が、至極凡庸なエルモドの婚約者であることは社交界の七不思議の一つである。
しかしどれ程不思議であろうと、レオナがエルモドのパートナーなのは、周囲の全ての人間が知る所だし、エルモドが彼女をとても大切に扱っているのもまた、よく知られたことだった。
今宵もエルモドは婚約者の可愛い願いに目を細め、嬉しそうな顔でその手を取った。
「ええ、喜んで」
エルモドはレオナを連れて、広間の中央へと進んで行った。しかしその動作はどこかぎこちない。曲に合わせて踊り始めても、彼らだけが何故か浮く。着ている物も一流の品だし、パートナーのエスコートもダンスのステップも、間違えている所は一切ない。おかしい所は一切ないのだが、どこか違和感があり、また野暮ったい印象を受ける。
それでもどうにか一曲踊り終え、エルモド達は一旦下がった。踊っていた時間はそれ程長くなかったにも関わらず、エルモドはぐったりとしていて、今にも倒れるのではないかと思わせる。それでも、心配そうな様子で見上げるレオナを安心させようと、彼は力なく微笑んだ。
「……ちょっと熱気に当てられたようです。外で休んでいますね」
「大丈夫ですか?私、付いて行った方が……」
「いえ、レディの手を煩わせる程のことではありません。それに初夏と言えども、夜の庭は冷えます。エスコートできず心苦しいのですが、こちらで待っていてください」
「心配なさらないで。私の友人も参加しておりますもの。久々に会う方もいらっしゃいますのよ。その方とゆっくりお喋りでもしていますわ。貴方に無理をさせてしまう方が、私には辛いんです」
「ありがとう、レオナ」
エルモドはふらふらと心許ない足取りで、中庭へと下りていった。その姿をレオナはじっと見守り、やがて見えなくなると、彼女も人混みに紛れていった。
会が始まった頃は高く上っていた月も大分傾き、各所にランプが置かれているとは言え、中庭はかなり暗くなっていた。また配置されたランプも屋敷から離れていくにつれ数が減り、屋敷から最も離れた西端は幽霊でも出そうな薄暗さであった。招かれた客は勿論のこと、裏方の仕事に追われる使用人も通りかかることはなく、広間の賑やかさから隔絶された静寂がこの場を満たしていた。
「――友人、ねぇ」
誰に言うともなく呟かれた声は、決して大きなものではなかったが、静まり返ったこの空間ではやけに響く。突然の騒音に驚いたのか、紛れ込んでいた野良猫が、にゃあと鳴いて逃げていった。
「まあ、愛人も広い意味では友かもしれないな」
暗闇に溶けていた身を揺らし、男はくつりと嘲笑った。
もしも誰かがその姿を見ていたら――。その人は腰を抜かしていたかもしれない。それとも、よく似た別人と勘違いして終わるか。
触れれば切れそうな空気を身に纏い、皮肉気に微笑むこの男。つい先程まで情けない姿を晒していた、エルモド・ルヴィーラ=アークフォールドその人である。
闇に紛れる焦げ茶の髪も、緑に同化したモスグリーンのフロックも、何一つ変わっていない。なのに、そこにいる“彼”は最早、田舎貴族と揶揄されるアークフォールド伯爵家次期当主ではなかった。
かさっと草を踏む音を聞き、エルモドはそっと身を隠した。音がした方に目を遣れば、先程まで彼と談笑していたオーガスタ侯爵が慎重に辺りを見回している。ただ、離れた木陰に潜むエルモドには気付かなかったらしく、侯爵はほっと息を吐いた。その瞬間、先程までの雄々しさは掻き消え、下卑た笑みが顔に浮かぶ。
「――大丈夫。誰もいないようだ」
侯爵の後ろから出てきたのは、あろうことかエルモドの婚約者、レオナだった。心配そうな面持ちで周囲を窺って本当に人がいないことを確認すると、彼女も漸くその緊張を解いた。
「間違いなく二人っきりだよ、レオナ」
「侯爵様……」
突然始まった婚約者のラブシーンにエルモドは頬を歪め――、静かに笑った。
何も知らない人間が見れば、二人は互いに愛し合う真の恋人同士に見えただろう。しかし彼女の相手がオーガスタだけでないことを、彼は知っていた。
高位貴族を手玉に取る毒婦。それがレオナの本当の姿だった。
男爵家という低い身分に生まれたせいか、彼女は異常なまでに身分に執着した。エルモドと婚約しているのだって、彼が次期伯爵家当主だから。身分と権力をこよなく愛する貴族が、何の利用価値もない男爵家の娘を本気で相手にするわけがない。伯爵以上の者なら尚更。
故に彼女はエルモドを離さない。そしてエルモドが何も言わないのをいいことに、もっと高みを――侯爵の後妻を狙っているのだった。
いつもながら、レオナの強かさには目を見張る。エルモドの記憶が正しければ、先月の夜会ではタイラント侯爵と抱き合っていた筈だった。まあ、その奔放さが彼にはありがたいのだが。
ともかく、彼の目的は達せられたので、二人に見つからない内にエルモドはこの場を離れることにした。そっと腰を浮かせ、屈んだ状態で歩き始めた瞬間。
暗闇で輝く深緑の瞳と、ばっちり目が合った。
◇補足:爵位について◇
エルモドは伯爵家の長男ですが、まだ家督を継いでいないので伯爵の地位にはありません。
現在の地位は、作中でも触れている通り、子爵になります。
ややこしくて申し訳ありませんm(__)m