第10話 偽りの代価
「良いか!?動くな!?動くんじゃねえぞ!?」
何度聞いたかも分からない言葉を発した若い男は、幼い少女の首にナイフを当てる。目の前に居るのはシュペリアを向ける一希と背中の狙撃銃を構えること無く、棒立ちする桜華。つまらなそうな表情を浮かべていた。
事の始まりは、一時間前に遡る。
『一時間前、薬物中毒者の若い男が、更正施設から脱走したの。』
その男を発見し、捕縛する―――それが今回の仕事の内容だった。
既に検問が設置され、公共交通機関も使えない状態では、一時間で遠くに逃げた事も考えられ難い。一希達は、駅に向かう事にした。
そして、何の偶然か。駅前に男は居た。更に悪い事に、桜華の狙撃銃を見て、持っていたナイフで人質を取ったのである。騒ぎとなるのに、さして時間は掛からなかった。
突然の遭遇だった為に、桜華が狙撃銃を構える事も出来ず。一希がシュペリアを向けて牽制する事で、今に至る。
一希が引き金を引くのは簡単だ。しかし、大きな問題が二つ付き纏っている。
一つは、男を無力化するまで、少女の安全が確実に確保出来ないと言う事。
そしてもう一つは、ライセンスが発行されていない―――即ち、射殺出来ないと言う事。
ライセンスが発行されている場合、被疑者の死亡は『事故死』として片付けられる。しかし、それには目撃者が少ないと言う事が絶対条件として上げられるのだ。
一希は首を動かさずに眼だけで周りを見る。遠巻きにするように、大勢の野次馬が居た。解散する気配は、勿論無い。
「良いか!?一時間以内に安全に逃亡出来る手段を確保しろ!!でなけりゃこの餓鬼を殺すぞ!!」
眼を血走らせ、若い男は叫ぶ。とても話が通じる状態ではないのは火を見るより明らかだった。
銃を持てども撃てない一希。人質を取ってこそいるが、何時撃たれるかも分からない薬物中毒者の若い男。
互いに手札は見えている所為で、状況は変わらない。千日手と呼ばれる状態だった。
しかし、千日手とは、手札が出揃っている場合で始めて為る状況だ。男は当然の事、一希も気が付いていなかった。
正体不明で、未だ伏せられているジョーカーが有る事に。
不意に、桜華が動き出す。足取りは止まる事なく、前へ。
「動くなと言っているだろうが!!殺されたいのか!?」
「…薬。」
桜華が呟いた。
「あ?」
「その子が首から下げているケース。持病を持つ人が、発作の起こった時の為に服用する薬が入っている筈。」
少女の首から紐で吊るされているのは、プラスチックの青いタブレットケース。小さな文字の羅列の隣に、小さく赤十字が描かれて居た。
「あなたも薬物中毒者だから分かる筈。薬が切れたら、何れだけ苦しいか。」
「うるせぇ!!だからなんだってんだ!?俺には関係ねえ!!」
首の薄皮が切れたのだろうか、少女の首を一筋の赤い奔流が流れる。
「仮に、その女の子が発作を起こして、死んだとしましょう。そうなれば、人質を取っていると言うあなたの有利は崩れる。」
「……」
「人質を交換しましょう。その子から、私に。」
「……先ず、銃を捨てろ。」
有利が崩れると分かった男の判断力は、薬物中毒者の物とは思えない程に早かった。桜華は、頷くと静かに狙撃銃を地面に置く。
「こっちへ来い。」
桜華が男の元に辿り着き、ナイフが少女の首から離れる。その瞬間、退屈そうな桜華の眼が僅かに光の色を変えたのを、一希は確かに見た。
眼にも止まらぬ速さで桜華の腕が動く。
右の肘で顎を打ち上げると同時に足払いを掛け、ナイフを奪い取ると倒れた男の首に突きつけた。
その時間、僅か二秒。
並大抵の鍛練では不可能で、流水の様な制圧術だった。
数秒の沈黙の後、歓声と拍手が辺りを取り巻く。
長期戦になるかと思われた事件は、一枚のジョーカーに因って、呆気なく終結した。
◆◇◆◇◆◇
「…お疲れ。」
既に野次馬が去った後の駅前。事情聴取から二人が解放されたのは、夕方だった。強い西日が、駅前を黄昏に染め上げる。その中で立ち尽くす桜華に、一希は自販機で買った缶コーヒーを手渡す。
「……」
差し出された缶コーヒーを数秒間見つめた後、桜華はそれを手に取った。
コーヒーを一口飲むと、桜華は口を開く。
「……前は、夕日が嫌いだった。」
「……」
「私達姉妹が兵士だったと言う事は、姉さんから聞いているのでしょう?」
「…ああ。」
「…街灯なんて、ここと違って全く無かったし、照明弾なんて、私達も敵も持ってなかった。だから、夜襲を仕掛けでもしない限り、夜には戦わない。夕方になったら引き上げる。それが、唯一の交戦規定。」
桜華は、一希を見ていない。視線の先には、ポツリポツリと付き始めた街灯と、消えまいと強く輝く夕日が有った。
「…姉さんが私の前から消えた日は、最も激しい戦いで、最も多く死人が出た。私が持ち場から離れたのも、こんな時間。」
一希は桜華を横目で見やる。街灯を、夕日を見つめる桜華の眼は、雪華と同じ。光りを失い、焦点が合っていなかった。
「夕日に照らされた、足の踏み場の無い死体の山。今まで気にならなかったその死体の山々が、生まれて初めて、私に罪を意識させた。『奪われた』から、『奪って』良い。そんなの只の偽善で、言い訳だって気付いた。だから、私は咄嗟に、姉さんと師匠を言い訳にした。私は、二人を護る為にやったんだ。姉さんと師匠を、私の世界を奪われたくなかったから、奪った。私は、悪くない。そう思い込んだ。でも―――」
桜華は俯いた。
「―――姉さんと師匠が殺し合って、師匠は死んで、姉さんは行方不明。そう、聞いて。私はそれ以来、人を撃てなくなった。」
背中のケースが小刻みに震え始める。足元の敷石に、一つ、二つと雨が降り始める。
泣いて、いる?
「敵を仕留められない狙撃手なんていらない。いらなくなったら捨てられる。…私は死にたくなかった。今まで、『奪って』来たのに。……第五都市が出来ると同時に、私は逃げ出して、あらゆる手段を講じて情報を集めた。そして、掴んだ。姉さんが、第四都市に居る事を。」
「……」
「姉さんに会いたい。いや、会わなければならない。でも、私にはどうしてもやらなければならない事が有った。」
垂れ下がった灰銀の髪。そこから桜華の表情を読み取る事は、出来なかった。
「…何もかもを『奪った』あの女。何人も『奪って』、『奪った』あの女。復讐しなければ気が済まない。今度は私が『奪って』やる。―――復讐を誓った瞬間に私は、また撃てる様になった。」
桜華は、一旦言葉を切る。
「―――今まで、撃ってきた中で、最高の一撃だった。」
缶コーヒーが落ちる。茶色の液体を吐き出しながら。地面に落ちた缶が耳障りな音を立てた。桜華の身体が傾く。まるで、糸が切れた人形の様に。一希は慌てて桜華の身体を受け止めた。
「大丈夫か!?」
「……」
返事は無い。完全に意識を失っている様だった。
「くそっ。どうすれば…」
その時、示し合わせたかの様に、携帯が震え出す。発信元の名前は―――妹の一姫。他に着信もあった様だが、今は無視する。
「一姫!今病院か!?直ぐに駅前に来てくれ!」
『兄さん!?一体何を言って―――』
「急患なんだ!人を連れて、今すぐ来てくれ!!」
『わ、分かりました。葵衣さん、一緒に来て下さい。』
後半の言葉は、電話の外に投げ掛けられた物だった。同時に、一希は通話を切る。場所を説明しなかったのは、携帯のGPSの方が早いと思ったのが所以だった。
携帯をしまうと、一希は桜華を背負う。ライフルケースが有るにも関わらず、その身体は、軽かった。