第31話 エピローグ
墓参りに行こう、と言ったのは、どっちの方だっただろうか。
完璧な交通システム下で起きたシステムの故障による交通事故の話題が、漸く世間から消えた頃だった。当事者以外の殆どの人間が、もう二度と思い出す事はないだろう。人間という物は、幸か不幸か、そうやって出来ているのだ。
夏の昼下がりの日差しは、相変わらず熱く、普段無表情が多い桜華も多少顔を歪める。救いなのは、路面の舗装もしっかりとしていて、荷物で両手が塞がった桜華が、蹴躓く可能性が限りなく少ない事だった。
辿り着いたのは、住宅街の南ブロック。小高い丘の頂上にある、小さな霊園。蝉の鳴き声が支配する墓石の森を進んだ先に、それは、存在した。
小さな墓標だった。
桜華は、墓石にそっと指で触れる。この暑さにも関わらず、墓石は、冷たさを指に伝えた。
持ってきた花を供え、水を入れ替え、風に邪魔されながら線香に火を付け、立てる。全ての準備が終わってから、桜華は、振り返り、今まで黙って見ていたもう一人に声を掛ける。
「終わったよ、姉さん」
「ありがとう、桜華」
髪を短く切り落とした桜華とは対照的に、一ヶ月もの入院の間、切る事を許されなかった雪華の髪は、伸び放題になっていた。
細長い煙を上げる線香に水を掛け、姉妹は、手を合わせる。
小さいながらも姉妹が、貯蓄の殆どを吐き出し、買った墓。
『神埼紫蘭之墓』
そう、それは。
姉妹を救い、最期には、雪華に殺された男の墓だった。
額に現れた汗が、地面に波紋を描いた頃。二人は、眼を開いた。
「……行きましょう、姉さん」
退院したばかりの雪華の体力は、かなり落ちていた。そもそも、歩いてここまで来ることすら、無謀だったのだ。早くそれなりに空調の効いた場所で、休ませる必要があった。
しかし、雪華は、動かない。ただじっと、墓石を、そこに彫られた名前を見続けていた。
「姉さ―――」
「―――私さ」
再度催促しようとした桜華の言葉を遮り、雪華は口を開いた。
「……ずっと考えてた。どうして師匠は、私に剣を向けたのかって」
「それは……」
分かる筈もない。神埼紫蘭は、死んでしまったのだから。答えの出ない、否、答え合わせが出来ない問い。そんな物は、ただの呪縛にしかならない。
「どんな答えを考えても、さ。私は、納得する結論に辿り着けなかった。永遠に、辿り着けないだろうな、って、そう、思ってた」
「……姉さん、それってまさか…」
「うん」
雪華は、墓石から目線を外し、桜華に眼を向けた。
「私は、夢の中で、師匠に会った」
◆◇◆◇◆◇
そこは、どこかの川原岸だった。裸足に感じるのは、芝生の感触。
三途の川原岸にも、芝生化の波は、押し寄せているらしいと、馬鹿らしい事を考えながら、雪華は、歩く。
渡しは、すぐに見付かった。古い木の桟橋に、小さな舟。
舟の側に立つと、藁の傘を目深に被った船頭が口を開いた。
「……お嬢さん、渡し賃は持っとるかえ?」
「……あ」
雪華は、ポケットに手を入れる。案の定、中には、何も入っていなかった。
「……ありません、ごめんなさい」
「ふむ……お嬢さん、あんたはまだ死んどらんの」
「え?どういう事…ですか?」
「死んだ者が銭を持っとる訳あるまいて。死んでここに来る者はみぃんな銭を持っとる。あんたは、半死半生…瀕死という状態じゃ。でなけりゃ、銭を持っとる筈じゃからの」
「……」
「お嬢さん、悪い事は言わん。戻りんさい。何が有ったかは知らんが、その若さで、こんな所に来るもんじゃない。幸い、他と違って、まだ戻れるんじゃ」
「………私は、生きて帰れますか?」
「それは、お嬢さん次第じゃ。ええかの、戻るならば、絶対に振り向いてはならん。振り向いたら、最期、死に引きずり込まれてしまう」
「……分かりました…あの、ありがとうございました」
雪華は、元来た道を戻りだした。見渡す限り、緑の海を。
「達者での」
背後で、気配が消えた。雪華は、振り向かない。だからこそ、気付かなかった。
船頭が傘を外す。現れたのは、嗄れた声からは、想像できないような長い灰銀の髪の若い女性。眼は、雪華の背中を見ていた。
愛娘を見守る、母親の様な、優しい眼で。
霧の中を進む雪華。もう、どれだけ歩いたかも分からない。それなのに、不思議と疲れは、感じなかった。
一歩一歩、ゆっくりと歩む雪華の足が、止まる。
「雪華」
霧の中から人が現れた。
その姿、声は、忘れもしない。
最初は、恩を感じた。
最期は、憎悪しか感じず。
独りになってからは、後悔しか感じなかった。
「……師匠」
「久し振りだな、雪華」
「…どうして、ここに」
雪華は、辛うじて声を絞り出した。
「舟は、嫌いでな」
「……」
雪華は、何も言えなかった。
もし、紫蘭に再開できたら。そんな、有り得ない事を考えたのも一度や二度ではない。
泣こうと思った事もある。
恨み言を並べようと思った事もある。
拒絶しようと思った事もある。
喜ぼうと思った事もある。
思い付くだけの罵詈雑言を並べようと思った事もある。
だが、一番多かったのは。
「……どうして」
そこで、何かが詰まってしまう。
どうして父親である事を黙っていた?
どうして自分を殺そうとした?
どうしてどうしてどうしてどうして―――
年甲斐もなく、涙が流れた。喉が震え、激しく咳き込む。涙が流れる。なのに。声が、声だけが出ない。出してしまえば、全てを吐き出して、楽になれるのだろう。喉を枯らし、血で潤し、大声で泣き続ければ楽になれるかも知れない。
だが、雪華は、それだけは、許さない。真意を確かめなければならない。仮令、結果が吉でも凶でも、長い、本当の意味での呪縛に、終止符を打たなければならない。
唇を噛み締める。皮膚が破れ、血が流れた。溢れる涙は、そのままに、枯れるに任せる。
「……すまなかった。全ては、お前達二人を護る為だったんだ」
「……」
「俺は、あの女の…レーシャの考えに気付いていた。お前達を自分の手元に置いて、いざとなったら使い捨てれる兵士にしようとしていた事をな。だから、俺は、お前に剣を向けた。気絶させる事が出来れば、良かったんだ。桜華も同じようにして、人に託すつもりだった。…まさか、お前が俺を返り討ちにするなんて、些か計算外だったがな。本物の父親だと言えなかったのは、周りに……特にレーシャに知られる訳にはいかなかった。下手すると、関係を利用されてしまうからな。……だが、それだけじゃない」
「……」
「…俺は、怯えていた。お前達の母親が……アリッサが死んだのは、お前達が乳飲み子の時。当然、お前達は、覚えていなかった。俺は、本当の事を言ってしまう事で、生活が壊れる事を恐れた。それほど、あの時は、俺に取って……価値の有る物だったんだ」
「……それは、私も…私だけじゃない、桜華も思ってた。私達が感じ取れた、狭い世界の中。お世辞にも、素晴らしい世界じゃなかったと思う」
「……」
「でも、あの生活だけは、何よりも……価値の有る物だと思ってる。あの世界じゃ、お金さえ有れば何でも買えた。だけども…あの日々だけは、お金では買えない」
雪華は、正面から、紫蘭を見た。
「何物にも変えがたい、日々だった」
「雪華……」
「そろそろ、行かなきゃ。皆が、心配する」
「……ああ、そうだな。………特に、あの一希って男の子は、な」
「はい?」
紫蘭の言葉に首を傾げる雪華。面白そうに、ニヤニヤ笑いながら、紫蘭が手を振る。
「ほれ」
雪華と紫蘭の間。何もない空間に一つの映像が現れる。その映像を一目見た瞬間、雪華は―――
「―――ッ!!」
赤面した。
その映像の中では、倒れた雪華に桜華が心臓マッサージを施し、一希がキス―――もとい、人工呼吸をしていた。
因みに、当然と言えば当然だが、雪華に取っては、これがファーストキスである。
「随分モテてるんだな、雪華」
「ふにゃああぁぁぁ!!」
「………と、まあ、冗談はさておき」
映像が消える。その瞬間には、雪華の横を紫蘭は、通り過ぎていた。
「あ…」
紫蘭の方を向こうとする雪華。しかし、船頭の言葉を思い出し、辛うじて思い止まった。
雪華の背後で、紫蘭は、立ち止まる。
「……じゃあな、雪華。短い間だが、話せて良かった。桜華を宜しく頼む」
「……うん。任せて。お父さん」
「!!」
「何時か、桜華と一緒に逝くから」
「…あぁ」
「……ありがとう」
紫蘭の背後で、雪華の気配が消え去った。それを感じ取った紫蘭は、再び歩き出す。すぐに、桟橋に辿り着いた。船には、一人の女性が乗っていた。
「……行って…しまいましたか…?」
「あぁ………大丈夫だ」
紫蘭は、女性の肩に手を乗せた。
「あの子達なら、幸せになれるさ。それだけの力が有る」
明けぬ夜がないように。
不幸は、何時までも続かない。
「そう…よね。あの子達なら、幸せになれる」
「あぁ」
「なら…もう、こっち側に居る必要もないのね」
「そうだ……逝くか」
「えぇ」
舟は、桟橋を離れ。
川霧の中に、消えていった。
◆◇◆◇◆◇
全てを話終わっても、桜華は、黙り込んだままだった。雪華も、何も言わなかった。蝉だけが、鳴き続けていた。
「……姉さん」
長い沈黙の後。桜華が口を開く。
「私達は、愛されてたのかな」
それは、疑惑ではない。確認だった。雪華も、一つの答えしか持ち合わせていない。
「愛されてたよ。私達は。これ以上、ない程に」
「そっか…」
桜華は、フェンスから都市を見下ろした。雪華も、隣に並ぶ。
隔離壁に囲まれたそこは、小さい世界だ。
だが、幸せは、限り無く大きい。
「行こう、姉さん。皆、写真を撮る為に、待ってるよ」
「うん」
手を、繋ぐ。
数分後、姉妹の姿は、霊園にはなく。
線香の煙だけが、漂っていて。
―――その日、彼らが撮った集合写真は、最初で最後の写真だった。
◆◇◆◇◆◇
役者は、揃った。
舞台は、揃った。
「さあ、始めようじゃないか」
殺し合いを。
ゲームを。
戦争を。
そして、
「真の“Half red eyes”計画を、さ」
そう言って。
御影麟架は、笑った。
運命の歯車は、回り出し。
もう、誰にも、止められない。
第二章 Cross Sister 編(了)
第二章終了です。後は、番外編を若干挟み、白紙はいよいよ佳境へと入っていきます。
ここで、お知らせです。
白紙は、八月中旬から、下旬まで、休載とし、それからは、更新ペースが、ガクッと落ちます。
言うまでもなく、大学入試が有るからです。
打ち切り〜の更級先生の次回作にご期待ください〜はないのでご安心を。
次章予告などは活動報告に載せていく……筈。多分。
取り敢えず、役者は、揃ったとか言っておきながら新キャラ登場の、予感!
まあ、言っていたのは、麟架なので、彼女の視点から、という意味ですが…ね。
では、番外編は何か。
この季節と言えば?
プールでしょ!
と言う訳で、プールでございます。
お楽しみに。
第三章『月光祭と恋心(仮)』編